柚子子
2025-08-02 18:12:18
9164文字
Public Dog Days of Summer
 
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Dog Days of Summer (3)


苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字苗字 八月に入って数日経ったある日のこと、夕飯を食べてのんびりしていると、ふいに部屋着のポケットに入れていた携帯が短く数度震えた。すぐさま取り出し、メールの送り主を確認する。表示された黒尾という文字を見た瞬間、私の胸はそわそわと落ち着かなくなった。
 夏休みに入ってからも、黒尾との連絡はこれまで通りほとんどない。一度、友達の要請で夜久くんの近況をうかがうメールを出したけれど、そのときはメールが数回行ったり来たりしただけで、私の寝落ちを最後に途切れてしまった。
 次の朝に『おはよう』と何食わぬ顔でメールを続けることも考えたけれど、なんとなくわざとらしいような感じがしてやめた。それきりメールは送っていない。黒尾からの連絡もない。夏休みに入ってすぐ始まったバレー部の合宿は終わったはずだけれど、それ以降も黒尾からは何の音沙汰もなかった。
 連絡するって言ったわりに、黒尾め、全然してこないじゃん。
 もしかしたら黒尾からメールが来るかも、とこの二週間ほどやきもきしていた私がバカみたいだ。自分から送ればと思いつつ、なんとなく悔しくて送っていないのだから、いっそバカみたいというよりバカなのかもしれない。
 そんな黒尾からの久し振りのメール。とくれば、胸をときめかせずにはいられない。
 メールを開きつつ、私はリビングのソファから腰をあげた。ダイニングでスイカを食べていた家族が「スイカ、もういらないの?」と声をかけてくる。
「もういいや、残ってたら明日食べる」
「こんなに切ったのに。あ、勉強するならエアコンつけなさいよ」
「はーい」
 勉強するために部屋に戻るわけじゃないけれど。適当な返事をしてから、私はそそくさと部屋に戻った。
 部屋のドアを閉めてエアコンをつけてから、改めて黒尾からのメールを読む。『元気?』というとってつけたような挨拶のあと、『課題どうですか』と質問ともつかない文章が続いていた。
 ……これは、どうなんだろう。
 小さな画面におさまった、絵文字のひとつもない文章をひとしきり眺め、私はううんと唸り声をあげる。
 ぱっと見た感じ、世間話としか言いようがないメールだ。顔を合わせていれば暇つぶしの会話として、この手の話題を出す機会はやまほどある。けれど今、この微妙な関係にあるなかで黒尾がわざわざ寄越したメール……。そう考えると、ついついその裏側を勘ぐらずにはいられない。
 ただの世間話だと考えるのが、もっとも納得感のある可能性だろうか。それこそ今の私たちの関係だからこそ、普段ならば考えられないような世間話みたいなメールを黒尾が送ってくる、とも考えられる。私はよく分からないけれど、世間のカップルとか、あと付き合う間際のふたりとか、そういう関係ならば他愛ないメールをしょっちゅうやりとりするのも普通だろう。
 黒尾ってそういうことするだろうか。……まあ、してもおかしくはない。黒尾は結構、策を弄するタイプだ。
 あるいは黒尾には何か別に本題があって、これがその前置きというか、ジャブ打ってるみたいな感じ、という可能性もある。個人的にはこちらの可能性の方が、わずかだけれど高いような気がした。何か確固たる理由があるものではなく、この二年以上の黒尾との付き合いのなかで培った勘、とでもいうのだろうか。そんなようなもので、とにかくこれは「ひとまず置いておく」的メールのように感じられる。
 たった一通のメール、たった二行の文章。それだけのものに対し、ありえない量の思考がたちまち頭を埋め尽くす。ただの友達なら、絶対ここまで悩まない。かりに恋人同士であったとしても、これほど悩みはしないだろう。
 うーん、ここは打って出るべきか。
 メールの返信画面を開いては閉じ、ふたたび開いては閉じるのを繰り返すこと数度。私は大きく息を吐いてから、電話帳を開いた。そこから黒尾の連絡先を探し、発信ボタンを押す。
 さっきまでとは段違いの胸の高鳴りが、内側から私の体をどんどん鳴らしていた。これまでに黒尾と電話をしたのなんて、本当に必要にせまられて何度かというレベル。あとは黒尾の携帯を探すために電話をして鳴らしたくらいだ。黒尾と私は携帯のキャリアが同じだから、通話代はかからなかったはず、と現実的な思考が、こんなときでも頭の片隅をよぎっていく。
 コール音を二回聞いたあと、唐突に通話がつながった。
「あ、もしもし? 黒尾?」
「もしもし、うん、俺、ていうか、えっ、おま、なに、急に、電話」
「いや、なんとなく。なんかやけにびっくりしてるじゃん」
「そりゃびっくりするだろ……
 はーぁ、と深い溜息が電話の向こうから聞こえる。声の向こう側には音はない。黒尾の現在地が少なくともにぎやかな場所ではないことだけ、電話越しにもちゃんと分かった。まずはほっと息を吐く。
「黒尾、今って家? 今電話して大丈夫だった?」
「平気。さっき飯食って風呂出たとこ」
「いや、そこまでは聞いてない」
「あ、そ。で、何だった?」
「何だったっていうか、黒尾が先にメールしてきたんじゃん」
「そうだけど、メールに電話で返ってくるとは思わんだろ。なんかあったのかと」
「メールの雰囲気的に話が長くなるかなと思って」
「電話のが手っ取り早くていいわ、と?」
「そういうことです」
「ったく、そこはウソでもさぁ」
「ウソでもなに?」
「いーや、別に? 何でもありませんけど」
 笑いを含んだ黒尾の言葉。言葉にされなくても、黒尾の言いたいことくらい想像がついた。
 そりゃあ「黒尾の声が聞きたかったから」とでも言えば可愛げもあるのかもしれないけれど、だからって柄にもないことを言えるはずもない。
 いや、別に言ってもいいんだけど。なぜなら黒尾は私のことが好きだから。私が「声が聞きたくて」なんて言ったら、間違いなく黒尾は狼狽えつつも喜ぶだろう。
 でも、そんなこと今は言わない。夏休みはまだ一か月ちかくあるのだ。いきなりここで黒尾に対して、決定的な言葉を言ってしまうつもりはなかった。
 だいたい、先に告白の返事を先延ばしにしたのは黒尾だ。それなら「声が聞きたい」なんて、ほとんど告白の返事と変わりない言葉は、夏の終わりまで封印しておいた方がいいはず。
 駆け引きにもならないような、しょうもない悪戯心を胸に秘めつつ、
「で、さっきのメールの話だけど」
 私は話を本題へと戻した。ああ、と黒尾が応じる。
「つかぬことをお伺いしますけど苗字さん、夏休みの課題の進捗ってどんな感じ?」
「うーん、そうだね。まあ、来週から新学期って言われても、ギリギリ対応できるかなって程度の進度」
 正直に答えると、黒尾がひゅっと息をのんだ音がした。
「え、うそ。お前それ本気で言ってる? ちょっとさすがに……優等生すぎない……?」
「講習のあと、だいたい学校残って課題やってたから。さすがにね」
 何を隠そう音駒は自称進学校なので、長期休みの課題の量も半端じゃないのだ。一年生の夏休みにはその課題の多さに白目を剥いたものだけれど、三年になった今では恐れおののくこともない。受験生なのだから課題は軽くしてくれとも思うけれど、文句を言っても仕方がないので、覚悟を決めてやっていくしかない。
「そういう黒尾だって、合宿に課題持っていったんじゃないの?」
「持っていくことと進めることは違うんだよ」
 電話の向こうで黒尾がつらそうな声を出す。そんな声を出されても、課題なんてやっていない方が悪いとしか言いようがない。
「海くんとかと一緒にやればよかったじゃん。絶対に海くんはやってたでしょ」
「あんまり知らないはずの海への、苗字の熱い信頼よ」
「だって海くん、絶対に課題やってるだろうし」
「やってましたけどもね。なぜならそれが海信行という男だからね」
「黒尾が偉そうにすることでもないからね」
 とはいえ八月もまだ始まったばかり。黒尾だって、ここから真面目にコツコツやっていけば、課題くらいあっという間に終えることができるだろう。部活がどれほど忙しいかは分からないけれど、さすがにまったく課題に手をつけられないほどではないはずだ。
 と、黒尾が言う。
「そこでなんすけど、そろそろ本題入っていい?」
「いいよ、どうぞ」
苗字さん。俺と一緒に課題、やってくれませんか」
「ん、いいよー。いつ? どこで?」
「びびるほどの即答。いや、話早くて助かるけど」
「なんかもうちょっと、もったいぶった感じの方がよかった?」
「そういうわけじゃねーけどさぁ。ただ、なんつーかなぁ……
 黒尾はそこで少しだけ間とってから、心持ちおずおずと切り出してきた。
「夏休み前に俺が言ったこと、苗字はちゃんと覚えててくれてんのかな、と」
「黒尾が私のこと好きって話?」
……そう、それ」
「さすがに忘れないって」
「じゃあ苗字、ちゃんと覚えててなおそんな感じなわけ?」
「だめだった? それじゃあ、今回はやめておく?」
「待った待った、そういう意味じゃない」
「んふふ」
……おーい? お前、面白がってない?」
「まさかね、さすがにそこまで悪くはないよ」
「信用ならんが……、まあ、そうですか」
 納得していなさそうな黒尾の顔を想像し、知らず口角が上がってしまう。面白がっていないかって、そんなの面白がってるに決まっている。好きな人が私にめちゃくちゃアプローチしてくれているんだから。これ以上嬉しく楽しい状況なんて、ちょっとそうそうあるわけない。
 放っておくと際限なくしまりがなくなりそうな表情筋を、携帯を持っていない方の手でぐにぐにと揉みほぐした。それから、ごほんと咳払いをひとつ。
「で、課題やるんだよね。いつがいい? 黒尾に合わせるよ」
……おっ、……まあ、いいですけど」
「黒尾の部活の後とかの方が都合いいよね?」
「俺としてはその方が助かる。基本夕方までみっちり部活あるし」
「その時間だと、図書館があいてないかもなぁ。勉強の途中でいったん夕飯挟みたいよね?」
 学校の図書室は夕方には閉まってしまうし、市立の図書館だって似たようなものだろう。勉強を始めてすぐに閉館、となるくらいなら、最初から別の場所を選んだ方がいい。
 とはいえ私も黒尾も、お財布にそれほど余裕があるはずもなく。
「どっかお金かかんないところで、勉強できるところかぁ……
 私の呟きに対し、ダメ押しのように、
「ちなみに今月の俺の財布的には、ファミレスかカラオケくらいならどうにかというところ」
 黒尾がそう言い添える。黒尾のお財布事情は、わざわざ教えてもらわずとも大体想像がついた。
「うーん、それだと駅んとこの自習スペースとか、あそこって何時までだっけ……? あ、そうだ。ちょっと待って。十七時以降のカラオケのクーポンあったかも」
 言うが早いか、私は携帯を机において鞄から財布を取り出した。千円札がたった二枚しか入っていないお札入れを覗くと、なんとなく端が寄れたような薄緑色の小さな紙が一枚、ぺらりと入っている。
 夏休み前に友達とカラオケに行ったときにひとり一枚もらった、駅前のカラオケのクーポン券。使うかもしれないと取っておいたきり忘れていたのを、今ちょうど思い出したのだった。
 勉強するのに最適とはいえないまでも、これまでにも何度か、友達何人かで試験勉強にカラオケを利用したことはある。ドリンクバーがついているので、あれでなかなか使い勝手が良かった。
 ふたたび電話を手に取り、もう片方の手でクーポンを目の前にかざす。電話の向こうの黒尾に見えるはずもないけれど、ついつい会って話しているような仕草をしてしまう。
「もしもし、黒尾? クーポンあった。これ使おう」
「お、まじか。俺は助かるけど、それ俺と使っちゃっていいやつ?」
「別にいいよ。ほかの子と夜にカラオケ行く予定もないし、期限今月末までだし」
「今月まだ始まったばっかだろ」
「ていうか行ったらどうせまた新しいクーポンくれるよ」
 私が言うと、黒尾はしばし考え込むようにしてから、
「じゃあお言葉に甘えさせてもらって」
 そう言って、多分電話の向こうで頭を下げた。
「ん、じゃあ決定ね。そんで、黒尾はいつなら大丈夫そう? 明日とか明後日とか? 私はわりといつでも暇なんだけど」
「んー、じゃあとりあえず明日で」
「了解、じゃあまた明日」
「はいはい、また明日」
 あとはさくさくと話がまとまり、どちらともなく電話を切った。携帯を机に戻してから、カラオケ店のクーポンを見るともなく眺める。
 ほとんどノリで決定してしまったけれど、夏休みに入ってはじめて黒尾と顔をあわせることになる。それは言い換えれば、黒尾に告白されてからはじめて、まともに黒尾と会話をするということでもある。
 なんか、あまりにも楽しすぎるかも……
 湧き上がるドキドキで浮かれすぎないようにと思うのに、そう簡単に心は落ち着いてくれない。どうしよう、明日は何を着ていくのが正解? 黒尾との付き合いも長いけれど、思えば学校が休みの日に私服で会うなんて、今までほとんどなかったんじゃないだろうか。
 黒尾って女子っぽい服が好きそう……なんとなくだけど……
 脳内で黒尾がとりそうなリアクションのシミュレーションをしながら、私はいそいそとクローゼットの扉を開いた。

 ★

 部活を終え、普段の三倍くらい入念に汗のにおいを消し去ってから、持参したシャツにいそいそ着替える。隣でだらだらと着替えをしていた研磨がちらりと一瞥こちらに寄越した。
「クロ、このあと何か予定あるの」
「まあ、ちょっと」
「ふうん」
 それ以上追及することもなく、研磨はあっさりと口を閉じた。すでに視線はこちらを向いていない。その見慣れた横顔に向けて、今度は俺が視線を送る番だった。
 研磨が言いたいこと、というか言いかけてやめたのが何についてであるのかくらい、なんとなく分かる。普段の俺ならば部活のあとは決まって、量販品店で投げ売りされているような代えのシャツに着替える。ところが今日に限っては、私服のシャツに着替えているのだから、それだけでも普段と様子が違うことが分かるはずだ。
 俺はしばらく、研磨の覇気のない横顔を眺めていた。
 一緒に帰る約束をしているわけではない。各々部活後に用事があるときは、「今日はこっちだから」と適当に解散になることもある。だから俺も、部活後に苗字と会う予定があるからといって、わざわざ研磨にお伺いを立てる理由も必要も、ないわけだけれど……
「なあ、研磨」
 逡巡ののち、俺はおそるおそる研磨に声を掛けた。瞬間、
「やだ、面倒くさそうだから聞きたくない」
 研磨がばっさりと俺の声かけを切って捨てる。
「おい、お前……!」
「絶対に何も言わないで」
「まだ何も言ってないでしょーが」
「そのまま黙っといてよ」
 取り付く島もない。研磨は嫌そうな顔を隠そうともせず、俺が今まさに持ち出そうとした話題を、全身ではっきり拒絶していた。というかそこまで露骨に嫌がられると、本題に入るまでもなく全部筒抜けだと察してしまう。恥ずかしいからやめてほしい。
 研磨は脱いだシャツをかばんに押し込むと、深くため息を吐き出してから俺を見た。部室にはすでに俺と研磨しかいない。
「どういう話なのかなんて大体想像つくし、おれの意見をあてにされても困るよ」
「別にそんなつもりは」
「話したいだけ話して、おれに何の疑問も投げかけずにいられる自信あるの?」
…………
「ほら、やっぱりそうなるじゃん」
 研磨の言い分にぐうの音も出ない。これといって意見をあおごうという気はなかったが、そうは言っても苗字とのことを話したら、話の最後に「どう思う?」と聞かないでいる自信はない。
「全部終わって、もし事後報告したいことがそのときのクロにあったら、そのときはその報告だけ聞くよ」
「さすがにドライすぎないか?」
「そのくらいで丁度いいでしょ。じゃあね、頑張って」
 そう言うと、研磨はかばんを肩から下げて腰を上げた。
「待った待った、俺も出る。」
「急いでるならおれが鍵持っていこうか」
「いや、まだちょっと時間あるし大丈夫」
「そっか。……あと、余計なおせっかいかもしれないけど、口元がゆるんでるから気を付けた方がいいよ」
 じゃあまたね、と。それ以上何の遠慮も気遣いも、あるいは励ましもなくさっさと部室を出ていく研磨の後ろ姿に、俺は少しのあいだぽかんとしてから、やがて深々と溜息を吐いた。
 苗字に対する感情について、この二年以上ものあいだ俺は一度も他人に話したことがない。どこから話が苗字に漏れ伝わるかなど分かったものではないし、そもそも友人として苗字の隣を陣取っている以上、そこに下心があるなどと誰にも悟らせてはならなかった。
 今にして思えば、研磨にくらいは話しても問題なかったのかもしれない。が、それこそわざわざ研磨に話すだけの理由がなかった。俺と研磨のあいだにその手の話題があがったことは、長い付き合いのなかでただの一度もない。
 しかし今の研磨とのやりとりからして、研磨には全部バレバレだったということだろう。研磨相手に隠し事ができるとも思わないが、それでも多少の気恥ずかしさはあった。
 職員室に鍵を返しに行ってから、俺はひとりで駅に向け歩き出した。
 真夏の夕方、辺りはまだ昼間なんじゃないかと錯覚するほど明るい。それでも遠くの空には、どんよりと濃い灰色の雲がかかっている。空気はわずかに湿気の重さを含んでいた。
 もちろん、その程度のケチがついたところで、俺の高揚した気分が下降することはない。
 はやる足をどうにか押しとどめ、できるだけゆっくりと、余裕を持った歩調で歩いていく。本当は浮かれてスキップでもしたいくらいなのだが、そうするとこの浮かれた気分がどこまでも浮き上がって、歯止めが利かなくなってしまうような気がした。
 駅前のコンビニを過ぎたあたりで、ロータリーに建つ銅像の前でぽつんと立つ苗字の姿が見えた。制服ではない苗字の姿に、そわついていた心臓がまたふわふわと浮き上がるような心地になる。
 あー、そうだよなぁ。自宅から来てんだし、当然私服だよなぁ……
 分かっていた、分かっていましたとも。分かっていたから、俺だって部活のあと、私服のシャツに着替えてから来たわけで。下はジャージのままではあるものの、部活帰りの俺に最大限許された、なおかつ気合い入れすぎだと思われないラインの恰好をしてきたわけで。
 いや、それにしたって苗字、可愛すぎる。こんなジャージ姿に毛が生えたような恰好で来た俺、何らかの罪に問われるのでは? たとえ既存の法律では許されていたとしても、俺が俺を罰したいんだが……
 暑さと部活の疲労によって、脳がしょうもないことを考え始めたところで、苗字が俺に気が付いた。顔をこちらに向けた苗字は表情を少しだけゆるめると、胸の高さに手を挙げ俺に向けてゆるく手を振った。
「黒尾」
「おー。悪い、待たせたか」
 ちらと携帯の画面を確認する。待ち合わせの時刻ぴったりくらいだ。
「全然待ってないよ。黒尾のことだから遅れるだろうなと思って、なんなら遅めに来た」
「俺そんな遅刻癖ないんですけど」
「うん、知ってる。本当は五分前に来た」
「なんだその無意味なウソは」
「無意味なウソといえば」
「『といえば』じゃないだろ。そんなお題から展開する話題に、有意義なものがあってたまるか」
「まあ、ここから展開できるような話のネタなんて私にもないんだけど」
「言ってみただけかよ。考えなしか」
「最近家族以外と話してなかったから、ついつい言葉がつるつると」
「なるほど無駄口が渋滞してたと」
「そうそう、そういうことです」
「夏休み、ほかの友達と遊んだりしてねえの」
「まったく会ってないわけじゃないけど、やっぱなんとなく受験の話とかになるからさぁ」
「真面目な話に寄りがちってことか」
「そうなんだよねぇ。やっぱ黒尾じゃないと」
「おい。俺との会話に一ミリも頭を使ってないやつのセリフ」
「大体合ってる」
「とはいえ俺も、苗字と喋るときは大体頭寝てる」
「知ってる」
 一通りいつも通りのやり取りをしながらも、なんとなくのぎこちなさが会話の端々に滲んでいるような気がした。
 苗字にうっかり告白をしてから、はじめてまともに顔を合わせるのだ。そりゃあ俺だって浮かれているのと同じくらい、緊張もしている。
 いや、そう。実は、そう。俺はさっきから、めちゃくちゃ緊張していた。昨日電話した時点では浮かれる一択だった脳内は、今日になって激しい緊張状態にある。
 部活中はその緊張を、どうにか直視しないようにしていた。本当は緊張で胃が痛いような気もしていたが、気づかないふりで乗り切った。
 好きな子とデートすんのって、こんな緊張するのかよ。相手は苗字だぞ、二年間あんなに一緒にいただろうが。
 いやダメだ、そんなの関係ないわ。苗字とデートなんて、緊張するに決まってたわ。
 しかしながら、何も緊張していて悪いことばかりじゃない。緊張しているのは、どうも俺ばかりではなさそうだというのが、今こうしていると何ともしみじみよく分かる。
 平静を装ってはいるものの、いつもよりややせわしなく動く瞳。落ち着きなく髪の先にふれる指先。赤く火照った頬は夕日に照らされたせいか、それとも俺との待ち合わせだったからなのか。
 苗字は俺に脈ナシ、友達扱いしかされていないとばかり思っていた。だからこそ、ここからが勝負なのだとも思っていた。実際、昨日電話したときだって、少しも相手にされている感じはしなかった。
 しかしもしかすると、案外状況は悪くないのでは? 最善とまでは言わずとも、かなり期待が持てるのでは??
 にわかにもたげた浮かれた思考。しかし俺は、すかさずその思考を叩きのめす。
 たしかに、予想していたよりも状況は悪くないのかもしれない。しかし油断は禁物だ。確実に苗字を振り向かせるためにも、ここは気を引き締めて事に当たるべきだろう。
……じゃ、行くか」
 そう俺が声を掛けると、苗字は「ん」と小さくうなずいた。
 あー、くっそ。苗字め、びっくりするくらい可愛いな……