めやぬら
2025-08-02 16:11:56
3420文字
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オメガバースのようなもの

不定期週刊燐一
燐音(α)と一彩(Ω)の設定的な短い話。
オメガバースには詳しくありませんので、大嘘をついている可能性が高いです。
この話の続きを所望します。

 外ロケを終えて夕方、少し早い時間に家へ帰ると、玄関の土間に靴が一足、揃えられていた。
 見覚えのあるスニーカーが所在なさげに端に寄せられている。だがほかには来客を知らせるような、目に見える証拠はなく、部屋の照明だって消されたままだ。荷物とか鞄とか、人が来ているのならそういうものがあっても良さそうなのに、何一つとして、燐音が家を出た時から変わっていなかった。適当に置きっぱなしのコップや開けっぱなしのカーテンだってそのままで、微塵たりと動いた形跡はない。
 けれど、目に見えない印はある。自宅の慣れ親しんだ気配に混じる、微かな甘い香り。ほんの少しだけしか香らないそれを嗅ぎ取って、あぁ、またか、とため息をついた。
 
 一人暮らし、小さな部屋だ。けれど収納は充実していて、クローゼットが備え付けられている。大きくはないが服などをしまうにはちょうど良く、色々と吊っていたのだが、人一人が潜り込むにはちょうど良かったのだろう。
 がらりと戸を開けると、ぶわっと強くなる香り。酩酊を誘う甘さとあたたかさを孕む良い匂いの出所は、クローゼットの中で膝抱えて丸まっている、弟だ。

「一彩、一彩ちゃーん。意識あるかー」

 呼びかけてみるが応答はない。肩を揺さぶると、気怠そうに少し顔を上げたが、目はもうどこも見ていなかった。燐音のTシャツ一枚を握りしめて、胡乱に熱で茹だった呼吸を繰り返している。
 辛いを通り越して何も考えられなくなっているようだが、まだ動けるうちに移動させておきたい。ずっとクローゼットの中にいるのは辛かろう。
 
「動けるか?意識ある間にベッド行ってろ」
 
 燐音の言葉を理解しているのか怪しいぐらい、ぼんやりと床を眺めている一彩は、ゆっくりと瞬きをしたあとに、首を横に振った。嫌だ、の意思表示だ。きっともう、話せないのだろう。声を出したら、自分が何を口走るのか分からないところまで来ているのだ。
 けれども、それをハイソウデスカと聞けるわけもない。視界を隠している前髪を払って顔を覗くと、頬を真っ赤にして、とろんと切なそうな表情をしていた。
 
「聞こえてっか?」
……

 一彩は答えない。答えないけれど、じっと燐音の首元あたりを見つめる。それはそれは、焼けついてしまいそうなほど熱烈に、欲しがる内心と必死に戦っている。揺れる表情が陥落寸前に見えて、もうこれは駄目だな、と一彩の意思に委ねるのを諦めた。

「何も言わねェなら運んじまうぞ」
「っあ、まっ、ぅ……

 膝を抱く腕を引っ張ると、すぐにこちらに倒れ込む。待っての言葉は、一彩が燐音の胸元に傾いだときにはもう微睡んでしまっていた。拒否しようと突っ張りかけた腕は本能に負けて燐音の服を掴み、ふすふすと顔を埋める一彩をベッドまで連れて行くために立ち上がると、動きたがらない猫のように胴が伸びてちょっと笑ってしまった。
  
 ——

 一彩と燐音は番だ。兄弟でもあるが、仕方がない。運命の相手がそうだったのだから仕方がない。実のところ、その運命とやらは燐音が作り上げたものなのだけれど、一彩はそれを信じているし、お互い以外を考えたことなど無いから、何も問題はない。抗いがたい情は確かにあるのだ、作為的であっても運命の相手に他ならない。
 Ωの一彩は、けれどヒートなどの特性があまり強くなかった。あくまで個人差に収まる範囲ではあるが、巣作りなんてしなくても服の一着で事足りるし、体を重ねなくても疼く熱には耐えられた。
 それを少し寂しく思いつつも、体が辛くないなら良いかとあまり濃厚な絡みもないまま、番いになってしばらく経った後。そのときが初めてだった。

「あれ、弟くん?来てんの?」

 ある日、帰宅したら弟の靴が綺麗に揃えられて置かれていたのだ。それまで合鍵を渡していても勝手に家に入るなんてことしなかったのに、いきなりどうしたのだろうか、と半分浮かれつつ弟を呼んだが、返事がなかった。

「弟くーん?一彩ー、いんだろ」

 なんどか呼びかけても、何の声も聞こえない。寝てるのか?と思い、買ってきた夕食を冷蔵庫に入れたりしていたが、一向に気配もない。流石におかしいと部屋を覗いたが、影も形もない。

……

 何かあったのか、と思って連絡を取ろうとしたとき。初めて、嗅いだことのないような甘い香りがするのに気付いた。その出所を探ると、どうやらクローゼットの中らしい。訝しみながら開けるとそこには、昔お下がりで一彩にやったTシャツを手繰りながらうずくまる弟がいた。

 弟曰く、覚えていない。
 落ち着いてから話を聞けば、そう返ってきた。

「ごめんなさい、ヒートの時期だったんだ。いつもなら、自分の部屋でじっとしてるんだけど……どうして此処にいるんだろう……
……最後の記憶は?」
「合鍵を使うのが初めてで、誰もいない兄さんの家も初めてだったから、靴をちゃんと揃えないとな、と。そこまでは」
「はァ……
「勝手に入ってごめんなさい……?」
「それは良いけどさ」
「クローゼットのことだよ」
……それも、別に良いけど」

 頭を抱えた燐音を前に、一彩は本当に覚えていないと眉を下げて、疑問符混じりに謝ってみせた。

 ——

 それから、毎回とは言わないがヒートが来ると燐音の家に忍び込んで、クローゼットにいることが増えたのだ。服も勝手に使っていいし、ぐちゃぐちゃにしたって構わないと何度も言っているのに、一彩はこれが落ち着くのだと苦笑して、吊られた香りだけで耐えようとした。

……ん、ん」
「起きたか?」

 ベッドにずるずる運びこんで、腕の中に囲いスマホを見ていたら、身じろぎをして一彩が少し正気を取り戻した。靄がかる思考を巡らせて、なんとか自分の状況を把握したのか、眉間に皺寄せて呆れたようにため息をつく。

……僕、またしてしまったんだね」
「良いって言ってンだろ」

 何故か、恋人は燐音を求めることを良しとしていない。毎回面目なさそうに言うものだから、あしらい方も覚えてしまった。まだ眠そうな微睡む声に、頭を撫でて甘やかす。

「どうせ休み取ってきたんだろ。しばらくは動けねェんだから、大人しくしとけ」
「ウム……だけど兄さんの迷惑になるから」
「なんねェよ」
「でも兄さんは明日も仕事でしょう。僕がいたら邪魔だろう」
「ンなわけねぇだろ」
「ダメだよ、せめて床に行く」
「はいはい、うっせェな」
「ちょっ、兄さ、んっ……んぅ、ふ……

 遠慮を一々否定してやるのも面倒になり、手っ取り早く口付けて黙らせる。もう蕩けている舌を絡め取ると、しっかりと合い始めていた焦点が再びぼやけていく。漠然としたぬるい快感に暗く濁る声音と弱くなる力。
 今すぐ喰ってやりたくなるのを抑えて、甘さだけを絡ませて解放してやると、糸引く口元からほろりと感じ入るため息がこぼれる。粘つく湿度が籠った目元を撫でると、シーツと燐音の間に潜り込むように顔を埋める。

「ぅ、んん……
「もうちょいぼんやりしてな」

 だいたいこうなったときの一彩はずっとこんな感じだ。自身の中の熱や燐音への止まない恋しさに微睡んで、ぐずぐずと安寧を揺蕩う。それがマシになってきたらキスをするなりなんなり、普通の発情期のようになるのだが、初めの一日二日はこうなってしまうのだ。時折、きゅうっと喉を鳴らして、何も言わないで体を寄せ、夢の境を歩く。
 番の気配を肺いっぱいに吸い込んで、くったりと蕩けていく。どれだけ甘美な夢を見ているのか、昏い瞳が幸せそうに盲目を写している。一彩にしか覗けないその世界は、一体どんな天国なのだろう。その姿は可愛らしいものの、こんなときしか甘えてくれないのが何となくやるせない。
 満足げに細められた目がこちらを見上げる。大変気持ち良さそうで何よりだが、返答はない。

「こんなンでいいの?もっと甘やかしてやろっか」
……

 まばたきがひとつ、ふたつ。ゆったりした動きで燐音の言葉を飲み込んで、再び目を閉じた。どうやら今は、何もしないでずっと寝る方をご所望らしい。

「はいはい。……無欲なやつ」

 呆れと寂しさを混ぜた一言は、もう一彩には届かなかった。ただ、ぎゅっと燐音の服を掻き抱く指に力が入り、布地が引っ張られただけだった。