秋田にはクーラーがない。こんなことを言うと偏見だの田舎を馬鹿にしているだの言われそうだが、本当にないのだ。山王工業の校内で唯一冷房設備があるのはコンピューター室で、これは人間ではなく高価なコンピューター様の故障を防ぐためのものらしい。
だから当然、頑丈なバスケ部員たちが集う寮にクーラーなんて高級品があるわけがないのである。
「あっちいベシ」
「暑いって言うな。よけい暑くなる」
一之倉は、談話室の長机にぐんにゃりともたれる深津を下敷きでパタパタとあおいでやった。そうしたところで発生するのは生ぬるい風ばかりだが、それでも何もないよりはマシだろう。
「一之倉は大丈夫なのか? また我慢しすぎて倒れるなよ?」
深津の隣で何やらプリントを広げている松本が、視線だけ上げてこちらを伺っている。きりりとした眉の上に大粒の汗が溜まっていて、今にも零れそうだ。一之倉はそこに視線を吸い寄せられながら、深津に向けていた下敷きを松本の方へ向けた。
「こんなの、体育館の蒸し暑さに比べればマシでしょ」
「それとこれとじゃ種類が違うベシ」
深津が恨めしそうに声を上げるのを無視して、一之倉は松本の手元にあるプリントを覗き込んだ。どうやら古文の課題らしい。
「ぜんぜん埋まってないじゃん」
「……文系科目は苦手なんだよ」
唇を尖らせた松本が、視線を逸らした。もう一年と半年も一緒にいるのに、そんな顔を見るのは初めてのような気がする。松本を童心に帰らせるのはどんな課題かと、一之倉は改めてプリントに目を凝らした。
「なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる……藤原道綱母?」
「よく知ってるな!」
松本がぱっと目を見開く。大きな目玉がころりと転がり落ちてしまいそうだ。
「蜻蛉日記でしょ? 授業でやったやつ」
「覚えてねえ」
松本の目をまじまじと覗き込む。きらきらと光る目には、悪気のひとかけらも見つからない。
「……とりあえず、この頃の貴族は通い婚だったってのは覚えてる?」
「……なんとなく」
「まあ、つまり、夫が他の女のところに行っちゃってなかなか来ない、一人で寝る夜は長いわ、みたいな恨み言だよ」
「あ、『ぬる』って『寝る』か!」
「そこかぁ」
予想以上に初歩的なつまづきに、一之倉は下敷きを放り出してばたりと仰向けになった。擦り切れた畳が背中にちくちくと刺さる。蛍光灯の光がまっすぐに目に入って、目を細めた。その表情をどう解釈したのか、深津が松本の肩をつつく。
「そのペースで夏休みの宿題終わるベシ? イチノが呆れてるベシ」
「そう言う深津はどうなんだよ、お前が『さっさと宿題終わらせて身も心も軽くしてインターハイに出発したいベシ』って言い出したからこうやって付き合ってやってんだろ」
「そうベシ。イチノ、だから俺にも古文教えてほしいベシ」
深津が、これが本当に山王工業で不動のガードを張っている男なのかと疑いたくなるようなしょぼくれた声を上げる。一之倉はそれに応えて、のっそりと身体を起こした。インターハイでベンチ外確定の自分が山王の勝利のために貢献できるのは、こんなことくらいしかない。
「……はあ、モテる男はツラいね」
「イチノ様愛してるベシ」
「は?」
深津の愛の告白に声を上げたのは、松本だった。
「おい、今、あ、あいしてるって」
松本が青い顔をして、深津と一之倉の顔を交互に見た。青い顔をしているくせに、立派な眉毛の汗止め効果も間に合わないほどダラダラと汗をかいている。
あまりの形相に一之倉は一瞬ぽかんとしてしまった。同じようにぽかんとしている深津と、顔を見合わせる。
「え、いや、冗談だよな?」
「冗談ベシ」
「じょ、冗談でそんなこと言うな!」
松本の顔は今度は真っ赤になっていた。山王に入って一年と半年、四六時中一緒にいるのに、今日の松本は初めての表情ばかり見せる。
「松本は平安貴族にはなれなさそうだね」
「堅物ベシ」
松本が深津を睨みつけ、それからこちらへまっすぐに視線を向ける。
「俺なら、一人さみしい夜を過ごさせたりしない」
たっぷり五秒は間を置いて、一之倉は息を吐いた。息が止まっていたせいで、胸が苦しいし顔は暑いし汗がだらだらと垂れてくる。それでも松本の目はまっすぐこちらへ向けられたままだった。
なまぬるい風が汗だくの二人の間を吹き抜けていって、ようやく我に返った。松本の視線から逃げるように顔を横に向ければ、深津が下敷きをぱたぱたとあおいでいる。
「はー、あっちいベシ」
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