40_umanira
2025-08-02 08:17:33
2637文字
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次はきっと


 ベリタスレイシオはその日、何も最初から眠るつもりでいたわけではなかった。
 ただ今日は激務を乗り越えた後の休みで、程よく暖かく過ごしやすい気候、しかも気を許している相手が隣にいて、膝に置いたラップトップから不規則にタイピング音を聴かせてくるものだから、読書に集中していたはずの彼は気付けば意識を手放してしまっていた。
 リビングのソファに並んでいた二人は間に人一人分のスペースをあけて座っていたはずだったが、船を漕ぎだしたレイシオの体がその隙間を埋めるように少しずつ傾いているのに気づくと、アベンチュリンは一度仕事の手を止めて恋人の方を見やった。相当気が緩んだのか、寝落ちるにしても普段なら眉間に皺を寄せて腕組みをしたまま微動だにしないレイシオが、今日は悩み一つなさそうな安らかな表情でこくりこくりと揺れている。
「レイシオ? 寝るならベッドで寝たほうがいいよ」
 アベンチュリンがそう声をかけると、レイシオは一度深海まで沈んだ意識を水面間際まで押し上げて、ああだかふんだか、返事というより喉を鳴らしただけに近い音を漏らして、また底にむかって潜っていく。その間も体は横へ横へとずれていって、二人の肩同士がぶつかってようやく大人しくなった。辛うじて頭を支えていた首から力が抜け、そのまま柔らかな髪と共にアベンチュリンの肩に預けられる。と同時にばさりと音をたててレイシオの指から滑り落ちた文庫本がカーペットに叩きつけられた。
 だめだこりゃ、完全に寝た、とアベンチュリンは思わず笑いをこぼした。寝るならベッドで、というのは他でもないレイシオの小言シリーズだが、こうなってしまっては起こして寝室に向かわせるほうが酷だろう。何より、恋人の横で寝落ちするときの心地よさは、自分の方がよく知っている。
「首痛めるから寝るならこっちにおいで」
 アベンチュリンは一度ラップトップを脇に置いて膝をあけると、肩に置かれたレイシオの頭にそっと手を回し、体を横に倒せるように優しく力を入れた。その手に誘導されながらレイシオは無意識に体勢が楽になる方へと身を捩らせ、最終的には膝枕の形に落ち着いた。
「もうちょっとほら足あげて」
 今レイシオは下半身が座った体勢のまま、そこから腰を捻って頭をアベンチュリンの腿に預けている状態だ。流石にこのままでは腰をやりそうなので彼の膝を叩いてなんとか足をあげさせ、向こう側の肘置きに両脛(この野郎、足が長すぎやしないか?)を預けさせた。マナーを重んじるレイシオが絶対にしない格好ではあるが、まあ仕方ない。
 そうして一仕事終えたアベンチュリンはふうと息をついて、小さく寝息を立てているレイシオの髪に指を通しながら、さてどうやって仕事の続きをしたものか、と天を仰いだ。

 それから数時間後。目を開けたレイシオの視界にまず飛び込んできたのは、見慣れた端末のカバーだった。何回か瞬きをして世界にピントを合わせていくと、そのカバーの先にチラリと恋人の顔が見えて、自分が今寝転んで彼を見上げているのだと理解した。
「あ、おはようレイシオ」
 パッと視界から端末が消えて、ネオンの双眼に捉えられる。アベンチュリンの手が額のあたりにやってきて、するりと前髪の束を横に流してくれた。それはレイシオにとって、体の節々が少し痛いのも気にならないくらいに満足な目覚めだった。


 そのとき、ふとなんの脈絡もなく、レイシオの脳は記憶のテープを引っ張り出してきて勝手に再生し始めた。脳裏に映ったのはいつかの恋人の背中だ。じんわりと熱い何かが胸の辺りでとぐろを巻いていくのを感じながら、レイシオはなされるがままに目を瞑った。

◇◇◇

 あの日はほとんど今日と同じような状況で、ただ立場が逆だった。読書に勤しむレイシオの隣でアベンチュリンは端末で仕事をこなしながら、いつの間にか睡魔に襲われて船を漕ぎ始めた。その後の流れも一緒だ。レイシオはアベンチュリンにベッドで寝るように促し、アベンチュリンは睡魔に負けて意識を手放そうとした。今日と違う点はここからで、レイシオはこのときしつこく注意し続けたのだ。もちろん彼とて、気持ちよさそうにしている恋人の入眠を妨げるのは本意ではない。しかし最近のアベンチュリンはろくに休みも取れず、レイシオが帰宅するとリビングの椅子で電池切れになんてことも珍しくないくらいで、であれば少し眠りを妨げることになってでも十分休めるようにベッドに向かわせるべきだという気持ちが勝ったのだ。故に、その良心に従ってついにアベンチュリンを叩き起こし、寝ぼけ眼をこすりながら含みのある表情をする彼に「文句があるならスケジュール管理くらいできるように」と憎まれ口まで叩いて、一人寝室へと追いやったのだった。
 それからレイシオは小一時間静かな読書タイムを楽しんだ後、夕方からの学会の集まりにむけて外出の支度をして、出がけに一応寝室を覗いた。アベンチュリンは半分眠った状態で向かったからか、言われた通りベッドを使ってはいたものの、前で腕を組んで、布団もかけずに壁に額を押し付けるようにして寝ていた。世話が焼ける恋人だ。そう思いながら布団をかけてやり、レイシオは部屋を後にした。
 結局学会の用事は夜まで続いた。帰宅する頃にはアベンチュリンも目を覚ましていて、ダイニングで仕事の通話中の彼に口パクで「おかえり」と挨拶をされて。なんてことはないありふれた休日の一コマで、レイシオも今の今までそんな日があったことをすっかり忘れていたというわけだ。

◇◇◇

 寝室からの去り際、一度振り返って見えた彼の丸まった背中こそ、レイシオが最初に思い出した情景だった。
 記憶の再映から現実に戻ってきた彼は、頭上から注がれる温かな視線から逃げるように顔の向きを変え、アベンチュリンの太ももに額を押し付けた。それをまだ寝足りないと勘違いされたのか、アベンチュリンの手が後頭部に回ってきて撫でるようにゆっくりと髪を梳いていく。なんども、なんども。
 今更蒸し返したところでおそらく彼は覚えていないだろうし、本心から気にしていないと笑い飛ばされるだろう。ただ、あの日薄暗い寝室で一人目を覚ました恋人を思うと、彼の意を汲んで少し隣にいればよかったと、同じように髪を梳いてやればよかったと、レイシオは己の不甲斐なさに顔を上げることができず、しばらく狸寝入りをするしかなかったのだった。