usagipai
2025-07-29 22:33:23
1823文字
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苦しいね


白い小部屋に乾いた音が響いた。
アニェラの顔が、少女の掌で打たれる。

「ッッ……

頬がひりつく。
だが、それよりも――その眼だ。

「どうして……どうしてこんなことできるのよ!あの子、私のこと、何も覚えてなかった……!」
「名前も!手を繋いだことも!全部よ!!」

少女は泣き叫ぶ。
あまりに泣きすぎて、もう誰を責めているのかも、彼女自身にはわかっていないのかもしれない。

「わたし……ただ、辛い記憶だけ消してって言ったのに……っ、まさか“全部”なんて……っ、馬鹿、馬鹿よアンタなんか……!」

アニェラは静かに視線を落とした。
その願いは確かに“記憶を消して”だった。
何を、どこまで、どう残せとは、一言もなかった。

けれど。

……君は、何か勘違いしてる」
「神は万能じゃない。それに、“記憶を消して”としか伝えられてないのに……どうして都合よく操作しろっていうの?」

それが現実だった。
神子は奇跡を使える存在だが、万能の願望機じゃない。
嘘の神子の“対”である自分にできるのは、真実を汲み取り、淡々と処理することだけ。

だが少女は、そんな理屈など聞こうとしない。

「うっさい!!言い訳しないでよ!!」
「どうせ最初から、全部消してやろうって思ってたんでしょ!?だって……だって、顔も心も冷たいじゃない!!」
「本当に“癒言の神子様”なら……記憶が全部なくなるなんて、そんなこと、ありえないでしょ!?」

叫びながら、泣きながら、責めながら、少女はどんどん言葉を選ばなくなっていく。

「はっ……やっぱり、噂通りね……
「嘘の神子の“対”だなんて、冗談じゃない。どうせ貴方も、出来そこないなんでしょ……?」

その言葉は、知っている。
何度も耳にしてきた。

「祈りの届かない神子」
「対になった意味がない」
「本物の神子の影でしかない存在」

そう言われてきた。

……なのに。
今日はどうして、こんなにも胸が苦しい?

(ルイフ……君は、こんなとき……僕に、どんな顔を向けてくれるんだろう)

ただの一度も否定せず、まるで当たり前のように傍にいた、太陽みたいな少年。
彼だけは、アニェラを“神子”として扱わずに、“人”として話してくれた。
それが、ただ温かかっただけなのに。

……あんな子、いっそ消えればよかったのに」
そう吐き捨てて、少女は踵を返した。

(あの言葉を言わせたのは、僕なんだろうか)
(それとも……彼女自身?)

アニェラは、答えのない問いを抱えて立ち尽くす。
白砂の舞う部屋に、もう祈りの声は残っていなかった。

誰もいなくなった部屋
声も、祈りも、感情の熱さえも消えていた。

アニェラは静かに頬に触れる
さっきのビンタの痕が赤く残っていた。けれど、痛みはすぐに消える。
神子の体は傷付きにくい。けれど――傷付かないわけじゃない。

ぽつり、と口が動いた。

……あの子、助けたかっただけなのに」

それは、少女のことか。
妹のことか。
それとも、自分自身か。

答えはわからない。
けれど、確かに心が、ちくり、と刺された。

「ぼくのせいなのかな」

いや、彼女が願ったことだ。
記憶を消してと頼んだ。
その通りにしただけ。正しかった。
なのに、どうしてこんなに「正しさ」が虚しい?

……優しさって、なんなんだろう」

癒言の神子として、正直に、誠実に在ろうとしてきた。
でも、それが誰かの願いを砕くのなら――

「じゃあ、嘘でもよかったのかな」

「“上手くできたよ”“少しだけ消したよ”って……
「それとも、“何もできなかった”って、逃げた方がよかった……?」

自分の声が、やけに冷たい。
まるで、自分自身に失望しているかのようだった。

ふと、思い出す。

あの少年の、眩しいような笑顔。
ルイフ。
彼だけは、何も期待せず、何も押し付けず、ただ「一緒にいてくれた」。

……ルイフ」

ポツリと名前を呼ぶ。
返事はない。当たり前だ。
でも、どこかで「君がここにいてくれたら」と思っていた。

「ぼく、間違ってたのかな」

それは自分への問いかけ。
誰にも聞こえない問い。
神子としての誇りも、名前も、意味も――すべての音が遠のいていくようだった。

アニェラは、ただ小さく息を吐いて、
冷えきった部屋の片隅に、静かに座り込んだ。

まるで、祈られない神像のように