夜のビルの屋上。冷たい風が高層の闇を抜けていく。喧騒から遠ざかりたくて、私はひとり、風の音だけが響くこの場所を選んだ。眼下に広がる街の明かりは、遠い星のように小さく瞬いている。見上げた空にも、かすかに星が滲んでいた。ただぼんやりとそれを眺めながら、風に髪を撫でられるままに立ち尽くす。意味もなく、時間を無駄にしているようでいて、どこかそれに救われていた。
そんな沈黙の中に、不意に声が落ちた。
「……探したぞ、と」
背後から聞こえたのは、聞き慣れたあの声。振り返らなくてもわかる。足音の調子、気配の軽さ、そして場の空気に構わず入ってくるところも。
だけど今日は、不思議と追い払いたいとは思わなかった。
「任務、終わったんでしょう。なら、もう用はないわ」
「ふぅん。なら、用もないのに来たってことでいいか」
からかうような声音に、思わず口元が緩む。
「……暇なの?」
「いや、心配だった。今夜のおまえ、ちょっと違ったからな」
レノは私の隣に立ち、同じ夜景に目を向けた。ビルの端に腰を預けるようにしながら、風を受けてふっと髪を揺らす。
この人はいつも、空気を読まない。いや、きっと読んだ上で、わざと崩してくる。
「昔の私なら、任務で誰が死んでも、平然としてた」
思わず、口が動いていた。唐突すぎたかもしれない。それでも、レノは黙って耳を傾けていた。
「でも今日……ほんの少しだけ、悔しかったの。あの人が死んだことも、助けられなかった自分も……全部」
――あの人は、任務でたまたま一緒になった兵士だった。名前も、顔も、ほとんど知らないまま。それでも最後まで諦めずに戦い抜いた姿が、焼き付いて離れなかった。
風に晒された指先が、わずかに震えていた。情けなくて、悔しくて、それ以上に——誰にもこんな自分を見せたくなかった。
私はもっと強いはずだった。そう、決めていたのに。
「……おまえさ」
低く静かな声が、そっと私の思考を遮った。
「昔の自分が、正しいと思ってるか?」
「……わからない。ただ、強くなきゃって、それだけで……」
力を入れたつもりの声は、どこか頼りなく揺れた。
「そっか。でもな。俺は、今のおまえの方が好きだぜ」
不意に、心臓が跳ねた。
その言葉の意味よりも、声に滲んだぬくもりが胸を打った。
「……ずるいわね、あなたって」
「お?」
軽く笑う声が返る。その笑みが、夜の風よりも優しく胸を撫でてくる。
「ずっと、誰にも頼らずに生きてきたのに……最近、気づいたの。私、もうひとりじゃいられない」
ぽつりとこぼれた言葉が、夜気に混じって白く溶けていく。自分がこんなにも脆かったなんて——今さら気づかされる。
あの日、独房で迷わず手を差し伸べてくれた人。あの瞬間から、何かが確かに変わっていた。
「……あなたのせいよ」
顔は、見せたくなかった。それでも、言わずにはいられなかった。
そんな私の隣で、レノは一言だけ、ゆっくりと答えた。
「責任、とるさ」
あまりにも軽い口調で。だけど、言葉には一切の嘘がなかった。
風が、静かに止んでいた。その代わりに、すぐそばにある彼の体温だけが、確かな温もりとして残っていた。
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