五百ミリリットルのペットボトルから生える一本の花を見て、早番終わりの村上が目をしばたたかせた。荒船は、通勤用のポロシャツのボタンを開けながらまじまじと花を観察している村上に気づいていながらも、何食わぬ顔をつくり、冷蔵庫から出した麦茶を村上愛用の青いグラスになみなみと注いでやった。
「暑かっただろ。飲め」
「あ、うん。ありがとう」
ゴクゴクと喉を鳴らして麦茶を一気飲みする村上の注意は、二人用の小さなダイニングテーブルの真ん中に飾られた、太陽に似た花に注がれていた。
「夕飯、そうめんでいいか。お中元のお裾分けだって、叔母さんが持たせてくれた高いやつがあるんだ。んで、それだけじゃ足りねえと思って駅前で天ぷらと唐揚げも買ってきたから、乗せて食おうぜ。鋼が米が食いたいなら解凍しておくし」
荒船の口はペラペラといつになくよくまわった。まるで村上が喋る隙を与えないようにしているみたいだった。夕飯のメニューの返事を聞いてもいないのに、荒船はそうめんの箱を開け、茹でかたが書かれた説明書を眺めた。
「この花、どうしたんだ」
手のひらサイズのひまわりの花弁を嬉しそうに指先で撫であげている村上が訊ねてくる。
「どうしたもこうしたも、意味なんてねえよ。なんとなく買っただけだ」
「荒船が『なんとなく』で花を買ってくるなんて、これが初めてだな?」
言外に、そういう性格じゃないだろ、と言われている気がした。そうめんを茹でにキッチンに行こうとしていた荒船はむっつりと押し黙った。
花を買ってきた経緯を、うまく説明できる自信はない。しかし興味津々な村上の追求から逃れることも難しい。これまでの経験から、こういうときの彼はしつこいのだと知っている。ふう、と息をつき、荒船はぽつぽつと話しはじめた。
「従姉妹が……」
「従姉妹? 今日、会いに行ってたっていう荒船の従姉妹のこと?」
「そうだ。その従姉妹が結婚したって話はしたよな?」
「ああ。だからお祝いに行ったんだよな」
荒船は頷く。四つ下の従姉妹とはそこまで交流があったわけではないが、幼いころはよく遊んでいたし、母からお祝いを渡すように言われていたため、まずは叔母と連絡をとった。祝いの品は郵送すると伝えたら、叔母から「久しぶりに顔が見たいから来てほしい」と言われたので、隣の市まで会いにいったのだった。
「それで、二人が入籍日の話をしててよ、従姉妹は結婚相手の誕生日の真ん中に入籍したらしくて」
「真ん中の、誕生日……?」
村上が聞きなれない言葉に大きく首をひねった。「俺も同じ気持ちだ」と荒船は同意する。
「真ん中バースデーっつう、自分が生まれた日と相手が生まれた日までの真ん中、ってことらしい、たぶん」
熱弁してくれた従姉妹には悪いが最後までどういうことか理解できなかったため、村上への説明も曖昧なものになってしまう。たしかに、あとに生まれる相手を待つ期間と考えればロマンチックかもしれない。彼女たちにとってはその『真ん中の誕生日』が特別に大切な日だということはわかるし、それにあんなに幸せそうに笑う彼女には疑問なんて無粋だろうと思い、荒船は、そうか、とただ彼女にひとことを返すのに留めたのだった。
「その真ん中の誕生日、ってやつが花を買ったことに繋がるのか?」
村上の視線がまた卓上のひまわりに向けられた。荒船は、そうめんの束を箱に戻す。手についた粉を行儀悪くテーブルの上で払い落とし、
「……そいつが、俺が付き合ってる奴との真ん中バースデーを調べるって言って聞かなくて……それで、俺たちのは、今日らしい」
と、もごもごと口を動かした。言いながら羞恥に襲われ、最後のほうは消えいるような声になっていた。
『てっちゃんたちの真ん中バースデー、今日みたい! 早く帰ってお祝いしなきゃ!』
興奮した従姉妹と叔母に物理的に背中を押され帰宅を促された荒船は、最寄り駅に着いてすぐに立ち尽くした。
——どう祝えと。
先月の彼の誕生日には、たいそう喜んでもらえた。付き合って十回目の誕生日だったので、年甲斐もなく身も心も盛り上がってしまった。だからこそ今日、思いつきで真ん中の誕生日とやらを祝ったとしても、見劣りしてしまわないだろうか。荒船は駅直通の商業施設をあてもなく歩いた。冷房がしっかり効いたフロアの端からはしに行き、地下の食品売り場まで無意味に歩いていると、汗が引いたせいか幾分冷静になった。
村上との『真ん中の誕生日が今日』というのを知っているのは自分だけだ。こちらから言い出さなければ、このイベントを彼が知る可能性などほぼ無いだろう。どうせやるなら来年、徹底的に祝ったほうがいいのではないのか。荒船は迷いを断ち切るように踵を返し、商業施設の出入り口へ向かった。
平日の日中は人が少なくていい。数年前にボーダーを退職し、ボーダーへの物資を支援する協力会社に勤務している荒船にとって平日の休みは貴重だった。従姉妹に会いに行きつつ、使いきれていない有給を消化するために取った休みだったが存分に羽を休められているはずだ。それなのに、どうしてだろう。さっきから村上の顔がチラついて落ち着かなかった。
サラリーマンの出勤時間や週末には混雑する、改札に続く連絡通路も今は閑散とした印象だった。道の左右に雑貨屋や喫茶店があったので、荒船は店の前でなんとなく立ち止まったりして訳もなく寄り道をした。休日よりもゆっくり店内を回れるから。誰に言うでもなく、心の中で言い訳をする。そのあいだもずっと、村上の存在が頭から離れなかった。輸入雑貨が並ぶ店を出たとき、目の前に花屋が現れた。現れたといってもおそらく以前からそこに建っていたであろう、普段は絶対気にも留めない花屋がひときわ目を惹いた。店に近づくと、ふわりと花の香りが漂ってくる。幸い、他に客がいないが男だけで花屋に居るのは気恥ずかしい。ピンク、オレンジ、緑といった馴染みのない色とりどりの店内に気後れしつつ、店先で辺りを見回した。目当ての花は、すぐに見つかった。
プレゼントですか、と女性の店員に声をかけられ、さっきの困惑が嘘のように「あの花を一本ください」と自然と口から出ていた。あの部屋に飾るなら——村上に渡すなら、このひまわりがいい。
この暑さで花が弱るかもしれないと店員から説明を受け、急いで天ぷらと唐揚げを買ったあと花屋に戻った。丁寧に包んでくれた一本のひまわりを潰さないよう足早に、意気揚々と帰宅したくせに、荒船は部屋に到着してから困ることになった。ひまわりを飾る花瓶のことまでは考えていなかったのだ。花瓶を用意するにも時間がかかる。切花をそのまま放っておくわけにはいかず、新品の緑茶のペットボトルの封を開けて花瓶の代わりにしたため、格好がつかない。ひまわりにしたのも、花言葉なんてものはもちろん知らないので、夏だし名前が判るのがこれだったから。それだけの理由だ。
荒船は熱くなった頬を手の甲で押さえた。村上の顔が見られない代わりに自分が買ってきたひまわりを睨むように見つめると、目の錯覚か先ほどよりも誇らしげに咲いているふうに感じた。
「真ん中の誕生日なんて意味わかんねえけど、聞いたからにはなんか……。それにおまえ、こういうイベント好きだろ……」
今すぐに氷水を浴びたい気分だった。村上に何を言っても墓穴を掘っているようで、いっそ恥ずかしさで埋まってしまいたかった。
真ん中の誕生日の話を教えてもらい、一度は流したのに祝いたくなったのは、荒船が村上の喜ぶ姿を見たかったからだ。クリスマスでも正月でも真ん中バースデーでも口実なんてなんでもいい。何かにつけて二人で過ごすことが好きな、可愛いかわいい男に愛される機会を一日でも増やしたかったのも本音だった。
「……鋼、なんか言えよ」
黙りこくっている村上をなじるように声を絞り出す。村上は正気を取り戻したかのようにようやく頭をぶんぶんと振り、
「荒船が、すごくかわいいことを言うからびっくりした」
と惚けたように言った。
「面と向かってかわいいって言うのはいい加減やめろ。何歳だと思ってんだ」
「これから先、何歳になってもオレにとっての荒船はそうだよ」
いつの間にか近づいてきた村上に抱き寄せられて、やっと肩の力を抜いた。
「その真ん中バースデーってやつ、来年はオレからも絶対にお祝いするから。今からプラン考えておく」
「こえーよ、そこまでされると」
「荒船が買ってきてくれたこのひまわり、永久保存できないかな。せめてドライフラワーに加工したい」
「ここから十年、二十年って全部の花をドライフラワーにしていったら、部屋が花だらけになるな。それこそ花屋でも開けるようになるんじゃねえの」
ドライフラワーの寿命なんて考えず夢想していると、ガバッと両肩を掴まれる。村上に正面から見据えられ、その眼差しの熱さに荒船はたじろいだ。
「なんだよ」
「荒船がまたかわいいこと言うから」
「もういいっつの」
ペち、と猫の甘噛みのように村上の頬を叩く。村上はだらしなく破顔したあと、「十年後かあ」と感慨深げに呟き、また腕の中へ荒船を閉じ込めた。
なんだかんだ付き合って十年経つのだ。これから先のことに想いを馳せるなんて普通のことではないか。当たり前のことを言っただけなのに、村上がこんなにも楽しそうにしているのが不思議で、そして幸せだった。きっとこれからも毎年、花は増えていく。互いに贈って贈られたたくさんの花に囲まれて、いつかしずかに眠るのだと思うと悪くなかった。
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