シノハラ
2025-07-28 22:05:51
1766文字
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今はまだ帳の下

『あなたがいる時空』読書感想文です。ストーリーの最後の所の蛍とティレルと偶然立ち会ってしまったダインスレイヴの話

 何もない事を確かめに行くだけのつもりだった。時間の経過を考えれば、蛍が去る前に示した場所にはもはや人も物も残ってはいないだろう。少なくとも、アビス教団もしくは王子様に関わる情報は全て蛍が回収しているはずである。だから、日が落ちてからの時間よりも日が昇るまでの方がずっと近い頃合いに目的地に辿り着いたダインスレイヴは、そこに命の気配があることに少しばかり驚いてしまった。
 野宿の心得ならいくらでもあるはずなのにふんわりとしたスカートの裾を地面につけて、足を投げ出して眠っている少女。その横に寄り添うようにしてぐっすりと寝入ってしまっているらしい幼女の姿も窺える。
 その明るい色合いの二人に気を取られて、ダインスレイヴは一瞬その塊に気づくのが遅れてしまった。先にダインスレイヴの髪が弾いた星の光に気づいたらしいそれが怯えるように震え、不用意にこちらの注意を引く。
 何のことはない。一匹のヒルチャールだった。
 けれど、それは怯えるばかりで声の一つも上げず、剣の柄に手を添えたダインスレイヴを見ても逃げ出す様子は見られない。その同胞の慣れの果てが少女の姿を隠そうとしているのに気がついて、ダインスレイヴは剣から手を離し近くの手頃な岩に腰を下ろすことにした。
 そうすると途端に同胞の怯えは薄れ、少女が目覚めないように注意しながらそっと指先に触れる。その仕草には慈しみがあった。姿形を歪められ五百年に亘り放浪した者がどれだけ理性を保っていられるか、言葉も交わせない自分には判断はつかなかったが。
 そのヒルチャールは息を潜め、背中を丸め、ただ自分が握る細い指先をじっと見つめているようだった。まるで、少女の寝顔をしっかりと見つめるには自分の覚悟が足りないとでもいうように。
 それからゆっくりと月が落ち、山の向こうに太陽の気配が近づくまで同胞は少しの身じろぎもせずずっと少女に寄り添っていた。まだ上がってこない太陽が大地を温める気配に気がついたのか、ヒルチャールはふらりと立ち上がりきっかり三秒だけ少女を見つめる。
 それから何か口にしたようだったが、しわがれているはずの声はダインスレイヴの下まで届かなかった。すぐに少女から背を向けたヒルチャールから答えを聞き出す機会はもうないだろう。
 同胞の姿が見えなくなってから、ダインスレイヴは寝入ったままの少女に近寄った。それから微かな太陽に照らされ始めた洞窟の奥に、ヒルチャールの棍棒があることに気がつく。それから、ようやく同胞だったはずの生き物が弓や盾すら持たず山を降りた事に思い至った。
……ダインスレイヴ?」
「ああ、起きたか」
 背中が痛くて、と当然の事を言いながらもぞりと起き上がった蛍がふわりと小さくあくびをしてから、訝し気にこちらを見てくるので彼女の主張を待つことにする。彼の妹であるのだから見た目通りの年頃でないのは承知しているものの、かといってまともな野営の準備もせずに寝ている知人を放っておく方がどうかしているため非難を受ける謂れは一つもないが。
「手を握ってくれていたの?」
 自分で言っておきながら少しも納得がいっていないのであれば、言葉を選べば良かろうに。けれど、環境がすこぶる悪い状態での寝起きではそれが限界だったらしく、補足ややり直しの類は与えられなかった。
「いいや。俺はただここにいただけだ」
 そう、と蛍はあっさりと頷いた。それから何かを言おうとして、結局開きかかった唇を閉じてしまった。上手く形にできなかったのか、それとも事実を知る勇気がなかったのかは判断が付かない。
「ここにまだ調査すべきものでもあるのか」
 もしそうであれば、ダインスレイヴも何かしら手を貸して情報を得ておく必要があるだろう。その問いにつられたように蛍が一度洞窟の中を見て、ヒルチャールが残した棍棒を目に留めた後そっと目を伏せた。
――ないよ。ここにはもう何もない」
 意味の取れないラクガキと敷布の代わりの大きな葉に、煮炊きをするための空っぽの鍋がそこにはあるばかり。きっと彼女の言葉には偽りはなく、今後のために重要な情報などどこにもないのだろう。
「そうか」
 それでも、彼女の言う通り、ここには何かがあったのだ。きっとその名残が二人の指先にはまだ残っている。