「こんばんは」と鳴くと、その人間はふわりと笑って「こんばんは」と返してくれた。伸びてきた手を避けることなくぼくはその手のひらに頭を擦り付ける。
「ふふ、今日はいい子だ。この前はすぐ逃げちゃったのに。何か用事があったの? 気分じゃなかっただけ?」
「恋人とデートの約束があったんだ。きみに撫でられることだって好きだけれど、そのせいでデートに遅刻したら誤解されてしまうかもしれないだろう」
「……よしよし」
人間にぼくの言葉は通じない。それでもぼくはこの人間に話しかけるのをやめなかった。優しい手つきに、のんびりした動き、やわらかい声音のこの人間のことが気に入っていたから。
しばらくそうして人間に撫でられながら話をしていれば、遠くから足音が近づいてきた。ピクッと耳をそちらに向けると人間も僕を見つめていた顔を上げて足音のする方を向く。人間はぼくたちより耳が悪いはずだから、まだ何も聞こえてないはずなのにな。
数秒後に道のむこうに見えてきたのは図体の大きい他の人間で、そいつはぼくたちにむかって手を振った。人間が「あけほし」と小さく呟いたから、ぼくはやってきた人間の名前があけほしと言うのだろうとあたりをつけて「あけほし」と真似するように鳴いてみた。
「こんなとこおった。一緒に帰ろって言ったやん」
「先に帰るって言ったよ。明星が一緒だと猫たちが逃げるからやだ」
「え〜? でもほら、この子は逃げへんよ?」
「……いいこ。ごめんね、うるさいのが来ちゃって」
「うるさいのて」
へらっと笑ったあけほしは人間の隣に並んでしゃがみ、ぼくのことを近くからじっと見つめた。人間の星空のような色とは正反対の、夕焼けみたいに温かそうな色の瞳は、ぼくの姿を鮮明に映していた。
「かわええなぁ。人間慣れしとる」
「ん、よく遊んでくれる子だよ」
「俺も触ってへーき?」
「……やめたほうがいいかも?」
「ちょっとだけ〜」
あけほしが大きい体を動かして、ぼくに向かって手を伸ばした。人間と違う大きくて硬そうな手に反射的に飛び退いてしまう。ぼくのことを撫でていた人間は驚いて目を丸くし、それからキッとあけほしのことを睨みつけた。
「触っちゃ、だめ」
「あは、はぁい。驚かせてごめんなぁ? もう触りません。代わりにゆらの手掴んどこ」
「は、ちょっと、触んないで」
「え〜? ゆらはええやん。猫ちゃんに逃げられて寂しい明星くんのこと甘やかしてや」
「俺は猫を触るのに忙しい」
「そこをなんとか〜」
あけほしが笑いながら人間の手を取り、人間はそれを一度振り払って、もう一度掴まれると諦めたようにため息を吐いた。空いている手でぼくのことを撫でてくれるけれどさっきまでと手つきも、表情も違くて、ぼくは「なるほど」と呟いて身を翻した。
「え」
「その人のことが好きなんだね。それなら今はぼくよりもその人を優先しなよ。ぼくも恋人に会ってくるからさ」
「あれ、行っちゃうん?」
「明星のせいだ……」
「なんかうにゃうにゃ言っとったなあ」
「そっちの人間がでかくて怖いって」
「あは、ゆら、猫さんの言葉分かるん?」
「怖くなんてないよ。きみに気を遣っているだけさ」
「……また遊ぼうね。今度はちゃんと一人でくるから」
人間たちの邪魔にならないよう草陰に身を隠すと、人間はひらりと手を振ってから立ち上がった。手を繋いだままのあけほしも立ち上がり、人間の隣に並ぶ。
「帰りアイス買って」
「あれ、俺の奢り?」
「だって、せっかく撫でさせてくれてたのに」
「あー」
葉っぱの隙間からその様子を覗いていたぼくを振り返ったあけほしが、にっこり笑って手を振った。ぼくに礼を言うのなら、今度はおいしいごはんでも持ってきてよ。
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