千代里
2025-07-28 17:06:48
17079文字
Public リーブラ15話
 

リーブラの針は問う・15話・その17


「これで、ひとまずは終わりだ!」
 裂帛の気合いと共に、大剣が豪快に降られる。
 空気ごと真っ二つにするような音と共に、蠢いていた妖異――ソルベが切り裂かれ、二つに裂けて雪原に溶けていく。
 妖異は、異なる世界からやってきた魔物だ。その多くは、魔物本体ではなく、この世界にある物質を媒介として形をなす。代表的なのは、石像に憑依して、動く石の悪魔と化したガーゴイルだろう。
 ならば、このぶよぶよとした半液体状の体を持つソルベは、いったい何に憑依して生まれた妖異なのか。
「オデット、前に出ろ! 障壁を張るのを忘れるなよ!」
「はい!」
 ルーシャンの掛け声と共に、後方に控えていたオデットは、乗っていたチョコボに指示を出す。後ろでは、テオがオデットの体に腕を回して、ぎゅっとしがみついていた。
 駆け出したチョコボは、先を走るルーシャンの背中が見えてきた辺りで急ブレーキをかける。今までもこうして、ソルベの群れの一角を切り崩し、一同は妖異が蠢く一帯を切り抜けてきたのだ。
「この魔物は、死体が残らないのですね」
 恐る恐る足元をみやったテオが、妖異などいなかったかのように白い表面を晒す雪原を見て呟く。
「妖異は死体が残る方が稀だ。特に、このタイプの妖異は水分を媒介にしている。おおかた、この辺りには氷河があるんだろう」
 流れが滞った川を、妖異が憑代として目をつけた。そんなところだろう、とルーシャンは結論を出す。
「お喋りは後だ。クラリス、まだ行けそうか」
「問題ない。次は、あの辺りだな」
 幸いなことに、ソルベたちは自分の周囲数ヤルムの敵には反応するものの、あまり距離を置くと攻撃対象として見なさないらしい。さして知性も高くないようで、こちらが攻撃してから、ようやく迎撃の姿勢をとる個体もいる。
 もっとも、だからといってルーシャンは自分一人で突破できるとは思っていなかった。
(クラリスが、暗黒騎士なんていう奇妙な技を使う剣士でよかったぜ)
 もしこれがノエであれば、相応に苦戦しただろうとルーシャンは口元を歪める。
 ソルベは液体に妖異が宿ったためか、物理攻撃に対して耐性を持っている。ノエやオランローのように武器本来の鋭さを活かす戦いをする者では、相手がしづらかっただろう。
 奇しくも、その一日前にノエたちが同様の耐性を持つスライムたちと戦っていたことを、ルーシャンは知らない。
 クラリスの大剣に纏わりつく闇色のオーラは、魔法とほぼ同等の力を持っているようだ。本人は制御に慣れていないと言っていたが、今のところ問題もなく、妖異を蹴散らしてくれている。
「ルーシャン、援護は任せた。先に出る」
「ああ。オデット、障壁を張ってやれ」
「はいっ」
 オデットの障壁を纏ったクラリスが先陣を切り、周辺のソルベを自身の元へと集める。集まったソルベを迎撃しつつ、ルーシャンが後方から一体ずつ確実に仕留めていくという作戦だ。
 耐久戦ができるクラリスと、後方から確実に敵を仕留められるルーシャンがいるからこそ可能な戦法であり、どちらが欠けても立ち行かない。だからこその、共同戦線なのだ。
 クラリスが大剣を構えて、大上段に振りかぶりながら雪原の只中へと大きく跳躍する。自分はここだ、と示す誇張された一撃に誘発されて、ソルベたちが一斉に彼女へと集まった。
……!」
「大丈夫ですよ、テオさん」
 鞍の後ろで、思わず声をあげそうになったテオをオデットは宥める。
 これまでも遠方から大人二人の奮闘は見てきていたが、今までと異なり、二人が今隠れているのは、付近よりやや小高い丘陵地帯となっている。クラリスを見下ろす形となっているので、彼女が敵に囲まれているのがよくわかってしまったのだろう。
「ああ、そうだ。あの姉さんの腕前は、目をみはるものがある。坊主がそれを一番知っているだろう」
 ルーシャンに言われて、テオはぐっと唇を噛む。
 わかっていても、心配な気持ちが消えるわけではない。オデットもそれが分かっているので、なるべく彼を不安にするまいと、常に天球儀を構えていた。
 クラリスが十分に敵を惹きつけると、今度はルーシャンの番だ。細剣を指揮棒のように振り、次々と打ち出される光の杭がソルベたちに突き刺さる。ダメ押しとばかりに、円状に並んだ杭が、ソルベを囲むように突き立ち、吹き上がる魔力が妖異を消し飛ばした。
 もちろん、絶妙にクラリスを範囲外に置くのも忘れていない。
「ルーシャンさん、すごいですっ」
「だろ? ただ、油断は禁物だ。先に行ってるからもう少し待ってな」
 鮮やかな魔法さばきに興奮気味のテオを、片手で軽く宥めながら、ルーシャンはクラリスの元へ向かう。これまでも何度も繰り返してきたことなので、彼が手を振るのが見えれば、オデットもすぐにチョコボを先へと走らせた。
「あとは、ここの谷を抜ければ妖異が発生している地帯は抜けられそうだ」
 到着早々、ルーシャンは木々が立ち並ぶ一角にオデットたちを誘い、次なる道を彼女らに示す。今の彼らは、ソルベを全て倒すことが目的ではない。
 山の奥にはまだソルベが蔓延っているかもしれないが、ルーシャンたちは早々に山を抜けて、旧エヴラール領に繋がる平原に向かうつもりでいた。
「では、あともう少しなのですね」
「そういうことになる。敵の数もさほど多くない。今までと同じやり方で切り抜けられるだろう」
「クラリス、疲れてはいませんか」
「大丈夫だ、テオ。この男の魔法のおかげで、消耗は抑えられている」
 子供たちを安心させるように、クラリスはふっと笑みを浮かべてみせる。表情は変えていないが、大剣の柄を一度強く握り直したのをオデットは見逃さなかった。
(消耗は抑えられていても、疲労は感じているようですね)
 念のため、治癒魔法を施してはみたものの、あまり効果はないようだ。
 先だっての傷もそうだったが、彼女の暗黒騎士としての力は、ただの負傷とは異なる形でクラリスを蝕んでいるらしい。
「では、行ってくる」
 油断するなよ、と一言言い置いて、再びクラリスはソルベの一群へと駆け出した。
 見慣れた闇色の光が走り、日が昇りつつあった谷間に再び夜をもたらす。闇色の炎に焼かれるソルベたちは、突如姿を見せた女剣士を敵とみなして一斉に襲いかかった。
 今までと同じ戦い。見慣れた応酬の繰り返し。まるで、朝起きて着替えをするように、馴染みきった作業をしているような感覚が、オデットの胸中にざらりとした違和感を与える。
(何でしょう。この嫌な感じ……
 オデットたちから少し離れた距離から、ソルベたちへと魔法を放つルーシャン。彼らの背中を見守るオデットとテオ。
 これまでと全く同じ光景だ。しかし、だからこそ、気をつけろと頭の隅で『彼』が囁く。
 ――戦いが長引いて、敵の動きに慣れてきたときこそ、危ないんだ。
 まだオデットがグリダニアにいた頃、無邪気に、だが真剣に戦闘への同行を望んだ彼女に、ノエは教導役を引き受けてくれた。実戦はサルヒやルーシャンに指南を任せていたが、ノエは寝入りしなにオデットへ戦闘時の注意事項をいくつか聞かせてくれていた。
 その中の一つが、これだった。
(慣れてきたときこそ、注意をすべきなのでしょう。でも、ソルベたちはクラリスさんが惹きつけてくれているし、今もルーシャンさんがやっつけているところです)
 ならば、気をつけるべきは何だろうか。クラリスたちが戦っているソルベの群れか。それとも――それを見守っている自分たちか。
「オデットさんっ!」
 影が落ちる。太陽を隠す雲ではない。
 自分たちを包み込む、その影はもっと濃くて、危険な気配を伴っている。
――――!」
 振り返ると同時に、魔法の壁を作り上げられたのは、度重なる窮地を潜り抜けてきた経験があったからこそだ。
 バン、と障壁を強く叩く音。まるで自分自身が殴りつけられたかのような衝撃に、頭がくらりとした。
「オデット!」
「テオ!!」
 甲高く響く、何かが割れたような澄んだ音。これは、壁が壊れてしまった音だ。
(次の壁を、作らないと……!)
 今の攻撃がもう一度来るまでに、わずかに隙があるはず。その隙を縫おうとしたが、
「オデットさん! もう一体が!!」
 敵は、一体だけではなかった。視線の先に聳えていたのは、ソルベに似た外見の妖異。
 だが、その体ときたら、オデットが見上げるほどに大きい。ソルベの殆どがオデットの半分ほどの体躯しか持たなかったのだから、彼らの大きさははるかに規格外だ。
――!!」
 振り下ろされる、粘液に包まれた腕。その一撃は、見た目ほど柔らかくないと、オデットは直感で悟る。せめてテオを妖異の魔手から守ろうと、彼の体を抱き寄せ、咄嗟に目を瞑った。
(兄さん……!!)
 ここにはいないノエの姿を思いながら、妖異の一撃が自分の頭を砕く瞬間を待った。
 だが、いくら待っても体に痛みは訪れない。代わりに、オデットの瞼の裏に差し込んでいた朝の日差しが不意に消えうせた。まるで、周囲に突如夜が訪れたかのようだ。
 いったい、何が起きたのか。その疑問は、すぐに解消される。
「クラリス!」
 テオの安心した様子の声に、オデットは瞳を開き、すぐさま周りの状況を確認する。
 自分たちを包む、闇色の覆い。それは、あまりに濃密度の暗色の光が作り上げた天幕のごとき障壁だった。どろりとした質感すら思わせる濃い闇が、大剣を翳すクラリスを中心として、オデットたちを包んでいる。
「これも、暗黒騎士の技なのですか……?」
 ノエも、光の翼を大きく広げたような障壁を作り、魔物の攻撃を凌ぐ技を身につけている。だが、その技はかなり激しく消耗するようで、ノエもいざというときしか使わない。
 ならば、この暗黒騎士の技も、クラリスに激しい消耗を強いるのではないか。
 オデットがその推測に至ると同時に、闇色の天幕が薄まる。代わりに、暗赤色の幾何学模様が編み出した球体がオデットたちを包んだ。
……間に合って、よかった。暫くは保つだろうから、その中から動かないでいてくれ」
 オデットたちに言葉を残して、クラリスは自身が作り上げた守護の陣から飛び出して、大型の妖異へと肉薄する。隣にうずくまっていたテオはほっと一息ついていたが、オデットは陣から飛び出たクラリスの動きに、先だってまでの精彩がないことに気がついていた。
(クラリスさん。大丈夫でしょうか……
 術者のそばを離れても障壁を展開し続けるということは、その間もずっと消耗を強いられるということだ。ただでさえ戦闘続きの彼女にとって、不慣れなエーテルの操作に近しい行為を続けながら戦いを続行するのは危険ではないか。
「後ろに隠れて、こちらの様子を見ていたのか。ったく、面倒なことを……!」
 先行してソルベに向かっていたルーシャンが、オデットの隣に飛び込んでくる。魔力でできた重石を投げ込み、それに向けて体を引き込むというルーシャン得意の移動法だ。
 間髪入れず、彼は巨大ソルベともいうべき妖異に迫り、エーテルを纏った細剣で連撃を叩き込む。大きさは変われども、弱点に変化はないらしい。妖異は鞭のように体をしならせ、必死に逃げようとしているが、させじとルーシャンも後を追う。
 一方で、もう一体のソルベはクラリスの大剣をひらりひらりと交わしてはいるものの、彼女一人を相手取るのが精一杯のようだ。
……これなら、大丈夫でしょうか」
 一瞬ひやりとしたが、オデットの機転とクラリスの懸命な働きのおかげで難を逃れた。そう思い、硬く結ばれた緊張の結び目を少しばかり解きかけ、
「オデットさん。クラリスの動きが、何だか変ではありませんか」
 テオの不安げな言葉に、オデットはソルベを惹きつけていた女剣士を探す。
 闇色の光を纏った彼女の動きは、明らかにこれまでの鋭さを失っている。両手で難なく振り回していた大剣ですら、今は持ち上げて相手の攻撃を受け止めるのがやっとのようだ。
 不意に、二人を包んでいた闇色の影が薄くなる。代わりに、朝の日差しが柔らかく差し込んだことに気がついた瞬間、オデットは走り出していた。
 障壁が解けた。それは、クラリスに障壁を維持するほどの力が残っていないか、力が彼女の制御から離れたことを意味する。
「クラリスさん!!」
 これ以上、彼女にあの力を使わせてはいけない。
 直感でそう悟り、オデットは彼女を助けようと駆け出した。
 だが。
――――!」
 クラリスの元に溢れかえっていた闇色の光が、突如吹き上がる。
 ソルベごと、闇色の光が彼女を飲み込むのを目にして、オデットは声にならない悲鳴をあげた。
 
 ***
 
……まだ、戦える)
 テオとオデットに襲いかかる巨大なソルベを目にした瞬間、クラリスの体は勝手に動いていた。
 妖異だろうと、人間だろうと、自分が守ると決めた者が何者かに傷つけられるのは我慢ならなかったのだ。
(まだ、私は戦える)
 怒りに似た激情に方向性を定めて、どうにか護りの形とする。
 魔道士が魔力を使うと、体力と密接に結びつくエーテルが損なわれるため、倦怠感に襲われると聞く。だが、この力――感情を燃料とした負の力なるものを使ったせいで、著しい疲労を覚えたという経験はない。
 あるとしたら、それは。
……頭が、割れそうだ」
 何かとてつもなく大きなエネルギーが全身を焼くような、痛みとも異なる、己が内側から何か別物に喰われていくような喪失感。言葉とするなら、そんなものになるのだろうか。
 ソルベの振り下ろす腕にハッとして、内臓が焼けるような感覚を歯を食いしばって押さえつけつつ、剣を振りかざす。
 オデットたちの元に残した魔法陣を解けば、少しはこの身を食う悍ましさから逃げられるかもしれない。だが、クラリスはそうしなかった。
 もし、さらに伏兵がいたら。そのせいで子供たちが傷付いたら。
「そんなこと、もうたくさんなんだ……!!」
 己の気持ちだけを活力として、大剣を振るう。闇色の光が生まれれば生まれるほど、手綱のない暴れチョコボに乗せられているかのように、身体中で力が荒れ狂っている。
 オデットたちのもとに残した魔法陣を、暴走させてはならない。
 ソルベを倒して、彼らの元に戻らねばならない。
(こいつを倒せば、それで終わる)
 重たい腕を動かした。敵の一撃を受け止め、沸き立つ感情を衝撃波に変えて撃ち出そうとした、そのとき。
――――
 ぶつん、と何かが切れた感覚。
 それは血管だったのか、それとももっと大事な何かだったのか。
(こいつを倒して、私はあの子を守らなければ)
 視界に赤が滲む。持ち上げようとした大剣が、ひどく重い。
(もう二度と――失いたくないんだ!!)
 ふらつく足を支えるために、もう一度沸き立たせた激情。普段はクラリスの武器ともなってくれる闇色の光が、ざわりと蠢く。
――――!」
 闇色の光が、クラリスの想像を超えて噴き上がる。それはソルベだけではなく、クラリスをも飲み込もうと、制御を失った力の塊として押し寄せていく。
 咄嗟に押さえ込もうとしても、力はまるで制御できない。身の内から吹き上がったエネルギーの塊が、体のあちこちを食い破っていく。
……うぐっ」
 喉の奥から液体が急に湧き上がり、生理的な衝動として中から込み上げていたものを吐き出していた。
 雪原に点々と落ちる、鮮やかすぎる赤。口中に広がる鉄のような味わい。抑え切れない力が、どうやら本当に体を内側から焼いたらしい。
「クラリスさん!!」
 呼びかけに弾かれるようにして、顔を上げる。光を押し分けるようにして、体を半分以上失ったソルベがクラリスへと腕を振り下ろしていた。
 鞭のようにしなる妖異の腕が、自分の頭を潰すのを覚悟したとき、
「させません!!」
 彼女の目は、降り注ぐ星の光を見た。
 
 ***
 
 今にもふらついて倒れそうなクラリスを覆うように、小さな星明かりのベールが女剣士の体を包む。ソルベの腕はクラリスめがけて振り下ろされたものの、光のベールは柔らかく、それでいて強固にクラリスを守りきってみせた。
 雪原に鮮やかに咲いた赤い花のような血痕に、オデットは眉を顰める。クラリスに負傷の様子はない。つまり、これは外傷ではなく、クラリスの内側が負傷しているということだ。
「オデッ、ト。……何を、しにきた。下がれ」
「下がりません。それに、そんなに心配しなくても大丈夫です。クラリスさんが、こんなにも弱らせてくれたんですから、わたし一人でも倒せますよ」
「だめだ。お前を危険な目に遭わせるわけにはいかない。私は、もう二度とお前を――
 その後に聞こえた名前は、オデットのものでもなければ、テオのものでもなかった。
 だが、それで分かった。
 なぜ、彼女がただの恩人の子供にあそこまで守ろうとしたのか。オデットのお節介を受け入れて、彼女まで守る対象に含んでくれたのか。
(きっと、クラリスさんは……大切な誰かを、守れなかったんですね)
 だから、二度目を目にしないために、彼女は戦い続ける。
 自身がぼろぼろになりながらも、たった一つを守るために立ちあがろうとする人の姿は、オデットにも一人の剣士の姿を思わせた。
「わたし、ずっと守ってもらわなければいけないほど、弱くはないんですよ」
 それとなくクラリスを庇える位置に立ち、オデットは目の前の妖異と対峙する。
 体の半分以上を失ってもなお、妖異はエーテルを求めて彷徨い続けている。以前、ノエの中に眠る妖異が衝動的に求めたほど、オデットは妖異にとって魅力的な捕食対象に見えるらしい。目の色を変えてオデットを見つめるソルベに、
「わたしはこっちです、ほら!」
 自分の身体能力を向上させる魔法を施し、俊敏に動きながら妖異の視線を自身へと惹きつける。ソルベの体がクラリスではなく、オデットへと向けられたのを確認してから、オデットは走り出した。
 崩れかけの体を引きずりながらも、体が小さくなったおかげか、ソルベの移動能力もまた向上している。
「これで、倒れてくれたらいいのですけれど……!」
 迫ってきたソルベに、オデットは重力を捻じ曲げる魔法を放つ。
 しかし、元が液体であるからか、一瞬体を凹ませたものの、魔法の影響範囲から出た瞬間、元の姿を取り戻して追跡を再開した。
 ならば、次は星の力を借りて小爆発を起こす魔法を発動させ、妖異の体を削るべきか。星の光を熱とした魔法で、妖異の体を蒸発させるべきか。
 いくつかの札を頭の中で用意し、そのどれを切るか迷い――しかし、オデットは全ての札を不要と判断した。
 足を止め、天球儀をくるりと一回転。自分の体にありったけの魔法障壁を纏わせる。そして、彼女は叫ぶ。
「いつでも大丈夫です!」
 刹那、オデットの視界が真っ白に塗りつぶされる。
 その正体は、妖異を焼く白い光だ。ソルベの直上から突き刺さったそれは、熱から生じたものではない。この光の正体は、妖異や不浄のものに対して強い効果を持つ聖魔法――ホーリーだ。そして、この場でこの魔法を操れる魔道士は一人しかいない。
「ルーシャンさん。ありがとうございます」
「お嬢ちゃん、俺をひやひやさせて殺す算段でもしているのか? 年寄りの心臓はもっと労わってほしいな」
 ソルベが完全に消え去ったのを確かめてから、オデットは自分へと近づいてくるルーシャンへと頭を下げた。
「ルーシャンさんなら、わたしを見捨てるようなことはしないって分かっていましたから」
「そりゃ、お嬢ちゃんが死んだ時点で、俺の生きる意味も終わるようなものだからな」
 そうは言うものの、たとえオデットが魔法の鍵ではなかったとしても、ルーシャンは同じことをしただろう。そう思ったものの、オデットは敢えて沈黙を守ることにした。
……生きる意味が終わる、なんて。ルーシャンさんのいつもの言い回しにしては、なんだか悲しい言葉ですね)
 不穏な単語も気がかりだったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
 オデットはかぶりを振り、「それよりクラリスさんが!」とルーシャンの上着を引っ張る。
「血を吐いて、倒れてしまったみたいなんです。急いで助けないと!」
「言わんこっちゃない。自分の体内エーテルじゃなくて、内側から湧き出す得体の知れない力を使うなんて、どちらにせよ、外から大量のエーテルを自分に流し込むようなもんだ」
 人間にとって、体の内側に巡るエーテルは、己の限界を示す指標にもなる。それ以外の力を用いるのは、限界を知らないまま己を削り続けるようなものだ。
「そんなことをしたら、効果は発動したとしても、知らぬうちにとんでもない代償を支払うことになりかねない。たとえば、命とかな」
「そんな……!」
 だが、ここで彼女を見捨てるつもりはない。慌てて駆け出したオデットだったが、
……あれ、でも、それって)
 先のルーシャンの発言が妙に引っかかった。
 ――外から大量のエーテルを自分に流し込むようなもんだ。
 ――知らぬうちにとんでもない代償を支払うことになりかねない。
 ――たとえば、命とかな。
 最近、外から大量のエーテルを引き込んで、魔法を発動させるという話をしたところではなかったか。
 その魔法は邪竜を倒すためのもので、大地のエーテルを燃料として消費するほどに大規模なものという話だった。
 そして、それを操る鍵になるのは。
……知らぬうちにとんでもない代償を支払うことに)
 だとしたら、あの邪竜を滅ぼす魔法の代償は、大地だけではないのかもしれない。
 無論、大地に比べればずっと小さな犠牲ではあるのだろうけれど。
「オデットさん、クラリスが!!」
 テオの呼びかけに我に返り、オデットはクラリスの元へと駆け寄る。青白い顔の彼女に、癒しの魔法を施し、今は救命を第一に考えるべきと己に言い聞かせる。
 それでも、オデットの中に芽生えた疑問の念は消えてくれなかった。
 
 ***
 
「一旦落ち着いたみたいですが、これ以上無理はさせてはいけませんよ。テオさんからも、きつく言ってくださいね」
「わかりました。ありがとうございます、オデットさん」
 深々と頭を下げるテオの目は、泣き腫らしたせいで元々の赤がさらに濃くなったように見える。
 巨大ソルベの不意打ちを退けた後、応急手当てを済ませたオデットたちは、すぐに妖異の住処を抜け出し、目的地である平原に辿り着いた。巨大ソルベが襲ってきたのが、山を抜け出る直前だったのも功を奏した。
 そうして山から出た直後に、かつてこの地域に住んでいた羊飼いが使っていたと思しき小屋を見つけた一同は、ありがたくそこを休息所として利用することにした。
 倒れたクラリスを寝かせ、彼女の容体が急を要するものではないと確かめたあと、ようやく一息ついたのである。
「クラリスの戦い方は、彼女にとって危険なものなのでしょうか」
「わたしには詳しいことは分かりませんが、彼女にとって決して良いものではないのだと思います」
 クラリスが血を吐いたときこそ驚いたものの、今の彼女はただ眠っているだけのように見える。すぐに倒れたことで、暗黒騎士の力が維持できず、結果的に体へ負荷がかかりすぎずに済んだのだろう。
「クラリスさんが起きても、なるべくあの力は使わないように伝えてください。わたしたちは、この先一緒に行くことができないのですから、尚のこと慎重になるべきです」
……はい」
 別れの話題を口にするのは辛かったが、かといって彼らを目的地まで送っていくわけにもいかない。いくらルーシャンであっても、そこまで勝手な行動は許してくれないだろう。
……オデット。お前たちは、もう行くのか」
 掠れた声は、寝台に眠っているクラリスからだった。薄く開いた瞼から覗く青の瞳が、オデットをじっと見つめている。
「よかった。目が覚めたのですね」
「ああ。……まだ、少し頭が痛むが、それ以外に痛みもない」
 まずは治癒を担当していたオデットを安心させようと、クラリスは手早く状況を報告する。
「オデットさんには、できればもっと一緒にいてほしいのですが」
「無理を言うな、テオ。彼女たちも急ぐ旅をしている身だ。そうだろう?」
 問いかけに、オデットは頷くしかなかった。
「クラリスさんが落ち着いてから、と思っているのですが。ルーシャンさんが何と言うか」
「あの男にとっては、深い意味のある旅のようだからな。無理にここに残れとは言えまい」
 身を起こそうとしたクラリスを、オデットとテオは慌てて寝台に戻そうとした。だが、彼女は子供たちの手をやんわりと押し除けて、上体を起こす。
「そこまで過保護になる必要はない。怪我をしたわけじゃないんだ」
「でも、クラリスさんの体には、相当の負荷がかかったはずです」
「そうなのだろうな。お前の言うように、この後は、極力あの力は使わないようにする。お前たちがいなくなったら、私以外にこの子を護る者はいないのだから」
 不満げにテオが小さく頬を膨らませたのを、オデットは見逃さなかった。クラリスと共に戦いたいと願う彼にとって、小さな子供扱いされるのは不服なのだろう。
「私はもう少しこの場所で休んでから、ここを発つ。だから、先に行っておこう。あの時、お前たちに助けられて私は本当に運がよかった。お前たちの旅に、戦女神の加護があらんことを」
 小さく頭を下げるクラリス。彼女に続くように、テオもぺこりと頭を下げる。
 慌てて頭を下げ返したオデットに、クラリスはふっと相好を崩して、
「ルーシャンにも、世話になったと伝えておいてくれるか」
「はい。もちろんです」
「それに、あまり肩肘を張るな、とも」
 やや唐突な伝言に首を捻りつつも、オデットはもう一度頷く。それを最後に、クラリスは再び寝台へと身を横たえる。
 クラリスの面倒をみるのはテオに任せて、オデットは周囲の見張りに向かったルーシャンを探しに、外へと出た。
……ルーシャンさん。わたし、あなたに聞かなくてはならないことができてしまいました」
 迷う心を定めるように、オデットは小さくそう呟いた。
 
 ルーシャンは、小屋から幾許も離れていない場所であっさりと見つけられた。獣よけの錬金薬を木々に擦り付けているからか、嗅ぎ慣れた刺激的な臭いがオデットの鼻に届く。
……ルーシャンさん」
「お嬢ちゃん、わざわざ探しにきてくれたのか。それで、クラリスの調子はどうだ?」
「怪我をしたわけではないので、動くのに支障はないと言っていました。ですが、念のため、もう一度休んでもらっています」
「そうだろうな。エーテルの消費しすぎならいざ知らず、制御を誤った結果の反動だけなら、そう時間を置かずに動けるようになるだろう」
 体内を巡るエーテルとは、命の源でもあり、血と同様に己の生命維持にも直結している。
 魔道士がエーテルを消費しすぎると体力まで著しく消耗するのは、エーテルと自らの命が深く結びついているからだ。
 だが、クラリスの場合、エーテル自体を大きく損耗したわけではない。
 彼女の場合は、桶の中に許容量以上の水を入れたせいで、一時的に動けなくなってしまったようなものだ。桶そのものが壊れたわけではないのだから、適切な量が入るように調整すれば、回復も容易いということである。
 ひとまず、クラリスの体調について、ルーシャンからの保障も得られて、オデットはホッとする。
 ならば、胸に秘めた質問を口にせねばと、オデットは一歩前に出る。
「ルーシャンさん。前に、わたしに魔法を教えてくれたとき、クリスタルのエーテルを自分の中に取り込むのは危険だって話をしてくれましたね」
「そんなこともあったな。クリスタルのエーテルは、属性に偏りがある。そうでなくても、外部からエーテルを取り込むっていうのは、自分の制御を超えるエーテルを扱おうってことになる。さっきのクラリスを見れば、制御できる以上のモノを取り込めば、どうなるか分かるだろ?」
「はい。それは、とてもよく分かりました」
 通常、魔道士が魔法を行使するとき、使用するのは体内のエーテルだけだ。
 かつては、空気中のエーテルすら自在に操る魔法もあったそうだが、それとて、外部のエーテルを燃料にするだけであり、己の内に取り込むような真似はしていなかっただろう。
 だからこそ、オデットはこの疑問をルーシャンへ問わねばならない。
「ルーシャンさん。お父さんの作った魔法は、大地のエーテルを燃料にすると言っていました」
「今更、目的地の復習か? 確かに、俺はそう言ったな」
 振り返ったルーシャンの紺藍の瞳は、オデットの質問を予見しているかのように、普段の茶目っ気を完全に消し去っていた。
 オデットも、その場から引くことなく、彼と視線を交わし続ける。
「では、教えてください。大地のエーテルを制御をする人は――魔法を発動する人は、自分の制御できる以上の力に触れたら、どうなってしまうのですか」
 魔法の発動は、用意してくれた魔紋が実行してくれるかもしれない。
 しかし、その魔紋を起動する引き金を引く鍵となる魔道士がどうなるのか、今までルーシャンは一度も語っていない。
「魔紋を通じて、実行者は大地のエーテルに接触することになりますよね。大地のエーテルを制御し、魔紋に流し込むのが一瞬で終わるとは思えません。その間、魔法を起動する人は……わたしは、どうなるのですか」
 返ってきたのは、沈黙だけだった。
 長い沈黙だった。太陽に陰が差し込み、今まで止んでいた雪が、ちらちらと降り始めたころ、
……魔法を発動したやつは、そのまま死ぬ。ほぼ、確実に」
 思い描いていた最悪の予想が、最悪の形で肯定される。
「親父の残した資料を見る限り、魔道士は魔紋へエーテルを送り、その発動が完了するまで制御を続ける必要がある。そのために、自らのエーテルも魔紋に流し込む。言ってしまえば、自分もまた魔法を構成する部品になるってところか」
「それでは、ルーシャンさんはそれを知っていてわたしを……?」
「バレちまったなら、仕方ないな。ああ、そうさ。俺はお嬢ちゃんの命と引き換えに、俺の願いを叶えたいって考えてたんだよ」
 はっと漏れた息と共に、ルーシャンの顔に歪んだ笑みが浮かぶ。だが、それを見ても、オデットは恐怖も怒りも覚えなかった。
……ルーシャンさん。その笑い方、あまり似合っていませんよ」
 稀代の悪役のような振る舞いを見せる彼に、オデットは思ったままの言葉を返す。
 虚をつかれたような表情を経て、ルーシャンは今度は苦みが混じった笑みを口に引いた。
(やっぱり、そっちの方がなんだかルーシャンさんらしいです)
 どこか申し訳ないと感じつつも、それでいて引くこともできず、せめてそれなら悪人であろうとする。
 頑なであるのに、中途半端に甘さが残る。だが、オデットはルーシャンのその中途半端さを嫌いにはなれなかった。
「邪竜ニーズヘッグを滅ぼす代わりに、わたしは死ぬんですね」
 理屈を全て飛ばして、唯一残った答え。
 口にすると、あまりに簡単すぎて、子供向けのおとぎ話を聞いているかのようだった。
「そういうことになるな」
「わたしが死ぬ代わりに、たくさんの人が助かるんですね」
「竜がいなくなれば、間違いなく」
 ならば、ここで迷わずに頷けるのが、英雄と呼ばれる人なのだろう。
 私が死んで多くの人が助かるなら、死ぬのは怖くないと言えてしまえる。
 それが、英雄だ。
(兄さんなら、迷わなかったのでしょうか)
 そうなのではないか、と思う。
 出会った時から、ノエは困っている誰かのために命を投げ出せる人だった。自分一人の命と、この国全員の嘆き。数で比較するなら、比べるまでもない。
(わたしが邪竜ニーズヘッグを倒したら、兄さんがイシュガルドで暮らすようになっても、今までよりずっと平穏に過ごせるはずです)
 竜がいなくなれば、ノエの命の危険はぐんと減るはずだ。
 イシュガルドに蔓延る多くの問題も、竜という脅威が減れば、今までよりずっと解決しやすくなるかもしれない。
 そして再び、ノエは困っている誰かを助けるだろう。それはひょっとしたら、オデットと同い年ぐらいの少女かもしれない。彼女もまた、ノエを助けようとして、オデットのように隣にいたいと願って、ノエもそれを受け入れて。
 そこまで考えて、オデットは自分の中にぐるぐると渦巻く苦い感情に気づいた。
「わたしのいない世界で、兄さんに幸せになってって……今のわたしは、言えません」
 気づけば、声が漏れていた。
「ゲルダは、わたしにそう言ってくれたのに」
 オデットを窮地から逃し、その命を守るため、ゲルダは迷わなかった。ただ友人の幸せを願い、この先に続く未来をオデットに託して消えていった。
……わたしは、ゲルダみたいに強くなれない」
「だったら、今すぐ俺の元から逃げるか」
 ルーシャンの問いかけは、オデットを連れ去ったときと同じぐらい、冷たく固いものだった。
「もしそうするなら、俺はお前を眠らせてでも、手足を切り落としてでも、あの場所に連れて行く」
 先ほどまで見せていた迷いを、今のルーシャンは完全に隠してしまっていた。敢えて封殺することで、自らが定めた道に戻らねばと、彼も覚悟を決めたのだろう。
「それで、オデットはどうするんだ」
……分かりません」
 答えなど、今すぐここで出せるわけがない。
 できることなら、このままテオやクラリスの元に向かって、いっときでもイシュガルドの命運を賭けた話から逃れたかった。
 だが、時間は待ってくれない。オデットに全てが露見した今、ルーシャンは今まで以上に頑なに自らの願いに向かって邁進するだろう。
「俺はお前を連れて、もうしばらくしたらここを発つ。随分と時間を食っちまったからな。オデット、お前は俺の目に届くところにいろ。離れるようだったら、本当に眠らせるからな」
 返事をする余裕もなく、オデットはただ首を縦に振った。
 一旦は、それでよしとしたのだろう。ルーシャンに手振りで示され、オデットは彼の後をついて、小屋に戻る道を歩き始める。歩くために足を動かすという行動は、結果的に先ほどからオデットの中で渦巻いていた不安を誤魔化してくれた。
 少しばかりの余裕を得たオデットは、しばらくの間ルーシャンの背中を無為に見つめ続けていた。
 今までの旅路で、オデットはこれまで目にすることのなかったルーシャンの姿を何度も目にしてきた。
 父に選ばれなかった悲しみ。オデットに向けた、憎悪というにはあまりに淡く、しかし嫉妬にどこか似た感情の数々。
(ルーシャンさんは、わたしが死んでも構わないと思っているのでしょうか……?)
 そんなわけはないだろう、とどこかで己が否定する。彼はきっと、オデットを死なせた結果、またたくさんの感情を飲み込んだ上で、何事もなかったような顔をしてみせるに違いない。
 そこまで考えた瞬間、これまで積み上げてきたたくさんの情報が、ある形を伴って、オデットの中で組み上がる。
 気づけば、オデットは目の前の男へ呼びかけていた。
「ルーシャンさん」
 降り始めた雪の向こう、先に火属性の魔法で雪を溶かしつつ歩いていたルーシャンが、足を止める。
「魔法を発動させる人は、魔法につながる道を開く鍵でもあるのですよね」
「そうだな。今更そんなところまで復習するつもりか?」
「いえ、そういうわけではありません。鍵となる人は。魔法を発動させる人でもあって、魔法を発動させたらその人は死んでしまう。そうですよね」
「ほぼ確実にな。自分の体内エーテルを魔紋に全部溶け込ませるようなもんだ。どれだけ生来のエーテル量が多い人間でも、体ごと消滅するだろう」
「だから、ではありませんか」
 いきなり話の筋が乱れたからだろう、ルーシャンが振り返る。怪訝そうな顔でオデットを見つめ、
「何が言いたい?」
「だから、ルーシャンさんは鍵ではなかったのではありませんか」
……どういうことだ」
 ルーシャンにとって、父親に選ばれなかったことは、大きな心の傷だ。そこに土足で踏み入るような真似はしたくなかったが、気づいてしまった以上、言わねばならないとオデットは決めていた。
 もし、自分が死んでしまった場合、ルーシャン一人ではこの答えには行き着けないだろう。彼は、自分と父親の関係に、それほどまでに深い溝を作り出してしまっている。
「親父が俺を選ばなかった理由が、それと何の関係がある」
「分かりませんか。ルーシャンさんは、ずっとお父さん――エヴラール卿と一緒にいたのでしょう。魔法の研究が大好きなエヴラール卿は、ルーシャンさんと一緒に寝食も忘れるぐらい、楽しい時間を共有していたのでしょう」
 これはきっとすごく単純なことだ。オデットがノエを好きだと思っているのと同じくらい、とても簡単で当たり前で、だからこそ気づけなかったこと。
 
「お父さんは、ルーシャンさんに死んでほしくなかったから、あなたを鍵に選ばなかったのではありませんか」
 
 だったら、最初からそんな魔法を完成させなければいい。
 そのように言うこともできただろう。
 だが、エヴラール卿にとっては、先祖代々から託された願いは、己が何としてでも成し遂げたいと決めたことでもあったはずだ。
 完成に近づくにつれ、彼は何度苦悩しただろうか。
 一つ目の苦悩は、大地とそこで暮らす人を破壊しなければならないという矛盾だ。
 イシュガルドを守るために作り上げたもののはずが、一部のであるとはいえ、本来守るべきである人を傷つけるという拗れた状況に、彼は苦しんだはずだ。
 よしんば、その矛盾を飲み込んだとしても、今度は二つ目の苦悩が立ちはだかる。
 それは、もっと私的なものだった。
 魔法の制御には、相応にエーテルを操るのに長けた優れた魔道士が必要となるのだろう。
 できれば、エヴラール家の魔法に精通する者が望ましい。そして、最も適した者が、自分の助手であり養子としてそこにいる。それこそが、二つ目の葛藤だったはずだ。
(どちらの問題も、お父さんがただ決断すれば、解決することです。土地が枯れてもいい。大事な人を失ってもいい。ただ決意するだけで、解決できてしまうほどに簡単なこと)
 だが、彼はできなかった。
 だから、彼は自分との縁が辿りにくい愛人を鍵に使い、誰も開かぬように封じたのではないだろうか。あるいは、オディール自身が、彼の葛藤を分かち合い、エヴラール卿が悩むための時間を稼ぐために、鍵を一時的に預かったのではないか。
……オデット。お前に親父の何がわかる」
「だったら、ルーシャンさんは自分のお父さんの全てを知っているのですか」
 ルーシャンの顔が歪む。怒りとも、悲しみとも言えない、数多の感情が折り重なった歪みは、彼が積み重ねてきた失意の期間を象徴しているようだった。
……っ。そんなもの、結果を見れば一目瞭然だ。俺は、あの人の後継者に選ばれなかった。それが全てだ」
 話は終わりと、ルーシャンは背を向けて歩き始める。
 だが、その頑なな態度を見て、オデットは確信する。
(お父さんは、だからこそ、ルーシャンさんを選ばなかったのでしょう)
 父親を今でも強く慕い、固執するルーシャンのことだ。もし、父親が存命中に「私の魔法のために死んでくれ」と頼めば、喜んで引き受けただろう。
 そうさせたくなかったからこそ、彼はルーシャンを魔法から極力遠ざけた。笑顔で自分のために死んでいく息子の姿など、彼は見たくなかったのだ。
……なんだか、そういうところ、わたしとお父さんは似ているのかもしれません)
 オデットもまた、誰かのために身を挺するノエの姿を見たくないと、彼の隣に立つことを願った。大好きな人を失いたくないと、本人が望まないと思うことを敢えてするのは、血筋なのかもしれない。
――ルーシャンさん」
「なんだ」
「わたしはまだ、あなたについていきます。……命を捨てる覚悟をしたわけではありませんし、魔法のために大地を傷つける覚悟もできていませんけれど」
「随分と中途半端な考えなんだな」
「いきなり言われてすぐに決断する方が、よほど中途半端でいい加減に思えませんか」
 オデットの屁理屈めいた返答も、ルーシャンにはひとまず納得できるものだったらしい。無言は、続きを促すものだった。
「その場所にたどり着いたとき、わたしは自分で答えを見つけます。その結果、わたしはルーシャンさんの願いを叶えないと言うかもしれません」
「その時は、俺と一戦交える覚悟があるんだろうな」
……自分の命のことですから。負けません」
「上等だ」
 あまりにあやふやな回答ではあったが、ルーシャンはひとまずオデットの意思を尊重してくれるらしい。そこもまた彼の不器用な優しさではないかと思ったが、オデットは黙っておくことにした。
「知らぬ間に、随分と強かな嬢ちゃんになったものだな。ノエが見たらひっくり返るんじゃないか?」
「兄さんには、もう何度も驚いてもらっていますから。この程度じゃ驚きませんよ」
 だが、もしオデットが命を投げ捨ててまで邪竜を滅ぼすと決めたら、ノエは何と言うのだろうか。
 悲しんではくれるだろう。怒られてしまうかもしれない。
 だが、最後に彼が何と言うかは、オデットには想像できない。
(ねえ、ゲルダ。わたしの幸せは、どこにあるのでしょう)
 幸せになってと願った友に、自分は胸を張って幸せだと言える答え。
 それは、まだ見つからなかった。