桜霞
2025-07-27 19:06:11
8379文字
Public 【RKRN】夢
 

【RKRN】虎視眈々と【OST夢】

魄さん(@paku_102)の企画「#黄昏時に咲く夢花火」に参加させて頂きます。
※押都さん夢
※現パロです
※モブがたくさん出る
花火大会行きたいな~! 人混み無理だな~! 爆泣! の気持ちで書きました。よろしゃす!





 うだるような猛暑を耐え抜くと、今度は凍えるような冷房に耐えなければならないとあって、職場の朝はいつも気怠げだ。
 しかし、始業開始と同時に課長の放った一言で、職場はパッと目を醒ました。
「そう言えば、言うのを忘れるところだった。こんどの花火大会、会社で取っているビアガーデンがあるから、申し込みする方は今週末までに連絡してください」
 必要事項はどこそこのお知らせに掲載されているから云々といった課長の言葉が、社員たちの頭の上を滑って行く。何人かの同僚が色めきだった表情で目配せしているのを見て、なんだかんだ目覚ましに必要なのは気の持ちようなのかもしれない、と彼女はこっそり嘆息した。





 ◆





 彼女にとって、花火大会にあまりいい思い出はない。
 花火は勿論綺麗だ。最近は人気キャラクターを模したものも出てくるし、大輪の冠菊は胸を空くような感動を連れてきてくれる。
 とは言え、それを見にごった返す人、人、人。文字通り踏んだり蹴ったりを覚悟しても余りある人混みに、花火の感動はノンストップで薄れていくばかり。
 一方、やはり花火大会は世間一般的には大事なイベントらしく、いつも集まってランチを取っている同僚の女子たちは「ねえこれ見た?」と早速自分の仕入れたSNS情報を共有した。
「わー! この浴衣かわいい~~~!」
「この夏限定コラボ? え~~~迷う~~~」
「でも浴衣って、着方分からなくない?」
「私ワンピースになるセパレートタイプにしてる」
「え、いいなーそれ! 私もそれにしようかな」
「ねえ、髪型アレンジどうする?」
「無難にお団子かな~。うちの彼氏、うなじが見えてりゃなんでもいいらしいし」
「私もうなじ出したいけど、セットするの苦手だよう」
「いつも彼氏にやってもらってんでしょ」
 女子たちの視線が、なんとなく皆を順繰りに巡って、自分の方に回ってくる。
「私は、軽く巻いて、横に結ぶ感じかな。そういうのが好きらしいから」
「え~いいなあ~そういうふうに好み言ってもらえるの~」
「うちも羨ましい~、こっちがいくら頑張っても似合うね~くらいしか言わないの、マジムカつく」
「でもすごいよねえ、彼氏の好みに合わせるの、いちいち大変じゃない? メイクも変えたし、髪も伸ばしたでしょ?」
「まあ……、」
 曖昧に肩を竦める彼女。茶化すように、「気持ちだよ、気持ち」と一人が勿体つけて言って、きゃあきゃあと可愛らしく盛り上がる。
「好きな人のタイプになれるの、羨ましいです」
「あんたも最近頑張ってるじゃん!! この間ランチ行ったんでしょ!?」
 はにかみながら言った同僚を、もう一人が勢いよく励ます。この中で唯一まだ彼氏のいない同僚の恋路の行方に、皆が食い入るようにして耳をそばだてた。
「約束して行ったわけじゃなくて……外回りから戻ってくるときに、会議まで間がなかったので、カフェで慌てて、って感じで……
「でも一緒にランチしてることには変わりないじゃん!」
「プライベート的なこと話せた?」
「すこしだけ……
 照れくさそうに言う彼女に、場の雰囲気がきゃあっと盛り上がる。
「え、ねえ、花火大会さ、皆で行かない? そしたらあなたも相手のこと誘いやすいでしょ」
「あ、え、いいんですか」
「賛成賛成!」
「二人きりだとなんだかんだ気を遣うから助かる~」
 彼女が何か口を挟む隙もなく、あっという間に、皆で彼氏なりパートナーなりを連れて、会社が席だけを取ってくれている花火大会に集まることが決まってしまった。
 最早決まってしまった流れに逆らうほどの勇気も気力もなく、同僚に急かされるまま、彼女は自分の彼氏に連絡を取った。彼氏とは普段違う職場で働いているとはいえ、このランチメンバーを介して知り合った仲なので、すぐに了解の返事が来ると思いきや、返ってきたメッセージは「あの花火大会、人混みすごいじゃん」という煮え切らないものだった。
「しかも、あのメンバーで、しかも会社が取ってるビアガーデンとか、ほぼほぼ会社の飲み会じゃん。わざわざ人混みに向かって行く気しないわ。なんで断ってくれなかったわけ?」
「うーん、ごめん。他の皆も相手に確認中だから、まだ断れはするけど」
「お前っていつもそうだよな。俺が言わないと決めきらないというかさ。そんなんで仕事どうしてんの?」
 彼女の指がスマホのキーボードを滑らかに滑り、「お前がいつも私の意見を聞かないからだろうが」と入力される。いやあこれはいけない、と彼女はすぐに打ち込んだ文字を消した。何と言ったものかと迷って指をうろうろさせていると、ぽこんと画面にメッセージが増える。
「お前がどうしてもって言うなら行ってもいいけど」
 私だって行きたくないのにどうしてもとは言いたくねえなあ、と彼女の指の動きが鈍くなる。
「あと、浴衣とか着てきてくれる?」
「いいよ」
 即座に送ったメッセージに、「OK」とスタンプが返ってくる。彼女は急浮上した心持のまま、二名で参加する旨を、参加を取りまとめる係になった同僚に連絡した。





 ◆





 着物は好きだ。
 格と柄と季節の組み合わせがある程度決まっているから、TPOによって着ていけばいいものが決まっている。昨今のファッションセンスに疎い自覚のある彼女にとって、着物程、気楽に選べるファッションも無かった。
 着物を着る方が珍しくなった現代においては、大抵の人が「素敵ですね」と一言添えて褒めてくれることも多い。彼女は浮足立って、プライベートでは着物を選ぶことが多かった。彼氏とのデート以外では。
 彼氏には、付き合い出す前、何度目かの食事の時、悪気無く「なんか、田舎のばあちゃんちみたいな匂いがするね」と言われてしまったことがあら。以来、彼女はデートの度に、ああでもないこうでもないと現代ファッションに頭を悩ませ、仕事に行くときのような気分になりながらメイクをし、香水を少し多めに振りまいて、待ち合わせの時間まで、樟脳の匂いを打ち消せているか分からない不安に苛まれていた。
 こんなに不安になって、彼氏とのデートが若干ストレスになるくらいだったら、着物を選びたい。でも、ババ臭いって思われたくはない。
 おばあちゃんみたい、若いんだから今風のを着なさいよ、なんて、嫌と言うほど家族に、主に母に言われ、古臭いとこき下ろされてきた。
 それでも。
「この柄はもう、絵擦りと言って、着物を作るときに使う版画のようなものが壊れてしまっているから、再生産ができないものになる」
 ショーウィンドウに飾ってある打掛の、余りの細やかで華やかな衣装に見惚れて、ふらりと入った店で出会った押都は、彼女の着物を静かに褒めてくれた。
 客に対して横柄でもへりくだるでもない、昔ながらの職人気質な態度に彼女が戸惑っていたのは、ほんの一言、二言ぶんだけだった。
「色艶も霞んでいない。糸のほつれもない。反物そのものもへたっていない。着物は三代とも言うが、こうして大切に継がれているのを拝見すると、冥利に尽きる」
 ただ、お嬢さんは、帯や小物で遊ぶといい、と言って、帯揚げや帯紐、洒落た羽織をそっと肩に当ててくれて。ほんの少し前髪の隙間から垣間見える瞳の色が優しいのに気が付いて。帯の裏地を使った洒落た結び方なんかも教えてもらって。翌月のクレジットカードの支払いなんて気にせずに、買い物をするようになってしまった。
 押都が勧めてくれる着物は、いつも外れがない。恐ろしいくらい。彼女のカタチに沿ったものを、ぴたりと、さりげなく選んでくれる。
 今度、友人たちと花火大会に行くんです、と伝えただけで、押都は少々お待ちをと言った後、迷いなくひとつを選んで彼女を鏡の前に立たせた。夏用のワンピースの上から半襦袢を着せられながら、彼女は半ば諦念を抱えた。今回選んでくれた浴衣も、きっとすごく似合うに違いない。
 彼女の予想通り、押都が彼女に着せた紺地の浴衣は、彼女の肌をひどく鮮やかに引き立てた。足元に描かれた流水に、白い金魚が揺蕩っている。黒流水の帯は全体の雰囲気をシックにまとめ上げ、ワンポイントの赤い帯紐が若々しい華やかさを演出している。
「気に入ったか」
 彼女は思わず頬を緩めて小さく唇を噛んだ。したり顔の押都に爽やかな悔しい気持ちが湧き起こるが、同時に彼女の心は、既にクレジットカードの決済を済ませていた。
「でも、カッコよすぎないかな」
「それで何か困ることでも?」
 今度こそ言葉を失う彼女。押都の口の良さは下手なホストより効果がある。彼女は黙って財布を取り出した。
「浮かない顔だな。何か不安なことでもあるのか?」
 会計担当の店員に清算を任せ、たとう紙に浴衣を包んでくれる押都に、彼女は少しだけ困った顔をした。
「この浴衣、今度彼氏たちと花火大会に行くときに着て行こうかなと思ってるんですけど」
「ほう、彼氏」
「花火デートとかで検索すると、可愛い柄がたくさん出てきて。そっちの方がいいのかなぁ、って」
……こうして悩んでいるおまえのことを、可愛いと言うんじゃないか」
 三度押し黙る彼女に、押都は簪をひとつ、さっと袋に詰めた。
「押都さん、」
 そ、と押都が口元に人差し指を立てる。
「お守りのようなものだ。人混みには気を付けて」
 否やの返事は受け付けない、と言わんばかりの静かな圧に、彼女は「ありがとうございます」と品物を受け取った。





 ◆





 メイクは艶感を意識して、瞼には控えめにハイライトを。彼氏とのデートの時にしか使わないコテを、火傷しないように細心の注意を払って、たくさん汗をかいて。それでも、押都が添えてくれた簪を挿せば、気分は上向いた。
 浴衣を着れる楽しさと、彼氏たちがどんな反応をするか分からない憂鬱さと。相反する心に揺れ動きながら、彼女は赤い鼻緒の下駄をつっかけて外に出た。
 むわりとした熱気に、半襦袢や浴衣の裏地に仕込んだ冷感スプレーが際立つ。蝉の声に掻き消されるようなひとのざわめきに辟易しながら、当たり前のように空席の無い地下鉄に乗り込む。普段は静かな列車の中も、今日ばかりは花火大会の客がほとんどを占めるのか、どこか浮足立って、ひとりでいる自分が少しずつ影の中へ追い込まれていくようだった。
 目的の駅に着くや否や、彼女は吐き出されるようにして列車を降りた。視界にはちらちらと浴衣姿が目立つようになって、そのどれもが淡い色合いのどこか儚げなそれであることに、意識して深い呼吸を繰り返す。早くも浴衣の歩きにくさ、下駄の不親切さに文句を言う会話などを聞き流しながら、待ち合わせ場所の出口へ向かうと、分かりやすく団子状態になっている集団がいて、彼女は小走りで彼らに駆け寄った。
「ごめんなさい、お待たせしました」
 瞬間、誰もが口を閉ざした。
……あぁ! お疲れー」
 わざとらしくスマホから顔を上げた一人が、朗らかな声音でにっこりと微笑む。
 誰もが意味ありげに視線を交わし、口元だけで笑って顔を背け、遂に一人が口を開いた。
「え、てか、すごいね、それ。えっと、金魚?」
「そう、金魚。夏っぽいでしょ」
 彼女がにっこり微笑むと、声を上げた本人は曖昧に笑ってごまかした。先程まで談笑していただろう空気がまんじりともせず押し黙り、目配せと小さな所作で無言の会話が繰り広げられている。彼女は、意識して喉に力を込めた。
「もしかして、私が最後だった? 本当にごめんなさい、遅れてしまって」
「え、いや全然! 時間にはまだ余裕あるし」
「そっか、あの子たちは遅れてくることになったから、先に行ってほしいって連絡来てたんじゃなかった?」
「じゃあこれで全員か。ビアガーデンもう開いてるだろうし、人増えるし、そろそろ行こっか!」
 皆が出口に繋がる階段に向かって歩き出す。さりげなく肩や足先を入れられて、彼女は最後尾に位置することになった。そこへ、通路と人に押し出されるようにして、彼氏が隣に並ぶ。
 彼女が隣を見上げても、彼は何も言わなかった。視線に気が付いた筈なのに、地上に出て、人混みか何かに気を取られたかのように顔ごと背けられる。
 押し寄せるような人波に、彼女は笑顔を保つのも疲れてしまって、ひとつ嘆息した。前の方で会話はされているのかいないのか、聞き取ることすらできない。自分のせいで妙な差し水をしてしまったことは確かで、彼女は面倒な罪悪感に顔を顰めそうになりながら、できるだけ何も気にしていないような柔い声音で、「ね、」と前を歩いている同僚の浴衣の裾を摘まんだ。
「、え、なに?」
 あからさまに顔を強張らせる同僚に、彼女は気遣わしげな顔をして見せた。
「足、大丈夫かなと思って。さっき、階段上がるときに、指のところがちょっと赤くなってるのが見えたから」
「あ、そうなの。でもまだ平気かな」
「良かったら、はい。下駄、歩きにくいよね」
 藤の籠から、絆創膏を取り出して差し出す。受け取った同僚から強張った雰囲気がぱっと霧散して、気の抜けた明るい表情になった。
「えー!? いいの!? しかもこれ高いやつじゃん!!」
 同僚の言う通り、彼女が差し出したのは薄いシールの中央にガーゼのついたものではなく、傷ついた部分を柔らかく包むパッドだった。
 本当にいいのと遠慮する同僚に、気にしないでと彼女は軽く手を振った。
「膨らむところがクッションになって、楽になるから。無理しないでね。着いたらすぐ貼って」
「ほんとにありがとう~、めちゃくちゃ用意いい~!」
「マジじゃん、お母さんみたい!」
 彼女は、頬の引き攣りそうになるのを、全力で堪えた。
「着物の柄もなんか昔っぽいし、お下がりかなんか?」
「ちょっとやめてよ~」
「えだってマジくね!?」
「ありがと~おばあちゃん!!」
 直後、ドッと皆の笑いが爆発する。彼女はにっこりと笑みを深めた。

 ───何がおもろいねん、これ。

「え、ここで曲がった方がよくない?」
「でもこの道が一通だから……
「あ、オレ分かるよ」
 計ったかのように、彼女が会話から追い出される。無理に首を前に出し続ける姿勢を取るのも億劫で、彼女は再び最後尾に収まった。
「何その浴衣」
 直後、ぽそりと埃のような声音が肩に触れる。
「変だと思わなかったワケ? 金魚が夏とか、意味わかんなくね」
…………
 彼女は反論しようとして、言葉を見付けられなかった。金魚で夏を感じる、風情というものを説明しようとして、しかしこの男がそれを解そうとしないだろうとも思えた。
「ちょっとは空気読めよ。もっと可愛い今風のやつあっただろ。今が令和ってこと、分かってんの?」
…………
「そういうの、求めてないんだけど。なんかハズいじゃん。俺が。俺の立場とか考えてくれないわけ?」
「女に立ててもらわなきゃ立てねえ野郎なんざ、隣に花があったら霞んじまわァナ」
 あ、と思った。
 しかし遅かった。はあ? と、虚を突かれたことへの苛立ちからか、乱暴な気配が漂ってくる。
 彼女は深く息を吸った。本能的な恐怖から竦み上がりそうになる体を呼吸一つで押し宥めて、腹を括る。
 口から出てしまったものは呑み込めない。ここまで来たら、言ってしまう他無いのだ。彼女は立ち止った。彼も渋々立ち止まる。人波が、彼女という岩にぶつかって割れていく。
 ざわめきに掻き消されないように、彼女は、はっきりと言った。
「手前如きに、私は勿体ない。それじゃ、私はこれで」
 ぽかんと呆けた彼を放って、踵を返す。追いかける声音が聞こえた気がしたが、彼女は黙って背後に中指を立てた。
 人を隠すなら人混みである。彼女はすいすいと波の間を縫うようにして進んだ。磁石のように、向こうから来る人も彼女を避けてくれる。
 彼女はすぐに馴染みの美容院に電話した。カットだけどうしてもすぐにお願いしたいと言うと、ちょうど空いてますよと優しい声音が返ってくる。
 こんな日は、どの美容院もセットで忙しいんだろうと思っていたところだったから、彼女は望外の幸運を噛みしめた。電話口で告げた通り、すぐに店に飛び込むと、担当美容師の青年に「あ、こっちですよ~!」と手招かれて、すぐに席に通される。受付の周りには予約待ちだろう女子たちが列どころか団子状態になっていた。
「ごめんなさい、予約もしてないのに」
「いいんですよ~! どうかされましたか? セットします?」
「ううん、ショートにしてください。ここまで。仕上げは、かっこいい感じにしてください」
 スマホの中で心底から楽しそうに弾けんばかりの笑顔を見せている彼女を見て、青年は「了解で~す!」にっこりと笑ってくれた。
 簪が丁寧に外される。ふわりと波打つ髪は、彼の「俺、女子の長い髪、好きなんだよね」という言葉で伸ばしたものだ。その言葉の中に、多分に含まれた「彼氏のためなら伸ばしてくれるよね」という圧に、苦しくなった自分を無視して、青年に「伸ばします」と言ったことを、昨日のことのように思い出す。
 改めて鏡を見ると、ほとほと似合っていない。男が女装する時に被るウィッグの方がまだマシだった。
 瞬間、青年は躊躇なく、ざっくりと彼女の髪に鋏を入れた。おお、と思う暇もなく、顎から下の髪が全て地に落ちる。
「もうちょい短くするね~」
「はい。お願いします」
「刈り上げちゃう?」
「それは無しで」
 青年は再び「了解で~す」とカラカラ笑った。余裕のある空気の中、しかし青年の手腕は澱みない。あっという間にこざっぱりした彼女の髪にささっとワックスをかけて整えて、しめておおよそ三十分。完成ですと鏡をかざされて、彼女はその日初めて、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、タカ丸くん」
「いーえ。お客さんは、そっちの方が似合ってますね!」
 浴衣に落ちた髪をフェイスブラシでそっと落としてもらい、清算に立った彼女に、視線が集まる。
 深まる自信に、彼女は静かに姿勢を正した。あれほど自分を振り回していた、自分が振り回されることを選んでいた秋波の、なんとささやかなことか。
 今日は時間が無いから、また今度の予約の時にお話聞かせてくださいと手を振って見送ってくれた青年に何度も感謝して、彼女は一路、押都の店へ向かった。
 このまま道すがら花火を見ながら帰っても良かった。或いはさっさと電車に飛び乗って、家に帰って楽な恰好でくつろぎながら花火大会の中継を見るのでも良かった。
 でも。
 それだけでは、なんだか、ちょっと。
 後ほんのもう一押し、足りないような気がして。
 押都の店のショーウィンドウには、爽やかな新緑の紗が涼し気に飾られている。ガラス越しに、斜陽がビルの林の向こうに沈もうとしていた。暗がりの落ちるショーウィンドウが、鏡となって彼女を映す。
 濡れ髪を後ろにかき上げて、耳元に小さな赤いピアス、ちらちら。紺の浴衣、黒流水の帯は矢の字。ピアスと揃えた、赤い鼻緒の下駄。同じ色をした唇が、ニヤリといなせに薄く弧を描く。

 ───かっこいーじゃん、私。

 直後、からん、と音がして、彼女は瞬いた。ドアを開けて、半身を外に凭れさせたのは押都だった。
「随分とまた、粋な格好だな、お嬢さん」
 押都の言葉が、何より嬉しい。笑みを深めた彼女は、数年ぶりに、満足というものを味わった。押都が食い入るように頭のてっぺんから爪先までを見つめているのも、気分がいい。これなら、このまま電車に飛び乗って帰ったとしても、そこから夕飯を拵える労働に耐えられそう。そう思った彼女が口を開くより先に、押都が口火を切った。
「浅草から屋形船。酒は『無想』、肴は花火」
「あら、素敵」
「十分で戻る」
 言葉通り、十分で戻ってきた押都は、浴衣を身に纏っていた。目元の髪は後ろにかきあげて髷風に結わっている。初めて見る押都の目元には年相応の小さな皺があって、けれどもどこか悪戯っぽい表情が、彼を若々しくさせていた。
 数珠のぶら下がった腕を組んだ押都が、さりげなく身を寄せてくれる。彼女は遠慮無しに差し出された腕を取った。少しだけあった冷房の名残が霧散する頃には、彼女の胸の裡もからころと浮ついた音を立てていた。


 船の上。肴の花も、粋な女も独り占め。


「ちょっと花火が近過ぎません?」
「そうか?」
「見てないでしょ」
「まあな」

 彼女は笑って、男に身を預けた。