ひるね
2025-07-27 14:00:16
3419文字
Public
 

Cafe Noir et Luneにようこそ – Eric’s Night

げんさんのoc指揮官エリックさんをリー君のカフェにご招待しました。
素敵なバリスタリー君のイラストありがとうございました!!!🥰🥰🥰

「Cafe Noir et Luneにようこそ – Eric’s Night 」

 閉店後の書店は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。最後の照明を落とし扉を閉めると、夜の空気がひんやりと頬を撫でる。エリックが足を踏み出した瞬間、冷たい雨粒が肩を打った。傘を持たずに出てしまったことを小さく悔やみ、足を止める。朝はすっきりとした晴天だったし、遅刻ギリギリで自宅を飛び出した身としては天気予報など見る余裕などまるでなかった。
 街灯の光を受けてアスファルトには無数の水の輪が広がり、夜の街はしとしととした雨音に包まれていた。視線を巡らせると、暗い街の中で一つだけ温かな光が灯っている。
 カフェ「Noir et Lune(黒と月)」。
営業は終わっているはずなのに、店内奥から柔らかな灯りが漏れていた。吸い寄せられるように、エリックの足はその扉へ向かう。

 そっと覗き込むと、薄明かりの中で作業をしている青年の姿が見えた。名前を呼びたい衝動が、思わず声になって零れてしまう。
……リーさん、」
 雨音にかき消されるほど小さな声。それでもガラス越しにリーがふと手を止め、気配を感じ取ったようにゆっくりと顔を上げた。青い瞳が真っ直ぐこちらを捉えた。エリックは驚いて目を見開いた。
 静かに扉が開き、店内の暖かな空気と共にコーヒーの香りが流れ出る。
……生憎と本日の営業は終了しました。ですが――雨が止むまでなら、中で休んでいっても構いませんよ」
 低く落ち着いた声。それは柔らかな余白を含んでいた。エリックは一瞬、言葉を探すように視線を落とした。
……ご迷惑ではありませんか?」
 リーは短く首を振る。
「ずぶ濡れになる前に、どうぞ中へ」
 その静かな声に背を押されるように、エリックは微笑んで頷いた。
「ありがとうございます。……お言葉に甘えさせていただきます」
 丁寧に頭を下げ、濡れた肩を小さくすぼめる。雨粒がぽたりと落ち、銀髪が夜の灯りに淡く光った。


 ☾


「今、新商品の試作をしていたところです。……よければ、味見をしていただけますか」
 リーの声は静かで、どこか優しさがにじんでいた。
「ああ、それは光栄です。是非いただきます」
 エリックは微笑み、促されるまま席に着いた。タオルを手渡され、軽く礼を言う。
 やがて運ばれてきたのは、ハチミツレモンタルトだった。表面にはうっすらと艶があり、レモンの薄切りが一枚、飾るように添えられている。フォークを入れると、しっとりとした生地の間から甘酸っぱい香りがふわりと立ちのぼり、蜂蜜のやさしい甘さがそれを包み込んだ。一口含む。爽やかな酸味とまろやかな甘みがほどけていく。感動から言葉を失い、ただ視線を上げる。リーはわずかに目を細め、静かに見守っていた。
 タルトを食べ終えたエリックは、フォークを置いて小さく息をつく。
「本当に、美味しかったです。酸味と甘みのバランスが絶妙で……試作とは思えません」
 褒め言葉に、リーは僅かに視線を伏せて「参考になります」とだけ答えた。しばし、心地よい沈黙が流れる。その静けさを破ったのは――小さな音だった。

 ぐぅ……

 エリックは目を瞬き、顔を赤らめる。
……失礼、少しお腹が……
 恥ずかしさを隠すように視線を逸らす。リーはわずかに首を傾げ、静かに告げた。
「温かいものもすぐに作れます。クロックムッシュという、ハムとチーズを挟んで焼いたサンドですが、いかがですか」
「お気遣い感謝しますが……夜ですし、あまり食べすぎるのは」
「罪悪感がありますか? では、半分こならどうでしょう。重すぎないように作ります」
 そして、彼はほんの少しだけ口元を緩めた。
「僕も集中していて、夕食を摂り忘れていたので」


 ☾☾


 ほどなくして、温かなクロックムッシュが半分に切られて運ばれてくる。小さなボウルにはグリーンサラダと蜂蜜をかけたヨーグルトまで添えられていた。
「ご希望通りにライトに仕上げました。チーズは少なめ、ベシャメルソースは牛乳多めで軽い口当たりです。サラダとヨーグルトは……栄養が偏らないように」
「ありがとうございます。中々、自分の体を気遣う余裕がなくて……
「そのようですね。――あなたはいつだって、変わらない」
 淡々とした声なのに、どこか懐かしさを含んでいた。エリックは不思議そうに首を傾げた。
「失礼ですが、どこかでお会いしたことがありましたか」
 リーは目をそっと伏せ、短く答えた。
「いえ――
 それ以上は語らず、二人の間に静けさが満ちた。雨音だけが、優しく流れる中、温かな夜食を分け合った。

 食べ終えると、エリックは少し戸惑いながら口を開いた。
「試作品の味見だけのつもりだったのに、こんなに美味しい料理まで出していただいて。代金を――
 その言葉を遮るように、リーが口を開く。
「僕も半分いただいてしまいましたよ?」
 ほんのわずかに、いたずらっぽく微笑む。エリックは視線を伏せて言い淀む。
「ですが」
……でしたら、またコーヒーを飲みにいらしてください」
 さらりと告げる声は、夜の空気に溶けるように胸に残った。エリックは小さく笑い、頷いた。
 テーブルの上に置かれていたカップを手に取り、リーは立ち上がった。その指先は迷いなく、しかし丁寧に動き、磨かれた白い磁器が光を受けてほのかに艶めいていた。エリックはその仕草を、言葉もなくただ見つめていた。
「最後に、温かいラテを。……少し待っていてください」
 彼は棚から小さな瓶を取り出し、蓋を開ける。
「夜ですから、デカフェの豆を使いましょう。ゆっくり休めるように」
 ほのかに柔らかな香りが漂う。リーは挽いた豆を丁寧にセットし、エスプレッソマシンを操作する。濃い液体がゆっくりと落ちる間、温度を微調整しながらスチームノズルでミルクを仕上げた。表面が微かに震えるほどのきめ細やかな泡が完成する。その様子を、エリックは静かに見守っていた。注がれるミルクがカップの中でエスプレッソと混ざり、白と褐色がゆっくりと模様を描いていく。
 ピックを取り、リーは泡に線を引いた。しばらくして、丸い輪郭と長い耳が現れ、可愛らしいうさぎがカップの中に浮かび上がった。
――できました。あなたに似せてみましたが、どうですか?」
 差し出されたラテに、エリックは微笑みを浮かべる。
……ふふ、私はこんなに可愛らしくないですよ。でも、ありがとうございます」
 エリックはカップを両手で包み、そっと香りを吸い込んだ。
「優しい香りですね。飲むのがもったいないくらいです」
 リーは静かに目を細める。
「温かいうちにどうぞ。――冷めてしまえば、せっかくの甘みも逃げますから」
 くすっと笑い、エリックは一口含んだ。
「美味しい。甘さがちょうどいい」
「ミルクの甘みを少し強めに出しました。夜でも優しい口当たりになるように。それに、苦いままではきっとお好きではないでしょうから」
 その言葉にエリックは小さく肩を揺らしてはにかんだ。
……ああ、やはり見抜かれてますね」
 リーはわずかに口元を緩め、静かな声で告げた。
「当然です。あなたの好みはもう把握済みです」


 ☾☾☾



 雨は止み、夜も更けていた。時計を見て、エリックはわずかに肩を落とす。
……名残惜しいですが、そろそろお暇しなければ。これ以上お邪魔しては、あなたにも迷惑でしょうし」
 そう口にしながらも、その声には去りがたい思いがにじんでいた。彼は小さく息をつき、微笑みを添えて続ける。
「本当は、もう少しこちらで過ごしていたいのですが、明日は朝から出版社との新刊フェアの打ち合わせがあって……。今日はご馳走様でした。とても美味しかったです」
 エリックは席を立ってから、ふと振り返った。
「さっきのレモンタルト、いつからお店で提供されますか? ……また、食べに来ます」
 リーは穏やかに目を細めて答えた。
「幸いにも、高い評価をいただけたようですので――すぐにでも。いつでも、お待ちしています」

 店を出ると、夜の空気は雨上がりの香りで満ちていた。エリックは振り返り、灯りの消えたカフェをしばらく見つめてから歩き出す。ガラス越しに青い瞳が、静かにその背中を見送っていた。