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2025-07-27 01:53:09
3496文字
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お題:夏祭り

#ししさめワンドロワンライ 2025/07/26

 

 夜の七時を過ぎてようやく、あたりは夜と呼ぶべき暗さになった。蒸し蒸しとした生暖かい風の中には、雑多な人いきれと、さまざまな食べ物のにおいが渦巻いていた。
 立ち並ぶ屋台を左右に通りすぎ、慣れはじめた浴衣の裾を跳ね上げないように、獅子神はいつもより小さな歩幅でゆっくりと歩いた。素足の裏に、畳表の下駄が触れている。細かな砂埃が入り込んでざらつくのが、少し不快であった。
 ――村雨みてえに、足袋を履いてもよかったな。
 友人たちで赴き、さんざんな結果となったあの夏祭りを思い出す。オモチャのハンマーをガキのように威張って担いでいた細い身体、その足元は白木の下駄に藍色の鼻緒を締めて、薄いグレーの足袋より上には白い脛が、ときおりチラリと覗くのだった。
 獅子神がいま着ている浴衣は、あのときと同じもので――あのあと何度も練習をして、一人でも着付けられるようにしたものだ。村雨を病院まで迎えに行くのに、この格好で車を横づけにして、どうだ、一人で着てやったぜ、と笑ってみせるのもいいと思った。
 ヨーヨー釣りの屋台が目に入り、足を止めてふらりと前に立つ。大の男が一人でやって来たという奇妙さなど、人混みの中では気にもしていられないのか、渡した小銭に――小銭など使うのはひさしぶりだった――ただ無愛想に、はいよ、と釣り針のついたこよりを渡された。
 教わったとおりにひょいと引っかけて、赤と青のヨーヨーを一つずつ、釣り上げる。十代らしき女性の数人づれが、こちらを見てけたたましく笑ったが、そんなことを気にするような気の小ささは、「アイツら」とのつき合いでとうに摩滅していた。
 片手にヨーヨーを小さくはずませながら、坂道を下る。人々は逆に、上を目指して進んでいく。ぶつからないように脇に避けたとき、ぼわぼわと反響する女声のアナウンスが、どこからか降ってきた。
 花火が始まるのだ。
 獅子神は歩みを止めず、ヨーヨーの揺れる感覚を味わいながら、ゆっくりと敷地の外へ向かって歩いた。大音量の音楽が流れ始めて、ひゅうう、と下から上に例の音が上がっていく。
 地面が華やかなピンク色の光を浴びて、すれ違う人々が、わあ、と歓声を上げた。


 事前に見つけておいた穴場だが、車を停めた先には既に、二台ほどの先客があった。先ほどまで獅子神がいた場所のように、着飾った浴衣の男女ではなく、Tシャツに短パンの男や、だらりとしたワンピースの女が、跳ね回る子どもをおざなりに見守りながら空を見上げていた。
 獅子神は車を降り、手に持ったスマートフォンのカメラを起動させて、人々が見上げる方角にレンズを向けた。ひゅうう、どぉん、ぱらぱら……その繰り返しと、ぼわぼわと反響まみれで聞こえてくる音楽、その中でビデオ録画を開始する。
 画面いっぱいに咲き誇る光の花を、三十秒ほど録画し終えて、それから共有機能を立ち上げた。
 目当てのアカウントは、共有候補の最初の方にすぐ出てくる。獅子神はそのアイコンをタップして、メッセージ欄に簡単な一文を打ち込んだ。
『花火きれい』
 シュ、とあっけない音と共に動画が送信される。
 職業上、珍しいことでもないが――二人で花火を見に行くという約束は、当日の午後になってキャンセルされた。それでもこうして夏祭りの正装とでもいうべき浴衣を着込み、いつでも迎えに行けるように車を出して、花火を眺めることができるスポットで待機しているのは、もちろん、もしかしたらまた予定が――という未練がましい期待のせいでもある。
 ただその期待が完全に打ち砕かれていたとしても、自分はこうして浴衣を着込み、祭りの空気を味わって、ヨーヨーを釣って帰っただろう、と獅子神は思った。
 スマートフォンを手に握り、運転席のドアに手を掛ける。だがそのとき、手の中のそれがヴヴ、と前触れなく――基本的に通知に前触れはないが――震えて、獅子神はそれを取り落としそうになった。
 通話の受信通知だ。
 しかも通知画面に表示されている名前は、
……っ!」
 獅子神は緑のボタンを押してから、スマートフォンに向かってあたふたと言った。
「待て、待って今、イヤホン……いや花火の音で聞こえねえんだ、ワリ、」
 向こうで何かを言っている気配があるが、浴衣にあわせて持っていた巾着から、イヤホンケースを取り出して、まずはそれを装着する。
 ノイズキャンセリング機能は何とか働いて、よく知る男の声が耳の中に飛び込んできた。
『会場の近くにいるのか』
「あ、ああ、お前どしたの、手術」
『ちょうど終わったところだ。まだ色々することはあるが、あなたから恨み言の一つでも入っているのではないかと思ってな。とりあえずスマホだけチェックしに来た』
「バカかてめぇ、そんな、言わねーよ仕事だろ」
 ふふ、と小さな笑声、その向こうで、どぉん、ぱらぱら、と音が響く。
『花火は佳境のようだな』
「そうだ、見せてやるよ」
 獅子神はビデオ通話をリクエストして、カメラを切り替え、また空へと向けた。
 すると画面に、疲れた男の顔が映る。スクラブへと続く首筋がセクシーだ、と思いながら獅子神は、ほら、と画面に向かって――向こうには見えていないが――笑いかけた。
……会場ではないな』
「ちょっと離れたところからの方が、綺麗に見えるだろ」
『会場には行かなかったのか』
「行ったよ。土産にヨーヨーも釣ったぜ、二つも。お前は花より団子だろうけどよ、まあイカ焼きやリンゴ飴ぐらいなら家でまた作ってやるよ」
 そう言うと、画面をじっと見つめる男の、その眼鏡の奥にはわずかな逡巡と沈黙が生まれた。
……本当に、恨み言は言わないのか』
「ははっ」
 獅子神は思わず笑い、それから、「そうだなぁ」と花火を見上げた。
「そりゃあ、お前と一緒に屋台でも回れたら、そりゃよかったけどよ……こうしてるのも案外、悪くないもんだぜ」
『インカメラにしろ』
「なに?」
『あなたは今、私を口説く口調になった。口説かれるなら顔を見て口説かれたい』
「てめっ……
 こういうところが、何でも見通すお医者サマとのつき合いだとサマにならないところだ。そう思いながらも獅子神は、言われたとおりにカメラを切り替えた。
……あなた、浴衣まで』
「いいだろ、気分の問題だよ」
 そう言って獅子神は、画面の向こうの――こちらとは少し焦点の合わない、赤く透ける目を覗き込んだ。
「お前に見せてやりてえなとか、お前ならこれ食うんだろうなとか、そう思いながら歩き回ったんだ。
 オレにとっちゃそんな祭りは初めてのことで――それがなんだか、すげえいい気分だったよ」


 獅子神がいちばん薄汚れていたころ、同級生の目を避けながらでも、どうしても祭りの空気に触れたくなったことがあった。
 不届き者の男女が絡み合っているような暗がりを縫って、花火がドンと上がったとき、その光が反射して、獅子神は五百円玉を見つけることができた。
 当時の獅子神にとっては、降って湧いた一財産だ。家に持って帰れば駄菓子を山ほど買うこともできただろう。だが、獅子神は祭りのすばらしい誘惑に逆らうことができなかった。
 覚えているのは花火の美しさでも、友達とはしゃいだ思い出でもない。
 ピンク色の光に照らされた五百円玉と、罪の意識など微塵もなくかき込んだ焼きそばと、華やかな色のジュースが獅子神の、鮮明に脳に焼きついた思い出であった。


 ひゅうう、どぉん、ぱらぱら……その音が、獅子神のその脳を、わずかな回想から引き戻す。
「どうだ、口説いてやったぜ」
 そう笑ってからすぐ、獅子神はカメラを切り替えた。
「せっかくだ、もう少し花火を一緒に見てくれよ」
……ああ』
 獅子神の表情に何が去来したのか、それをどう読み取ったのか、村雨は、口に出して何かを言おうとはしなかった。
『きれいだな』
 この男にしては実に陳腐な感想を、ただ、真顔で言ってみせる。
「まったくだ」
 じろじろと見てくる近隣住民も、ひとりごと言ってるー、と無遠慮に指さしてくるガキどもも、獅子神には何もかもがどうでもよかった。


 仕事だ、もう行く、と言い残して切る前に、村雨は一言、ありがとう、と言った。
 こりゃまた陳腐な一言だな村雨先生、と憎まれ口を叩きたいのに、口を開けば「すき」以外が飛び出すとも思えなくて――
 だからただ獅子神は、変に引きつった笑い顔と、ひらひら振る手のひらだけを、消える前の画面に見せつけたのだった。