乾いた空気が頬を撫でる。クリフランド地方は剥き出しの赤い岸壁が四方を取り囲んでいて、一見すると閉塞感があるが、視線を上げれば空だけはどこまでも広がっている。心が折れそうになることがあっても、澄み切った青空を見上げれば、自分が自由であることを思い出せる――テリオンはこの風景が嫌いではなかった。
「天候が安定していて良かった。雨でぬかるんでいると、崖道を歩くのは危険だからね」
「もしこんなところで転んだりしたら……うう、商品をダメにしちゃうかも」
「商品より先に、自分の身の心配すべきではないか……?」
「命あっての物種だよ、トレサ君……」
共に道を征く仲間達は、呑気に談笑しつつ歩いている。苦笑いを浮かべたサイラスに対して、トレサは舌を出して笑ってみせた。
テリオンがレイヴァース家の罠にかかり、愚か者の腕輪を着けられてから早二ヶ月が経とうとしていた。レイヴァース家に侵入するために商人から信用状を盗んだが、その現場をひとりの学者に目撃されたことが運の尽きであった。学者――サイラスは秘宝に興味があるからと、衛兵を呼ばない代わりに同行を提案してきた。それを許したことが、そもそもの間違いだったに違いない。
サイラスはテリオンの腕輪について、責任の一端は自分にあると宣い、共に旅をするとまで言い出した。ところが彼は行く先々で様々な面倒事に勝手に首を突っ込み、いつのまにかこんなにも同行者を増やしてしまった。
(俺も焼きが回ったもんだな……)
こうしてぞろぞろと連れ立って歩いていたら、目立って仕方がない。盗賊が群れるなんて論外だと思っていたが、まさか己がその一員になってしまうとは。とはいえ一人でいるよりは道中の危険は格段に減る上に、やむを得ず手を借りることもあったため多少の恩もある。今更、無責任に抜けるつもりはなかった。
崖沿いを歩いていると、視線の先に町が見えてきた。特段何か用がある訳ではなく、次の目的地へ移動するための足がかりとする場所だ。幾つかの集落を寄せ集めて作っただけの小さな町だと思っていたが、近付いてみると意外にも賑やかな喧騒が聞こえてきて、自分達と同じような旅人らしき姿があった。
「へえ、意外に人が多いな。なんか催し物でもやってんのかね。テリオンはこの辺りには来たことあんのか?」
「ない」
「じゃあ何も知らねえか~……」
「とりあえず宿に向かおうか。部屋が空いていると良いのだが……」
この地域にある町は、崖を切り拓いて無理やり形を作っている。そのため階段が多かったり、ひとつの町といっても居住区自体を幾つかに分けてあったりと、一見して全貌が分からないような入り組んだ造りになっていることが多い。この町も例には漏れないようで、上層の方を見ようとしても高くそびえ立つ崖が視界を遮っていた。
盗賊が町に着いてからすることといえば、地形の把握に、建物の棟数や外観の確認。そして行き交う人物の観察だ。通行人とすれ違う瞬間、咄嗟にトレサの鞄を背後から掴んでその人物から離していた。
「……」
「きゃっ! ちょっと、テリオンさん! 今あたしの鞄を引っ張ったでしょう?!」
「ぼさっと歩いてるからだ」
「そんなことないわよ! 普通にしてたじゃない」
「まあまあ……。宿はあちらの通りのようだよ」
尚もぶつぶつと文句を垂れるトレサをサイラスが宥め、宿屋へと誘導する。先程の通行人――見てくれだけは整えているが、手付きや視線が明らかに同業者のそれであった。とはいっても、あてが外れた程度で舌打ちをするようでは三流以下だが。しかし、似た気配は他にもちらほらと見受けられる。一見するとそこまで治安が悪い町には見えなかったのだが、妙な感じだ。
大通りにある宿屋の扉をトレサが開き、続いて中に入る。カウンターテーブルの向こう側には膨らんだ餅のような体型の女将が座っていて、重そうな腰を上げて旅人達を迎えた。
「いらっしゃい。なんだか随分と大所帯ねえ、家族……ではなさそうだし」
「えへへ、八人と一匹です! 部屋は空いてますか?」
「ちょうど二つ空いてるよ。寝具がちょっとばかし不揃いになるけど、それでもいいかしら」
「大丈夫です! いくらになりますか?」
宿泊代は相場より少々高いが、この人出を思うと致し方ないことだろう。一行の若き金庫番はひとつ頷き、今夜の寝床を決定した。女将が部屋の鍵を出そうとして、ふとトレサの後ろに立つ男に目を留めた。
「あらっ、学者さんじゃない。なるほどねぇ、こちらの方々は護衛で雇われたのかしら? 確かにこっちの人は随分と腕も立ちそうだし、狩人らしい人もいるものねぇ」
「いや、彼らは友人だよ。たまたま縁があって共に旅をしていてね」
「そう? てっきり、古本市の噂を聞きつけて来たのかと思ったけど……」
「古本市? 良ければ、詳しく教えてくれないだろうか!」
女将の言葉を繰り返したサイラスの瞳に、きらきらと星が煌めく。好奇心の光だ。こうなってしまったサイラスを止める手立てはなく、女将の手を握らんばかりに前のめりになり、ぱんぱんに膨らんだ彼女の頬を赤く染めた。
「ええと、年に一回だけ開く市でねぇ。名前の通り、古本を持ち寄って売り買いするんだよ。最近じゃちょっとばかし有名になって、色んな地方からお客さんが来るようになって……あなたみたいなローブの人も見たことがあるわ」
「それは興味深いね。いつ開催されるのだい?」
「ちょうど今日から一週間よ。場所はもう少し高台の広場で……」
「教えてくれてありがとう! 少し見に行ってくるよ、すまないが後は任せてもいいだろうか」
言うが早いか、サイラスは足早に宿を後にした。普段ならこちらが口を噤んでいても強引に話をさせようとしてくる男が、最後まで聞ききらずに去るとは珍しい。旅の最中も常に本を読んでいるから不自由していないと思っていたが、彼なりに抑圧されている部分もあったのかもしれない。
女将は残念そうにため息をつき、片頬に手を当てる。てっきり美丈夫が去ったことが惜しいのかと思ったが、続く言葉は予想外のものだった。
「あらら、ひとりで行って大丈夫かしら……」
「……どういう意味だ?」
「古本市ってのが良くも悪くも有名になったもんだからねぇ。学者さんみたいな本好きが来るようになったのはいいんだけど、そういう人を狙ったスリや強盗、果ては人拐いなんかも来ちゃうようになったのよねぇ……」
「えーっ! そうなの?!」
その言葉に、町に着いてから抱いていた違和感の正体がはっきりした。道理で同業者が多い訳だ。クリフランド地方は近年でも頻繁に戦が起きているせいで、他の地域と比べると治安が悪い。近場に金持ちが集まる市場が開かれると聞けば、悪漢が押し寄せてもおかしくはないだろう。
「そりゃおおごとじゃねえか!」
「サイラスさん、おひとりで大丈夫でしょうか……」
「心配ね。誰かが見に行ってくれるといいのだけど」
「……おい、どうして一様に俺を見る?」
仲間達全員の視線が突き刺さり、居心地の悪さに腕を組む。なんとリンデまでもがつぶらな瞳で見上げてきていた。踊り子は自らの髪を指先で軽く梳き、あっさりと言葉を放つ。
「テリオンが一番適任だからよ。よろしくね」
「待て。……別に俺じゃなくてもいいだろ」
「あら、か弱い女達に護衛役なんかさせるつもり?」
「そうじゃないが……」
ちらりとアーフェンとオルベリクに視線を遣る。アーフェンとサイラスが連れ添っていれば、間違いなく良いカモにしか見えないから論外として。オルベリクを立たせておけば護衛としては充分だろうが、スリや詐欺の対応には若干の不安が残る。そもそも町全体の治安が悪化している中で、最強の護衛を女子供から引き離す方が気がかりだ。
そうなると結局、消去法でテリオンが行くしかないのだろう。プリムロゼと論じるまでもなく自らの中でそう結論が出てしまい、小さく舌打ちをした。
「……行ってくればいいんだろ」
「ええ、任せたわ」
「気を付けてな、夕飯までには帰ってくるんだぞ」
「先生に、あんまり荷物を増やさないようにって言っておいてね」
渋々といった体で宿を出て、上層へ向かう。長い上に途中で何度も曲がる階段を軽やかに登った先には開けた広場があり、色とりどりの敷物の上にはずらりと本が並んでいた。思っていたよりも人が多く、歩くだけでも神経を使いそうである。
そんな中でも、サイラスはやはりひときわ目を引いた。背筋を伸ばして歩く優雅な姿に、日焼けを知らない白い肌、涼やかな笑みを浮かべた端正な横顔、そして身に纏うローブに刺繍された金の糸が陽の光を受けて輝いていた。
(……きれいだ)
見慣れたと思っていたが、集団の中にいる姿をみるとより強く彼の美しさを感じた。テリオンは生まれてこの方、こんなにも見目が整っている男は見たことがない。だからつい目を向けてしまうのだろうか。同じように美人の部類に入るであろう踊り子には、こんな風に視線を奪われることなどないのに。
遠目からぼんやりと眺めていたが、黒いローブの背後に近付く存在に気付いて、早足で駆け寄る。見知らぬ手より先に、彼の背中に手を伸ばした。手元の本を凝視していた瞳が、やっとテリオンの姿を捉える。
「おや、テリオン君。キミも市場に興味があるのかい?」
「……」
サイラスの言葉には応じないまま、近付きかけていた男を睨めつける。男は慌てたように手を引っ込めて、足早に去っていった。本当に、噂に違わない治安の悪さである。
「知り合いかい?」
「んな訳あるか。……で、学者先生のお眼鏡に適う本はあったか?」
「それなのだが……どうやら、多種多様な本があまり分類されずに雑多に集められているらしい。これでは表題を改めるだけでも一晩かかってしまいそうだ。いやしかし、こんなにも大量の本に囲まれているのは久し振りだから、つい胸が躍るね」
自分の身に降りかかろうとしていた危機も知らずに、当の本人は頬を上気させて興奮気味に語っている。このままでは二日も三日も滞在したいと言いかねなかったので、早いうちに釘を刺しておいた。
「長居はできないぞ。夕方までに用事を済ませて、明日は早くにここを発つ」
「それは残念だ……。まあ、次の目的地もあるから仕方がないね。ではテリオン君、少し手伝ってくれないかい?」
「はぁ? なんで俺が」
「購入候補の本を持ってくれたり、表題を読み上げたりするだけで良い。頼むよ、きちんと礼はするから」
咄嗟に反発したが、サイラスは視線を合わせて機嫌良く微笑む。彼はいつもそうだ。テリオンが不満を吐露しても、苛立っていても、必ず真っ直ぐに視線を合わせてくる。その長い睫毛に縁取られた瞳の輝きに、つい気圧されてしまって仕方なく頷いた。いずれにせよ、多少の手助けで早く買い物が終わるのならそれに越したことはない。
「……分かった。後で酒でも奢れよ」
「ありがとう! では早速、この本を持ってくれ。それから、陳列されている本の表題を端から読み上げてくれるかい? 私は反対側から見ていくから」
「それぐらいなら良いが……。そんなことで内容が理解できるのか?」
「ああ、問題ないよ」
言われるがままに、本の表題をひとつひとつ読み上げていく。サイラスは自分が見ている本を取って開いてみたり、テリオンが読み上げた本を取るように指示したりと、忙しなく行動した。――自らも文字を見ながら、読み上げられる別の言葉を聞き取り、その中でそれぞれの要不要を判断するとはなかなか器用なものだと感心する。手先の器用さなら負けないが、彼の能力はテリオンのそれとはまた別種だ。
テリオンはサイラスの指示を聞きつつも、周囲への警戒を怠らなかった。近付いてくる不審者は視線で威圧し、それでもなお近付いて来ようとするものがいれば、片手でサイラスの腕を引いて身を寄せた。そうすると相手も気取られていると察したのか、諦めてそそくさと逃げていく。
繰り返しているとあっという間に時間が経ち、結局サイラスは五冊の本を抱えて市場を後にした。太陽は地平線にゆっくりと沈みつつあり、朱い陽が優美な横顔を照らしている。
「キミのお陰で満足行く買い物ができたよ、ありがとう!」
「はぁ、良かったな……」
あまりにも神経を使いすぎたため、途中でこいつの財布が失せたほうが話が早いのではないかと思ったことすらあったが、なんとか耐えられて良かった。すっかり疲弊しているテリオンに対し、サイラスは満面の笑みを浮かべていて足取りも軽い。コツコツと規則的な音を立てる靴音まで、彼の喜びを伝えているかのようだった。
「本当に助かったよ。一人ではこんなにしっかり見て回ることはできなかったと思うし、周囲を警戒する必要もなくなったから集中して選ぶことができた。キミが来てくれて良かったよ」
「は……? あんた、気付いてたのか?」
「学者は裕福だとよく誤解を受けるからね。そういった手合いが市場にいることは予想が付く。実際に犯行現場を見た訳ではないが、確かに怪しい動きをしている人物も見受けられた」
「……分かってたなら、最初からそう言え……」
あっけらかんと言われて、どっと肩の力が抜けた。サイラス自身も不穏な気配に気付いていたというのなら、もっと手早く買い物を済ませてほしかったものだ。というか、首根っこを掴んででも無理やり連れて帰ればよかった。疲労が苛立ちに変化しつつあったが、サイラスは変わらずに微笑んでいる。
「はは、振り回してすまなかったね。キミが守ってくれると分かったから、ついついしっかり吟味してしまった。また機会があったら一緒に回りたいものだ」
「……もう二度と御免だ」
「そう言わずに。警護してくれるだけではなく、キミは本の表題を誤りなく読んでくれたし、途中から私が選びそうな本の傾向を理解して読み上げていただろう? 流石の観察眼だね。先日学者の証を着けたときから思っていたが、キミには学者としての素質があると思うのだよ。まずは私の助手から始めてみるというのは……」
「……」
返事すらしなくなったテリオンに気にもとめず、彼は学者になったらどうたらこうたらと長話を続ける。暫く聞き流しながら彼より早く階段を降りていたが、平坦な道に下りるとサイラスは再び隣に並び立った。視線を上げると、美しい瞳と視線が交わる。
「テリオン君。本当に……今日はキミのお陰で楽しかったよ」
サイラスの瞳は、テリオンにとっての自由を象徴する空と同じ色をしている。雲一つなく澄み切っていて、明るい色の中に星の輝きを秘めたそれは、どんな宝石も見劣りするほど鮮麗だ。どれだけ見ていても飽きないが、長く見つめていると魅入られそうな恐ろしさもある。直視できずにそっぽを向くと、サイラスは何がおかしいのか小さな笑い声をこぼした。
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