光からフィギュアスケート布教活動の一貫としてカフェの手伝いをすることになりました、という話を聞かされた際は何の冗談なのかと考えたし、その対象にまさか自分が入っているとは微塵も考えなかった。
純が競技者として表舞台に立っていたのはもうずいぶんと前の話だし、そもそも現役の頃からリンク外での広報活動には不向きだと自他ともに認めていたはずなのに。
一考の余地もなく「断って」と告げるはずだった言葉は、光の「いのりちゃんといのりちゃんの先生も出るんですよね、この企画」という思いもかけない発言により喉の奥に呑み込まれた。
「何それ聞いてない」
何それ聞いてない、と思った純の口からは、思考そのままの言葉が発せられていた。
純が思わず口からこぼした言葉を聞き取った光が、驚いたようにぱちぱちと瞬きをしている。驚きと呆れが半々ずつ浮かぶ光の表情を見ながら、純は司に対し何をどう詰めようかと脳内で練り上げていた。
何せ司と純とは、紆余曲折あった末でつい先日から所謂交際関係に至ったばかりだったので。
その後司を引っ捕らえて問い質したところ、光の発言は事実だったと判明した。
連盟が主催した企画であり、有力選手が日替わりでカフェに登場する、という主旨で行われるらしい。現役でなくとも知名度のある元スケーターたちにも声がかけられているらしく、純の顔見知りの範囲では慎一郎やライリーにも連絡がいっているとのことだった。
客は完全抽選制かつ身分証提示必須で、選手の安全は保証されていること。店員という名目ではあるがファンとの交流がメインであり、重いものを持ったりはしないこと。
要項を隅まで吟味した上で、更にはスポンサー絡みでも色々あって断るのが難しかった、という話らしい。
「いのりさんはともかく、俺にも話が来たのはよく分からないんですよね……」
「ふうん」
「一緒に出られるなら俺がサポート出来るので、それ自体は別にいいんですけど」
結束いのりの知名度が上がると共に、リンクサイドやキスクラで人目も憚らずくるくると表情を変える司はある種の「名物コーチ」として名を馳せつつある。本人にはその自覚がないらしいが。連盟側としてはいのりとセットにすることで客寄せが出来ると判断されているのだろう。
純と司が今いる場所はというと、衣装合わせで呼ばれた一室だった。用意された衣装の中からいくつか合わせ、決まったものを着用して宣材写真の撮影待ちをしているところである。
断る一択しかなかった依頼を受ける羽目になったのは、司に問い質した際に『純さんも受けるんですか?! そんな、そんなの絶対行きたいんですけど倍率凄いことになりそうだし当たるのかって言われたら抽選、抽選かぁ……でも申し込みしなかったら絶対後悔するし……あ、そもそも関係者って申し込めるのか?』などと言いつつ考え込んでしまったのを見てつい『同じ日に出ればいいんじゃないの』と口を滑らせたせいだった。
外野から見れば完全に自爆なのだが、純本人にその自覚はない。何なら司に巻き込まれた、とまで考えている節がある。大人げないと思われたくないので、司本人にそれを告げたりはしないが。
純からすれば不本意でしかない今回の企画に参加するにあたり、連盟に対しいくつか条件を出した。純が参加する旨は事前公表しないこと。結束いのり+明浦路司と同日でなければ参加しないこと。衣装合わせなどで招集される際は、明浦路司もしくは鴗鳥慎一郎と同じ日に設定すること。
純が対人対応が不得手なことは現役時代から知られていたし、光といのりは女王と挑戦者としてセットで扱われることも多く元々同じ枠で出てもらう予定だったらしい。三つ目の条件に関しては、ヘッドコーチとして予定が詰まっている慎一郎は今回の企画に不参加であった為、自然同行者は司に限られる。
そういうわけで、純の出した要求は軒並み通ることになったのだった。ちなみに純が企画参加する際に条件提示したことを、司は知らない。特に教える必要もないだろうと判断した純が告げていないからだ。そして話題性を重視する連盟側も、その事実を吹聴してはいない。
つまるところ、純自身が世界に対して感じている閉塞感とは裏腹に、今日も純の周囲は純が望む通りに回っているという話だ。
「そういえばアームバンドもうしました? 留め具の所がちょっと固いって……」
司の衣装は前立て部分にフリルがあしらわれたシャツに、首には蝶ネクタイ、腰から下を覆う紺のギャルソンエプロンに青灰色のスラックスに決まったらしい。シャツの胸元に雪の結晶を模したピンが挟んであるのがワンポイントと言えるだろうか。
純の衣装も司とエプロンとスラックスは同じだが、シャツの形が異なり全体はシンプルなデザインで首元にフリルタイが選ばれていた。前後で色味の違うベストを纏っているのも特徴だろう。タイを留める飾りは司の胸元に挿されたピンと同じく、雪の結晶を象ったものだった。
「ねえ」
「はい」
「ちょっと座って」
「はい……?」
疑問符をつけつつも頷いた司は、純が指し示した椅子にすとんと腰を下ろした。司の手には、今しがた話題にしていたアームバンドが握られている。
素直なのはいいけど誰彼構わず言うこと聞いてるんじゃないだろうな、後でその辺りは詰めよう。などと、純が内心で理不尽極まりない計画を練っているとも知らず、司はなんだろう、と首を傾げているだけだ。
椅子に座った司を頭から爪先まで眺めた純は、手に持っていた容器の蓋を開けた。何のことはない、ヘアワックスの容器である。
揃えた人差し指と中指で中身を掬いとり、容器を横の机に置く。偶々なのか純に合わせて用意したのかは定かではないが、置かれていたヘアワックスは現役時代に使用していたメーカーのものだった。使い慣れたそれより少し匂いが弱い気がしたが、手のひらに塗り広げた感触は変わっていない。
「少し顔上に向けて」
「え、あの」
「早く」
ワックスを指にまで塗りながら促すと、きゅっと口を引き結んだ司が言われるままに顎を上げた。純は司のすぐ前まで歩み寄ると、両手で挟むように司の髪に手を差し入れた。
純の髪質よりやや固めでクセの強い髪。耳の後ろ辺りから、ゆっくりと後頭部にかけて指を滑らせる。何だかハグをしているような体勢になり、後ろからやった方が良かったかと一瞬悩んだ。しかしサイドより前髪を上げるのがメインなのだから、前からの方がいいか、とそのまま続行する。
「っ近いんです、けど」
「すぐ終わるよ」
「ぅう……」
司のささやかな抗議をはね除け、少し体を離して全体の様子を見る。観念したらしい司がどうにでもなれとばかりに目を固く閉じたのを見て、純は少しだけ口の端を上げた。
耳の前にかかる髪を後ろに流し終え、次は前髪を後ろへ撫で付ける。普段は前髪で隠されている額が露になり、身に付けているシャツのデザインもあってか大分フォーマルな印象になった。
適当に整えただけだから前髪が幾筋か落ちてきているが、これはこれで許容範囲だろう。
終わったよ、と声をかければ、司はようやく目を開けた。
「この方がいい」
「指摘してくれれば自分でやりましたよ……?」
恐縮と羞恥とで硬直していた司の頬は、未だに火照っているようだった。齧りついたら流石に怒るかな、と思いながら司の顔を間近で覗き込む。
近づいた距離に司が再び肩を強張らせるのが分かったが、離れてはやらない。
「当日も僕がやるから」
「ぅえ」
「文句あるの」
「文句はないけど恐れ多いです」
ふるふると首を振る司を見て、暫し思考を巡らせた。
純は体を起こすと、先程机に置いたヘアワックスの容器を手に取った。蓋を開けたままだったそれを、司に向けて差し出す。
理由もなく与えられるものを享受出来ない、というのなら。
「なら、僕のは司がやればいい」
「ええ……?」
理由を作ればいい、それだけの話だ。
純の言葉は問いかけではない。決定事項だった。
困惑した声を落とした司の手に、有無をいわさずヘアワックスの容器を押し付けた。
「やるよね」
「そういうの、勝手に決めちゃマズイんじゃ……?」
「やってくれないならこのまま出るけど」
「え」
「やってくれるよね」
再度の念押しに、司がぐっと言葉に詰まる。暫くの沈黙の後、司が半ば唸るような声音で「……やります」と答えたのは、必然でしかなかった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.