あんころ
2025-07-26 13:46:10
9404文字
Public 伊奈スレ
 

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戦後同居ifの伊奈帆が犬になっちゃう話です。
二人がやることやっている気配がふんわりするので、苦手な方はご注意ください。

 同居人・界塚伊奈帆の朝は早い。
 収容施設から引っ張りだされて2年ほど、スレインはほとんど毎朝伊奈帆の作った朝食のにおいで目を覚ましていた。最初は受け付けられなかったそれも、今では毎日のささやかな楽しみだ。

 けれどその日。スレインが目を覚ましても、いつもドアをすり抜けてくる香ばしいパンの香りも、卵を加熱する音もなかった。寝坊しがちなスレインを呼ぶ穏やかな声もない。かわりにカリカリと、何かをひっかくような小さな音がする。――伊奈帆の身になにかあったのかもしれない。ぞわ、と背中に恐怖が走る。例えば、突然倒れて声も出せず、スレインに助けを求めているだとか。例えば、スレインがここにいることが外部に漏れて誰かが侵入しただとか。
 姫が撃たれるあの瞬間がフラッシュバックして、からだが震えた。たまらずベッドを飛び出して、寝室のドアを開け放つ。今思えば、侵入者がいる可能性に思い至っていたくせに、随分荒っぽい。それほど慌てて、恐怖していた。

「ぎゃう、きゃん!」
だから、ドアの前でおすわりをしていた犬の尻尾を踏んでしまったのも、すべては界塚伊奈帆を思ってのことなので許してほしい。




「朝起きたら犬になっていたとか、誰が信じるんだ……
「うう、わう」
「ていうかきみ、本当に界塚伊奈帆なのか」
「わん!」
 てしてし、と前足が宙を掻く。床に当たった爪の先がかしんと音を立てた。不満です、と言いたげだ。心なしか眉間にシワもよっている。犬の眉間にシワは寄るのだろうか。スレインは知らない。
 スレインが部屋から飛び出したとき、家にいたのはこの犬だけだった。界塚伊奈帆はどこにもいない。けれど靴はある。出かけた形跡もない。読めない状況が不安で、つい「いなほ」と口に出して呼んでみたら、この犬がばふばふ言いながら突撃してきたのだ。アホらしいけれど、けむくじゃらのその顔は妙にあの男に似ている気がした。
 焦げ茶の毛色にところどころ白が混じる柄の体に、中途半端に先のほうが垂れた耳。毛は少し長めだろうか。少しウェーブがかかったくせ毛は、彼と同じだ。目と耳のあたりは焦げ茶なのに、長い鼻先から額にかけて白色にはっきり分かれている。焦げ茶に埋もれた目はあの男にそっくりの、暗い赤色。それが二つ並んでいる。界塚伊奈帆(仮)の生きた左目を見るのは初めてだった。
 少しの居心地の悪さを感じながら収容施設にいた頃に伊奈帆が持ち込んだ図鑑を引っ張り出してきて、中型犬のページをめくる。ボーダーコリー、と書かれた犬種に似ている。たぶん。宇宙ぐらしが長かったせいで、スレインは本物の犬なんてほとんど見たことがない。地球に来てからは、収容施設に閉じこもっていたし。図鑑の解説を目でなぞる。
「非常に賢いが、その分躾が難しく扱いづらい……なるほど、ぴったりだな」
 こて、と首が傾げられる。ちょっぴりはみ出した舌が重力に従ってテロリとたれて、なんとも馬鹿らしい。
「言葉は?わかるのか」
「うう」
「イエスならわんと鳴け」
「わう」
「曖昧だな……
 分かったりわからなかったり、まちまちなのかもしれない。ただ一応、界塚伊奈帆としての自我はあるらしい。いなほ、と呼ぶと犬はスレインの方を見る。なんとなくだが、コミュニケーションは取れているという感覚がある。
「原因に心当たりは」
 わかったら苦労しないよ、と言いたげな半目が向けられる。
「犬のくせにいつもより表情がわかりやすい。どうなってるんだ」
「わふ」
「埒が明かない……
 とりあえず、彼のお姉さんにでも連絡しよう。
 スレインは単独で外に出られない。この摩訶不思議な現象を解決するのにたった一人というのは荷が重かった。彼の姉ならば、まあなんとかしてくれるのではないか。

 腰を上げて受話器を取る。もうとっくの昔に暗記してしまった界塚ユキのスマホの番号を順番に押していく……「わん!」
「うわ、こらいなほ、っ!」
 突然、おとなしくおすわりのポーズを取っていた犬――伊奈帆が飛びかかってきた。一瞬噛みつかれるかと身構えたが、そうではないらしい。全身で下半身から腰のあたりをぐいぐいおされて、電話の前から移動させられる。大した力ではなかったけれど、無理に抵抗して怪我をさせても嫌なのでされるがままだ。
 数歩たたらを踏むように移動して、それからようやくスレインから離れた伊奈帆はふす、と鼻息でため息を吐いた。犬のくせに不満の表し方が無駄に器用だけれど、何がしたかったのかはいまいちピンとこない。
「電話をかけさせてくれ。ユキさん呼ぶから」
 つい、小さな子どもに言い聞かせるときのような声で話しかけてしまう。視覚情報に引っ張られてしまうのは、人間の性だ。
「ゔゔ」
……不満気だな。だめなのか?」
「わん!」
 意図が通じて嬉しいのか、尻尾がぶんぶんと激しめに揺れる。本人が自覚していないんだとしたら相当愉快だ。スレインがスマホを持っていたら、まず間違いなく動画を撮って記録していた。もちろん、人間に戻った伊奈帆に見せて揶揄うためである。
「うわ、なに……伊奈帆、ちょっと」
 ぐい、と服の裾を掴まれる。厳密に言うと噛みつかれた。歯で服だけを器用に挟んで、ぐいぐいと引っ張られる。ひっくり返してしまった受話器を慌てて定位置に戻して、チャカチャカと爪を鳴らしながら懸命にスレインを引っ張る毛むくじゃらについていく。
 ついた先……といっても家の中を数歩移動しただけだけれど、伊奈帆につれてこられたのはキッチンだった。
……まさか朝食をとれとか言うんじゃないよな」
「わふ」
 そうだけど、と幻聴が聞こえた。頑固者でマイペースなのは犬になっても変わらないらしい。伊奈帆はスレインが食事を抜くのを極端に嫌う。もう、一食抜いたくらいで死ぬほど痩せ細ってはいないのに。
「食べたら絶対、ユキさんに連絡するからな」
 宣言は、立派な犬歯が並ぶあくびによって噛み殺された。あれに本気で噛みつかれたら、指くらい簡単に飛ぶ。ぞっとしない想像に鳥肌を立てながら、スレインはたった一人の朝食作りに取り掛かった。





 二人が暮らす戸建ての玄関ドアは、界塚伊奈帆の生体認証でしか開けることができないようになっている。スレインはそう聞かされていた。
 システムは知らない――知らされることはない――が、指紋か網膜か声紋かその他、あるいはその全てか。てっきりそういう、機械的な記録と本人の照合が逐一行われているのだと、スレインは予想していた。
……もとに戻ったら、ちゃんと生体認証をつけろ」
 朝食のあと、界塚ユキに連絡する間もなく玄関までスレインを引っ張った伊奈帆に無理やり外へと連れ出され、堅牢なはずの玄関ドアは驚くほどあっさり一人と一匹を外へと開放した。
 犬になっても認証できるシステムなんて流石に組んでいないだろうから、つまり生体認証とやらは最初からついていなかったか、伊奈帆が故意に切っているということになる。前者はあの家を用意した連合軍が許さないだろうから、まず後者だろう。一体どうやって報告を誤魔化しているのか。彼の上司のストレスチェックの値が心配になってくる。
 囚人直々の忠告を後ろに倒した耳だけで聞いて、焦げ茶の毛玉は街の中をずんずん進む。車の音。風の音。はあはあと荒い獣の呼吸音。遠くに聞こえる、子供の声。実に二年ぶりの外出だけれど、伊奈帆の背中――厳密には今は尻だろうか――を追うのに必至で、あたりを見回す余裕はない。彼の毛色はほとんどが焦げ茶だったが、尻尾の先はインクに浸してしまったかのように白くて、目印みたいだった。

 久々の運動で息も切れてきた頃、伊奈帆は立ち止まってスレインへと小さく吠えた。顔を上げてあたりを見ると、広大な駐車場とその奥の平たくて大きな建物が目に入る。
「ホームセンター?」
 先導する伊奈帆の尻尾を追いかけてやってきたのは、彼がたまに話題に挙げるホームセンターだった。人はまばらだが、いくつかのグループが車に荷物を運び込んだり、大きなカートを引く子供の相手をしているのが目に入る。近くをす違った人はもの珍しげに伊奈帆を見つめていた。「君の顔を知る人は多くない」、と以前伊奈帆は言っていたけれど、スレインは帽子を目深にかぶり直した。家を出る直前、一体どこに用意していたのか、小さな鞄と一緒に伊奈帆が持ってきたものだった。
 そのまま、人間ならすたすたという擬音がつきそうなほど真っ直ぐに伊奈帆は店の入り口らしき場所へと四つ足をすすめる。入り口にはいくつか買い物用のカートがおいてあるようだった。そのうちの一つの前で、ん行儀良くおすわりをしてスレインを見上げる。これ、と指定されている気がするカートは、随分と荷物を入れるスペースが広いように見えた。
 その大きなカートには、扉を開け閉めできるような機構がついている。説明らしき箇所をざっと斜め読みして、わんちゃんとご一緒に、と描かれたイラストにため息を吐いた。なるほど、つまり犬――伊奈帆を乗せて、二人でショッピングをするということだ。呑気すぎる。平和ボケのしすぎだ。
 けれどぶんぶんと振られる尻尾に怒る気持ちがつい揺らいでしまうのは、たぶん彼が可愛い犬だからだろう。いま限定だ。普段はこんなに甘やかしたりしていない。
 扉になっている部分を開けてやると、ガシャンと物音を立てながら伊奈帆が器用にカートへと飛び移る。元からやっていたのかというくらい、四足歩行がうまい。

伊奈帆がふすふすと鼻を鳴らす。彼にとっては通い慣れた地元のホームセンターだ。庭でスレインが育てている野菜や花の鉢植えは、たいてい伊奈帆がここから調達してきたものだった。
 何か目的があってきたのだろうし、店内の先導も任せることにして、その黒くてつやつやした健康的な鼻の先を矢印に見立てて伊奈帆の指し示す場所までカートを転がしていく。
 カートの中の伊奈帆はといえば、前を向いたまま尻尾を嬉しそうに左右に揺らしていた。はふはふと犬らしい呼吸をする口元も緩んで、口角が上がっているように見える。普段からこれくらい分かりやすかったらやりやすいのに。伊奈帆は無感情というわけでもなかったが、表情の動く瞬間がとにかく少なかった。あの仏頂面もまあ、全く可愛げがないわけではないけれど。

 伊奈帆の道案内にしたがって、彼の鼻先がほしがるものをぽんぽんとカートへと放っていく。
 首輪とそれにつながるリード。伊奈帆が「絶対にこれがいい」と言わんばかりに鼻でグイグイ押していた首輪は、オレンジに染められた革に黒のバックルがついたものだ。今更本気で怒ったりしないけれど、かわいいはずの毛玉が少しだけ小憎たらしくなってくる。
 次に向かったのは食料品と雑貨のコーナー。犬用のカリカリのドッグフードと、少し迷ってから、おやつ用と書かれた鶏ささみのフリーズドライ。
 ペット用のトイレシートは誠に遺憾ながら常備されているので素通りする。皿も、家にあるもので代用できるだろう。
 あとは爪切りとブラシを買って、伊奈帆は満足したらしい。小さな声でわふ、とひとこと合図をして、カートの上で大あくびをした。犬の睡眠時間は人より長いのかもしれない。本当に眠たいらしく、目がとろとろとして定まらない。
「お会計終わるまで寝てていいですよ」
 外であることも忘れて、犬に話しかけてしまった。けれど幸い周囲には誰もいないし、ペットに話しかけるのも割とおかしくはない行為だったはず。相手が伊奈帆であるという最悪の一点にさえ目を瞑れば問題ない。従順に目を瞑った飼い犬のような同居人を見届けて、スレインは少し寄り道をしてからレジへと向かうことにした。




 買いたてほやほやの首輪とリードを装着した伊奈帆――字面が酷いが事実である――と連れ立って家に帰ったのは、昼を少し回った頃だった。朝から絶食していた彼に水と食事を摂らせ、久しぶりの外出にへとへとになった体でついうっかり昼寝をしてしまったスレインが目覚めたのは、もう日もとっぷりと沈んだ時間だった。スレインに覆いかぶさるようにして一緒に寝ていた毛むくじゃらの存在も、快眠に拍車をかけてしまった要因の一つである。温かくてもふもふでとても気持ちのいい昼寝だった。
 慌てて人間用の簡単な食事と、伊奈帆の夕飯を用意する。カリカリだけでは可哀想な気がして、おやつのフリーズドライささみを小さく割って振りかけたものを出してやったら、尻尾が見たことないくらいぶんぶんに回っていた。
 それを横目に、スレインもレトルトのカレーを冷凍の米にかけただけの、普段の伊奈帆が見たら即座にキッチンに駆け込みそうな夕食をぱくりと頬張る。悪くない。味も栄養も、使用人をしていた頃の食事と比べれば遥かにマシだ。
 人間が犬になるなんて突拍子もなさすぎるが、当の本人(本犬)が呑気なので、スレインもすっかり状況を受け入れ始めていた。よだれで皿をべとべとにしながらフードを平らげていく伊奈帆は可愛いし。

 夕食をさっさと平らげたスレインは、もし明日朝起きても治っていなかったら流石に彼の姉に連絡しよう、と腹を括る。伊奈帆からいろいろなものを奪ってしまったから、スレインは彼女のことが少しだけ苦手だ。当の伊奈帆は気にしていないようだし、彼女の方も何も言ってこない。それが余計に苦しくて、精神的にも肉体的にも疲れきった今から界塚ユキに連絡できるような気力は残っていなかった。つまるところ、問題の先送りである。
 今日一日分の食器類の片付けをするスレインを、伊奈帆は踏まれないように少し離れたところでやや退屈そうに見守っていた。やはり表情がいつもより読みやすい。「僕暇なんだけど」と今にも喋りだしそうだ。もちろん、界塚伊奈帆がそんなことを言ったことはない。……けれどそういえば、スレインは似たような表情を見たことはある。一度二度ではなく、ここ数年の同居生活のうちに何度か。例えば、伊奈帆が仕事に悩殺されているからと、普段は二人でやる食事の片付けをスレイン一人で買って出たとき。キッチンから見る伊奈帆の横顔は確か、こんなふうではなかったか。
 なるほどつまり、あのとき彼は寂しかったのか。

 おそらくほとんど正解に近い推測を引き当てて、スレインはたまらず早々に後片付けを切り上げた。カレーに使った皿は洗い終えたので、緊急を要するものはもうない。
 布巾で手についた水滴をさっと拭き取って、地べたに広がる毛にずぶりと差し込んだ。いつもより少し温かい体温を感じながら、多少強いくらいの力でわしゃわしゃと雑に撫でる。撫でるというよりは毛の海をかき混ぜているような雑さだけれど、伊奈帆は体が大きいからかこのくらいが好きらしかった。ぱたぱたと、尻尾と床がぶつかる音がする。床に横たわっていると案外存在感があるのは、毛が長いぶん膨らんで見えるからだろうか。
 スレインが近づいただけで尻尾をふりふりさせていた伊奈帆は、スレインに撫でられて全身で喜びを顕にしていた。人間なら眉毛のあるあたりの皮膚がぱっと持ち上がって、犬歯の並ぶ口が開いて口角が上がっている。ああ、可愛い。可愛すぎて界塚伊奈帆としての存在が失われているのではないかと不安になるほど、可愛い。恐ろしくなって彼の名前を呼んでみたら、その瞳は理性的な気配を乗せてスレインを見た。その目は鬱陶しいくらい、界塚伊奈帆のままだった。

その瞳の色でふと、廊下に買い物袋を放置していたことを思い出した。
「こんなものを買ったんだ」
 がさがさ、音を立ててビニール袋をあさると、彼のやや後ろに倒されていた耳がぴんと上に伸びる。買い出しで伊奈帆が睡魔に負けたあと、寝落ちた彼をカートに乗せたまま店内を見て回っていたときに見つけたものだ。硬いプラスチックの包装をぱきりと外すと、それはスレインの手の中に転がり落ちる。
 眩しいくらいの黄色に塗られた球体。手のひらにすっぽり収まるくらいのサイズで、押しこむと音が鳴るようになっている。犬用おもちゃ、壊れにくい、音が出る。そんな謳い文句が並んだパッケージをゴミ箱に放り、ボールをまじまじ見てみる。
 スレインにはよくわからなかったが、これが置いてあったコーナーは一面ボール系のおもちゃで埋め尽くされていたので、犬のおもちゃとしてボールはメジャーなのだろう。くっと押し込むとプピプピ間抜けな音がするのは、たしかに動物には面白く感じるのかもしれない。
 半信半疑ながら、試しに伊奈帆へ向けて放ってみた。犬になっているとはいえ彼は伊奈帆だし。知性と合理の塊のような彼が、ただの音が出るボールで遊べるとは思えない。ちょっとした与太、久しぶりに外出をした高揚感でついてに取ってしまった無駄遣い。そのつもりだった。

 だったのだけれど。まさか、あの界塚伊奈帆が!
 理性のかけらも失ったみたいに獣の口を大きく開けて、ただ廊下に放られ放物線を描いただけのただのボールを、はあはあ言いながら追いかけている。狭い室内で何度かリズミカルにはねたオレンジ色の球体を空中で口でキャッチして、そのまま前足で押さえ込んではぐはぐと鋭い犬歯で噛み付く。ぷぴょ、とボールが情けない声を上げて鳴いて、それにまた興奮した伊奈帆が尻尾を振る。
 「おいで」と声をかけてみたら、よだれでべとべとになったボールを器用に口で咥えて戻ってくる。それをまた放る。全身をバネのように弾ませて、伊奈帆がはあはあいいながらボールに飛びつく。本当に犬みたいだ。
 スマホを持っていないことが心底悔やまれる。こんな風景を録画できたら、一生ぶんの彼の弱みを握れたのに。
 いい気味だ。あの忌々しいオレンジ色。昏い喜びが一瞬満ちる。ガラス張りの面会室で見つめ続けた静かな顔。暗い寝室で見上げた、余裕のない顔。可愛い界塚伊奈帆。

 いなほ、と名前を呼ぶ。振り返ってくれないかもしれないと過ぎった恐怖は、まんまるい2つの赤色によって塗りつぶされた。
 名前を呼ばれた伊奈帆ははっとしたようにボールを見下ろして、スレインを見て、またよだれでベタベタになったボールを見る。本能と理性で一瞬困ったような顔をして、けれど彼は四つの足でスレインのもとへ戻ってきた。腕に抱いた彼の質量はいつもとそこまで変わらないし体温もずっと高いけれど、なぜだか背中が寒いような気がした。
「可愛いけれど、犬のままだと僕も困る」
……くぅ、きゅぅん」
 ぴすぴすと鼻を鳴らして、伊奈帆はスレインを気遣うような声を出した。ぺろ、と顔を舐められたのは、犬なりの心配の表現だろうか。
「きみのことだから、戻る方法も分かってるんだろうが」
 あまり心配させないでほしい、と言ってみる。彼が半ば無理やりスレインを生かし続ける間も、収容所から連れ出されたときも、彼に一度もかけなかった言葉だ。どうせきっと、こんな変なことが起きた記憶は戻ったときには消えているだろうから。
「もう寝ようか」
……わふ」
 普段は別々の部屋で寝ることが多いけれど、今日くらいはいいだろうと伊奈帆を自室に招き入れる。少し躊躇するように前足を空中に彷徨わせてから、伊奈帆はスレインのベッドに飛び込んだ。犬を抱いて寝るのはどんな心地だろうか。言い訳のように好奇心を向けながら、スレインも同じベッドに潜り込んだ。








 同居人・界塚伊奈帆の朝は早い。
 毎朝ほとんど同じ時間に起き出して、献立を考えながら歯を磨いて顔を洗って、二人分の朝食を作る。大抵はちょうどいいタイミングでスレインが起きてくるけれど、朝食ができるまでに起きてこない日もある。
 今日のスレインは起きてこない。伊奈帆は目覚めたときに事態を把握していたので、まあ予想通りだ。朝食も今日は一人分しか作っていない。
「スレイン、起きて」
 寝室で丸くなっている黄金色の毛玉を、さわさわと撫でてみる。普段の彼の髪の毛はくせ毛に見えて、伸びるとそうでもないのだけれど、今日の彼を覆う毛はどこもかしこも渦巻いている。寝癖かもしれない。絡み合ったそれをすくように全身くまなく撫で回し、それでも起きないのでヒトのそれと比べて薄くてふにゃふにゃの耳をぱたぱたさせて遊んでみる。起きない。顎の下をくすぐり、大きくて分厚い手――前足の肉球を堪能しているとようやくむにゃむにゃと顔が歪んで、大きな目が伊奈帆を捉えた。獣らしく黒目の割合が多いけれど、その色は彼と全く同じ空の色だ。
「おはよう」
「わぅ、ぅぉん……っ、?!」
 動物の身体能力は凄まじい。自分の口から人語が出ないことに気付いたスレインは、ベッドから垂直に数十センチ飛び上がった。そのまま四つ足で着地して、目をまん丸くしている。眼球がこぼれ落ちそうでちょっとこわい。犬種はゴールデンレトリバーだろうか。それなりに大型で、存在感がある。
「こういうのって、同居してると伝染るのがテンプレートなんだ」
「ぎゃん、わう、ぅゔー」
「ううん……何言ってるか全然だ」
 昨日のスレインは、伊奈帆の言いたいことややりたいことを正確に汲み取っていた。あれは真似できない。
「とりあえず、朝ごはん食べない?」
 昨日君に買ってもらったドッグフード悪くなかったよと言ってみたら、スレインはしぶしぶベッドから這い出した。昨日の食事は全体的に足りていなかったので、空腹だったのだろう。自分のついでに調理した犬用バナナヨーグルトを出してやったら、黒い鼻を器に突っ込んで夢中になって舐めていた。

 スレイン・ザーツバルム・トロイヤードの存在を界塚伊奈帆が私的に記録することは禁じられている。映像写真その他ありとあらゆるものにおいて、明確に禁止されている。けれど今の彼はただの犬だ。今の彼の姿を鮮明に記録しても、居合わせた当事者二人以外これがスレインであるとは誰にもわからない。
「君の記録は禁止されているけど、犬の撮影は禁止されていない」
 つまり鼻の周りどころか顔全体をヨーグルトでベチャベチャに汚した姿を撮っても、誰にも咎められない。そして。
「君が散々弄んでくれたお返しを撮ってもいい」
 ボール遊びに夢中になってよだれをだらだらに流している姿を記録しても、誰にもそれがスレインだとはわからない。昨日さんざんみっともない姿を見せてしまったのだから、ささやかな仕返しくらいはしたいところだ。伊奈帆だって、スレインの可愛いところは堪能したいし。
 ふと見ると、スレインの長くて美しい尻尾はくるりと巻いて足の間に挟み込まれていた。犬が怯えるときに見せる反応だ。
……ああ、心配しなくても明日には戻るよ」
 安心させるためにそう言ってみたのに、スレインの尻尾はますます内巻きになってしまった。
 僕だけ撮られるのは不平等だという悲痛な犬語の叫びを伊奈帆が理解することはなく、その日以降界塚伊奈帆の写真フォルダは大量のアッシュブロンドの毛並みの犬の動画が容量を圧迫し続けている。