霞が関という場所は様々な政府機関が集結している官庁街である。その中でも突出して有名な建物が、特徴的な形をした警視庁の庁舎だろう。刑事ドラマでよくその外観が映し出されているし、見学ツアーなんかもよく開催されている観光名所のひとつのような建物だ。
そんな警視庁公安部に所属する私は現在自分のデスクで書類仕事に追われていた。ペーパーレスが叫ばれている昨今、基本的に資料や重要書類はデータ化されているものがほとんどではあるが、公安部という性質上調査の為の違法行為も多く含まれるため、データとして残せない資料がどうしても出てくる。そして単純に紙での報告書提出を頑なに主張する人生経験豊富な幹部の皆さま方もいらっしゃるせいで雑務は増える一方なのだ。前世も今世でも、こういう人たちは面倒を増やすばかりだ。
景光をあの夜救い出してからもう二年が経とうとしている。ということは、私が彼とひとつ屋根の下生活するようになってからもそろそろ二年目に突入するということだ。昔の私であれば推しとひとつ屋根の下だなんて緊張するし浮かれてもいただろうけれど、これを何度も経験してきた結果そんな感動も薄れてしまった。なんだかひどく勿体ないような気持ちになるけれど、感情はどうしたって鮮度によって左右される。初めて原作キャラクターを目の前にした時の感動や興奮、事件に遭遇した時の恐怖、撃たれた時の痛みも随分と慣れてしまったように感じるけれど、景光を目の前で喪う絶望だけは何度経験しても慣れなかった。
またループするのか、また私は五歳から始めなければいけないのかと気が狂いそうになって、正気の境界線が曖昧になりそうな瞬間、私は五歳の体に放り込まれる。狂ってしまったら、本当に無間地獄から抜け出せないことが分かっているから私はただひたすら、そこからまた二十年以上、景光と出会うあの夜を目指し生きるのだ。
けれど、もう限界だと私は感じている。もうこれ以上繰り返したら、私はきっと景光という存在を呪いだと思ってしまう。最初はフィクションの中のキャラクターでしか無かった諸伏景光という人に出会い、彼の人となりや優しさを、強さと信念を感じると彼に生きていて欲しいという思いが強くなった。けれど、ループを重ねるごとに少しずつ「終わらせたい」という思いが上回りそうになっている気がして怖かった。
心が磨り減りすぎて、もう小石くらいしか無いような気がする。それでも仕事は待ってくれないので順に片付けるしかなくて、私は前世以上に社畜のようにがむしゃらに働いている。評価を落としてしまえば前線に出られなくなる。そうなれば、彼を守る盾になることも出来ないのだから。
今朝から空席だった隣の席に男が戻って来た。お疲れ様、と顔を上げると彼は眼鏡の奥に険しい表情を滲ませている。
「青井、少し話せるか」
隣のデスクの同僚……風見裕也に私は頷いた。
「朝から警察庁に呼び出されて、ゼロの降谷という男に会った。俺をゼロの連絡員にすると訓示を受けた」
十四階フロアの端に位置する自動販売機のある休憩スペースは普段あまり使う人がいないため、あまり人に聞かれたくない話をするのに最適だった。風見はブラックコーヒーを、私は無糖の紅茶を買ってソファに座りながら飲んでいる。
「そう、おめでとう」
「……君の推薦だと聞いたが?」
「そうだよ。私が降谷さんに君を推薦した。私の後継として」
「寝耳に水だったぞ」
それはそうだろう。全国の公安警察を束ねる警察庁警備局企画警備課……通称ゼロの警察官と直接連絡を取り合える連絡員はごく限られた人数しかいない。それが誰であるのかも警視庁内で知る者は非常に限られているのだから連絡員の交代だって極秘に行われるものだ。それが現役の潜入捜査官であればなおさらで、そもそも潜入捜査官の連絡員が交代することなど殆どない。なぜなら、潜入捜査官にとって連絡員とは文字通り命綱だからだ。景光の場合、その命綱に裏切られたことになるため彼のショックは計り知れないものがあっただろう。
なんでも、バーボンである降谷さんと共にスコッチ死亡の偽装を行ったライことFBIの赤井さんが、最近NOCバレしたらしく組織を離脱したと聞いた。これでスコッチの死に疑惑を持たれる可能性があり、景光の警護はまた少し厳重になっている。
公安の中には、潜入任務を失敗した景光にそこまで厳重な警護を付ける必要があるのかという意見もある。それを降谷さんから聞かされた時、私は久しぶりに怒りの感情が腹の底から湧いてくるのを感じた。降谷さんも、静かに怒っていた。命をかけて、正義の為に手を汚さざるを得なかった潜入捜査官に対するその扱いは許されるものではない。景光のような元潜入捜査官をないがしろにすることは彼らの正義を、覚悟を踏みにじるということだ。猛抗議をした降谷さんに対し、身内贔屓なのではと言う者もいたようだが、降谷さんは圧倒的な正論で捻じ伏せて景光の警護と心のケアを優先してくれている。現役の潜入捜査官でもある降谷さん自身が一番、今の景光の不安を理解しているのだろう。
そして、先週とうとう工藤新一が黒づくめの組織の手により江戸川コナンとなった。まだコナンの姿を確認したわけでは無いが、トロピカルランドの事件のニュースは『名探偵コナン』の本編が始まったことを意味するいわば開幕アナウンスのようなもの。これからこの世界は今まで以上に凶悪犯罪が増え、黒づくめの組織の動きも活発になって来る。私はそれを知っている。
そんな状況で、私としても彼の警護と降谷さんの連絡員を両立することは難しい。降谷さん自身も私の後継となる優秀な人材を欲していたようだから、私は風見裕也を推薦したのだ。
私と風見は年齢が同じであり、警視庁警察学校で同期だった。しかも、同じ村田教場の出身だ。彼は真面目過ぎるところがあるが真っすぐで、正義感が強い。もちろん警察官としての能力が優れているのは当然として、どんなにしごかれても折れないメンタルの持ち主である。メタ的な話をすれば私は当然彼を前世から知っているし、ゼロである降谷さんの右腕となるのは彼しかいないと思っていた。
ちなみに同じく同期に伊織という目立つ男もいて、彼もかなり優秀だったが今はどこで何をやっているのかは知らない。
「降谷さんの右腕となるのは不服?」
ちらり、と隣に座る風見を見れば彼は眉間に皺を寄せてすぐに私の問いを否定した。
「光栄に決まっているだろ。だが……」
風見は一度言葉を切り、眼鏡を押し上げる癖を見せた。
「俺には君のような秀でた才能は無い」
おや、と思う。同じ教場の同期とは言えプライベートな付き合いは殆ど誰ともして来なかったけれど、風見は思いのほか私の事を買ってくれているようだった。
「君は十分優秀な警察官だよ」
「っ……〝村田教場の女王〟に言われても嫌味にしか聞こえない」
素直に思ったことを言っただけなのに、どうやら彼のプライドを傷つけてしまったようだ。そもそもクイーンなどと呼ばれるようになったあだ名を私は容認したわけでも無いのだけれど、いつの間にかそんな二つ名のようなものが独り歩きしてしまっているようだ。毛利小五郎の妻である妃弁護士が法廷界の女王と呼ばれていることは知っているけれど、大げさな二つ名はさすがに三十路にもなると厳しい。まあ、前世と数えれば生きている年数は三十年なんてものではないのだけれど。
閑話休題。
「別に彼の右腕となるために必要なのは秀でた才能なんかじゃないよ。ただ、降谷零という人の正義を信じて、それに誠心誠意応える仕事をすればいい。まあ、少し……いや、かなり無茶苦茶なことを言って来る人ではあるけど」
私は降谷さんに気に入られる必要があったから、全力で彼の仕事をこなして来た。全ては景光救出作戦に自分が参加するためであり、その後景光の身の安全を私が任せてもらえるようになるためだ。そのためなら、どんな無茶にだって応え続けてきた。
彼の与える仕事は非常に難易度が高い。一見無茶とも思える要望もあったが、私は徐々に彼と仕事をすることに充実感を覚えるようになっていったのだ。彼の下で働くのはとてもハードだったけれど、降谷零という男のブレない正義に磨り減った心に火が灯ったことも何度もあった。
「風見には私には無いものがある。きっとそれが、あの人に必要とされる時がくる」
「……君に無くて、俺が持っているものなんて」
「あるさ。風見には私に無い、血の通った人間味がある。情、とも言うのかな」
「やはり俺のことを馬鹿にしていないか?」
風見の眉間の皺が更に深くなってしまった。なんだかループの度に私はコミュニケーション能力が低くなっているような気がする。まあ、情を捨てろと言われるのが公安という仕事ではあるのだけれど。
「連絡員の交代は、潜入捜査官にとって命に関わる問題だ。でも、今の降谷さんには風見が必要だと思う」
「買い被りすぎだ」
「まさか、断りはしなかったんでしょう?」
「断るはずが無いだろう。ただ……プレッシャーが強い、というだけだ」
彼はそう言ってブラックコーヒーを飲み干す。彼が降谷さんの右腕になれば、きっと今まで以上に激務が待っているし理不尽に叱られることも増えるし、胃に穴が空きそうになることや、食事を摂る暇も無くなるだろう。『これ公』される未来があることも私は知っている。
けれど、彼の隣にいるのは私ではなく風見裕也が最もふさわしい。前世の記憶だけでなく、彼の能力や性格を知っているからこそ余計に私はそう思うのだ。
「風見、降谷さんは厳しい人だし、怖い人だし、たまに理不尽だ。あと超がつくほどのパワータイプでもある」
「……青井は俺を怯えさせたいのか?」
違うよ、と私は首を横に振った。全部事実だけれど、それだけではないのだ。
「彼の正義は、常にこの国の為にある。この国と、この国を生きる人々の生命と尊厳を守るためにある。あの人はそこがブレないからとても強い。だから……彼の背中は任せたよ、風見」
これも風見にとってはプレッシャーだろう。事実、もう既に胃の辺りを擦っている。今はまだわからなくても良いのだ。これから風見自身が降谷零という人を私以上に知っていくのだろうから。
励めよ、と背中を叩くと、彼は大きなため息をつきながらも頷いた。
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