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guttaru
2025-07-24 00:38:36
41488文字
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【ディオジョナ】HOPE
・敗北IF、もしツェペリさんがジョナサンのところに現れなかったら?というパターンです。
・上記の設定のため結婚式の時期が違うなどの原作との差異や捏造があります。
・暴力的、性的な描写があります(性的なシーンがさらっとであるため閲覧制限はしていません)。
HOPE
『危険が過ぎれば神を忘れる』という諺は、人間の本質を実に巧みに表している。人は自分や身近な人の死を近くに感じるときには熱心に神に祈り、これからはより善い人間になるので助けて欲しいと願うが、危険が喉元を過ぎたとみるや途端に祈る手を解いてしまう。きっとジョナサン・ジョースターも神を忘れている頃だろう──ディオはそう考えていた。
***
ロンドンから南へ馬で六時間、重なりあって平面に見えた山々がしだいに解れ、山と山の距離が生まれて立体的に感じられるほど近づいたところで、真っ黒な口を開けて誘い込むようなトンネルが道の先に現れる。その口を目掛け、だんだんと轍の浅くなる道を進み続けると、遠目には誘うように見えたトンネルが入り難い禍々しさに満ちていることを目前に確認することができる。どんなに経験のある駿馬でも踏み込むことを躊躇う三百メートルの暗闇をつくっているそのトンネルを、馬に鞭打って入らせると、はるか遠くに白い点として出口が見えてくる。その点に近づくほどに、点の正体が月明かりを受けて白く輝く空と空であることが分かる。出口を抜ければ、そこがウィンドナイツロットだ。馬が暗闇から解放され、押しつぶされるように縮こまらせていた胸の筋肉を膨らませて再び蹄を地面に叩きつけるように鳴らし始めるころには、風にかすかな潮が混ざっていることを感じられるようになる。
ロット内では、天然の要塞的な地形を活用した刑務所は除くにせよ、人々が生活に必要とする住居や公共施設のほとんどがひと纏めにひしめいている。人口が少ないためまとまって暮らす方が何かと便利であるからだろう。しかし、いくら人が少なくても、人間とは二人以上存在する時点で格差を生みだそうとするものである。
町からやや距離がある丘の上に屋敷を構えた者は、きっと自分たちは他の住民らと格が違うと思っていたに違いない。町を一望できる立地はその気持ちをさらに強めたことだろう。それでいてやっかまれて村八分になることは恐れたのか、内装の絢爛さや高い機能性の割に外観は控えめである。もう長らく使われた形跡がないことを考えると、屋敷を建てたプラグマティストはきっと零落したのだろう。
ディオはこの屋敷を見たときに、燃え落ちたジョースター邸の方がよほど豪邸だったと思った。それでも、彼が幼少期に住んだ、一階が酒場だったあの狭い家に比べれば
……
あの家は本当に嫌いだった。酒を飲んだ人間がゲップと共に吐き出す胃液と酒の混ざったすえた匂いが壁や天井に沁み込み、二階にあるディオの部屋まで届いていた
……
このロットの屋敷だって十分な豪邸である。だが、ディオにはこんな屋敷などどうだってよかった。彼が欲しいのは権力だった。崇められ、無条件に差し出される、絶対的な権力。生物界の頂点に立つこと、それが目的である。
あのリバプールのジョースター邸からロンドンに移動してしもべを増やし、それからここウィンドナイツロットまで辿り着いてから、ディオの頭を占めるのはその目的ばかりであった。そもそもこの町に来ることを選んだのもそのためである。この町は強力なしもべを増やすのに魅力の多い歴史と立地を持っていた。ロットの街路を踏んだ瞬間、ディオはこの町を掌握するのは一晩で事足りると判断した。それも、いつでも容易く行えると思った。町の支配のことで頭を悩ませる必要はほとんどなかった。
思想が発展したのは人が分業することで食糧の生産が余剰になり、考えることだけに専念できる人間が生まれたからだ。要するに、暇が人に人の内側へと向かわせるのだ。傷が癒えるほどに、ディオには余裕が生まれた。余裕は彼を過去へと運び、以前とはまるで世界が違うことに思いを馳せる時間があった。彼の脳は、彼が望むか望まないかに関わらず、彼が身を隠したロットの屋敷より一回りも二回りも大きかったジョースター邸での出来事を何度も反芻させた。夜の帝王となる自分が過去に捕らわれるべきではないと思いながらも、考えずにはいられなかった。あの夜は、あまりにも奇妙であった。
数日前、ディオは人間をやめた。彼が七年間住んだジョースター邸の主人であり、ディオの義父であるジョージの暗殺にディオは失敗したのだ。そして義兄弟のジョナサン・ジョースターにその証拠を突きつけられ警察に突き出されたとき、ディオは石仮面をかぶった。仮面の力は素晴らしかった──“実験”で被験体が太陽に殺されるのを見ていたので決定的な弱点があるとは分かっていたが、それでも素晴らしい力だった。あの解放感。これまで懸命にペンを走らせ本を捲って法律を学んできたものの、ヒトの形をしたモノを砕いた瞬間、ディオは自分が規範なぞに縛られたくないと思っていたことを理解した。“人間”の定義など知らないが、骨針が脳に届いた衝撃と銃で何発も撃たれた痛みが通り過ぎて行った後の解放感はやみつきになるものがあった。自分は法など意味のない世界に来たと、本能的に理解した。これまで社会が、世間がタブーとして彼に押し付けてきたもの全てをぶち壊していくことは快感だった。警官をミンチにするのもまさにそれだ、これまで味わったことのない愉しさがあった。ナイフでバターを切るように簡単に人が割れていくのだ。あれに笑わないで居るなんてディオには難しかった。
手に入れた驚異的な力を見せてやりたい人間がいるとしたら、それはジョナサン・ジョースター──ジョジョをおいて他になかった。さまざまな意味で、ジョジョには見せたかった。ディオからすると思い出したくもない七年前の雪辱
……
ジョジョと殴り合いの喧嘩で初めて劣勢になったときに石仮面が作動していたのを見たのはお前だけではないと言ってやるために見せたかったし、自ら管理していたはずの石仮面の力で警官らが無残に殺害されたらジョジョなら感じるであろう後悔に存分に苛まれて欲しいがために見せたかったし、七年もディオが “仲良く”してやったのにディオを二階から一階に放り投げた挙句『僕らには最初から友情などなかった』と言ってのけたジョジョを恐怖と絶望のどん底に突き落としてやるために見せたかった。
結局、あの場面でも、ジョジョはまだかつてのディオよりも“持っていた”。大人が子供に暴行を働くのが日常的であったあの街ではついぞ姿を見かけなかった警官どもはジョースターどもの傍に立ってこちらに銃口を向けていた。加えて、助け合いという言葉が存在しないはずのオーガストリートの気配を纏う浮浪者同然のチンピラはジョジョのためにディオに引き金を引いた。はじめからそうだった。はじめから、ディオは何もかも持っているジョジョが憎かった。自分がジョナサン・ジョースターとしてこの世に生を受けなかったことが憎かった。ジョジョの持つすべてが欲しくて、悔しくて、憎くてたまらなかった。
ディオから奪うばかりで何も与えなかった社会のルールに則って闘わなくていいと分かった瞬間が、あの解放感を生んだのだろう。思えば、それがいけなかったのかもしれない。あの快感に酔い、油断したのがいけなかったのかもしれない。少しでもジョジョが苦しむのを長く見ようと、彼を最後に取っておこうとしたのがいけなかったのかもしれない。
ジョジョによって炎の海に落とされるという危機的状況で、ディオは神に祈るどころかこの世の全てを呪っていた。持たざる者として生まれてきたことを、石仮面によって新たな門出に立ったはずなのに閉じようとしている第二の人生を、そして七年間同じ屋根の下で育った “親友”のジョジョがディオを討つために共に炎に飛び込む度胸を見せてきたことを。この世の全てがディオを成功や幸福と呼べるものから遠ざけるために力を尽くしているかのように感じられた。与えようとも奪わせようともしない世界が憎かった。
ウィンドナイツロットに到着して数日間は、ディオはジョジョもあの業火に焼け死んだものと思っていた。生まれ変わったディオでさえ見開いた目の表面がひび割れるほどの強い火だったのだ。ジョジョが生きているとは到底思えなかった。ロットに着いてからというもの、時間ができる度に、ディオは自然とあのときのことを思い返していた。
焼かれながらもディオは炎よりも激しい怒りと憎しみでいっぱいになっていたが、もしそれ以外の感情があったとすれば、それは「驚嘆」であった。ガキの頃に一度だけ見たジョジョの爆発力がまだ消えていなかったことへの、そして彼が自分もろともディオを止めようと炎に飛び込んだことへの驚きだった。生まれた時から何もかも与えられた坊ちゃんのくせに、友人も小娘も駄犬も父親さえも養子のディオに奪われたマヌケな貴族のくせに、ジョジョのくせに──ディオの“親友”として七年も過ごしたくせに、ジョジョはディオと共に迷わず炎の中に飛び込み、ディオにナイフを突き立てたのだ。彼が七年間腹の奥でどう思っていたかがあの刃のひと突きに表れていた。手酷い裏切りにあったような心地がした。それでいて、思っていたよりジョジョはマヌケではなかったと感心するような気持ちがあった。
彼はディオの圧倒的な力を前に命乞いすらせず抵抗するという愚行を犯し、結果的に自滅というディオには到底理解できない行動をとってきたが、それでも潔い退場ぶりだと思えた。考えてみると、ジョジョはやはり“いい奴”だった。彼が屋敷を燃やしてくれたおかげでディオを捜索する輩もいないし、石仮面の秘密を知るものもほぼいない。浮浪者じみた帽子の男が生き残ったかもしれないが、ああいう連中の話に聞く耳を持つ者はいないと断言できるため気にすることもないと思えた。
その上、ディオに立ち向かおうとしてきたジョジョの姿を思うと、妙に誇りのような気持ちさえ感じられた。もしあの時に彼が恐怖に震えて失禁するだけの男ならディオの記憶には残らなかったろう。曲がりなりにもディオの唯一の幼馴染の彼は、例え愚かな行為でも、逃げはしなかったのだ。人は自分の出自を少しでも立派なものと思おうとするものだが、それと似ていて、ディオには自分のなかにも唯一“親友”として扱った男に立派な人間であってほしい気持ちがわずかながらにもあるようだと気付いた。マヌケで愚かでどうしようもない阿呆であったにせよ、ジョジョが立ち向かってきたことは、機嫌の時に思い返すと『奴こそ俺の元兄弟に相応しい』などと思えたのだ。
だからこそ、ウィンドナイツロットに到着してから旬日が経った頃に、ジョジョが生き残ったと知ったときにはさらに驚いたものであった。まずディオの頭に浮かんだのは『抹殺』であった。石仮面のことを知っている者を生かしておきたくはなかった。だがほとんど同時に浮かんだのは『恩赦』であった。たかが人間の、それもあんな業火に落ちた重症の男一人をわざわざ追い詰める必要はないではないか。愚かだが一種の度胸があったと認めてやり、赦してやるべきでないかと思えたのだ。それに、素晴らしいこの力はジョナサンが石仮面を研究していなければ手に入れることができなかったのだ。
石仮面がディオのボディに与えた能力は素晴らしかった。今や彼は、忌まわしき太陽による負傷を除いて、どんな激しい損傷でも治すことができる身体となっていた。あの屋敷で炭になりかけた身体の治療をおおかた終えてから、ディオは自分の力を試すことに熱心に打ち込んだので、それは確かなことだった。あらゆることを彼は確かめた。五感はどのくらい鋭くなったのか、どれほどの体力や腕力、脚力があるのか、空は飛べるのか、水中はどうか、満腹になることがあるのか──
…
様々を調べ、自分なりの限界という尺度を彼はつくった。その結果、身体中の神経が細胞レベルで敏感になっていることを理解し、自分の肉体について動かせない部位は心臓以外にはないことを知った。
かつては存在すら意識していなかった関節や血管や神経網を、今なら変幻自在に動かすことができる。必要なら血管を伸ばしてそれだけで動くことだってできるし、管を思い切り伸縮させて体液をまるで銃のように発射させることだってできるだろう。それでいて、不思議と痛覚は遠いのだ。たしかに痛みを感じるのに、嗅覚や触感と同じようにただ感覚として受け止めることができる。痛みに振り回されることのない身体というのは、自分が人間より上位の存在だという証の一つだとディオは思っていた。
どんな病魔にも侵されることはなく、老いさえ追いつけない永遠の生命。ディオは自分の能力を試し、その底なしの可能性を発見する度に、ようやく自分に相応しい自分を手に入れることができたと思った。あの田舎のちゃちな貴族の財産などこの肉体の素晴らしさに比べればなんとちっぽけなことか。どんなに財があったって死ねば使えなくなる。財産を欲しがるよりも、まずは永遠に生きられることを目指さねばならなかったのだ。人間だった頃はそんなことを思いつきもしなかった。それが人間の思考の限界だったのだ。
こんな風に考えて、ディオはわざわざ元義兄弟を殺しに行くようなことはしなかった。もはや生きものとしての格が違う。惨めなうえに短い残りの人生を歩むジョジョを放っておいてやる寛大さくらい持ち合わせている
……
彼は自分に対し、そう結論付けたのだった。
ウィンドナイツロットはディオが町に入って半月後、一晩にしてすべての住民を喪った。ディオが予想していた通り、町ひとつを陥落させるのに一晩もかからなかった。ただ、それを試すだけ試したあとは、ディオは第二のウィンドナイツロットをつくることはしなかった。ウィンドナイツロットの消失は、ディオに三つのことをもたらした。まずは優秀な部下だ。剣士の養成所だったロットには質のいい遺体が埋まっていた。彼らはこの世への復讐の機会を与えたディオに忠誠を誓った。誓わない個体は遺体に戻すか、脳にディオの細胞を埋め込んで裏切りを考えられないようにした。
二つ目は、今後の戦略だ。試しに部下を急増させたことで連中の扱い方が分かり、世界の支配に部下がどう活かせるかも見えてきた。連中の特性を考えるに、ウィンドナイツロットに行ったような急速な支配のやり方は太陽への対策が不明瞭な今は現実的ではないとディオは判断した。アンデッドどもには共食いの特性があると分かったのだ。連中を一箇所にまとめるとせっかく増やした数も確保した場所も無駄になり得る。そして何より、連中の残虐性と食欲は底なしだった。
これらを思うと、太陽が人間の味方であるかぎり、派手に動くことには危険が伴うと言えた。何よりも恐れるべきは「食糧不足」だと確信したのだ。考えなしに手下を増やしていくと地上の食糧はあっという間に枯渇する。そうなると、いよいよ太陽に晒されるリスクを負って支配域を拡大しにいかねばならない。結局は太陽だけが今のディオにとっての敵であった。それ以外は赤子も同然、卵を靴底で踏みぬくのと同じくらい容易い敵である。
そして三つ目に、人間の中にもやや特殊な連中がいるという気付きだ。ロットの一件以来、卵にしばしば石ころが混ざっていることがあった。波紋使いだとか名乗る妙な術者が現れ、ディオの手下を削っていったのだ。最初こそ警戒と興味を覚えたものだったが、それもそのからくりが理解できるまでであった。術者を一匹捕らえて研究したことで対処法が見いだせた途端、ディオの関心は術者らからするりと離れていった。
あの波紋という術は人間が身につけるには想像しがたいほどの研鑽が必要なのだろうが、ディオには数日あれば波紋の攻略に充分であった。自分が人間を超越した存在であることを再認識しただけで、あとの対処は作業だ。少し苦労があったとすれば部下らもちんけな波紋とやらに対処できるように彼らをより凶悪につくり変えることであった。それにより、たまに数は減っているが、大きな問題もなく波紋とやらに対処できている。
特にブラフォードとカルタスという名の元騎士の活躍は目覚ましく、手強い術者が現れると彼らが率先して闘いに行った。二人は波紋使いと闘うのが今は何よりも楽しいらしく、ディオがいちいち指示を出さずとも彼らで勝手に対処していた。
ウィンドナイツロットを実験的に陥落させたことで得られたこの三つを踏まえても、やはり一番の問題は太陽であった。太陽が敵である限り、部下は下手に増やせない。思考力のないアンデッドも手数としてプールしておくにせよ、ディオの軍隊の規模が拡大できない今、食欲より忠誠の強い部下が必要だった。いずれもっと数の増えるアンデッドの共食いや狂暴性をある程度コントロールできる優れた部下から増やしておきたかった。問題は、ディオに忠誠を誓わせることは簡単だが、優秀な者がそもそも少ないことである。
ブラフォードとタルカスのようにこの世を壮絶に恨んでいる二人や、ジャック・ザ・リッパーのように残虐性が高い者ほどアンデッドらに言うことを聞かせることができるようだとは分かったものの、彼らのように悪において優秀な部下は非常に稀であった。太陽のせいで派手に動けない現状では地道なスカウトを展開するしかない。今できることはディオに忠実な部下を各所に送り込み、こちらの世界にふさわしそうな強さと闇を持つ人間を探して連れてこさせ、生まれ変わらせてやるくらいなのだ。ディオの審判次第では食糧庫に行くだが、今のところはこれで少しずつ部下を増やす程度が精いっぱいだ。多くの人間は気付いても居ないが、彼ら彼女らは太陽によって守られている。それさえなければこの世はとっくにディオの支配する世界だっただろう。
よって、ディオが考えるべきことは一にも二にも太陽の克服であった。それ以外の入り込む余地など微塵もない。だというのに──
…
ディオが闇に生きるようになってからおよそ一年が経った晩のことであった。その晩、ディオの前に連れてこられたのは一人の青年だった。部下はディオに気に入られようと食事を用意してくることがあり、そのほとんどが攫いやすい若い女だったが、たまに間違えたかのように若い男を連れてくることがある。部下の好みなのだろう、血管の浮いて見えるほど鍛えられた身体はたしかに健康的で食事にはうってつけに見えた。
その青年は恐怖ですっかり竦み上がり、ここに連れてこられるまでさして抵抗しなかったのか、衣服の破れ以外に怪我もないようであった。ディオの足元で腰を抜かして座り込んだまま、布と化したシャツを胸元に押し当て、男は震えあがって歯を鳴らしていた。そうして泣きながら、そろそろと顔を上げたかと思えば、あっと驚きの声を上げた。それはディオに見覚えのある者がする反応だった。彼はずりずりと床を這うように後ずさりながら口を動かした。
『ディ、ディオ・ブランドーッ!や、焼け死んだんじゃあ、しし新聞にも、みんな、みんなあんなに泣き叫んで、い一体、一体どういうことなんだ?悪夢か?さ、さっきの化け物、あれは?』
ディオは男のことなど知らなかったが、男はこちらをよく知った口ぶりだった。ディオは面倒に思った。人間だった頃の自分を知っている者になど興味はない。出生の呪いから逃れようと “皆に尊敬されるディオ・ブランドー”をあんなに必死につくっていた過去の自分が今のディオには哀れなのだ。絶対に勝てないルールで闘わされていたあの頃。それがディオに毒薬へと手を伸ばさせた。
ため息を吐いてゆっくりと瞬いたディオに何を見たのか、男は顔を真っ白に青ざめさせて、両手を顔の前でこすり合わせて神に祈るように懇願を始めた。
『た、助けて、助けて、誰にも言わない
……
』
男の言葉を無視してディオが一歩近づいたとき、男は短く叫び、えずきながら言葉を絞り出した。
『ジョ、ジョジョは見逃したんだ、そうだろ?ジョジョは見逃した
……
助けて、俺も婚約者が居るんだ、助けてくれ』
『なに?』
思わず出た自分の大きな声に、ディオは驚いた。勝手に喉からほとばしり出たその素っ頓狂な声は、まるで学生のような若さがあった。
『あ
……
』
男は両手を顔の前で合わせた祈りの姿勢のまま、青白い顔をディオに向けた。一瞬、男の目は、理解できない化け物を見る目から話が通じる人間を見る目をしたように感じた。
その瞬間、婚約者が居るという男は首から上を失った。べちっと硬い肉が石畳の上に崩れ落ちる音が妙に大きく響いた。『はっはっ』と荒い呼気も聞こえていて、それが自分の口から聞こえてくることにディオは数秒してから気が付いた。
それから二日の間、ディオの頭から太陽の問題は消え失せていた。およそ一年前、あの晩を生き延びて病院に運び込まれたジョジョは息をするだけで精いっぱいだったはずだ。呼吸ひとつにも焼けた気道が痛み、全身の肌は水膨れでパンパンに腫れあがり、あらゆる骨を折っていた。ジョジョの重傷ぶりは念のため病室を遠目に視察させた部下ワンチャンからの報告で聞いていたし、そもそもあの晩ジョジョの負傷の具合を計算しながら彼を追い込んだのはディオ本人であったので、彼が負った傷がどれほど深いかは想像に難くなかった。ジョジョにはボロボロの身体以外に何もなかったはずだ。あとは苦しく短い人生をみじめに終えるだけ──だから、ディオは彼を赦してやったのだ。石仮面の力をディオにもたらし、曲がりなりにも七年は“親友”を演じ合った義兄弟の立場に免じて。
二日の間、ディオの考えは何度も浮き沈みした。一方は、『もう過去の人間に構う必要はない。あの晩はこの力を手にしたばかりで奴に思わぬ反撃にあってしまったが、あれから俺はこの力を研究してさらに力を引き出せるようになった。このディオに付き従う凶悪な部下も増えている。たかが人間ごとき、あのマヌケはもうこのディオに絶対に敵わない。それに、婚約したのはボロボロの身体や財政を支えてもらうのに必要だったからではないか?惨めな男をわざわざ殺しに行くなど貧相な考えじゃあないか』と、主張してきた。
だがもう一方の声は、『このディオに歯向かった人間を生かす必要がどこにある?それに、奴が婚約者なぞの力を使ってすっかり快復して、石仮面のことを世間に話し始めたら?もちろん、巷間にはホラ吹きという烙印を押されるだけだろうが、だが奴には妙に人を惹き付ける力がある。あのオーガストリートを生きて帰ってきて、あまつさえたった数日でチンピラ一匹を味方につけていたのだ。学校でも、このディオの影響は大いにあるだろうが、結局ジョジョを心底悪く言う奴は一人もいなかった。奴のああいうところは侮れない、生かすべきではないんじゃないか?』──こんな風に、他方の主張を退けようとしてきた。
結論が出たのは、ジョナサン・ジョースターが婚約したという話を聞いてから三日目だった。ディオはついに、三日前から彼が意識すまいと意識的に避けていたが、実のところ最も手に入れたかった情報を新聞から入手することになった。闇を支配するようになってからも人間の情勢を知るべく新聞等は手に取っていたが、ここ数日は毎晩─
…
特にリバプール地方のニュースに明るい地方紙を
…
読み込んでいた。まさかそんな事はないと思いながらも、記事にあの名前が出ていないかを確認せずにはいられなかった。舐めるように端から端まで記事を読んだ。そして、小さな範囲に詰め込まれた文字の中に『ジョースター』の文字を捉えた瞬間、ディオは瞬きをやめた。
こんな偶然があるだろうか?たまたま部下が連れてきた青年が大学の人間で、その人間がたまたまジョジョの近況を知っていて、たまたまジョジョのことをディオの前で口走った。そしてそのわずか三日後に、“たまたま”ディオが目を通した新聞にジョジョの名前が載るのだ。ディオの中で漂っていた『まさか』という疑念は、その記事で確信に変わった。ジョナサン・ジョースターの文字の横には、エリナ・ペンドルトンの文字があった。
ディオの中でジョナサン・ジョースターの判決が下った瞬間だった。死刑だ。
一度そうと判断すると、ディオはこの三日間、いや、この一年──もっと言うならば七年の間、なぜジョナサン・ジョースターに仮借を与えたのだろうと自分の過去の判断に激しい憤りを覚えた。腹の奥から噴出してきたどす黒い感情は、すっかり完治しているはずの火傷が再び皮膚の下で火を噴いたかのような痛みを伴って彼を襲った。激痛だ──
…
それは、“コレをなかったことにさせるな”とディオに訴えているようだった。
この一年、波紋使いだとかいう新たな敵の登場を認めた時にも感じなかった強い感情がディオを揺さぶり、知らずのうちに彼に鋭い歯をガチガチと鳴らさせていた。血の通ったあたたかいものに牙をつき立てたくて仕方がない。感じたことがないほどの強い渇き。一刻も早く喉を潤したい。この渇きを癒せるのは間違いなく一人だけだ──ジョジョの生命が何においても欲しかった。
視界を真っ赤に染めた怒りと痛みが落ち着くまで、ディオには時間が必要だった。記事を目にしてからあるはずのない脈が激しく打ち、目の前を染め上げていた赤がゆっくりと引いていくと、もうずいぶんと懐かしい感覚となっていた“痛み”も薄れていった。ディオは新聞のたった数行の文字が自分に何をしたのか、一体何が起こったのか、息を落ち着かせながら考えた。やがて、彼はその正体を突き止めた。「屈辱」が、ディオに痛みを思い出させたのだ。
考えてみれば当然のことだ──生かす方がリスクになるジョジョを、自分はやれ『石仮面の力はジョジョが俺にもたらしたも同然』だとか『ジョジョは重症で何もかも失い、どうせみじめに死ぬ』だとか、『曲がりなりにも幼馴染だった』などという下らない言い訳を並べ立ててジョジョにトドメを刺さなかった。これがディオの弱さや逃亡でなくて何だというのだろうか?
そもそも長年、ジョジョの存在自体がディオには屈辱的だったはずだ。ジョジョを見ると、自分がいかに奪われ続けたのかを感じずにはいられなかった。ガキの頃からそうだ。ジョナサン・ジョースターとして生まれなかったことをずっと悔しく思っていた──なぜあのマヌケが貴族で、この俺にはあんなカスの父親が宛がわれたのかと、ずっと思っていた。あの屋敷の燃えた晩には愚かなりにも多少骨のあるところを見せはしたかもしれないが、ジョジョはずっとディオにとってこの世の理不尽の象徴だった。だからジョージの方を手に掛けようと思ったのだ─
…
父親を失って落ちぶれていくジョジョの様子を、自分は法律家として生計を立てながら、落ちるところまで落ちるジョジョの様子を生涯嗤ってやろうと思っていたのに。ジョジョが、結婚?しかもあの小娘、あのエリナ・ペンドルトンだと?
ジョジョは「日常」に戻ったのだ。記事は慎ましい結婚式だったと報じている。きっと太陽のたっぷり降りそそぐ光の中で誓いを立てたのだろう。彼の側に並んだのは、死んだジョージ・ジョースターの顔を立てるために仕方なしにやって来た遠い親戚くらいだろうか?かつて、ジョジョと“親友”のままだと、いい条件の女を見つけたときに彼に仲人をやってもらわなければならないと考えたことがディオにはあった。お互いにそうなりえると思っていた。だが、ジョジョの式にはもちろん彼の“親友”は出席していない。
きっと、ジョジョは大学の友人らなども式に呼ばなかったに違いない。“親友”を思い出すような要素は一切排除しただろう。彼はディオを夜の世界に押しこんだことをなかったことにして──いや、自分は夜を支配しているのだとディオは自負しているが──、彼は悠々と伴侶とやらと共に陽の下を歩いていくつもりなのだ。運び込まれた病院に居たらしいあの小娘
…
──本当に偶然か?『女からは常に学ばされる』と古い言葉にもある通りだ。これだから女は油断ならない──エリナ・ペンドルトンと結婚して、ガキでもこさえて。ディオの痕跡を汚点として彼の人生の中から完璧に消しながら。幸せにでもなるつもりに違いない。幸せになど、よくも────
…
***
ギシ、と木の軋む音にディオは意識を目の前に戻した。右の手元を見やると、肘掛け部分が鋭い爪で抉られていた。よく手入れされた刃物でもここまで簡単に太い木を傷つけることはできないだろう。ディオは肘掛けから手を離し、木くずのついた指先にふっと息を吹きかけた。
白い粉となってパラパラと舞い落ちた木くずが、ディオの足下でうずくまっている女の背中に降りかかった。暗がりの中でほの白く浮かんで見える背中は大きくぶるりと震え、女が口から吐息と共に恐怖を吐き出す。手下の持ってきたこの食事は、ディオの足元まで引きずり出されて一時間は命乞いをした。がなり立てるような必死の抵抗ではなく、か細く弱々しい声でさめざめとすすり泣く声が耳に心地よくて、ディオは食事を後回しにして女をずっとそのままにしていたのだ。そもそもこの状況で、腹など空かない。いや、なにも、意識しているワケじゃあないが──
…
食糧はいつの間にかすすり泣くのをやめて、額を冷たい石の床に当てたまま押し黙っている。春の季節とはいえ、城の地下の岩石をくり抜いて作られたこの空間に一糸まとわぬ姿で居るのは凍えるような心地だろう。一筋の太陽も届かない場所なのだ。実際、女の肌に血の気はなく、どこもかしこも小さく震えていた。
洞穴のような広々とした空間は、大人の銅よりも太い石柱が飾りのために立ち並んでいる。松明を取りつけられたその柱の陰で、手下がじっと立ち、主人であるディオの命令にいつでも従えるように待機していた。そのうちの数名は、明らかに主人からの“褒美”を待っていることをディオは嗅ぎとっていた。主人がなかなか手を付けない食事のおこぼれを欲しているのだ。手下らの欲望は手に取るようにわかる。そしてまた、人間の方の感情も腐った肉とそうでない肉を嗅ぎとるのと同じくらいに容易くわかる。人間はいつだって決まって恐怖でいっぱいだ。そして、足元の女と同じように、必死に神に祈る。神様、自分はもっと善き人間になることを誓うから、何とかしてここから温かい地上に戻してください、と。ジョジョもあのとき、あのジョースター邸が焼けたとき、神に祈っていたのだろうか?もしそうだとしても、きっともう神を忘れている頃だろう。
『部下は無事にジョジョの宿泊先まで辿り着いただろうか?』
再び肘掛けに爪を食い込ませながら、ディオは考えた。ジョジョは、新婚旅行で明日米国に渡る予定となっている。その船出に間に合うように前泊する可能性の高いエリアに部下のワンチェンを向かわせ、ジョジョをこの古城に──ディオが水面下で手に入れたアジトの中で最もリバプールに近い位置にある巨大で豪奢な場所に──連れてくるように命じたのだ。
新妻の方は放っておいていいと伝えたが、本当は二人とも攫って来てジョジョの前でエリナをバラバラにしても良かった。そうしてやりたい気持ちの方が強かった。新聞記事を読んだときに彼らが目の前に居たならば、そうしたかもしれない。だが、少し冷静になってみると、そんなことをすれば自分の“格”が落ちるような気持ちになった。たかが人間一匹にこだわるなど、人間を超越した存在となった今、実に下らないことだと思わねばならない。そもそもジョジョとの再会を小娘の臓物の匂いで台無しにされるのはごめんだ。それに、ジョジョには、コレは感情的に動いた結果ではないと証明したい。ジョジョが今晩死ぬのはディオが裁判長の如く論理的に考えた結果であり、決して私情ではないのだとジョジョには分かって欲しかった。ディオはかつての青年とは違い、生まれ変わって夜の帝王になったのだと、ジョジョが正しく理解できる振る舞いが望ましい。そのためには花嫁の惨殺ショーなど催さない方がいいに決まっている。
『部下が、万が一にも奴の死体を持ってこようものなら
……
』
カタン、と、切断された肘掛椅子の木材が石の床にぶつかった。足元でブルブルと震える青白い背中をじっと見下ろすディオの瞳の奥で、炎のように静かに赤が光った。女の青白い背中の皮膚が小刻みに震え、発する恐怖が色濃く立ち上ってくる。青白いほどに血の気の失せた背中が揺れ、かすかに隆起した肩甲骨の間をうっすらとかいた汗の粒が流れていく。
ディオが彼女の首筋に手を伸ばした、その時、城のすぐ外に部下の気配を感じ取った。そして、あたたかい血の気配も。実に一年ぶりの気配だ。だのに、ディオにはそれがジョジョだと本能的に理解した。
弾かれたようにディオは立ち上がった。ワンチェンは仕事をやり遂げたのだ。上階に移りたかった。満月の近い夜だ、月明かりがある方が人間のジョナサンも自分の身に何が起こっているのかじっくりと見ることができるだろう。
「ディオ様?」
柱の影に立つ部下の一人が声を掛けてきた。
「上に行く。“それ”は下げていい、好きにしろ」
ディオは部下を見もせずに返した。階段を上る彼の背中を女の甲高い悲鳴と骨が砕け肉の裂ける音が追いかけてきたが、彼は聞いてもいなかった。
王の間は、ジョースター邸の食堂よりひと回り広かった。彫り飾りのある何本もの石柱に、最後の審判をモチーフにした煤けた絵画が広がる天井が支えられている。四方の壁のうち一面はバルコニーに続く吹き抜けがあり、そこから遥か遠くに切り立つ岸壁やその合間から顔を覗かせている青い月がよく見えた。
古城はウィンドナイツロットのすぐ裏側に位置していた。あのロット同様に険しい岸壁や海による要塞的な地形がここでも十分に活かされており、人里から隠された場所に建っている。以前ロットを拠点にしていたときにはすでに見つけていた城であった。眺望は見事だ。ジョジョも最期に景色を楽しむことができるだろう。
青い月明かりで、王の間はどこか荘厳な空気を漂わせていた。切り出された岩で作られた床も、大理石の石柱も、なにもかもほの青く染め上げられている。流れる雲が時おり月を隠すと、ところどころに設置された燭台の炎の橙色が際立って輝いて、高い天井まで届いた火の明るさがそこに描かれた天使のかすかなシルエットを影のように浮かび上がらせた。煤けた絵画はほとんど真っ黒で、天使の翼を持つ悪魔のようにも映っていた。
ディオは王の間の中央に設置された王座に腰掛け、その時を待った。肘掛椅子に凭れながら、彼はふと肘掛けを無意識に強く掴んでいた手を離した。みっともなく爪を立てようとした力を緩め、手を投げ出すように置き直す。硬い木製の椅子に凭れなおし、リラックスした姿勢になるように努めた。ディオは夜を隷属させたのだとジョジョがひと目で分かるように。ジョジョはこれから神を思い出し、祈るのだろうか?あの晩は一度もディオに頭を垂れず、命乞いをする素振りすらしなかったが、今晩の彼はどうだろう。夫として、妻の元に帰りたいと泣き喚くだろうか?あの小娘の元に──
…
王の間に、二人分の荒い足音が響き渡った。ディオはゆっくり顔を上げた。フロアに飛び込むように現れた二つの影のうち、手前のものがジョナサン・ジョースターであった。彼が疲労困憊であることが脚のもつれるような動きで分かった。船場に近いエリアからここまで馬を急がせても二時間は掛かる。部下の用意していた道具に縄があったので、逃げられないように縛り上げて木箱にでも押し込められたに違いない。目立つ街道は馬車で、目立たないところからは屍生人のパワーとスピードを活かして手車にでも乗せられ、大層窮屈な思いをしながら大いに揺さぶられてここまで来たのだろう。
ジョジョは動きやすさからは遠いジャケット姿であった。チョコレイトにミルクを溶かし込んだような薄茶色の背広に、揃いの色のボトムスを合わせている。瞳によく似た緑色のボウタイはシルクで、今はジャケット同様によれて皺ができている。こんな風に夜中に攫われたも同然であっても平民の一張羅より格段にしゃれこんでいるのが貴族らしい。それとも、新婚であるので、これからお楽しみだったのかもしれない。
ジョジョは背後からワンチェンに背中を強く押され、ダンスのステップを踏むように間の中央に躍りでた。彼の顔に月光がぶつかり、驚愕に目を見開く瞳を青く輝かせた。相変わらずの凛々しい眉が上に跳ね上がり、大きな目がまんまるとさらに大きくなっている。月の差し込む方と反対側の目の奥に、彼の高い鼻に反射した光が差し込んで、目の底の青緑を鮮やかにしていた。彼の革靴が石盤の床を叩くカツンと高い音がやけに空間に響く。
「ディオ
……
」
掠れきった声がした。ディオは瞬間、反射的に目を細めた。懐かしい──
…
懐かしい声だった。ジョジョはあの頃よりサイドの髪を短く刈り込んでいる。その姿より、声の方が過去に強く繋がって感じられた。
「ジョジョ」
考えるより前にディオの口は動いていた。彼が期待するより小さな声だったが、それはかつて彼がよく出していた声に近い温度を持っていた。ジョジョの後ろで部下のワンチェンが小さく身震いをした。ディオは気付かなかったが、彼は敬愛する主人の声があまりに人間的に聞こえたためにギョッとしそうになったのを必死に堪えたのだ。
今しがたの声を打ち消すように、ディオは意識して声を優しくした。
「ワンチェン、ご苦労だったな、よくやった」
ジョジョが背後の脅威を思い出したように警戒し、ワンチェンから大きく一歩距離をとった。それでも目はディオを視界に入れたままだ。彼の立派な体躯の中でドクドクと心臓が早鐘を打っているのが聞こえてくる。鮮血が流れているその心地よい音に、ディオは勝手に牙が鋭さを増すのを感じた。気抜けば顎が震えそうだ
……
ああ、早く歯を肌に沈みこませたい──
…
「ディオ様、ありがとうございます。女の方を殺すと脅せば、このウスノロ、簡単について来やした」
ワンチェンが頭を下げて嘲笑の滲む声で言った。
「そうか。お前の機転のおかげで新妻は助かったわけだな?」
「へえ。女の方は、ご指示通りそのままに
……
」
「手間を掛けさせたな、ワンチェン、もう下がってよい。貯蔵庫に行き、三つ、好きに選ぶといい」
「ありがとうございます」
再び頭を下げ、上げたワンチェンの目が爛々と輝いていた。褒美を楽しみにしていたのだろう、長い舌先がちらりと覗いている。実際、殺人の衝動を抑えるのは大変だっただろう。部下の中でも隠れ忍ぶことに長けたワンチェンは隠密に使え、経験も増えてきたが、長距離を人間と移動するのは初めてのことだった。特にこんなに美味そうな若い男を前に、よく耐えたとディオは思った。
ワンチェンの足音が遠ざかっていく。螺旋階段を下る靴音は壁に反響して長いあいだ続いていたが、王の間に落ちる沈黙の重さはすこしも軽くならなかった。靴音が小さくなるほどに、沈黙の方がうるさい程に張りつめていた。
ディオはジョジョから刹那の間も目を逸らさなかった。バルコニーを背後に立つジョジョも、ディオからひと時も目を離さなかった。青緑の瞳を見て、ディオはジョジョが神に祈ることはないと確信した。神助けも、命乞いもしない目だ。肌の上で汗の粒が月明かりを弾いてキラキラと輝いている。目に見えて分かるほど震えているくせに、彼は手の甲が白くなるほど拳を握りしめていた。夜は肌寒い春の気候に相応しいブラウンのジャケットを着込んだ懐には、銃の膨らみが見える──当然ワンチェンも気付いただろうが、もちろん役に立つこともない武器だ。それはジョジョも分かっているに違いない。彼はどこまでも無防備であった。それなのに、腰を落とし、肩に力を入れている。
ジョジョが瞼をすこし痙攣させた。汗が目の端に乗っている。自然な瞬きを無理に止めたような動きだ。瞼の下りた刹那に襲われることを警戒したかに見える。実際、その通りであった──ジョナサンが反射的に瞬きを抑えたのは、ディオの口元から人間にはない鋭い牙と、そしてその牙の横を驚くほど真っ赤な舌が唇のうえをなぞって動いていくのが見えた身体。ほんの瞬きの間でも隙を見せれば頭から齧られる、ジョナサンは本能的にそう悟っていた。
ディオはジョナサンの心の細やかな動きまでは分からなかった。部下の思考ならガラスの頭蓋骨の中を見るかのように見透かすことができるのに、ジョジョの心は違うようであった。それはジョジョが複雑な造りをしているという理由ではなく─
…
むしろ彼はディオが生前知っていたなかでも単純でまっすぐな性格の持ち主で、『強きは弱きを救うべき』という、世間からすると紳士的な、ディオからすると鼻持ちならない貴族らしい人格を持っていた。複雑だったのは二人の関係だけだ
…
──むしろディオ自身に原因があった。ジョジョの心の微細な揺れを見つけるに邪魔なほど、ディオの中はゴウゴウと音を立てる感情が煩いからだった。
その感情はほとんど欲望と呼んでもいいものであった。みるみる膨らんでいくそれは、ディオが得意とする計算高い思考さえ圧迫し、彼から冷静さを押しやっていた。舌なめずりもその一つである、格上であることを印象付けるにははしたない動作をすべきではないとディオは思っているが、彼は自分で全く気付かないうちに唇を舐めあげながら貪るような目でジョジョを見つめていた。
震えながらも必死にディオを睨みつけ続けるジョナサンを前に、ディオはどこか熱でぼんやりした頭を巡らせて言葉を探した。どんな言葉を使えば自分の格を落とさず、それでいてジョジョから感情を引き出せるのか、そればかりが彼の関心だった。
「
……
結婚おめでとう、ジョジョ」
ディオはわざと大げさにジョジョの左手の指に嵌まる結婚指輪に目をやった。ジョナサンは釣られず、ディオから目を離さない。それがディオには心地が良かった。
「
……
君は
…
」
ジョナサンは言葉をすぐには見つけられなかった。当然だろう、本来なら今ごろベッドの中だったはずだ。陸と船の“感触”を比べておこうと、ベッドの上で妻と腰でも揺らしている頃だったかもしれない。あのつけ上がった小娘
…
ハネムーンも経験せずに未亡人になるなんて哀れなことだ。それに未亡人ならいい方だ、新郎が逃げたということになれば床下手なアバズレという評判を引っ提げて生きていくことになるかもしれない。
「式はどうだったかい?残念だよ、君の晴れ姿をこの目で見られなくて。明日から米国に向かう予定だったんだろう?いい背広だ、流行りとは遠そうだがね、よく似合っている。新しい父親からの借り物かい?」
瞬間、青緑の瞳に炎が燃えあがったかに見えた。ジョジョの目にハッキリと現れたその激しい怒りは、ディオの腹の底に火を投げ入れたようであった。ディオは背筋をゾクゾクとした熱が駆けあがってくるのを感じた。勝手につま先がかるく丸まり、ディオは咄嗟に椅子の上で脚を組み替えた。なぜか、腰が浮いたように感じた。脚の付け根から腹の奥に掛けてぞわぞわとした心地が広がっている。
落ち着け、ディオ・ブランドー、ジョジョが見てるぜ─
……
「冗談じゃあないか、ジョジョ。借りものにしちゃあ若いデザインだ、よく似合ってるよ、本当さ。なに、意地悪く言うのは君が式に呼んでくれないものだから」
「君は死んだと思っていた、ディオ」
ディオの言葉を遮り、ジョジョがきっぱりと言った。ディオは眉を下げて悲しむような表情をつくろうとしたが、口の端が吊り上がってしまうのは抑えようがなかった。
「酷いことを言うじゃないか、ジョジョ」
「君は父さんを
…
父さんを殺したんだ」
ジョジョは胸に物を詰まらせたように言葉をつっかえさせた。彼の目が汗だか涙だか分からないもので小さく光った。
「父さんのことは残念だった。お悔やみを言うよ」
「君
……
ッ」
ぶるぶるとジョジョの肩が震えた。恐怖とは違うもののせいで震えている彼の様子に、ディオの腹の奥から脊髄にかけてまた電流が走った。背中の肌が粟立ち、敏感な肌を撫でられたような快感のさざ波が這いあがってくる。ディオは肘掛けに爪を立て、笑いださないようになんとか堪えて言葉を返した。
「父さんには本当にお世話になったんだ。きっと君の結婚式にも出たかっただろう。私だって」
「君が父さんを語るな
…
!」
「
…
私だって、叶うなら行きたかったさ。ずっと心配していたんだぞ、ジョジョ。怪我はもう大丈夫なのかい?ずいぶん酷かったようだが」
ジョジョが顎を引き、ぶるぶる震える拳を胸の前に掲げながらディオを睨んだ。頬を流れるのは涙だろうか?そんなに濡れて、そんなに敵意を剥き出しにして
……
ディオは知らずのうちに喉仏を大きく上下させた。濡れて少し束になったジョナサンの黒い睫毛から目が離せなかった。
「ディオ、僕は
……
僕は、君にあの晩燃え尽きて欲しかった。君は人ではなくなったんだ、そうだろう?君は警官たちを惨たらしく殺したんだ。覚えているはずだ」
口が裂けそうなほど吊り上がるのをディオは止められなかった。
ああ、この感じ、この真っ直ぐで真っ白なものを向けてくるこの感覚。懐かしい、ああ、この男はジョジョだ。ジョジョのこういう面を見る度に『世界はこの男には惜しみなく与えた』と思ったものだった。憎らしく感じていたはずなのに、まさか懐かしく感じる日がこようとは。そしてまさか、これを穢す好機が訪れようとは。
ディオは突然、自分が今ジョナサン・ジョースターを手に入れていることに気が付いた。彼の命運はディオがすべて握っているのだ。
気付いた瞬間、ディオの口からかすかな呻き声が漏れた。心臓が一気に伸縮し、全身の血液を脳に叩き込んだかのようだ。興奮だ──眩暈がするほどの──
…
腕を振るだけでジョジョを肉塊に変えることができるし、’エキス’を注入すれば永久的にこき使える僕にすることもできる。ディオは今ジョジョに何でもできるのだ。あのネズミの走る汚い家で、あのカスに好き勝手殴られていた少年に教えてやりたい。お前はいつか貴族のボンボンを好き勝手に扱えるようになる、と。しかも、あのジョナサン・ジョースターだぞ、と。
貴族の中にも階級があり、その力は絶大だが、絶対ではない。情報をもたらすのは人で、人を安心させる立ち居振る舞いこそが結局は最大の力となる。息子のジョナサンはその類の力をなに一つ学んでいなかったが、ディオがジョースター家に来たことで彼は父親に躾けられ、より多くを与えられるようになった。
振り返ってみればジョナサンに力を与えたのはディオ自身である。あのとき、父親に鞭打たれるジョナサンをあんなに楽しみにしなければ、彼が学んで力を持つことを邪魔するという考えが働いたかもしれない。ジョナサンに同情し、彼をどこまでも甘やかして腑抜けにしてしまえば、ジョースター家を乗っ取ることはもっと楽であっただろう。
父親の鞭で立ち振る舞いを叩き込まれたジョジョは、学校や社交の場でディオの隣に居ながらにして影にならない程度には成長していた。それが簡単なことでないことはディオ自身もよく分かっている。大学でディオは頭脳も体力も振る舞いも “家柄”も何もかもが完璧だと褒めそやされていた。学校中の憧憬の的だったのだ。そのディオの横に居て只の影にならなかったのは、それがジョナサン・ジョースターであったからだろう。
認めたくはなかったが、もし仮に横に居たのがジョジョ以外の人間であったなら、ディオの“親友”という位置づけは無理があったに違いない。ジョジョはディオが居なければ学校中を夢中にさせる素質があった。ガキの頃によく見たあの弾けるような笑い方や、ラグビーで見せる勇猛なところや彫刻みたいに立派な体躯、目鼻立ちのハッキリとした整った顔にジョースターの血統、そして何よりあの大きな目で相手をまっすぐに見つめるあの眼差し──頭の方だって上から数えた方が断然に早い出来ではある。“ジョジョ”がジョジョだったからこそ、ディオは兄弟兼親友という立ち回りをするようになったし、周囲もそれを受け入れた。つまるところ、周りが二人を親友だと信じ込んだのは、二人のパワーバランスが釣り合っていたからであり、「同程度」に見えたからであったのだ。
その“親友”のジョナサン・ジョースターを好きにできる。
ディオの身体はぶるりと芯から震えた。なぜだろう、熱湯でも注がれたかのように腹の奥が熱くなってくる。口を開いたとき、声が裏返らないようにディオは集中しなければならなかった。
「
…
あのときも言ったことだがな、ジョジョ。俺は気付いたのさ、人間ってものの限界に」
ディオは唇の端がめくれ上がるのを抑えられなかった。真っ赤な舌先が暗闇の中でテラテラと光る。ジョナサンがますます拳を握りしめるのを見ながら、ディオは言葉を続けた。
「お前は覚えているのか?石仮面を俺にもたらしたのはジョジョ、お前であるも同然だ。あれを俺に使わせたのも、貴様なのだ。警察など呼ぶからさ、たかが薬を取り替えた程度で
…
」
「君は
…
君は実の父親も手に掛けたんだ」
「あんなカス、父親などではない」
即座に嫌悪感が生まれ、反射的に語気を荒げたディオに対してジョジョは眉をひそめた。
「君と君の父親の間に何があったかは知らない。僕は僕の父を守りたかった、君が父さんに毒薬を渡したのは事実だ。さっきの男、僕をここに連れてきた男は、薬の売人だった。そうだろう?彼を殺して手下にしたのか?」
「ふふ、“僕”の父か、ひどいじゃあないかジョジョ、もう“僕らの”とは言わなくなったな?」
ディオは質問を無視して言った。
「ディオ。一度でも本当に父さんを父さんだと思って呼んだことがあるのか?」
ジョジョが吐き捨てるように言った。
ディオの腰はまた浮き上がりそうになった。ワケは分からないが、これまで滅多に見られなかったジョジョの怒りや嫌悪の表情はクるものがある──
…
「クククッ、ずいぶんな言いようじゃあないか、ジョジョ。お前こそ、俺を本当に兄弟だと思ったことはあるのか?ないだろう?友情などなかったと言ってのけてたしなあ
……
」
ジョジョはぐっと唇を引き結び、押し黙った。彼の顎をしとどにかいた汗の粒が伝っている。怒鳴りだしたい気持ちとそれを引き留めようとする気持ちがぶつかり、咄嗟に言葉を呑み込んだのだろう。言うべきことを探すようにかすかに唇が震えている。目だけは大きく見開いたままで、眼球の白は夜空の青に染まっていた。それでも、瞳の中は燃えあがるエネルギーがたしかにあった。
「
……
僕の式に来たかったと言ったね。ディオ、信じてもらえないだろうけど、僕は本当に君に来てほしかった。父さんに毒を飲ませない君になら、式に来てほしかった。家族として」
言っているうちに感傷にでも浸り始めたのか、ジョジョの眉がほんの微かに下がった。ディオは鼻で笑ったが、『こいつは本当にそう思ってるんだろうな』と思った。七年も一緒に居たのだ、ジョジョがこういう時に嘘をベラベラと言えるような性格でないことは分かってはいる。尤も、これまで二人は“こういう時”を迎えたことはなかった。ずっと避けてきたのだ、向き合って話すことを。その点だけは実に馬が合い、真剣に向き合わないことは二人の暗黙の了解になっていた。
「本当だ、ディオ。本心だ。僕は
……
君といい兄弟になれると思っていた。君が来ることを楽しみにしていたんだ。だけど、君は
…
来たときからずっと、僕を拒絶していた」
月にかすかに雲がかかる。煌々と輝くばかりに燃えていたジョナサンの瞳に、さっと、哀しむような影が過った。彼の怒りが落ち着きを見せると、かえってディオは腹が立つようであった。ディオは意識しないうちに肘掛けにぐっと爪を立てた。
「ジョジョ、優しい言葉だ。嬉しいよ。ボクがしたことは君には理解できないだろうけど、ああするしかなかったんだ
……
チッ、お前もあのカスと一緒に肥溜めで暮らせばわかるさ。楽しみにしていただと?俺がお前の立場なら、俺のような余所者はさっさと崖から突き落とすね」
「ディオ」
つい伝法な口調になったディオに対し、ジョジョの方は戸惑いと冷静の狭間にある声だった。労わるようなトーンにも聞こえた。ディオはぐつぐつと腹の奥で何かが煮え滾るのを感じた。
「まさか憐れんでるのか?この俺を。なぜお前をここに連れてこさせたと?」
低くなったディオの声を前に、ジョジョはようやく普通に瞬きをした。分かりきっていることを聞かれたと言わんばかりの表情だ。
「復讐のためだろう?さっき君が言ったみたいに、石仮面を破壊せず研究していたのは僕だ。僕の研究が、君を化け物にしてしまった
……
」
言葉にすることでその重みに気付いたかのように、ジョジョの目には怯懦の色が浮かんだ。後悔だ、失望の色だ。お前に俺は理解できないだろうと口では言いながらも、ジョジョの使った『化け物』という言葉は、ディオには彼がディオを理解することを諦めたように感じられた。
カッと、首から上が熱くなる。考えるよりも前に、怒りがディオの思考を乗っ取った。思考が追いつく前にハラワタが煮えくり返り始める。
「あの小娘は俺とキスしたくせに、お前に股を開いたのか」
ディオの言葉は唐突だった。彼は不意を突かれた怒りをぶつけるように、ジョナサンの不意を突いた。本能のレベルで、ディオはジョジョが最も腹を立てる言葉を知っていた。哀し気に歪んでいたジョジョの顔に衝撃が走る。それを見た瞬間、ディオは腹の底で煮え滾る怒りに別の種類のねっとりとした熱が加わるのを感じた。口の端が吊り上がっていく。
「ふふ、兄弟が欲しいと言ったな?兄弟らしく忠告してやろうじゃあないか?ン?この俺が化け物ならあの女は何だろうな、お前を病院で見つけるや否や腰に乗ってきたんじゃあないか?」
ジョジョの顔は一瞬青ざめ、そしてみるみるうちに真っ赤になった。あんまり腹を立てたのだろう、激情が目尻をかすかに湿らせている。ディオの腹の奥の熱がじくじくと疼きだした。言葉はどんどん口を突いて出てくる。
「お前を見て脚をおっぴろげて飛びついたんだろうなあ、あの売女は。俺にも飛びついてきたんだぜ」
「口を、口を閉じろ
……
!」
「まさか結婚するとはなあ。あの尻軽は俺の義妹になるってことか?子供はこさえたのか?本当にお前の子供かどうか、きちんと調べた方がいいぜ」
「それ以上エリナを侮辱するなら
……
ッ」
真っ白になるほど握りしめた拳を顔の前で震わしながらも、ジョジョは爆発を必死に押さえ込んでいる。頭の片隅に、ディオが部下に命じればいつでもエリナを殺せることへの恐怖があるのだろう。ディオはここぞとばかりにせせら笑った。人の誇りがどうだとか、そういう風に怒るジョジョが昔から気に食わなかった。素直に『自分の女に手を出すな』と言えば可愛げがあるものを。ここまで貫けるのは見上げた根性だ。
「するなら?なんだい?いいんだぜジョジョ、ここには俺たち以外誰も居ないんだ
…
まともに頭の働く奴はな。だから、遠慮せず言葉にすればいい、なに、俺たちの仲じゃアないか」
とびきり砂糖をまぶしたような声でディオは囁いた。
「君は、君は子供の頃から進歩しちゃあいないな
…
ディオ、いつもそんな風に人を侮辱して生きてきたのか?」
怒りで息の荒いジョジョが声を震わせて言った。ディオは眉を上げた。
「誰に言ってるんだ?このディオに、進歩しちゃあいない、だと?モンキーじみた下等生物のくせに
…
もっとハッキリ言ったらどうだ?自分の女を先に味見されて悔しいってな」
「そんな風にしか考えられないのか?どうかしてる」
「くくっ、どうかしてるのはお前の方さ!お前はわざわざ死にに来たんだぞ?マヌケめ。あの小娘にそんな価値もないと分からないなんてなァ」
「君は何にも価値を見出せないんだ」
歯を食いしばるように言ったジョジョに、ディオは無意識に牙を舐めた。舌がザックリと切れ、鉄の匂いがかすかに鼻腔をついた。その途端、ひどく喉が渇いていることを自覚した。ぐつぐつと腹の奥が煮え滾るせいで身体中の水分が蒸発し、どんどん干からびていくようだ。この男に牙を突き刺してやりたい──
…
ダメだ、しっかりと味わえるよう、自分をコントロールしなければ。
「負け惜しみか?見苦しいぞ、ジョジョ。お前はいつもそうだった、どこまでも“坊ちゃん”だ。死ぬ時までそうなのか?いったい何のために?本当のことを口にしたことはあるのか?」
「ディオ、お前は」
ジョジョは赤い顔をさっと伏せ、思い切り歯を食いしばった後、ふーっと息を吐いた。
「お前は父さんを殺した
……
父さんは、亡くなる直前までディオ、お前を心配していたんだぞ。気に掛けてやらなかったんじゃないかと、自分を責めていた。今、白状すると、お前が化け物になったところを父さんが見ないで済んでよかったとホッとしている。そして何より、僕がお前を殺したいと思ってることを、父さんは知らなくて済んだんだ」
握りこんでいた左手を解き、ジョジョは懐に手を入れた。黒くてずっしりと重たい銃をゆっくりと引き出しながら、右手の真っ白になるほど握りしめた拳を胸の高さで構えている。彼の拳銃を引き出すその動作に、一瞬、ストリップショーでも始まったのかとディオは思った。ジョナサンの利き腕は右だ。効かない銃弾はおとりに使い、拳を本番にしたいのだろう。つまり捨て身の覚悟だが、絶対に拳をディオに叩き込みたいのだ。
「おいおい、まさか闘う気か?このディオと?」
ディオはぞくぞくとした。体温のない身体から湯気が立ちそうな吐息が漏れだす。
「僕がなぜここに来たと?正直に言おう、僕はこれほど誰かを恨んだことはない。君は心まで化け物になってしまった!ここで倒さねばならないッ!」
ジョジョがさっと銃口をディオに向け、走り出した。’今度は’ためらいもなく何発も引き金を引きながらディオに突進し、四メートルはあった距離をあっという間に詰めた。被弾して血を噴き出したディオの頬を握りしめた拳が打ち抜く。頬にめり込み、頬骨を砕いてきた拳の感触は素晴らしかった。ジョジョは銃を握った左手も繰り出してディオの鼻を折り、頭蓋骨の中で脳を激しく揺らした。自分を奮い立たせるように雄叫びを上げて腕を振り上げるジョジョは、一年前より力が衰えているのが、一発目の拳だけでディオには分かった。それでも衝撃で眼球がいささか飛び出し、陥没した鼻から口まで大量の血が流れだすのを感じる。己の牙が自分の頬をズタズタに切り裂き、そのせいで歯茎まで露出したのが空気の通りで分かった。
頭蓋骨を割りそうな勢いのある一撃をようやっと動いて避けた時、ジョジョが後ろに吹き飛んだ。ディオではなく硬い椅子を殴ることになり、自らのパンチの反動が彼を襲ったらしい。床に転がった彼は素早く四つん這いになり、ふらつきながらも立ち上がった。
すっかり息を切らし、肩で息をしている。ハア、ハア、と荒い息を必死に整えようとしているジョジョの顔のうえで、彼の汗とディオの返り血がゆっくりと混ざり、薄い赤色の筋ができていく。ジョジョの握りしめて白かった両手の拳は今や真っ赤だ。殴るたびに彼の皮膚も破れたのだろう。ディオの牙に当たったのか、右手の甲はざっくりと切れている。一気に、血の匂いが濃くなる。ジョジョの血の匂いさえ味わおうと、ディオの舌が生き物のように蠢いたのが頬の裂傷からチラチラと覗いていた。
シューっと音が立ち上り、瞬く間に傷の塞がっていくディオに、ジョジョは震えながら再び銃口を向けた。先ほど四発撃ったため、残っているのは二発だけだ。眼窩から飛び出した眼球で、ディオはジョジョの目がバルコニーの方に走るのを見た。じりじりと後退してバルコニーに向かい始めたジョジョが何を考えているのか、ディオには頭を使うまでもなくわかった。ジョジョのことだ、自分も一緒に飛び込んででも崖からディオを突き落としてバラバラにし、太陽でトドメを刺そうと思っているのだろう。
「ディオ、殴られるだけなんて君らしくないな」
案の定、ジョジョがディオを誘いだそうと挑発を始めた。ただ言葉は本音のようだ。おそらく、ディオに殴りかかった後はバルコニーまで一気に後退し、引き寄せ、ディオを突き飛ばして自分ごと飛び降りるつもりだったのだろう。ディオが動く様子がないせいで彼は焦っている。ディオをできる限り攻撃し、焚きつけて、煽って隙をつくろうとしている。ジョジョの中ではディオは一年前と同じ、ただ素早くて力があるだけの化け物なのだ。その古い情報を基に、この空間に入ってから必死に戦略を考えて無駄なシミュレーションを脳内で繰り返していたに違いない。
必死に笑って見せているジョジョを健気に感じ、ディオは心から微笑んだ。回復のための蒸気が彼の顔を覆っていなければ、そして飛び出した眼球が元の場所に戻ろうと一人でに動いたり頬から真っ赤な肉が見えていたりしていなければ、ジョナサンは初めてディオの計算のない微笑を目にしていただろう。
あいにくジョナサンの方は計算に忙しいようだ。どの位置に立てばディオを捕らえて崖に飛び込めるのか考えなければならなかった。それは自分を殺すことを真剣に考えることと同じである。ジョジョが挑発的な表情をほんの数秒しか保てなかったのも無理はない。バルコニーにじりじりと近づき、月光を背から浴びて影を濃くしたジョジョの顔のうえで、恐怖の色も次第に濃くなっていく。必死につくっている表情がピクピクと痙攣し、ときおりほとんど泣きそうな顔に見えた。
そう感じた瞬間、ディオは突発的に右手を自分の頬に突き立てた。塞がりかけていた傷にぶちぶちと繊維を裂きながら指を入れ、その指に牙を突き立てた。さっきからコレばかりだ──あまりに強い渇きに我を忘れてジョジョに飛びかかろうとする身体を、必死に自制している。一方的にジョジョに殴らせてやったのもコレのせいだ、うっかり一瞬で首を刎ねてジョジョを殺してしまわないためであった。他の有象無象はあんなに居るのに、なぜジョジョは一つしかないんだ?一回殺したらそれで終わりだと?こんなに我慢に我慢を重ねているのに、七年も我慢してきたのに、味わえるのは一度だけ?
……
いや、俺はこの世を支配する存在だ、このディオは命さえ弄べるのだ──
…
興奮がディオの中で弾け、目の前が真っ赤に染まった。口の中でゴキッと音がし、自分の牙が指を噛み切ったのをどこか遠くに感じる。こんなにも苦労して自分をコントロールしているというのに、ジョジョは残酷な男で、恐怖のせいで挑発の表情をうまく保てず歪んだ顔をしてディオを煽った。ジョジョはすっかり入ったバルコニーの手摺の間から下を覗いてしまったのだろう、恐れで瞼を激しく痙攣させた。切り立つ岩肌が地表に林立するギロチンの刃のように鋭い牙を並べて口を開けているのが見えたに違いない。ジョースター邸の屋根からとは比べ物にならない高さだ、飛び込むことで確実に死ぬと理解したのだ。
「
……
策を弄すれば弄するほど上手くいかないものだと、お前には教えてやったつもりだがなァ、ジョジョ
…
」
ずるりと頬から指を引き抜き、ディオは飴玉をかむように自分の指を噛み砕いてからブッと床にそれを吐き出した。これで興奮が薄れればと思ったが、ジョジョのせいだ、ちっともよくならない。
考えてみれば、そうだ、いつだって全部ジョジョが悪いのだ。ジョジョにもこの俺が闇の帝王だと分かるようにしてやろう、だと?なぜそんな下らないことを考えていたのか自分で自分が理解できない。ジョジョを殺すのは私情じゃない?馬鹿な、私情じゃないなんてとんでもない。ようやく分かってきた──俺はずっと、この男のものが欲しかったのだ。この男から、ジョジョから、何もかも取り上げてやらないと気が済まないのだ。そうしなければ人間をやめた甲斐などない。’このため’に、人間をやめたと言っても過言ではない。
「前に言った言葉は変わらないぞ、ディオ。僕には
…
僕には、勇気がある」
ジョジョが震えているのに落ち着いた声で言った。怖がっているくせに、なるほどその言葉は本当らしい。ならばそいつも取り上げないとな。
「
…
お前の下手な挑発に今さら引っ掛かって、俺がお前を追うと?そこを俺と共にジャンプして崖の下に落ちてやるつもりだろうが、お前の勇気とやらがお前に考えさせたのはそれが限界なのか?それで俺が死ぬと、本気で思っているのか?」
「ディオ、君は人間ではなくなったんだ」
ジョナサンは膝を震わしているくせに、言葉を紡ぐのは早かった。
「君は本気で、これから先ゾンビどもと生きようと思っているのか?世界を生きる屍だらけにして?さっき、まともに頭が働く奴はいないと言ったな。そんな風に思ってるなら、これから君はいっそう独りだぞ。本気で、そんな世界で生きていこうと思っているのか?」
説得しようとしているジョジョの様子が、ディオのなかでグツグツと音を立てている欲望をさらに熱くした。
ゆっくりと玉座から立ち上げる。ディオは殴られて血を流したはずなのに、自分の身体がずっしりと重たい気がした。腰が重い、腹が重い。暴発しそうな興奮が身体中を突き刺し、一刻も早くエモノを味わいたいと訴えてくる。たしかにこれはバケモノだ、獣みたいに飢えを叫んでいる。怒りよりもタチが悪い、刹那でも油断すれば乗っ取られそうな欲望だ。
「ジョジョ
……
」
ふらりと踏み出した足の下で石盤が卵の殻のように砕ける。ジョジョを丸呑みにしそうな衝動的な欲と、そんな勿体ないことはさせまいという欲が激しくぶつかり合う。思い切り飛びかかろうとするエネルギーとそれを引き留めるエネルギーの衝突がディオの一歩一歩に表れていた。
「ジョジョ
……
」
どす黒い気配を纏って分厚い岩の床さえ破壊しながらゆっくり近寄ってくる吸血鬼を前に、ジョナサンはハー、ハー、と必死に荒い呼吸を繰り返して身体から恐怖を押しだそうとしていた。汗と血のせいで滑るのだろう、銃を握りなおし、照準をディオの頭に合わせようとしている。
「父さん、エリナ、僕に勇気を
……
」
濁流のような興奮に襲われていたが、ディオの耳にはジョジョの呟きが届いた。
ディオは瞬間、足を止めた。衝動的な興奮が一気に引いていく。代わりに彼の中で膨らんだのは、ねっとりとしたマグマのような欲望のエネルギーだった。
そうだ、この男から最も取り上げるべきは
……
勇気だとか希望だとか──誇りだとか、そういうものだ。多くを与えられたジョナサンが自分で獲得した数少ないもの。彼を構成するもののなかでおそらく一番貴重で、奪われたくないもの。だからこそ、奪ってやらなければならない。奪わなければ気が済まない。
「
…
ジョジョ、中に戻って来いよ」
闘いに負けるより、闘うことを放棄する方がジョジョにとっては苦しいに違いない。意志の強い人間は、意思を自ら捨てるほどに傷付いていく。剣を握りしめた人間に剣を手放させたいなら、剣を向けてはいけない。むしろ闘う理由を取り上げてやるのだ。
ディオはチョコレイトより甘ったるい声でさらに囁いた。
「そんなところに立っていないで、こっちに来るんだ。そこから飛び降りるつもりかい?そんなのは犬死にさ、まったくの無駄だ
……
」
ジョジョは目を見開いている。何かを言おうとしたのか口を開けたが、言葉はすぐには出てこなかった。ディオは彼の真正面の位置まで移動し、ジョジョに手を差し伸べた。二人の間は三メートルほどだ。月光がディオの白い手に反射し、ぼんやりと青く光っている。
「さあ、そんな危ないところに立っていないで、こちらに
……
」
「君は人間じゃあないんだ」
ジョジョが銃を握りしめながら粘り強く言った。どうすればディオを怒らせ、自分に襲い掛からせ、そして共に崖の下に身を投げることができるかを必死に考えているらしい。ジョジョは挑発が下手だが、その必死な様子がディオをたしかに煽っていた。手を差し伸べるだけに留めるだけでも全身の気力が必要だった。
「ジョジョ、戻ってくるんだ。なにも無駄死にする必要はないだろう?落ち着いて話でもしようじゃないか、兄弟水入らずで、ふふ
……
」
「君は人間には戻れない。僕の石仮面のせいだ。僕が憎いだろう?」
「ああ、そんな風に言わないでくれ、ジョジョ
…
この素晴らしい力!お前にいくらでも見せてやるさ」
こちらをバルコニーに誘いだすためにあとどのくらいセリフが続くのか見ものだな、とディオは思った。
「君は、君は憎むくらい君の父親が嫌いだったんだろうけど、僕は父を愛していた。君はそれが羨ましかったんだろう?」
「
……
何を言ってる?」
ディオの声から甘さがふき飛んだ。ジョジョはディオをさらに怒らせようと必死に言葉を探している。
「そうだろう?君はジョースター家に来たときから、いや来る前から、僕を嫌っていた。君が人を大切にしないのは、大切にされたことがないからだ。父さんは君を大切にしたのに、君はそれに気付けなかったんだ」
一瞬、爆発的な怒りがディオを襲った。あとほんのすこし間違えたら、ジョジョの思惑通りに彼に襲い掛かり、隙を見せていただろう。だが、ジョジョの煽り方がディオに“答え”を与えていた。『大切に』──
…
「エリナのことは、もう大切に思っていないのかい?」
ふたたび、猫撫で声がディオの喉奥から紡ぎだされた。それはもう甘いだけではなく、肉を削ぎ落すやすりのようにチクチクとした棘を孕んでいた。ジョジョが怯んだことが、ディオに冷静さを連れてきた。衝動的な怒りがすっと遠ざかっていく。
「君がエリナを守るために、彼女に警戒させるために、私と石仮面のことを話したかもしれない。私は、私や部下のことを守るために彼女を殺すべきだと判断することもできたが、君のためにそうしなかったのだ。それなのに君が私を傷つけようとするなら、考え直さないといけないかもしれない。君がこの私を前に怯えるのは仕方がないから、さっきの“戯れ”には目を瞑ろうと思っていたが
……
」
ディオは差し伸べていた手をゆっくりと腹へと動かし、被弾して穴の開いた服を撫でた。胸元のフリル飾りの下に、もつれた布の繊維の感触がある。腹部の傷はすっかり塞がっている。
「君がそうも強情なら仕方がない。彼女も部下に呼ばせよう。彼女なら、夫が崖から飛び降りようとするのを引き留められるかもしれないからな」
「ディオ」
「初めからそうすべきだった。私はただ、私と部下らを守りたかっただけなのに。君が幼馴染だからと気を遣った、その結果がこれだ。君は私を化け物だと、人間ではないのだと呼ばわってやまない。恩を仇で返された気分だよ、ジョジョ。化け物なら、君に気を遣う必要なんてなかったな」
七年育てた養子に殺された父親のことを思ったのだろう、ジョジョの目に刹那的な怒りが過った。だが、瞬きもしないうちに怒りは消え去った。
「死ぬのは僕だけでいいはずだ」
ディオは大げさに胸を押さえ、驚いた演技をした。
「おや、ジョジョ
…
私を殺さなくてはならないと息巻いていたじゃあないか。いいのかい?化け物の私を殺さなくて」
「ディオ。もし君が
…
自分を化け物ではないと言うのなら、エリナには近寄らないでくれ。彼女は
…
彼女は何も知らない。彼女が寝ている間にここに来たんだ」
ジョジョが物を詰まらせたような声で言った。嗚咽でも始めそうなその声に、ディオは口元を隠して笑いを呑み込んでから悲しんでやった。
「ジョジョ
…
それは辛かったな、胸が痛むよ」
「
……
ディオ、君が彼女に近寄らないと誓ってくれるなら、君の手間を省こう。僕はここで大人しく殺される。ただ、せめて、月の下で殺してくれないかい?彼女も見ているかもしれない月を感じながら最後の時を迎えたいんだ」
ジョジョは銃をゆっくりと下げなら言った。もしディオがジョジョのことを表面的に知っているだけであればまったくジョジョらしいとでも思ったかもしれない。だがディオは違った。彼はジョナサン・ジョースターが火事場でどんな力を発揮するかを知っていた。ジョナサンの目にはあの屋敷が炎に包まれた夜と同じ光が宿っていた。これがきっと勇気というものなのだろう。まだジョジョは諦めてはいない。そしてこの、相手を射程距離に誘きだすやり方は、ディオには身に覚えがあった。ジョナサンにナイフを突き刺すために彼の哀れを誘ったかつてのディオのやり方とそっくりだ。
なんてことだ、この俺の影響を受けて、ジョジョが堕落したようではないか。
「ふ、くく
…
ッ、ジョジョ、クククク
…
」
吹き出しそうになるのを身を捩ってこらえるディオの全身がぶるぶると震えた。足が床から浮いたみたいに、ざわざわとした感覚が腹の奥から背骨を上ってくる。このたった一晩で、ジョジョがここに来たたった十分程度のなかで、短い人生の間に感じた以上の感情を味わっていると思った。
「ハア、ハア
……
くく、ジョジョ
…
君は本当に諦めの悪い奴だ。あの小娘の名を出しても引き下がらないとはな。あんまり強情だと部下に持って来させるぞ?あの女の首を。そうしようか?」
「
…
僕が死んだあとは、彼女の身の安全を確認できない。だから」
「だから諦められない?俺を殺すことを?」
「だから約束してほしいんだ、ディオ
……
彼女は本当に何も知らない、誓って言う、本当だ
…
」
ジョジョの声が揺らぎ、彼の傍まで絶望がそっと近寄っているのが目に見えるようだった。先ほどの攻撃でディオに隙をつくれなかった彼に切れるカードなどもはや何もないのだ。そのことにジョジョは気付き始めている。一年前、人間の身でも闘えた吸血鬼はもう居ないことを理解し始めている。
ディオはゾクゾクとした。真っ黒な興奮が背中をゆっくりと這いあがってくる。
「
…
もしこのディオが化け物じゃないなら、と言ったね。ジョジョ、俺は人間を越えた存在なんだ、君には理解できないだろうがね。そして私にも理解できないんだが、どうして君は、自分の命の結末を自分で決められると思ってるんだ?」
ジョジョがかすかに口を開けたまま凝視してくる。ディオは持ちうる意志の力を総動員して自分を抑えながら話を続けた。
「たしかに私は君を殺すためにご足労いただいたが、アッサリやるつもりはないんだ。それなら部下に任せている。わかるだろう?」
「なぜ
……
」
ジョジョの声が掠れて裏返る。他の“食糧”なら揃いも揃って怯えるばかりだとうんざりさせられるのに、ジョジョは何が違うのだろう?彼なら、足りない。もっと怯え、もっと恐怖しているところを見せて欲しい。
「なぜ?君が言っていたじゃあないか、ジョジョ。『復讐のため』だと。言われてみるとその通りだと思ったんだ。私は君に償ってほしい。そしてそれは、君がそこから飛び降りて一瞬で済むようなものじゃあない。わかるかい?」
ディオはゆっくりと、ふたたび手を差し出した。ジョジョは全身に汗をかいて、大きな目を殊更に大きくしたまま震えている。
「ディオ
…
僕にどうしてほしいんだ
……
」
「これで忠告は最後だ、ジョジョ」
せめて楽に殺して欲しいと懇願を始めそうなジョジョを、ディオは断腸の思いで遮った。ジョナサンに懇願なんて始められたら、いよいよ自制できない。一瞬の快楽のためにジョジョを瞬時に殺す気など今や微塵もなかった。これ以上我慢できない、だが自分をコントロールしなければ
…
人間はあまりにも脆いのだ─
…
「
…
君がどうしても崖から飛び降りたり、頭を撃ち抜いたりする方がいいと思うならそうすればいい。君が償うべきを償わないなら仕方ない、君の家族に請求するよ。奥方の方はまだご家族も健在だったね?請求先が多いのは喜ばしいことだ
……
どうしてそんな顔をするんだ、ジョジョ?私は化け物なんだぞ?」
ディオは今や差し出している手が震えてしまわないようにするのに全神経を集中させねばならなかった。自分の中で、飢えきった獰猛な口がぽっかりと開き、ジョジョに牙を立ててあたたかい血を味わいたいと激しく訴えてくる。
凛々しい眉を下げたジョジョは、ガキの頃によく見た泣き顔を強く思い起こさせた。ディオはジョジョを躾のために鞭打つジョージを羨ましく思っていたことを思い出した。ジョージは時に苦しそうな顔をしていたものだが、ディオは気にしないフリをしなければならないことが酷く苦しかったものだ。俺に鞭打たせてくれたら、と思ったことは一度や二度ではなかった。そして今、鞭以上のものをジョジョにくれてやれる。
「
……
君はそんなに僕が憎いのか」
決死の覚悟で来たのに闘うことを諦めさせられ、妻の安全の保障も取りつけられず、自分はひと思いに殺してももらえないと理解したジョジョの顔をディオはじっと見つめた。この顔は、間違いなくこの先もずっとディオの慰めになってくれる。
「
……
エリナのことを考えろ、ジョジョ。彼女に君の罪をなすりつけたいのかい?銃を捨てて、こっちに来るんだ。最初から覚悟して来たんだろう?さあ、無駄な抵抗はやめて、こちらに」
彼は目をぎゅっと瞑ったあと、束の間、首を傾けて後ろを振り返った。白い月が青い空に輝いている。それを目に焼き付けておこうと思ったのだろう。
ジョジョはゆっくりとディオに顔を向けた。黒く重たい銃を、彼はディオの前で見せつけるように大きな動作で崖に投げ入れた。数秒かけて、遥か下の草原に物がぶつかる鈍い音がする。それを聞いてから、ジョジョは一歩一歩、来た道を戻り始めた。彼の中で次第に恐怖がうねり上がるのが目に見えるようだ。これから与えられる痛みによって誇りだとかそういうものを打ち砕かれるのを恐れているのかもしれない。ディオは、ジョジョの勇気とやらを、彼が一歩こちらに来るごとに一枚いちまい脱がせている心地がした。
ディオの前までやってくると、ジョジョは全身震えながらもディオをじっと見た。バルコニーから離れ、今はすっかり影の中だ。燭台の炎が彼の頬を橙色に染めている。ディオの返り血のかすかな黒い筋がまだその頬に残っていた。指示を待っている犬さながらにこちらを窺っているジョジョに、ディオは目線で自分の手を取るように促した。ジョジョはためらったが、もう半歩近づいて差し出された白い手に右手を近づけた。ディオはサッとかすかに手を引き、首を横に振った。その小さな拒絶と、意図的な視線の動きにジョジョは気付いたようだった。彼はまた躊躇したが、数秒後には左手を伸ばした。ディオは手が重なるまで辛抱強く待った。
ジョジョの左手が掌に触れたとき、その熱さにディオは内心驚いた。ジョジョの方はディオの冷たさにかなり驚いた様子だった。彼が火傷でもしたみたいに手を引っ込めようとしたので、ディオはジョジョの手を握りこんだ。白い指が素早くもどこか優雅に折りたたまれていく様子は、肉食の植物がそっと葉を閉じて胃の牢獄に獲物を閉じ込める瞬間によく似ていた。
「ジョジョ
…
君がバカな考えを取り下げてくれて嬉しいよ」
ディオの言葉にジョジョは反応を返さなかった。彼は目を見開いたままディオを凝視している。そう言えば、生まれ変わった姿をゆっくり見る時間はジョジョにはなかった。人間だった時でさえ、こんなに真正面から凝視されたことはなかったかもしれない。目が語ることはあまりにも多い。そして今は、ディオの手の中の生を感じる熱い手も、ジョナサンの恐怖を雄弁に語っていた。
「
…
そういえば、初めて会ったとき、私は君の手を握り返してやらなかったね」
ゆっくりと手を持ち上げて、ディオはもう一方の手でジョジョの手を覆った。手の甲の骨に沿って中指を滑らせる。リンゴの中身がどれだけ詰まっているかを確かめる動きを思わせる動作だ。
「あの時はたしか、ダニー、だったかな。君の犬が’人間だった頃’の私の足元を走り回っていた。君によく懐いていて、実に従順だった。可愛かっただろう?」
俺にも、今のお前の従順さは可愛いぜ。
口を突いて出そうになったセリフは呑み込んで、ディオは労わるように微笑んだ。ジョジョは口を引き結んだまま全身を強張らせている。握手を交わせる距離の二人は近かった。燭台の上でゆらゆらと躍る炎の影が彼の目に差し込んで、青緑の瞳を明るくしたり翳らせたりした。ジョジョの心が反抗と恐怖の間を揺れ動くようすを表しているようだ。そのジョジョの目が、胸の高さまで持ち上げられた手にちらりと視線を向けた。彼の手の上に重ねられているディオの鋭い爪がつーっと手の甲を滑り、カチっと音を立てて薬指に嵌まった銀色の指輪に引っ掛かるのを見ている。
ジョジョがぶるりと手を震わせた。嫌悪感が顔に表れることを避けたのだろう、ジョジョは落ち着きなく顔をわずかに逸らして長く黒い睫毛で目を隠した。無意識の動きかもしれない、だが彼はディオを不快にさせうることを避けたのだ。
勝った。
ディオは大きく喉仏を上下させた。
「
……
君には言ったが、ガキの頃は気色悪くて犬が苦手だった。君が親友として犬に接していると聞いたときは理解できないと思ったものだよ、あの頃は人間でね。だがこうしてみるとよく分かる、君が犬を愛でていた理由が
……
」
ナイフのようなディオの爪がゆっくりと指輪をなぞる。ジョジョはそのことが気になって仕方がないようであった。目を伏せて気にしていないフリでもしているつもりかもしれないが、指輪だけは奪われまいと頑なになっていることが握りこんでいる手から伝わってくる。なるほど、コレはどうしようもなくジョジョを打擲したいときには使える──ディオはいつか来るその未来を楽しみにしながら、ますます優しい声を出した。
「君もよく覚えているだろう?あの、愛犬
……
とても大切にしていたね。ジョジョ、教えてあげよう。決して人を噛まない、誰にでも尻尾を振る犬を駄犬と言うんだ」
ジョジョの手がピクリと動いた。
「君も言っていた通り、“仲良く”なるのは早かったよ。優しく声を掛けて餌をあげれば、あの駄犬はすぐに食いついきた。君はきっと気付いていたと思うが
…
おっと、あの頃の私はまだ人間の子供だったんだ。今の私にはもはや関係がないが、どうかあの子供を許してやってくれ」
顔をさっと上げ、指輪からこちらに視線を移してきたジョジョにディオは満足感を覚えた。腹の奥の獣じみた欲望がのたうち回りはじめ、はやく血を寄こせと胃を突き刺してくる。その本能的な渇きをも抑え込みながら、ディオはジョジョとの再会の間に自分を制することがみるみる上達していくのを感じていた。どんどん人間から離れていく感覚だ。
「あの子供は、君の犬ができるかぎり苦しむように工夫したんだ。餌に入れた薬の量だって多くならないように調整した。意識が戻るようにね。吠えにくよう口を針金で縛ったが、あえて手足は縛らなかった。代わりに、墓場の方から盗んできた、肥溜めにツッコんだ有刺鉄線を一緒に箱に敷き詰めたんだ。暴れる度に棘が皮膚を切り裂くようにね
…
途中で助けだされても感染症になれば結局のたうち回って死ぬだろう?ずいぶんと手間暇掛けたんだ
……
ジョジョ、その手はどうしたんだ?」
ディオの長い爪に触れていない方の手で拳を作り、ジョジョは腹の高さまでそれを持ち上げていた。あんまり強い力のせいで骨がギシギシときしむのが聞こえてくる。ディオがそっとその手から目を上げると、予想通り、ジョジョの目は素晴らしい色をしていた。
「君に
…
君に、心はないのか?」
「いやだな、ジョジョ、子供がやることじゃあないか。それに、その子供はもう居ない
…
」
ディオは無意識のうちに手の中のジョナサンの手を口元に引き寄せた。あまりに強い力にジョナサンが驚く間もなく、ひんやりと冷たい唇がジョナサンの手の甲に押し付けられていた。殴打の衝撃で傷ついた拳のまだ固まっていない血がディオの唇をうっすらと赤く染める。ギョッと目を見開くジョジョの瞳に、ディオは自分の瞳がギラギラと輝くのを見た。その赤い目の輝きこそが、彼が心と呼ばれるものを持っていることを表していた。
*****
ひんやりと冷たい唇が手の甲から離れると、しもやけになりかけた時のように触れられたところがジンジンと熱く感じた。ジョナサンは呆気に取られていた。これは何かの悪い夢なのではないか?──頭の遠くで、そんな声がする。
きっと、きっとそうだ。結婚式までずっと忙しなくしていて、旅行の手配も一筋縄ではいかなかった。あとは楽しむだけ、という段階になって、これまでずっと胸の奥底に隠しこんできたことがきっと雪崩を起こして崩壊してしまい、こんな夢を見させているのだ。
父を失った日からずっと、ジョナサンは説明ができないことに悩まされていた。あの場に居たスピードワゴンだけがジョナサンの頭がおかしくなったのではないことを証明してくれたが、警察にも誰にもあの地獄のような悲惨な事件の真相は言えなかった。信じてもらえるはずがなかった
……
石仮面だって見つからなかったのだ。スピードワゴンは彼だって大けがをしたというのに、自分の気が利かずすぐに屋敷に石仮面を探しに行かなかったと悔やんでいて、ジョナサンが意識を取り戻して容体が安定したのを確認した後は自分で石仮面のルーツを探すと言い張って旅に出てしまった。あのときの、まるで変ってしまった世界に独りきりだという感覚を、エリナが、ああ、エリナが埋めてくれた。彼女はジョナサンの身も心も癒してくれたのだ。彼女はジョナサンの味方だった。ジョナサンが彼女の一番の味方でありたいと願うように、彼女もそう願ってくれていた。
それなのに、ジョナサンはエリナにもあの事件の真相を伝えられなかった。命を救ってくれて、家族も屋敷も失ったことで様々な社会的な手続きに追われるジョナサンを手伝ってくれて、誰よりもジョナサンを近くで支えてくれた彼女にこの世に信じがたいほどの化け物が居るかもしれないと伝えるなんて──そしてあのディオがそんな化け物になり、それをジョナサンが自分の手で殺しただなんて。
どうして言えるだろう?ジョナサンは彼女を怯えさせたくなかった。エリナだけは、恐ろしい世界を知らずに幸せになって欲しかった。そして何より、本当のところ、ジョナサンはエリナの心が離れるのが一番怖かった。この手で家族を殺しただなんて本当のことを言って彼女に怯えられ、彼女がジョナサンの手を振りほどいて遠くに行ってしまうことが恐ろしかった。冷静になるほどに、ジョナサン自身も自分が怖かったのだ。あのときの、石像に貫かれて悲鳴を上げたディオのあの声
……
あの晩に聞いた悲鳴のなかで、ジョナサンの心に一番爪を立てたのはあのよく知った声による悲鳴だったのだ。いくら化け物になったとは言え、仕方がなかったこととは言え、あのディオを、兄弟同然のあの彼をジョナサンは磔にしたうえで焼き殺したのだ。なんて惨い死に方なんだろう、なんてことをしてしまったのだ──
…
考えるほどに恐ろしかった。罪の意識がたしかにあったのに、ジョナサンはエリナを引き留めたいあまりにそのことを黙っていた。ジョースター家は凶悪な強盗に襲われたという巷間の認識をエリナはそのまま信じ(ディオに関する通報は父さんと仲の良い刑事が水面下で対応していたそうで、警察内にはまだ知られていないことだった)、ジョナサンの心の傷を思って深くは聞いて来なかった。そのことにジョナサンは安堵し、甘えたのだ。ディオの墓は父さんの言いつけ通りに彼の実父の横とし、墓石に名を刻んだ。ディオが実の父親を嫌っていることを知っていたのに、あんな風に焼き殺したことを悪かったとも本当に思っていたのに、ジョナサンはまだ父さんのことを恨みに思ってディオの墓をああしたのだ。
そのことも結局、ジョナサンの心に爪を立て、ジョナサン自身が自分を責めるときに心を抉った。父さんは『恨むんじゃない』と言ったのに、ジョナサンは結局ディオを恨む心を抑えられなかったのだ。傷が酷く傷むような調子がよくないときは、殺してもまだ恨むだなんて化け物は僕の方じゃないかと思った。そうでないときでも、頭にこびりついているディオの悲鳴を気にしないで居ることに気力を絞らなくてはならなかった。
エリナと再会し、彼女を絶対に守るという新たな人生の目標が、ジョナサンの呼吸をすこし楽にしてくれた。エリナにはいつか打ち明けよう、と何度も思いながらも月日を重ねて、何も明らかにしないうちに彼女と結婚したのだ。自分が言いやすいように、彼女に退路を断たせたんじゃあないのか?という自責の念はますます強くなった。それで結局、化け物になってしまったディオや、そのきっかけを自分の研究対象の石仮面がつくったこと、ディオを手に掛けたことも、ジョナサンの中でもはや言えない秘密へと変わりつつあった。胃の中に大きな石があるみたいだった。
その罪だろうか?いや、あの秘密がこんな悪夢を見せているんだ、そうでなくてはこんなタイミングでディオが再び目の前に現れるなんて奇妙だとしか思えない。明日、英国を離れるから、それが大きな罪悪感を引き起こしてこんな夢となっているに違いない。ディオがあの火事から生き残っていたなら、ジョナサンがまだ生きていることがおかしいのだ。化け物になったとき、ディオは石仮面の秘密を守るためにジョナサンを殺すと宣言していたし、彼の性格を考えるとジョナサンが生きている限りは殺そうとしてくるに違いない。だから、このおよそ一年間誰にも命を狙われなかったために、ジョナサンはディオが本当に死んだのだと思っていた。
「ジョジョ
……
」
手の甲を指が滑っていく。破けた皮膚の上を撫でられ、火のついたマッチを押し付けられたような痛みが走った。ジョナサンは瞬きを繰り返した。痛みが、ジョナサンの束の間の現実逃避を強制的に中断してくる。
「ジョジョ」
現実からの逃亡を図っていたジョナサンを見透かしたような微笑みをディオは浮かべていた。これほどディオが嬉しそうにしているのをジョナサンは一度も見たことがなかった。生気のない真っ白な吸血鬼の頬が、まるで上気するみたいにやわらかい色合いに見える。ジョナサンの血に濡れた唇はやわらかく弧を描き、目元はふっくらと膨らんで、まるで絵画に描かれる天使みたいな顔だった。その顔は、今しがた、ジョナサンが一等大切にしていた愛犬のダニーを惨たらしい方法で死に追いやったことを告白した人間の顔とは思えなかった。微塵の罪悪感もなさそうなのだ。ジョナサンの背中にぞわっとなにか身体の竦み上がるような感覚が走った。嫌だ、理解できない──
…
「喉は乾いてないかい?君が来ると知って、人間の飲めるものも用意したんだ。下の階に移ろう、ワインを用意させるよ」
子供に、というよりはペットに言い聞かせるような甘ったるい声でディオは言った。
たしかに喉はカラカラだった。反応を返せないジョナサンに微笑みを深くし、ディオがジョナサンの手を引いて歩き出した。螺旋階段に続く、ぽっかりと開いた口。さっきワンチャンにここを上がって来させられたときは、上に月明かりが見えていた。だが上から覗き込むように見る階段はあまりに暗くて、ジョナサンは暗闇に引きずり込まれるような心地がした。
反射的に足で踏ん張った瞬間、ジョナサンは『しまった』と思った。ジョナサンの抵抗を感じた途端、ディオが足を止めた。彼の顔を見る前から、ジョナサンの手を握る冷たい手が、彼の発するどす黒い空気が、“優しくしてやる時間はここまで”だと訴えていた。ディオは間違いなくジョナサンの抵抗を待っていた。手を掴まれているせいだろうか、彼が心の中で口の端の裂けそうなほどニンマリと嗤ったのが伝わってくる。それなのに、振り返ってジョナサンを見やった顔は能面のように無表情で、それがいっそうジョナサンに抵抗の力を強くさせた。
眩暈がする──ひと思いに殺してもらえないと分かっていて、惨たらしく殺される運命を歩ませられる恐怖が喉を締め付けてくる。父さんが亡くなった晩は必死になんとか勇気を出せたはずなのに、今の自分にはもうそれがないのだろうか?あの晩とはたしかに何かが違う─
…
ディオは明らかにあの晩とは力の“格”が違う。そして今回は、いやこれからは、死ぬのは自分だけではない。エリナのことを考えると恐怖がいっそう強くなる。きっと、勇気に必要なのは希望なのだ。あの晩と違って、今のジョナサンにはエリナを巻き込まずにディオを倒せると思える希望が見えなかった。だから勇気がなかなか湧かないのだと思えた。
「ジョジョ
……
喉が渇いていないのか?余計な世話だったかな?」
嘲っているくせにそれを全く出さず、労わるような口調でディオは言った。
「ディ、ケホ、ディオ
……
」
ひと思いに殺して欲しいと縋りたい気持ちに襲われ、ジョナサンは恐怖に敗けそうになっている自分に対し顔を歪めた。瞬間、頬をひんやりとしたものが包んできた。ごく自然な動きで頬に手を当てられたことに、ジョナサンは石のように固まった。驚愕が後から追いついてくる。ディオはさっと視線を外し、ジョナサンの目を見ないようにした。そのことに対する戸惑いもまだ十分に感じられないうちに、ディオがぐっと顔を近づけてくるのをジョナサンは目を丸くしながら見た。
あっという間に近づいてきたその高い鼻がジョナサンの耳の横を掠めた、と思ったら、ひんやりとした鼻の先がジョナサンの首筋を撫でた。反射的に距離を取ろうと手を振りほどくために力を入れるほんの直前、ディオの方からジョナサンの手を離した。そして、彼はその手でジョナサンの頭を掴んだ。ジョナサンより細い指が並んでいるのに、その手はいとも容易くジョナサンの頭をぐいっと横に倒した。咄嗟にディオの手首をそれぞれ掴んだその時、首筋にディオの吐息を感じると同時に激痛に襲われた。
「が
……
ッ!」
毒を直接脊髄に打ち込まれたようであった。身体が勝手に反り返り、全身の骨が激しく震える。目の前が真っ暗になる。神経の束をのこぎりでゆっくり削られているかに思えるほどの激しい痛み、そればかりがジョナサンの全てになった。
息ができない、肺が捻じれている、悲鳴すら喉に痛い、何が痛いのかも分からないのに痛くて仕方がない──
…
永遠とも思われる痛みは、始まったときと同じようにさっと終わった。
ジョナサンはのけぞり、天井を見ていた。何度も瞬きをしているうちに、次第に視界が色を取り戻していく。真っ黒に煤けた天使が見える。いや、あれは悪魔だろうか?僕は何をしてるんだ?全身がまだ痛みに痺れている
……
混乱しきった頭がゆっくりと周囲の情報を拾い始めた。腰に一本の腕が巻き付いていて、のけ反って後ろに倒れそうなジョナサンを支えている。頭の後ろにも手の感触があり、頭部も支えられていることが分かった。ゆっくりと顔を起こすと、頬を熱いものがダラダラと流れていき、生理的な涙が溢れていたことを知った。頬に柔らかいものがぶつかってきた瞬間、ジョナサンはギクリとした。ぼやけた視界の端に金色が見える。顔のすぐ近くにディオの顔があるのだ。驚きや混乱よりも先に恐怖がジョナサンの胸を締め付けた。ようやく正常に活動を始めた心臓がきゅっと縮まったように感じる。
「
…
危なかった、ジョジョ、殺してしまうところだった」
耳元でディオの囁き声がした。ほとんど耳に口を押し付けて喋っているようで、痛みにまだ半分マヒしている頭蓋骨の中でやけにこだまして感じられる。ディオの腕も、口も、牙も、何もかも振り払いたい。そう思うのにジョナサンの身体はショックでちっとも動かなかった。かろうじてわずかに傾けた頭も、しつこく追ってきたディオの口がまた耳に押し付けられた。
「大丈夫かい?危なかったよ、君
……
吸い尽くしてしまうんじゃないかと怖かった」
ジョナサンが顔を起こす力があることに安心したようにディオは小さく身体を揺らした。まるで赤子をあやすような動きに、ジョナサンは訳も分からず首がカッカと熱くなった。ひどい屈辱を味わっている。
ジョナサンは膝に力を入れてなんとか立とうとした。瞬間、なぜこんなにも屈辱感が強いのかを理解した。脱力して床に倒れ込みそうなジョナサンを支え、社交ダンスでもするような体勢でぴったりと身体をくっつけてきているディオの、その脚の間のものがジョナサンの太腿に押し付けられているのだ。はちきれんばかりに膨らんだそれは硬く、生々しかった。義弟が勃起していると分かった瞬間、ジョナサンは腕を振り上げていた。
ディオはジョナサンにまさかそんな力が残っていると思わなかったらしい─
…
驚くほどあっけなく、彼は白い頬をジョナサンの平手で引っぱたかれた。衝撃にディオが身体を揺らしたのはほんの一瞬で、乱れた金の髪がパラパラと目の上に掛かってくるのもそのままに、ディオは心底驚いた顔をジョナサンに向けた。
上げたその顔の口元に覗く鋭い牙が真っ赤に染まっていて、ひどく吸血鬼らしかった。だが、眉を吊り上げ、怒りを目に表したディオはひどく子供っぽく、人間らしく見えた。彼は全身をぶるっと震わせた。その凄まじい怒りに、ジョナサンは一瞬希望を覚えた。このまま一気に殺されるんじゃないか
…
できればそれがいい─
…
「
……
生まれ変わって一年が経ったんだ」
怒鳴り散らしそうな気配があったというのに、ディオの声は低く、そして静かだった。ジョナサンはそのことにひと思いに殺されるという希望が遠ざかるのを感じた。膝に力を入れ、ジョナサンはなんとかディオの腕の中から逃れようと身を捩ったが、吸血鬼の腕はぴくりとも動かない。ディオが囁き声を続ける。
「以前は、俺もどこまでできるか分からないと言ったものだったが
…
一年もあれば研究はできる。ジョジョ、俺は自分がどんなことができるのか、もうよく分かってるんだ」
「なに、を、言ってる
…
!」
離してくれ、と言葉を続けようとしたジョナサンの頭髪をディオの手がむんずと掴んだ。引っ張られる頭皮の痛みと、ふたたび鼻先のひんやりとした点の感触を首筋に覚えたことにジョナサンは悲鳴を上げそうになった。先ほどはあんなに激しい痛みが襲ってくると思わなかったので却って堪えられたが、またあの痛みを味わうと分かっている今の方が絶望は強かった。どこまで、いつまで耐えられるんだろうか?ディオがこんなにも僕を憎んでいるなんて、なぜ気付けなかったんだろう?
牙の鋭さを感じて目を瞑った瞬間、ジョナサンは全身がぐっと重たくなった。膝がガクガクと揺れるのは、足から力が一気に抜けていくからだ。目の前が真っ白になる。腹の奥底で、快楽を知覚する束だけ集められて、それを熱い舌でねっとりと舐め上げられているような感覚だった。全身が茹立ちそうだ、指先まで力が抜ける、今度は腹部を守るように丸まりそうになった身体を力強く抱きとめられるのを感じる。
ジョナサンには何が起こっているのか分からなかった。ただ腕に触れた誰かの身体を反射的に抱きしめて、頭の中を真っ白にする暴力的な快楽を止めて欲しいと願った。
はー、はー、と荒い息を全身でしながら、ジョナサンは瞬きをした。誰かにしがみつくような体勢になっている。自分のこの体格を支えられる人はそうそう居ないので、一瞬、夢じゃないかとまた思った。完全に脚に力が入らない。身体中が熱いのに、命を吸われたみたいにふわふわとして、どこもかしこも脱力している。服の下の不快感が強い。失禁したのかと思ったが、どうやら違うようだった。血と汗の匂いに混ざって、精の匂いがした。
「え
…
?」
あまりの衝撃に、ジョナサンの口から小さく声が漏れた。その声に動揺したように、ジョナサンを抱きとめる腕がびくりと揺れた。その腕はジョナサンを引っ張り上げ、彼を立たせようとしてきた。そうして、ジョナサンが身体にちっとも力を入れられないと分かるや否や、彼を床にゆっくりと下ろした。
火照っているのに寒いと感じる身体が、それでも冷たい床の感触にほんの少しホッとした。だがそれも束の間で、ジョナサンは段々と自分が何を感じたのかを理解し始めた。そうして、吸血鬼の力のあまりの強大さを理解し、震えが止まらなくなった。あまりにも強烈な痛み、あまりにも強烈な快感だった。一瞬で支配された。すさまじい恐怖と、これまで感じたことのない屈辱感が飛沫を上げて襲い掛かってくる。頭の中がめちゃくちゃになっている。悔しくてたまらない──
…
「ジョジョ」
ジョナサンは顔をサッと上げた。恐怖に震えながらも屈辱感に涙を浮かべ、悔しさに歯を食いしばって怒りを湛えた目でディオを睨んだ。
彼は、自分の心底悔しそうな顔がディオの目にどう映るのかを知らなかった。ディオがジョナサンをひと思いに殺してくれるかもしれないという希望は、たった今、ジョナサンがディオに見せた表情によって完全に潰された。
ディオはあまりの衝撃に震えていた──これが、ずっと?
ジョースター家への切符を手に入れた時よりもずっと強く、明るく、未来が拓けているとディオは感じた。こんなに世界から与えられた気分になったことはなかった。こんなに世界から微笑みかけられているような気分になったことは絶対になかった。これが、希望というものなのかもしれない。なんだか力が湧いてくる。まるで、勇気が湧いてくるみたいに。
「これからよろしく、ジョジョ
……
」
差し伸べられた手を前に、ジョナサンはこの男を蹴り飛ばせたらどんなにかいいだろうと思った。
★★★
時間の関係上ここで終わらせます~~~;;
結婚指輪以外に身につけているものがない、火傷の痕のあるJを書こうと思ったはずなのに。
あと、年内をめどに『マリーの記憶』という既刊の再販をしたいところです!またアナウンスいたします~^^
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