七月二十三日。誰かにとってはいつもと変わらない、ただの一日の始まり。しかし少しだけ浮ついたような足取りで自室のリビングへ向かうレイヴン隊指揮官にとってはそうではない。
まだ目が覚めたばかりで少しだけ、現実感が足りない。あと少しだけでも寝ていれば良かっただろうかなんて眠れるはずもないくらいにクリアな思考回路で考えながら、リビングの扉を押し開いた。
――ふわり、と鼻腔をくすぐるように香ばしい匂いが通り抜けた。
いつもの珈琲の香り。豆だとか煎り方だとかそういう詳しいことは全く分からないけれど、ともかく落ち着く香りである。
この時間、この香りならキッチンだろう。見慣れた姿の構造体を探すように、部屋に備え付けられたキッチンを覗けば、探していた構造体はこの部屋の主たる指揮官の珈琲を淹れることに没頭していた。慣れた手付きと無駄のない所作。寸分の狂いもない全てがどこまでも彼らしい。静かに笑みを零しながらその姿を眺めていれば指揮官、と視線すら向けられず構造体の方から声を掛けられた。
「…………いつまでそこで見学しているつもりです?」
「集中していたみたいだったから、邪魔したら悪いかなと思ってね。それに、リーが珈琲淹れるところってあんまり見たこと無かったし」
「……別に、見たいならいつだって見れるでしょう」
「そうだけど、休日はいつも起こしてくれないから」
「それは普段徹夜ばかりしているあなたに問題があると思いますが。指揮官には休息が必要でしょう。もう少しくらいお休みになられては?」
そう言いつつも、キッチンから追い出す気は無いらしい……まあ、単に手が離せないだけかもしれないが。しかしそっと盗み見た端正なその横顔には微かな笑みが浮かんでいた。どうやら本格的に追い出すつもりはないみたいだと勝手に察し、これ幸いと見学を続けながら時折その横顔に浮かんだ表情を盗み見る。普段無機質そのもののような無表情に染まっている端正な顔にはやはり、人間らしい熱の通った微笑みが浮かんでいた。
「……指揮官、見学中申し訳ありませんが、手が空いているならそこにある朝食を運んで頂けますか。珈琲を淹れ終わるまで、あと少し時間がかかりますので」
そこ、と空いた方の手でリーはトレーを指差す。二人分の食事が載るようなトレーがこの部屋にあっただろうかと首を傾げ、すぐに考えるのをやめた。この部屋に出入りする存在など僕自身か目の前の構造体しかいないのだ。用意したのが僕で無いのなら必然的に答えは出る。
「了解」
軽い返事でトレーを掴む。載せられた朝食は二人分だった。トーストとサラダといういかにも朝食らしいラインナップだったが、片方のトーストには先日希望した通り目玉焼きが乗せられていた。
「リーは目玉焼きいらなかったの?」
「卵が一つしか無かったので」
「そういう時はスクランブルエッグにしたらいいよ。分けやすいし、チーズ混ぜたら美味しい」
「……次回の参考にします」
真面目だなぁと口の端だけで笑い、大人しくトレーをリビングのテーブルまで運ぶ。きっと今日の天候シュミレーションは快晴だろう。白いレースカーテンを通して柔らかくなった光が室内を照らしている。
「お待たせしました」
程なくしてリビングにリーが現れた。手にした二つのマグカップの、簡素な白い片割れを冷めないうちにどうぞと差し出される。マグカップの中、その液体特有の黒に満ちているのを見てありがとう、と受け取りながら席につく。
「ん、おいしい」
「当然です、全て貴方好みに淹れたつもりですから」
流石リーだね、なんて笑いながらもう一口黒を喉に流し込む。珈琲に詳しくなどないがこの香ばしい香りも、味も。全て本当に僕好みだから、いつの間にこんなに正確に好みを把握されていたのだなと素直に感嘆する。もう一口と唇にぴたりと当てがったマグカップの縁を離し、黒がゆらゆらと揺れ、満ちているそれをテーブルの上に置いた。
「……そうだ、ちゃんと言っておかないと」
朝の柔らかな光の中で輝く、ブルートパーズにも似た瞳をしっかりと見据える。きっと今日、彼は様々な人に何度でもこの言葉を贈られることになるだろう。だからこそ誰よりも早く、この言葉を伝えておきたかった。
「リー、起動日おめでとう」
贈るのは言祝。起動日という、肉の殻を持つ人の身から鉄の装甲を持った体へ、人間の心を焼き付けた日に贈る、言葉。
「君にこの言葉を贈るのも、もう何回目になるんだろうね。最初にこれを言ったのが随分昔みたいに思える」
古く、しかし大切にされてきた本のページをめくるように、年に一度だけ訪れる七月二十三日という日を思い出す。姿が変われど、いつもそこにいるのはこの日の主役であり、その心に青を纏う構造体の青年。年々新しく綴られるページに在る彼の表情は次第に柔らかくなって、今日という最も新しいページには静かな微笑みを浮かべたリーが、今そこにいる。
「ありがとうございます、指揮官。……貴方のおかげで、少し……この日が『特別な日』のように思えてきました」
ぽつりと零すようにリーは言う。視線は僅かに俯き、テーブルの上に並んだ朝食の上へと落とされていた。
「……以前、起動日は僕にとって重要な日ではないと、言ったのを覚えていますか」
「ああ、去年言ってたね」
「確かに、今の僕にとっても起動日はさほど重要ではありません。構造体たる自分が起動した日であり、日々の任務の中に埋もれてしまうようなものに過ぎませんが……」
誕生日や起動日に関係なく任務や戦闘は訪れる。戦場に立つ者として、誕生日のようにこの世界で生きる命を貰った日だとしても、起動日のように鉄の身体に命を吹き込んだ日だとしても、それは些細なことに過ぎない。それでも、とリーは思う。
「……それでも貴方は、いつもどれほど忙しくても、必ず時間を割いてこの『起動日』という日を共に過ごしてくれるでしょう。そう思うと、やはり大切にすべき……『特別な日』のような気がするんです」
だから、来年。またこの日を一緒に過ごしてくださいね。この『特別な日』を見逃してしまわないように。
「……まさか、君がそう言ってくれるとはね」
指揮官は心底嬉しそうな表情で目を閉じる。
「君が、そう思ってくれるなら嬉しいよ。……来年も、祝えるように頑張らないとね」
「ええ、生きていてもらわなければ困るので」
「あはは!そうだね、まずは生きてなきゃ。……さぁ、冷めてしまうし、そろそろ食べようか。ちゃんとしたお祝いはまた後でね」
「……それは本人に言って良いことなんですか?」
そう問われ、指揮官は愉しそうに笑った。そして目を細めては唇の前で人差し指を立てる。
「安心してよ、時間と内容まではシークレットだから。それに、君の起動日をこんな簡単な祝いの言葉だけで終わらせるとでも?」
折角のリーの起動日だ。祝いの言葉一つで終わらせてしまうのはあまりにも勿体ない。去年、一昨年と彼の起動日に行っているレストランの予約を取るのもありだろう。なんて考えていれば、リーが口を開く。その表情はどこか穏やかなものだった。
「……それでは指揮官。一つ、我儘を言ってもよろしいでしょうか」
「僕が叶えられる範囲ならね」
そう、彼の起動日なのだ。彼の我儘の一つや二つ、叶えたって良いだろう。……勿論、内容によるとは思うが。しかし彼の口から紡がれた我儘という願いは想像よりもささやかなものだった。
「本日の、指揮官の身支度は僕がしてもよろしいですか?」
身支度、とたった今し方彼が放った言葉をそのまま返す。
「身支度って言っても……服を用意するくらいしかないよ?それで良いの?」
僕自身、服を多く持っている訳では無いし、変装用に見繕った服をこういう時に着るわけにもいかない。選択肢はかなり狭いと思うけど、それでも良いの?と首を傾げれば、リーは僅かに微笑んで頷いた。
「ええ。ですから……ちゃんとその恰好のまま、会いに来てくださいね」
――今日くらい、僕が好きなように貴方を着飾っても構わないでしょう?
囁くような、密やかな声がレースカーテンを波立たせる風のように柔らかに鼓膜を揺らした。
「……はは、随分強欲な理由だね」
「おや、『それで良いの?』と言っていたのは貴方では?」
そうだね、と僕は目を細める。
「君の我儘は珍しいし、起動日だから良いよ。叶えてあげる」
ありがとうございます、と柔らかに笑んだ構造体を横目にレースカーテンに覆われた窓の向こうを眺める。
七月二十三日。今目の前にいるリーが過去の名も脆い人間の肉の殻も捨て去って、構造体たる『リー』が目覚めた日。きっと過去にはこの日を疎んだこともあっただろう、とグレイレイヴン結成当初のリーを思い出しながらそう考える。
人類の兵器と度々形容される構造体とはいえ、そこには人工的に再現されたにしろ意識や感情があり、その総ては何一つ偽物ではない。
――だからこそ、と僕は思う。構造体として人間を捨てたとしても、『ひと』であることまでやめてほしくは無いのだ。その体が人類の本能に沿った緻密に生と死の螺旋を繰り返す柔いものでなく、何かを守るために葬る力を持った無機質な鉄だったとしても、不要だと感情を捨ててしまうのではなく『ひと』であり続けて欲しい。そんな目の前の存在への小さな祈りは心の中に宿る想いという灯火になって、これから先も胸を焦がし続けるだろう。彼の傍で息をし続ける限り、ずっと。
眩しいくらい光に満ちたブルートパーズを眺めながら、指揮官はマグカップに満ちた黒を一口飲んで笑みを零した。
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