景生
3740文字
Public 主足
 

斜光

※出所後 ※花+主足 ※花村に元カノ有


 真っ昼間から鳴上の家で酒を飲んでいた。
 仰向けになった花村の視界には、天井から吊るされたペンダントライトが正面に映っている。それは磨かれた真鍮のフレームと厚みのあるガラスシェードで、あからさまな高級品ではないが、ひと目で選び抜かれたものだとわかる造形だった。目玉をぐるりと見回してみれば、室内にはどこもかしこも余計なものがなく、色も形も穏やかに調和している。
 そんな洗練された空間の中心に、小汚く飲んだくれた男が寝転がっているというのだから、まるで場違いな落書きが一枚絵に混ざっているような感覚で——花村は自身のみっともなさを浮き彫りにされるようで、居心地が悪かった。
 家主は野暮用で出掛けてしまった。すぐ帰ると言っていたが、一時間、二時間経っても帰って来ない。連絡をしても返事が無いので、きっと彼のことだ。相変わらずのお人好しっぷりで、厄介事にでも巻き込まれているのだろう。
「あーあ」
 ああ、ああ、ああ。と繰り返し、花村は落胆する。
 酔いに浮いた眼差しを電球に寄せて、自身の情けなさを省みていた。同棲までしていた恋人との急な別れ。いつも通り帰宅すれば、彼女が居るはずの自宅は空っぽだった。書き置きのように残されたスマホのメッセージには簡素な一言のみ。もう無理です、という限界の通知。理由を訊ねようとしても、それはもう拒絶されていて、既に送信不可能だった。それきりしばらく所在は不明だったのだが、後日更新された彼女のSNSで、見知らぬ男と二人きりで写っている写真を見つけた。それが今朝のことだ。
「だっせえの、俺」花村は、独りごちる。
 自分なりに彼女を大切にしていたはずなのに。相手にとって、それは充分では無かったようだ。——否、そういった過不足の問題ではなく、相手の求める方向性が違ったのかもしれない。だが、連絡を閉ざされた今となってはその答えを知る由もないだろう。それに、今更知って何になるというのだろうか。別れたのだから、もう彼女を追う理由は無い。花村に出来ることと言えば、こうして情けなく自分を憐れんで、現実逃避に大量の酒を呷ることだけだった。
 多忙な時期にそんなことがあったので、ずっと眠れていない。アルコールのせいもあってか、花村の意識は良心の呵責と後悔の中で、強烈な眠気と混ざって浮遊していた。
「気持ち悪ぃ……
 忌々しい微睡みに襲われる。催眠に掛かったような虚ろな目でうとうとしていると、ふと、静かな室内に物音が聞こえてきた。花村は気怠げな瞳を、音のした方角へ寄せた。扉の奥にある廊下を見て、ああ、そういえばあの男が居たのだなと、とあることを思い出した。
 鳴上は一人暮らしではない。例の男——あの足立透と同棲している。彼とは遠い昔の事件以来、顔を合わせていない。花村が鳴上の家に来ると、外出しているか、自室に篭って出てこないのだ。どうやら今日は部屋に居たようである。
 なぜ鳴上があの男と同居しているのか、花村には未だに理解出来ないでいた。自分の知らないところで、あの男と何があったのかは分からないが、出所した彼の身を進んで預かるだなんて正直な所、正気ではない——そういう不信感に包まれた気持ちが、心の奥にあった。
 だが、同調出来ないからといって、頭ごなしに否定するつもりはなかった。花村は自身の思いと、鳴上の思いが完璧に同じだとは思っていなかった。彼には彼の意思があって、花村には花村の意思がある。それは個々として当然のことであり、気持ちの行き違いで振られたばかりの花村にとって、痛いくらいに突き付けられた現実だった。
 足立とは払拭し切れない因縁があるものの、鳴上が許可している以上、邪険にするつもりはない。むしろ今日に至っては、一緒に酒でも飲み交わしてみるかという投げやりな思いさえ湧き出ていた。それくらいに自暴自棄だった。
「頭、痛ぇ」
 寝不足のせいか、酒のせいか。頭痛がする。花村は窓から射し込む外の眩しさを、手の甲で遮った。

 そうしていると、突然、大きな音がした。
 ばたんと勢いよく開け閉めされる扉の音に、花村は驚いて視界を開いた。身体を起き上がらせれば、廊下の扉から、あの男——足立が立っていた。
 彼の姿を見るのは十数年振りだった。
「悠くんが」
 彼は血相を変えて「悠くんが事故に遭った」と言った。
 花村は急なことに意味を飲み込めずにいたが、目を瞬いてから、目覚めたように彼の言葉を理解した。
 何で、どこで、無事なのか。そういう質問を投げ掛ける前に、足立は花村に家のカードキーを手渡してくる。
「これ、鍵。行ってくる」
「は? なに。病院? 悠」
 突然手渡されたものに、花村は動揺した。
「え。あ、うん。病院」足立は頷く。
「どんな様子なんだよ、無事か」
「ああ、うん。そうらしいけど、うん」
 歯切れは悪いものの、足立が言うには鳴上は交通事故に遭ったらしい。命に別状は無いが、怪我をして救急車で病院に運ばれたそうだ。先程、そういう連絡があったらしい。
 鍵を渡されたのは留守を任せられたということだろうか。確かめようと訊ねるが、足立はもたついた足取りながらも、さっさと玄関に向かってしまっている。靴を履く背中が見えて、その辿々しい後ろ姿から、彼を取り巻く気配が焦燥に染まっているのが分かった。
 時間が経ったせいだろうか。見た目はそこまで変わっていないというのに、彼の姿が昔の記憶と重ならない。以前はもう少し視界の端にいるような、遠くの方から笑顔の仮面を貼り付けて、こちらを細目に見つめる男だった。だが、今、花村の目の前に見えるのは、あの頃とは別人のような毛色を纏って、地に足付けて、大きな背中を向けている。
 昔よりも痩せたように思える。猫背も酷くなったように見える。それなのに、どうしてそう感じるのだろう——花村は不思議だった。歳を取っただけでは得られないような、何かが彼を包み込んでいる。その得体の知れないものの存在を、花村はどこか知っているようだった。
 彼は今、他の誰よりも鳴上の身を案じている。
 鳴上の緊急連絡先に登録されているのは、確かにこの男だった。そういう気配を感じ取った瞬間、花村は一人、その場に取り残されたように彼を見た。
 もし、鳴上と連絡が付かないことになって。すぐ帰ると言っていた彼がなかなか帰らないことに、この男ならば異変を感じただろうか。すぐに心配しただろうか。花村はついさっきまでの自分を思い出して、その浅はかさを恥じた。傷心の最中での自棄酒を言い訳にしたところで、鳴上の親友を名乗るには、あまりにも身の程知らずに思えた。
「ああ、くそ。何だよ」
 花村は自分の情けなさに舌打ちを溢す。
 気付けば、足立は既に家から居なくなっていた。
 ここで呑気に呆けた顔をしている場合ではない。花村は立ち上がると、迫り上がる吐き気を堪えながら、駐車場へと向かった足立をすぐに追った。
「足立!」
 そうして到着した直後、花村はエンジンの掛かった足立の車を窓から呼び止めると、返事も待たずに鍵を開けさせて、彼の車の助手席に乗り込んだ。俺も行く、と青白い顔で迫れば、足立は首を引いてうんと頷いてくれる。花村の体調が優れないことに気付いている様子だったが、虚勢を張った姿に考慮してか、指摘してくることはなかった。
 花村は、半ば意地のような気持ちになっていた。お前だけに悠を任せてたまるかと、自己嫌悪と嫉妬が入り混じり、酒によって情緒を掻き乱されている。
 シートベルトを閉めた身体が息苦しい。慣れない座り心地と、嗅ぎ慣れない匂い。車体の揺れは静かなものだったが、胃に蓄えられた酒は、ちゃぷちゃぷと波打っていた。
 再び吐き気を催す。それに気付いた足立が窓を開けてくれたが、ほんの気休めに過ぎなかった。しばらく走行して信号機が赤になると、足立がグローブボックスに常備していたビニール袋を差し出してくれる。花村は礼を言うのもままならないので、無言でそれを受け取った。
「足立」
 胃の中のものを全て吐き出しながら、花村は足立を横目に見る。ビニール袋からは生温い酒の匂いが漂ってきて、花村はその不快さに眉をしかめた。
……老けたな、あんた」
 十数年も経てば当然だろう。だが、今の憔悴した花村にはこんな悪態しか付くことが出来ない。じじい、と恨めしく呟きながら隣で嘔吐する花村に、足立は苦笑した。
 おじさんだからね。そう言って、彼は運転を続けた。
 車内に吐き出されたのは酒だけでは無いように思えた。長年胸に溜め込んでいたものが、一緒に溢れ出していくような気がする。足立はそれ以降、何も返事はしなかったが、花村の声に耳を傾けるように、ずっと押し黙っていた。
 花村は、吐き気が収まるまで、気が済むまで唸った。
 やがてその奇妙な対話は、病院で鳴上の笑顔を見た瞬間、穏やかな空気に溶けるように、いつの間にか終わっていた。
 その時間で何かが解けたわけでも、許せたわけでもない。
 だが、花村の胸のどこかに。ほんの微かなものだが、その日は、少しだけ風が通ったような気がした。