フォルダに入りきらない

思い出の保存について 

 松田さんはバツイチだ。ファミリー向けマンションの一室を借りている。部屋の間取りは3LDK、納戸が一つ、地下に倉庫が各部屋用に備わっている。倉庫に入っているのは冬用タイヤと不自然な細身の車輪の跡を残すほこり。移動手段として自転車を使っていたことが窺える。
 バツイチになったのはずいぶんまえらしい。使われていない部屋には、荷物が段ボールに入ったまま残されている。一度開封したようで、テープがひらひらと所在無く舞っていた。大して使わない物ばかり詰め込まれているらしいから、さっさと開けて段ボール畳むわと松田さんはよく言うけれど、なかなか実行できていない。
 食器棚にお揃いの食器がいくつかあるのは、わざわざ二人で選んで買ったのではなく、結婚祝いでもらったもので、ときどき食卓に出てきて使われているし、僕も気にしたことはない。
 掃除のやり方も、大柄な松田さんにしては細かい部分によく目がいく。部屋の四隅、テーブルの裏、冷蔵庫内。掃除をするとなれば徹底して、普段お目溢しにあっていた部分も全て拭き上げられる。僕も横で手伝いつつ、さながら業者のようだと感心する。
 特にきっちり掃除されるのは風呂場だ。松田さんの元を離れたその人は、水回りに関して厳しい人だったのかもしれない。スポンジ、洗剤、使い終わった歯ブラシ、研磨剤。松田さんの手で一つ一つが使われては、無造作に台に戻される。排水口もきちんと流し、輝くようにきれいになった風呂場の横で、松田さんは苦い顔をする。
 つまり、いわゆる「今までの彼氏や彼女を、フォルダに名前をつけて保存するタイプ」の松田さんは、その中身をときどき引っ張り出して、ちゃんと使う。思い出の整理整頓や使い方が上手だ。悲観や感傷で思い出を頭から引っ張り出すより、ずっと効率的に使われていていいのではないだろうか。
 けれど、彼にとってはそうじゃないらしい。
いまだに、まえの奴の言いなりになっとる気がすんねん」
「言いなりって」
 大袈裟だなぁと僕が笑うと、松田さんは掃除に使った洗剤を片付けながらぼやきを続ける。
「ちなみにタバコも?」
……教えてくれたんは、中学のときの先輩やな」
「それも彼女だったり」
 押し黙る男に、僕は肩をすくめる。
「いいのに。どうして嫌なの、そんなもんでしょ、人間って」
 いろんな人との経験を吸って、活かして、別れてもその癖や仕草が残っていくように。悪いことではない。ごく自然で、普通だ。僕ももしかすると、意識していないだけでどれかの癖や行動の一部に、友人や付き合ってきた人の形が宿っているかもしれない。
 ──そこまで考えて、気になったことがある。
「僕のことは?」
「あ?」
「僕は、ちゃんと名前つけて保存してくれる?」
 茶化すような言い草に、松田さんは「アホ」と即座に言い放った。
「保存せなあかんのはお前やろ、俺の方が先に逝くんやから」
 ……僕が口をポカンと半開きにしていると、松田さんはさらに続ける。
「お前の保存先作っとったらフタ閉まらんし」
 フォルダなんだから、フタはないんじゃない。というかわいくない反論は封じなければならないようだ。「掃除、今日はもう終わりや」と松田さんが、すっかり片付け終えたその場をあとにして、コーヒーを淹れにいく。いつもならこのタイミングでタバコを吸うのに、近ごろめっきり吸う量が減った。病院で釘を刺されたわけではない。思い出を引っ張り出して、ゆっくりたしなむことをしなくなったのは、その思い出に必要性を感じなくなってきたからか、それとも──こんなふうに、自惚れてもいいのなら。僕は未来を思って目を閉じた。
「フタが閉まらなくなるほど、長生きしなきゃいけないもんね」