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溶けかけ。
2025-07-22 23:44:48
4153文字
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ほぼ日刊
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約束
遠い日の約束を果たす二人のお話。
「ねえ、ヌヴィレット。逃げてしまおうか──誰も追いかけて来られないほど遠くまで」
彼女はそう言って左手をこちらに差し出した。
「なんて
……
冗談だよ」
僅かな震えを押し隠し、握り込まれた拳に道化の笑顔が添えられる。ヌヴィレット、とフリーナがもう一度私の名を呼んだ。
「おやすみ。良い夢を」
月白色を身に纏い、フリーナは長い髪を翻して踵を返す。後に残ったのはヌヴィレットと淡い鈴蘭の香りだけだった。
自室に戻ったフリーナは顔面からベッドに飛び込んだ。
疲労が酷い。指の一本だって動かせそうにない。
「ははっ
……
まだ震えてる
……
」
震える左手は手袋越しからでも分かるほど、氷のようにひんやりと冷え切っていた。手袋を脱ぎ、右手で左手を包み込む。
「
……
やっぱり駄目か」
氷と氷で温めたところで何の成果も得られるわけもなく。フリーナは両手をベッドに投げ出すと小さく丸くなり横向きになった。
「逃げることが出来たらどれほど良かっただろうか
……
」
弱音を吐くつもりはなかった。逃げ出したい、なんて思ったこともない。フリーナの存在理由はフォンテーヌの存続のため、そのために本当の神に直々に頼まれたのだから。
それなのに────。
「僕は駄目だなぁ
……
」
寝返りをうてば、きらびやかなシャンデリアが乱反射させた灯りに目が眩む。目映い光から逃れるように腕を目蓋の上にのせた。
鏡の前から始まった歌劇は未だ終わりが訪れることはない。先代水神の後を継ぎ、一人が二人になり、早数百年。多かれ少なかれ、ヌヴィレットへの信頼と信用を積み上げてきた。
「気を引き締め直さなければ
……
」
信頼と信用を履き違えてはならない。彼はあくまで水神フォカロルスの用意した観客の一人であり、この舞台に上がる役者は僕一人。舞台に幕が下りるその日まで、彼には観客でいてもらわなければならない。観客が舞台に上がるなど興醒めもいいところだ。そんな三文芝居は演者としての矜持が許さない。
フリーナの天秤は生まれたときから変わらない。何よりも優先すべきは民であり、祖国フォンテーヌ。役に役者の感情など不要。そんなものは切り刻んで、捨ててしまえばいい。見えなければ、見なければ、そんなものあってもなくても変わらないのだから。
「ごきげんよう、フリーナ殿」
「おはよう、ヌヴィレット」
最上階からの昇降機が途中で止まり、乗り込んできたヌヴィレットと挨拶を交わしたあと、頭の中で配役と台本を確認する。僕はフォンテーヌの神様で彼の上司。
よし、大丈夫。僕は今日も
神
ぼく
を演じられる。
「
……
」
「
……
」
無音の時間が続く。この沈黙が僕は嫌いではなかった。
しばらくして、昇降機が止まる。重力の置き土産にくらくらとするのもいつも通りだ。フリーナはそっと胸をなでおろす。正直、昨夜のことで彼から何か追及があるのではないかと肝を冷やしていたからだ。
先んじて、ヌヴィレットは昇降機から下りると手を差し出した。食堂までのエスコートもいつものことだ。
フリーナが手を重ねれば、ヌヴィレットが強い力で手を引いた。
「え?」
何が起こったのか──フリーナの頭の中には疑問符が飛びかっていた。真っ暗な視界に、包まれるような彼の香り。安心感に涙腺が緩みそうになる。
「君は大切なことは何一つ話してはくれない
……
だが強要はしない。ただ、これだけは覚えていて欲しい。君は一人ではないのだと」
力強い言葉に肩から力が抜けていく。助けを求める声を涙と共に飲み込めばほろ苦いものが胸を占めた。
ありがとう、ヌヴィレット。
でも、それでは駄目なんだ。
「大丈夫。大丈夫だよ、ヌヴィレット。僕はキミに心配されるほど弱くはないんだ」
精一杯笑ってみせる。僕としては百点満点の笑顔だと思っていたが、どうやら彼にはそうではないらしい。その証拠に眉間の皺は益々深くなってしまったように思う。
「ならば約束してくれ。何かあれば、必ず私を呼ぶと。どこにいようと、私は必ず君の力になろう」
それは、彼なりの誠意だった。僕はその言葉に何と返したのだろう? 今となってはもう思い出せないけれど。
「これで、終わりだ」
アビスの詠唱者が杖を振るう。痙攣して最早使いものにならない手を叱咤して静水流転を握った。
火球がこちらを目掛けて飛んでくる。寸でのところで何とか薙ぎ払うも、次はきっと間に合わないだろう。サロンメンバーは今、襲われていた者たちの護衛としてフォンテーヌに向かっている。心配はしていない。僕の可愛い従者たちはそこらの魔物如きに後れを取らない、頼りになる者たちなのだから。
「まだ耐えるか」
二重三重にエコーがかけられたような声でアビスの詠唱者が感嘆の声を上げる。「ならば次はどうだ?」と愉快そうに嗤う姿は醜悪な人間そのものだ。彼にとってフリーナの息の根を止めることなど本来は赤子の手を捻るにも等しい行為のはずだ。それがこうして生き長らえているのは単に彼が楽しんでいるからだ。フリーナが無駄な抵抗を続ける様を見て。
「次だって、耐えてみせるさ。それにしても
……
キミの炎、火力が弱いんじゃない? それではいつまで経ってもウェルダンにすらならないよ」
「小娘が
……
! クククッ
……
いいだろう。ならば希望通り、ウェルダンどころか消し炭にしてやる」
詠唱者の周りに幾つかの火球が浮かび上がる。圧縮された元素は赤を通り越して青色に輝いていた。
「はははっ
……
次は本当に死ぬかも
……
」
彼らは無事にフォンテーヌにたどり着いただろうか。かなり長い時間戦っていた気がするからたどり着いたと信じていよう。
「死ね!」
火球が振り下ろされる。僕は諦めて、目蓋を下ろした。
──どこにいようと私は必ず君の力になろう。
あぁ、何故、思い出してしまったのだろう。
だって、もう手遅れかもしれないのに。
「けて
……
助けて、ヌヴィレット
……
ッ!」
止まらなかった。口に出せば流れる水のように言葉はあふれていく。死にたくない。だって、僕はまだ何も成し遂げていないのだから。
「命乞いとは元水神が憐れなものだ!」
熱が近づいてくる。やっぱり、遅すぎたのだ。死の恐怖が灼熱を伴ってやって来る。骨すら遺さず、焼け死んでしまうかもしれない。
「遅いかどうか、試してみるか? 君のその身体でな」
刹那、世界が止まった。否、僕がそう感じただけかもしれない。僕の横を清涼な水の気配が通り過ぎていき、火球とぶつかりあい、爆発を引き起こす。ボンッというくぐもった、それでいて鼓膜が破れるかと思うほどの轟音が熱気と爆風と共に僕らを襲った。
「うわぁっ!?」
「フリーナ!」
吹き飛ばされそうになった僕をヌヴィレットが受け止める。ゆっくりと目を開ければ、僕とヌヴィレットの周りは薄青の膜のようなもので覆われていた。
「怪我はないか?」
「あ、ああ。キミのおかげでね」
「そうか
……
」
あからさまにホッとした表情を浮かべたヌヴィレットは僕の頭を一撫ですると「少しだけ待っていてくれ」と言い残し、結界の外へと歩いていく。追いかけたくとも、足は既に限界を迎えていて、少しだって動くことはない。途方に暮れるフリーナの目の前でヌヴィレットがアビスの詠唱者と対峙していた。
「おのれ
……
おのれ、おのれ
……
!」
火球が降り注ぐ。火球の中をヌヴィレットは悠々と進むとアビスの詠唱者の前に立ちはだかった。
「泡沫となるがいい」
冷淡な声だった。ヌヴィレットの前に展開された魔法陣から放たれた水柱はアビスの詠唱者の身体を貫いた。アビスの詠唱者は断末魔の悲鳴を上げながら灰のようになって消えていく。後に残された素材をぼんやりと視界の端に捉えていたフリーナの頭上に影が差した。
「ヌヴィレット
……
」
フリーナは露骨に視線を下に向けた。怒られたらどうしよう、失望しているかもしれない、負の感情がぐるぐると頭の中を巡っていく。
「ッあ
……
!」
激痛が走る。わけもわからずにフリーナはその場にうずくまった。
「やはり、怪我をしていたか」
ヌヴィレットは無遠慮にフリーナの足に触れた。そう言われてみれば、何度か攻撃が当たったような気がする。
「はぁ
……
恐らく、戦闘中は興奮状態にあったのだろう。故に、痛みを感じなかったのだ
……
」
気づいてしまえば簡単なことで、今更ながらに体のあちこちが悲鳴を上げ始めた。なかでも一番酷かったのは痙攣を起こしていた手──ではなく左腕全体であった。朧気な記憶では掠った程度だと記憶していたが、実際には炭化するほどの火傷を負っていた。どうやら、痙攣も疲労のせいではなく、火傷のせいであったらしい。
「今すぐにシグウィンのところに行くのだ
……
フリーナ殿?」
立ち上がったヌヴィレットは数歩進んでからフリーナを振り返った。フリーナはまだ、その場で座り込んでいた。
「ははっ
……
少し待っていてくれ。そうすれば動けるように
……
って、
……
うわぁ!?」
ヌヴィレットはフリーナの元に戻ると華奢な身体を抱き上げる。見た目よりずっと軽い体重に眉を顰めた。
「ヌヴィレット、僕、歩けるから
……
」
「却下する。君の回復を待っていたら、いつまで経っても辿り着けない」
ぴしゃりと跳ね除けられて、フリーナは唇を尖らせる。「だって、でも
……
」と何やらもごもごと反論を重ねていた彼女は最終的にヌヴィレットの腕の中で大人しくなった。やがて聞こえてきた健やかな寝息にヌヴィレットは安堵する。
「思えば、君が私を呼んだのは初めてであったな
……
」
遠い昔、半ば無理やりに結ばせた約束が未来で実を結ぶとは思ってもみなかった。あのとき、約束を思い出して私のことを呼んでいなければ、永遠に彼女を失っていたかもしれない。名を呼ばれ、向かった先でぼろぼろの姿で炎に立ち向かう姿に肝が冷えた。シグウィンならば、火傷の痕も綺麗に治してくれることだろう。いざとなれば、権能を使えばいい。
ヌヴィレットはフリーナを抱く腕に力を込める。
ただ今は喜びを噛み締めよう。
──彼女の命が守れたことを。
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