史加
2025-07-21 22:01:21
6394文字
Public zzz(アキ悠)
 

糖蜜のようなエゴで愛して

アキ悠/受け入れたい悠真と与えたいアキラの話






 爽やかなレモンイエローのゼリーと白いクリームチーズが美しく層をつくるチーズタルトに、カカオの苦味の強いダークチョコレートを使ったクラシックなガトーショコラ、シロップ漬けにされた輪切りのオレンジの断面が映えるオレンジケーキ。多種多様なケーキと一緒に飾られた花々や、H.A.N.D.公式のファングッズである缶バッジやアクリルスタンド、あるいは非公式の創作物と思われるぬいぐるみなど。
 インターノットに流れる数々の投稿と写真を眺めて、最早アイドルだな、とアキラは苦笑いを浮かべる。新エリー都における対ホロウ六課の人気っぷりは、彼らが表立ったイベントに参加するたびに殺到するファンの数とその勢いからよく理解していたつもりだ。しかしこうして「推し活」の実態を眺めると凄まじい熱量を感じるもので、大切なひとが多くのひとに愛されているのが嬉しいような、複雑なような……正直後者が勝ってしまう。
 雅、柳、悠真、蒼角、それぞれの隊員を個別に推すファンもいれば、六課全員をこよなく愛する箱推しのファンもいるが、アキラの知る限り、悠真を個別で推すファンたちの悠真に対する解像度はだいぶ低いように思える。最初のうちは悠真が意図的にそう振る舞っているからだと思っていたが、彼の生い立ちを知ってからは何となくそれだけでもないのだろうと察した。大勢の人間に囲まれて、高嶺の花のように扱われ、熱烈な好意を向けられる――それは今までの彼の人生では有り得なかったことで、受け止め方も上手い躱し方も知るはずのないことだ。普段の飄々とした振る舞いで戸惑いや困惑を押し殺した彼の態度は様々な捉えられ方をして、「対ホロウ六課所属の浅羽悠真執行官」をずいぶんと薄っぺらく作り上げたに違いない。
 誕生日という個人情報は、多くのファンを擁することを認めているH.A.N.D.上層部の意向により一般に公開されており、本日悠真たちのファンは年に一度のおめでたい日を祝うのだとこぞってインターノットに投稿を上げている。思い思いの「マサマサ」をイメージして用意されたケーキの写真の中に、ごくスタンダードないちごのショートケーキを写しているものはない。逆にそれを知っている人間がいたらアキラはあまり穏やかでもいられなくなるのでいいのだけれど、そこに優越感を覚えてしまう自分の浅ましさにげんなりしてスマホの画面を消す。静かに流れるジャズがざらざらとした心の表面を撫でて、ささくれだった感情を幾分かなだめてくれた。
 頻繁に足を運ぶCOFF CAFEではなく、いつだったかグラビティ・シアターで映画を観た帰りにたまたま見つけた喫茶店のカウンター席は、アキラがひとりで考え事をしながら過ごしたいときの避難場所のひとつだ。ビデオ屋はどうしても壁が薄いから、自分の部屋にこもっていても階下の賑わいや、隣の部屋にいるリンの気配を感じずにはいられない。決してそれらを煩わしく思う訳でもないけれど、たまには慣れ親しんだそれらから離れて物思いに耽りたいこともある。そういうときのための場所をいくつか見つけていて、この喫茶店は中でもいっとうお気に入りになりつつある場所だった。
「お待たせしました」
 妙齢の女店主がバックヤードから姿を現して、ブラックコーヒーと、いちごのショートケーキの載った皿をアキラの前に置く。隣に本日の主役を呼びつけて座らせるでもなくひとりでこんなことをしている時点で、インターノットに投稿していたファンたちと自分はさほど変わらないのかもしれない。そう思うとまだ一口もコーヒーを飲んでいないのに、舌の根に苦味を覚える。
 仕方ないだろう、と、誰に詰められたわけでもないのに心の中で言い訳をした。そもそも普段通りで構わないよと先に言ったのはアキラだ。悠真は何か言いたげだったけれど、緊急の案件が舞い込んで休暇を取る余裕すらなくなった。インターノットで数多のファンから祝福されている彼は今頃ホロウの中で死と背中を合わせている。六課の緊急出動が安全を意味することなど有り得ないのだから。
 ぴかぴかに磨かれた銀のフォークを手に取り、美しい三角形のケーキにそっと突き立てる。一口分を切り分けて口へ運ぶと、なめらかなクリームの甘さとしっとりしたスポンジの食感が舌の上に広がった。コーヒーに合う上品な甘さだが、これでも悠真はきっと甘いと言って、ひとくちで十分だと笑うのだろう。金糸雀色のひとみがやわらかく細められる様なんて簡単に想像出来る。少なくともそれくらい、彼とは時間を共有してきている。だというのに。
 深煎りのコーヒーの痛烈な苦味を舌の上に転がしつつ、アキラは暗いままのスマホの画面を見つめた。今日は一度も、何のメッセージも受け取っていないそれは、インターノットばかり見ていたせいで充電がもう二割を切っている。ささやかな約束ひとつすら取り付けられないまま、悠真は同僚たちとともに戦場へ向かった。だから彼がつつがなく任務を完遂して事務処理を終え、遅い時間に帰宅し、泥のように眠って、諸々落ち着くまで連絡が来ることはない。「おめでとう」のひとことを言っていいのかどうかもわからないまま、今年の七月十九日は幕を閉じる。
 来年に後回しにしていいことではないというのに。
「お兄さん、何か悩み事かしら?」
 眉を顰めてスマホを睨んでいたアキラに、落ち着いたメゾソプラノの声がかけられた。先ほどコーヒーとケーキを運んできてくれた女店主が、カウンターの向こうから穏やかな顔でアキラを見つめている。
「すみません。別にたいしたことじゃないんです」
 唯一血を分けた家族であるリンにすら踏み込ませていない場所に、赤の他人を立ち入らせるなんて出来るはずもなかった。控えめな笑みを浮かべてやんわりそう告げると、店主はほんの少しだけ気遣わしげな表情を浮かべる。そんなにひどい顔をしていたのだろうか。あいにく近くに鏡や、その代わりとなるようなものはないから、アキラは今自分がどのような表情をしているのかわからなかった。
 はっきりと言えるのは、これはアキラ自身の問題であり、他人の手を借りるようなものではないということだけだ。このままここでのろのろとケーキをつつき、コーヒーを舐めるように啜っていても迷惑になりかねない。当たり障りなくコーヒーとケーキの感想を伝えてさっさと帰り、自分の仕事に集中したほうが気も紛れるし、周囲に余計な心配をかけずに済むだろう。冷静にそう判断し、アキラは口を開こうとする。けれど軽やかなドアベルの音に遮られて、陳腐な言葉は音になる前に喉奥へと飲み込まれていった。
 ドアのある方向を見つめ、来客の姿を確かめた店主がどこかほっとしたような顔をする。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「いつもので。……あ、それと、そこのお兄さんが食べてるやつもお願いしようかなぁ」
 聞き覚えのある声がして、アキラは思わず振り返った。閉じゆくドアの向こうに暮れなずむ空の色が見える。茜色の光を背負って現れた青年は、目立つ黄色のハチマキをなびかせながら悠々と歩いてきて、当たり前のようにアキラの隣にあるスツールに腰掛けた。
「やあ、ビデオ屋の格好良いほうの店長どの。まだ閉店前の時間帯だっていうのにこんなところでひとりでいるなんて、もしかしてサボり?」
……どこかの誰かさんの悪い癖がうつってしまったのかもしれないな」
「えっ、本当にサボりなんだ。あの真面目な店長どのにそんな悪いことを教えるなんて一体どこのどいつなんだか。懲らしめてやらないとダメじゃない?」
……
「例えばさぁ、言いたいことを思いっきり言ってやるとか。どう?」
 金色の目を細めて笑う顔は明るく、血色も悪くない。ただのそれだけで馬鹿みたいに安心して、胸の奥がじんわりとあたたかくなって、アキラはたまらない気持ちになる。
……どうしてここに?」
「んー? 爆速で仕事を片付けて、副課長から直帰していいって言われたからビデオ屋に寄ったんだけど、そしたらかわいいほうの店長どのにサボり魔を見つけて来いって頼まれちゃって。なんとなくここにいるかなって思ったんだよね」
「それは……悪いことをしたね」
「まったくだよ。独断専行する課長を見失わないように追いかけて、うじゃうじゃ湧いてくるエーテリアスをやっつけて、さらにあんたを探し回ってもうへとへと。ま、探し回ったっていうのは嘘だけど」
「約束はしていなかっただろう?」
「そうだね。でも、もしも今日が何もない一日だったら、きっとこんなに日が暮れる前に僕はあんたと一緒にここに来てたよ。緊急招集のせいで言いそびれちゃったけど、今年はあんたとなら甘いケーキのひとつくらい食べてみてもいいかなって思ったんだ。だから付き合ってって言うつもりだったし、あんたもそのつもりでいた。そうでしょ?」
 確信しているような口ぶりで、こてん、と首を傾げてアキラの顔をどこか不安そうに覗き込んでくる悠真のことを、今更都合の良い夢や幻覚じゃないかと疑う気はない。むしろ己の甲斐性のなさを突き付けられて、あまりの情けなさにため息がこぼれそうになる。
 見慣れた制服はところどころ薄汚れ、濡羽色の髪は汗でしっとりとしている。包帯やガーゼは見当たらないものの、捲られたシャツの袖と弓がけの間から覗く手首にはいくつか真新しい擦り傷が出来ていた。ほんの数時間前まで戦っていた人間の姿のまま隣にいる悠真は生々しくて、それがどうしようもなく申し訳ないのに、嬉しいとも思ってしまう。
……ああ、そうだ。本当は君の誕生日を祝いたくて、デートに誘おうと思っていた。この喫茶店のことを君に話して、前に連れてきたのだって、そういう下心があったからだ」
「ははっ、リンちゃんにも内緒のお気に入りの場所だって教えられた時点で分かってたよ。あんたにしては分かりやすすぎて、だからこそ嬉しかった。……あんたとなら、今年の誕生日を良い一日に出来るんじゃないかって、そんなふうに思えたんだ」
 少し荒れた唇を緩めて微笑む悠真は、光の差すほうを見つめるのがとてつもなく上手だった。アキラはまだ、そんなふうに強くはいられない。悠真との未来を諦めているわけでも、必要以上に憂いているわけでもないし、百歳まで生きるんだろう、なんて軽口を叩けないほどでもないけれど、焦燥と躊躇いはいつだって心臓の裏側にのっぺりと張り付いている。
 傷付けるのがおそろしいのではない。踏み込むのがおそろしいのではない。
 アキラが悠真に与えたいと思っているものが、今までの悠真が捨ててこなければならなかったものたちの埋め合わせをするに足り得るのかわからないのが、おそろしいのだ。
「お待たせしました」
 ふたりの間に訪れた沈黙が質量を持たぬようにと、女店主がコーヒーとショートケーキを運んでくる。旬を過ぎて果実が固く、酸味の強いものばかりが出回るこの時期のいちごは、甘いシロップでコーティングされてつやつやと光り、その存在を主張している。
 幼い頃の彼が口にしたケーキの話を聞いたのは、アキラが初めてこの喫茶店に悠真を連れてきて、一緒にメニューを見たときだった。その後も数回アキラは悠真とともにこの喫茶店を訪れて、決まって同じコーヒーを飲みながら他愛のない話に花を咲かせている。
 ――数回。そう、数回だ。ふとアキラは引っ掛かりを覚えて、悠真を見た。深煎りのブラックコーヒー以外を頼んでいるところなんて見たことがないけれど、それでも片手で足りる程度の回数で、女店主に「いつもので」なんて言うだろうか。
……悠真」
 金糸雀色のひとみを捉えたまま、名を呼ぶ。いたずらがばれた子どものように彼は破顔して、銀のフォークをケーキに突き立てた。
「相棒。僕たちって本当に気が合うと思わない?」
……もしかして、僕が連れてくる前から知っていたのかい?」
「そ。仕事をサボってにがぁいコーヒーを飲める丁度良いお店がないかなって探してたときにここを見つけてね。一年か、二年前だったかな……つまりあんたと会う前から、なんだけど」
「じゃあ、まさか……
 先ほどは己の不甲斐なさを思い知らされただけの言葉が脳裏に蘇る。
 ――今年はあんたとなら甘いケーキのひとつくらい食べてみてもいいかなって思ったんだ。
 悠真がそう言った本当の理由が、透けて見えた気がした。
「アキラくん」
 真っ白なクリームとスポンジ、それから大きなひと粒のいちごで作られた美しいケーキが、その手元でかたちを崩している。
 胸の奥に生まれた思いの本質を確かめるように、悠真は切り分けたひと口をすくい上げた。
「あんたと一緒なら、僕はきっとこの甘さを素直に飲み込める気がする。だからさ、このまま埋め合わせに付き合ってくれない? あとで一緒にリンちゃんに叱られてあげるからさ」
 健気でいじらしいくせに、アキラよりもよっぽど覚悟が決まっていて、真っ直ぐだった。それでもそれなりに積み重ねてきた時間が、彼のうちがわに恐怖がひそやかに存在していることをアキラに確信させた。
 今ここで腹を括らなければ男が廃るというものだろう。何より悠真がくれた言葉が、アキラの背を力強く押してくれている。
……もちろんだとも。その代わり、一緒に叱られるだけじゃなく、ご機嫌取りにも付き合ってもらうよ。きっとリンのことだ、仕事をサボっただけでなく、ふたりだけで誕生日のお祝いに美味しいケーキを食べたと知ったらカンカンに怒るだろう。手土産を用意するだけじゃ許してもらえないな。おそらく、三人でスイーツビュッフェの刑が待っている。費用は僕と君持ちだ」
……え?」
「だから一日で一生分のスイーツを食べさせられてもいいように覚悟しておいてくれ」
 想定外の返答だったのか、悠真はフォークを握ったままぽかんとしてアキラを見つめた。金色の目が冗談かどうかを疑っている。残念ながら冗談ではない。
 今までの分をすべて埋め合わせるのに、来年、再来年と時間をかけているだけの余裕はない。それは互いの間にある共通の理解であり、向き合い続けなければならないものだ。
 不確かな未来のことを、確かなものに違いないと身勝手に訴えるのは簡単なことだが、時と場合を選ばなければ互いを傷付け合うだけの諸刃の刃となる。だから他でもない悠真が「埋め合わせ」の相手にアキラを選んでくれたのなら、アキラは彼が選んでくれたという事実も、彼が信じる「今日」も、すべてを受け止め、受け入れることで応えてやりたい。
「ほら、悠真」
 固まったままの彼の手からフォークを抜き取り、無防備な口元へと差し出した。
「誕生日おめでとう」
 胸の奥から込み上げてくる喜びを隠しもせずに声音に乗せて、言の葉を紡ぎ出す。
 頬を赤く染めた悠真は、躊躇いがちに口を開けてフォークに載ったひと口分のケーキを食べた。時間をかけて咀嚼し、ごくりと飲み込んで、呟く。
……思ってた以上に甘いね、これ。でも、美味しい。……ねえ、もうひとくちちょうだい。一生分食べさせられてもいいように、慣れておかないと……でしょ?」
 薄く水の膜を張った金色の目をほころばせていとけなく笑う彼に、もちろん、とアキラは頷いた。
 ――ひとくちと言わず、アキラが与えたい分だけ与えることをもうおそれる理由はない。
 これからも幾度となく懊悩し、焦燥を抱き、上手く向き合えない現実を相手に歯がゆさも悔しさも覚えることに変わりはないだろうけれど。
 酸いも甘いも、苦も楽も。これからは出来る限り一緒に、同じくらいに味わっていけるように、身勝手に愛してゆく。