アルマジロ
2025-07-21 01:33:58
7802文字
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花が枯れた

くっついてないレザヘク。
私生活が色々とだらしないレザラの面倒を見ていたヘクトールの話。
🐺のモブ女性関係あり。暗い。

 天井ではシーリングファンが静かに空気を巡らせている。
 快適な空調に、よく冷えた飲み物。テレビには新作家電のコマーシャルが流れていて、塔の外では今も雷雨が止まないことなど誰もが忘れたかのようだった。
 部屋の主はソファの上で膝を抱えたまま耳を垂らしている。端正な目元は不満気に細められ、整った口はへの字に歪められていた。
「ボクはちゃんと大事に想ってたんだよ? それなのに『本当は私のこと愛してないんでしょ』なんて言われたらさぁ……
 レザラは尻尾をべしべしとソファに叩きつけながら、本日何度目かの愚痴を零す。丸くなった背中がゆらゆらと不機嫌を示すリズムで揺れていた。

 ヘクトールはソファの隣に腰掛けて、うんざりといった顔で適当な相槌を打つ。こんなやり取りはもう何度目だろう、と意味もない問いが頭を過った。
 眉目秀麗なこのベビーフェイスに言い寄る女性は後を絶たないが、同時に愛想を尽かして別れを告げる女性もまた後を絶たない。その度にレザラは親友を呼びつけては、傷心が癒えるまで愚痴に付き合わせていた。謝礼として食事を奢られてはいるが、こうも頻繁に呼ばれると義理堅いヘクトールとて苦言を呈したくもなる。

「思ってるだけで行動が足りてねぇんじゃねぇの?」
 チクリと針を混ぜた言葉を投げつけて、ヘクトールはテーブルに手を伸ばした。炭酸飲料のボトルの横に置かれたグラスを手に取り、残り少ないそれを飲み干す。ヘクトールと共に愚痴を聞かされ続けた氷はすっかり溶けて、冷たいけれど物足りない砂糖の液体と成り果てていた。

 言葉の棘を突き立てられたレザラの耳がぴくりと跳ねる。
「た、確かに人より会ったりするのは少ないよ? でもそれは闘士としての活動もあるんだから仕方ないじゃないか!」
 図星を突かれたのか、口籠りながらレザラが言い訳を返す。落ち着かなさを誤魔化すようにレザラもまたグラスを手にとって、中身を一息に飲み干した。こういう所は分かりやすいよな、とヘクトールがほくそ笑む。

 もう少しいじめてやってもいいが、それでは親友甲斐がないというもの。すっかり拗ねてしまったレザラの頭を乱暴に撫でて、くしゃくしゃになった髪を悪戯っぽく笑った。
「ま、次の人は大事にしてやるんだな」
 ヘクトールは立ち上がり、氷を足そうとグラスを手に取る。何も言われずともレザラのグラスも取り、そのままキッチンへと足を向けた。
「今までだって大事にしてたよぉ!」
 髪を整えたレザラが、キッチンへ向かう背中に向かって吠える。そのあまりにも情けない声色に、くつくつと肩を震わせた。

 冷凍庫を開けて製氷皿を取り出す。小振りな氷たちがガラガラと音を立ててグラスになだれ込んでいく。
 ふと顔を上げたヘクトールの視界に、見慣れない茶色の容れ物が飛び込んできた。キッチンの片隅、小さな壁掛け棚に飾られていたのは何も植わっていない植木鉢だった。
 自分の中のレザラのイメージと観葉植物が結びつかない。訝しげな顔をしたヘクトールは、製氷皿を戻して小さな植木鉢を覗いた。
 何も植わっていないかと思いきや、覗き込むと中身は確かに存在していた。乾ききった土の真ん中に、茶色く干からびた花の残骸があった。元より花に詳しくないヘクトールだったが、こうも枯れてしまってはどんな花だったかさえ想像もつかない。

 レザラは気が利く性格とは言い難い。大方受け取るだけ受け取って、世話を忘れてこの始末なのだろう。ヘクトールは盛大に溜息を吐いて、居間のレザラへ向かって大声で呼びかけた。
「おいレザラ! いつまでもこんなもん放置すんなよ! 枯れてんじゃねぇか!」
 哀れな植木鉢を携えてキッチンから顔を出す。何事かと歩み寄ったレザラは、その手にある物を見て笑顔を引き攣らせた。
「あっ……あはは……いやぁ最近忙しくてさ……
「最近って枯れ方じゃねぇだろこれ……ったく……
 頭を掻きながらレザラの目が明後日の方向を向く。きっと言われるまで存在すら忘れていたのだろう。
 レザラはそのままくるりと背を向けて、あっそろそろアルカディアの中継が始まるよ、なんてわざとらしくテレビの前へと引き返した。
 こういうところだ、レザラの恋人付き合いが長続きしない要因は。ヘクトールは大袈裟に肩を竦めて、それから植木鉢を棚に戻した。見窄らしい姿のまま置いておくのは気が引けるが、アルカディアの中継より優先しなければならないほどの痛みではない。

「見終わったら片付けろよ? 手伝いくらいはしてやるからよ」
「う……ごめん……
 氷で満たした二つのグラスと共にソファに戻り、見なかったことにしようとするレザラに釘を刺す。ボトルから炭酸飲料を注げば、いくつもの泡が浮かんでは儚く消えていった。
 果たして試合が終わった後、レザラの頭の中にあの植木鉢の存在は残っているのだろうか。もしかしたら、先ほどまであんなに未練がましく話していた女のことさえも忘れているかもしれない。
 そして試合の展開について熱く語った後、自分の出番が待ち遠しいと満面の笑みを浮かべるのだ。

 ありありと想像できる姿に、ヘクトールはソファにもたれ掛かりながら鼻で笑う。
「花一つ満足に育てられないようじゃ、彼女と長続きなんて夢のまた夢だなァ」
 ニヤニヤと嘲笑を浮かべれば、むっとしたレザラが耳を横にピンと張った。言い返そうにも言い返せない口を誤魔化すように、ヘクトールが注ぎ足してくれた炭酸飲料を流し込む。
「つ、次はちゃんと上手くやるって!」
 信憑性に欠ける決意の顔は、アルカディアの中継が始まった途端キラキラと輝く期待と興奮に塗り潰された。

 次に上手くやるのは果たして花にだろうか、それとも女にだろうか。どちらにしても結果は変わりそうにない。何故なら花も女も、レザラがハウリングブレードであるために必要ではないからだ。
 きっとまた懲りずにしくじって、何度でもヘクトールの隣で背を丸めるのだろう。何人の彼女に去られて、いくつの花を枯らしても、ヘクトールは変わらずレザラを受け入れてくれるから。

 空は変わらず雷雲が立ち込めて、大地は生命を蝕んでいくけれど、必要なものは全てエバーキープにあった。
 胸を震わせる生き甲斐も、喉を潤す冷たい飲み物も、大切な人と安らげる場所も。
 この居心地の良い生き方を変える理由など、レザラには何一つとして見つけることができなかった。




 自分の居室に帰るのは久しぶりだった。
 日中の時間のほとんどをジム・トライテールで過ごすようになったレザラは、重い身体を引き摺るようにして自宅のドアをくぐる。
 天井の照明を付ける気になれない。空調は稼働を忘れたまま、淀んだ空気が部屋に満ちている。
 ふらふらと幽鬼のような足取りで、崩れるようにソファに座り込んだ。手に持たされたビニール袋が、がさりと耳障りな音を立てる。

『少しはまともな食事を摂って休め。食欲がないならせめてこういうのだけでも口に入れろ』
 忠告と共にヤーナから押し付けられたビニール袋の中身を物憂げに見やる。中には様々な栄養補助食品が詰められていた。適当に選んだ、とは言いつつも手軽に栄養を摂取できる品が並んでいるあたり、しっかり者な彼女の性格が表れている。

 袋の中からゼリー飲料を取り出す。ネオンカラーが躍る手のひら大のパウチには見覚えがあった。かつてはヘクトールと共にトレーニングの合間の栄養補給として飲んでいたっけ、と懐かしい思い出が蘇る。
 久しぶりに緩く弧を描いたレザラの口元に、ゼリー飲料の飲み口を当てた。流れ込んでくるのは馴染みの味……ではなく、初めて口にする刺激物だった。
 咄嗟に口を離してパッケージを見る。見知ったメーカー、見知った商品だったが、味の種類だけに見覚えがない。人気ランキング二位という表示に目を疑った。
 このゼリーはいつもヘクトールが持ち寄ってきていたものだ。何種類もの味を食べたことがある。彼はいつも適当に見繕ってきた、と商品を選んでいたが、種類を偏らせていた訳ではなかった。飽きないようにその時々で様々な味を選んでくれていた。
 その中で見たことがないということは、ヘクトールは避けていたのだ、レザラが嫌いな柑橘の味を。

 ……そうか、合わない味もあったのか。ずっとヘクトールが選んでくれてたから知らなかったな。
 そう内心呟いて、一思いにゼリー飲料を吸い込む。そういうものだと認識してしまえば、酸味のあるそれはあっけなく喉へ流れ込んだ。
 独り言にすらできない想いと共に滑らかなゼリーを飲み下す。袋の中に残った他の栄養補助食品たちは、どうにも食べる気になれなくて、冷蔵庫にしまっておこうと立ち上がった。

 空になったゼリー飲料のパウチをゴミ箱に捨てて、冷蔵庫の扉を開ける。中には何も入っていない。まともな食料など何一つない箱は、ただ空虚な稼働音だけを低く響かせていた。
 元よりレザラは自炊するタイプではなかったが、ヘクトールが通っていた頃はそれでも何かしらは入っていた。共に食べようとテイクアウトした食事や、ヘクトールが作り置きしてくれていた食べ物が収まっていたものだが、それらはとうに胃袋の中へと消えて久しい。台所のシンクには作り置きを入れていた空き容器が、水に浸されたままいくつも転がっていた。
 レザラは無造作に袋の中身を詰めていく。乱雑に置かれたそれらには目もくれず、バタンと音を立てて扉を閉めた。

 食事は口に入れた。次にやるように言われたことは休息だ。寝室に向かうべきだと頭では分かっていても、横になったところで睡魔が訪れてはくれないことも知っていた。
 行く宛のないレザラが呆然とキッチンに立ち尽くす。酷い隈を染み付かせたその目が、ふと壁掛け棚に向けられた。
 棚には植木鉢が飾られていた。中から何本かの茎がひょろりとはみ出している。
 吸い寄せられるようにレザラは植木鉢を手に取った。萎んだ花は床へと項垂れて、青々しかった葉は茶色くかさかさと乾いている。水分など欠片も残っていない土が、放置された時間の長さを物語っていた。

 以前もレザラはこうやって花を枯らしてしまった事があった。あの時はヘクトールに怒られて、花を処分した後に新しいものを買いにいったっけ、とかつての日常を思い出す。
 今度はちゃんと育てる、などと意気込んでいたかつての自分が、今では別人のようにひどく遠い。あの時買ったこの花は何という名前だっただろうか。ヘクトールと一緒に買いに行った、この花は。
 ものも言えない花は黙ってレザラのために咲き、そして静かに枯れてしまっていた。まともに育てられるか怪しんでくれた親友はやはり正しかったな、と自嘲する。

『いつまでもこんなもん放置すんなよ』

 ヘクトールの声が脳裏に蘇る。そうだね、放置してはいけない、と聞かせる相手のいない言葉を呟いて、レザラは植木鉢を手にゴミ箱へ向かった。
 ちょうど空になったビニール袋もある。この中に植木鉢の中身を入れて、燃えるゴミとして捨ててしまえばそれで終わる。後はこんな枯れ草のことなど忘れて、眠れなくともベッドに身を横たえて目を閉じればいい。

 ──だというのに、レザラには何故かそれが出来なかった。もはや枯れてしまった花だ。意味のない花だ。それでも、ヘクトールと共に買ったという思い出のある花だった。
 もう二度と、一緒に花を買うことはできない。
 燃えるゴミ、と捨ててしまうにはあまりにも忍びなかった。だからといってこのままにもできない。しばらく逡巡した後、レザラは植木鉢を手に外に出ることにした。
 花は枯れたら土に還るものだ。だから、この花も土に還そう。窮屈な植木鉢ではなく、もっと広く、自由な大地に。
 自然に還ったこの花が、いつか次の芽吹きに繋がったなら、その時には少しは眠れるようになっているだろうか、などと考えながら。


 エバーキープを出て、ヘリテージファウンドへ降り立つ。
 あまり人が踏み荒らさない場所が良かった。かつて駆除人として活動していた頃の地図を頭の中で描きながら、レザラは花を埋める場所を探す。
 街から少し離れた場所に立って、辺りを見渡した。人も魔物も見当たらない。ここなら、静かに過ごせるだろう。

 レザラは地面にしゃがみ込み、植木鉢をそっと横に置く。地面を掘る道具も持たずにここまで来たから、素手で土を掘り返すしかない。
 土を掻き分ける度に、冷たい感触がひやりと掌を刺す。ざく、ざく、と土を掘る音と、遠雷の轟く音だけが響いていた。

 地面に小さな穴を空けて、その中に植木鉢の中身を入れる。今更のようにそっと、横たえるように花を埋めた。
 掘り返した土を花に被せていく。萎れた花が、折れた茎が、色褪せた葉が、冷たい土に塗れては埋まっていく。
 穴を埋め戻して、確かめるように掌で軽く叩く。素手で埋めた爪には土が詰まっていて、剥がれた赤いネイルと相まって不格好にレザラの手を汚していた。

 ──本当は分かっていた。雷に侵された大地では、命の循環がとうに失われていたことを。
 専用の装置で囲われた土でしか植物はまともに生きていけない。あの枯れた花を埋めたところで、芽吹く命などありはしないのだ。
 地中から雷が噴き出す土地だ。もはや命が還れる大地はない。ましてや枯れた花が再び息を吹き返すことなど。

 地面に手をついたまま、レザラは動けずにいた。
 レザラには何をすればいいのかが分からなかった。何をするべきなのかも、どうすれば心休まるのかも、これからどうやって、生きていけばいいのかも。
 雷鳴が轟く分厚い雲は、これからのレザラの行く末を暗示しているようで、ますます身体を錆び付かせる。
 そんなレザラのただ項垂れるだけの背中に向かって、不意に声が投げかけられた。

「わざわざこんな所まで来なくても、さっさと捨てちまえばよかっただろうが」

 何度も聞いてきた声だった。もう二度と聞けないと思っていた声だった。
 操られるようにして振り返る。少し離れた空き地に立って、こちらを見ている人影がいた。
 信じられない、とでも言うように、レザラの目が大きく見開かれる。叶わないと知りながら、誰よりも会いたいと願っていた姿がそこにあった。

「枯れてから埋めに行くくらいなら最初から枯らすなよなぁ」
 意地悪そうな、でもしょうがないなとも思っていそうな顔で彼が笑う。胸が詰まるほど見慣れた顔だった。親友は何度もそういう風に笑って、自分を隣で支えてくれていた。
……ヘク、トール」
 震える声が、レザラの口から零れる。これは夢だろうか。限界まで追い詰められた脳が見せる白昼夢だろうか。何だって構わなかった。二度と見れないはずの姿が、目の前にあるのだから。

「言っただろ? 思ってるだけで行動が足りてないって」
 彼は返事をするでもなく、ただ忠告だけを告げる。赤い髪が風に吹かれて揺れる。確かにそこにいるはずなのに、瞬きの後には消えてしまいそうな、底知れない虚ろさがあった。
 本当は今すぐにでも駆け出して、その身体を抱き締めたい。だと言うのに、レザラの身体は不思議と身動き一つ取ることができなかった。
 しゃがんだままのレザラを、赤い人影は静かに見下ろしている。落雷の絶えないこの世界で、そこだけが切り取られたかのように静寂に包まれていた。

 やがてレザラを見る目がふっと細められると、彼は踵を返して背を向ける。誰よりも身近だったその人がひどく素っ気なく見えるのは、自分ばかりが罪悪感を抱えすぎた所為だろうか。
「じゃあなレザラ! 次の人は大事にしてやれよ!」
 手をひらひらと振って、彼は残酷なほど気さくに別れを告げる。そのまま歩き去って、どこかへ消えていこうとしていた。
 思い出したかのように身体の制御を取り戻したレザラが、弾かれるようにして立ち上がる。無我夢中で手足を動かして、どうにか追いつこうと駆け出した。
「待って……待って! ヘクトール……!」
 走り出したレザラを嘲笑うかのように、一陣の風が砂埃を吹き上げていった。

 何度も転びそうになりながらレザラは走る。荒れた地面で滅茶苦茶な走り方をしているせいか、あっと言う間に息が上がる。心臓がバクバクと悲鳴を上げて、まともに呼吸も出来ない肺が酷く痛んだけれど、そんな事は意に介さず、レザラは大声で去り行く影に呼びかけた。

「待ってくれ! もう間違えないから! ちゃんと大事にするから……!」

 走るレザラの頬を涙が伝う。拭うことも忘れた水がぼたぼたと襟を濡らす。風に攫われた雫はどこにも行けないまま、ただ宙に浮かんでは消えた。
 親友の背中が遠い。どんなに必死に走っていても、歩き去る彼に追いつけない。限界まで手を伸ばし、喉が張り裂けるほどに叫んでも、彼は振り向きもしてくれない。

「次なんていらない! キミの代わりなんていない……! だからっ……! 戻ってきて……! ヘクトール……!!」

 伸ばした手は宙を切って、前のめりに身体が大きく傾いた。縺れた足に引っかかるようにして、レザラは無様に地面を転がる。
 呻き声を上げながら両手をついて上半身を起こした。咄嗟に辺りを見渡すが、その頃にはもう、親友の姿はどこにも見えなくなっていた。
 荒野に人影はなく、魔物もいない。土に塗れたレザラが、ただ呆然と座り込む。
 遥か遠くの空では稲光が細く走っていた。黒ずんだ雲が空を埋め尽くす。雷雨を予感させる湿った風は、レザラの涙を乾かしもしない。
 最初から、ここにはレザラしかいなかった。何を思っても、何を叫んでも、結局は虚しい夢に過ぎない。
 全てはもう、終わってしまった後なのだから。

………………うわぁぁああん……! わぁああぁぁ……!」

 大声を上げてレザラは涙を流した。迷子になった子供のような、幼い泣き声だった。
 返ってくる言葉はない。かつてレザラには泣いたらすぐに駆けつけてくれる幼馴染がいた。温かい手で触れて、隣にずっといてくれる親友だった。
 拭ってくれる指を亡くした涙が止め処なく溢れる。後悔の念が心臓を痛いほどに締め付けては、それでもまだ足りぬとばかりに胸を抉る。

 空はどこまでも黒く、重い雲が立ち込めていた。
 この世界はもう、大地と空さえも生命に優しくない。雷気を帯びた風は身体を蝕み、泣き叫ぶ声は喉を枯らす。安らげる場所は、とうに朽ち果てた。
 それでもただ一つの温もりさえあれば、きっとどこでも生きていけた。
 ──生きていける、はずだったんだ。
 選ぶべきものを間違えた。取り返しのつかないものもあると知るには、あの部屋はあまりに居心地が良すぎた。何故居心地が良かったのか、気付いた頃には全てが遅かった。
 冷たい風がレザラの隣を通り過ぎる。遠くから運ばれてきた湿った土の匂いが、もうじき降る雨を予感させる。
 枯れたはずの花の香りが、手のひらをすり抜けて、消えた。