アルマジロ
2025-07-21 01:26:15
10714文字
Public
 

その傷を癒すのは

はぐれもの同士仲良くなる幼少期レザヘクの話。
以下の要素が含まれます。問題ないという方のみご覧ください。
・最初から最後まで過去設定の捏造しかない
・レザラの素の口調は零式後半の方と想定
・いじめ、暴力、児童虐待の描写

 物心ついた頃からレザラは自分たちだけが周囲から浮いていると感じていた。価値観、考え方、モラルの違い。そう表現できるかもしれないがどれとも形容できないような違和感。
 それは恐らく、自分と家族だけが着けていないレギュレーターという小さな機械がもたらしたものだったのだろう。

 レザラの両親はヤースラニ荒野で代々生きてきた狩猟民族だった。獲物を追い、祖霊を敬い、大地と共に生きる彼らにとって、突如異世界に放り込まれたのは悪夢に等しかっただろう。
 彼らは頑なにレギュレーターの着用を拒否し、実の息子にもあれが如何に忌まわしいシステムかを説き続けた。
 レザラにとってはレギュレーターを着けないことが当然の理であり、着ける周囲がおかしいのだと疑うことなく信じ込まされていた。

 しかし周囲の目は違った。
 初めは戸惑っていたヤースラニ荒野の住民も、変わり果てた環境で生き抜くためか、あるいはその利便性からか次々とレギュレーターを着用し、家庭を持ち、定住するようになっていった。その中で生まれた子供たちもまた、レギュレーターを着けるのが当たり前という価値観で育った。
 故郷の街において、レザラの家だけがかつての祖霊信仰と死生観を堅持していた。エバーキープではなく大地に住むという時点で少数派なのに、その上でレギュレーターを着けず信念を固守する存在は、周囲の人間からはさぞ異質に見えたことだろう。
 アレクサンドリア王国はレギュレーターを着けない自由を保障していたが、それでも考え方が異なる人間は遠巻きにされるのが世の常だ。
 それが未成熟な子供なら、尚露骨に。

 あいつだけレギュレーターを付けない変な子。
 それがどんなに些細なことだとしても、“自分たちとは違う”という違和感さえあれば、子供の幼い悪意を向けるのに十分だった。

 レザラは友達というものを持たなかった。
 周囲は自分を奇抜なものを見る目で見て、同年代の子供たちは何も着けていない自分の頭をからかってくるからだ。
 その環境はレザラの攻撃性を育み、やがて自分をからかう者に対して暴力で応えるようになっていった。
 暴力は暴力を呼び、理由もなく殴られることもあれば、一人で何人も相手に喧嘩することもあった。レザラの小さな手は、人に差し出すよりも拳を作ることの方が多かった。

 ──気持ち悪いぬるま湯の中でヘラヘラ生きる奴らがオレを馬鹿にしている。
 それがレザラの冷たい目で見てきた他者という存在の全てだった。

 幼いレザラは誰とも関わることなく、一人で街外れを散策することが日常だった。
 本当はこんな街なんて抜け出して、雷雲の向こう、障壁の外まで行きたかったが、子供であるレザラは魔物が蔓延る街の外に出ることすらできない。
 窮屈な家にも不快な街にも居たくないレザラは、夜遅くまで出掛けては暇を潰していた。いつも過ごすのは街外れの高台。街を見渡せるそこは少し離れれば魔物が闊歩しているため人は寄り付かなかったが、誰にも煩わされず過ごせる場所だった。
 いつものようにレザラは魔物など意に介さず足を向ける。だが、その日は先客がいた。

 自分と同年代と思われる少年だった。その赤い髪に着いているレギュレーターを見て思わず舌打ちが出そうになるが、この狭い街においても未だに見たことがない少年だった。
 赤髪の先客はレザラに背を向けて地面に座り、街を見下ろしている。
……そこ、オレの場所なんだけど」
 不機嫌さを隠さずにレザラは少年の背中に声を掛ける。びくり、と震えた少年が恐る恐る振り向いた。

 その顔には青痣がいくつもあり、拙い手当が全身のそこかしこを覆っていたが、レザラは違うものに目を奪われていた。
 暗く澱んだ瞳。
 レザラの認識において、レギュレーターを着けている者はみな緊張感のない腑抜けた目をしていた。自分に喧嘩を売る子供たちもまた同様だった。
 ところが目の前の少年はレギュレーターを着けていながら、まるで全てを諦めたかのような目をしている。それはレザラにとって初めての経験で、同時に初めて見つけた自分と同じ“異物”だった。

……別にそのままでいーよ」
 ぶっきらぼうに言い放ち、レザラは無遠慮に少年の隣に座る。少年は少し驚いたような顔をしたけれど、何を言うでもなく変わらず座ったままだった。
 二人の少年が並んで座りながら、黙って街を見下ろしている。時刻は子供が出歩くには遅すぎる時間で、ほんの少し遠くでは魔物が闊歩していたけれど、そんな事はもはやこの二人にはどうでもよかった。

「お前、こんな遅い時間に何してんの?」
 レザラは自分のことを棚に上げて隣の少年に問いかけた。
 少年はしばらく口籠った後、おずおずと話す。
……母さんが怒ってる。家に帰ってくるなって……
 子供ながらに少し低いその声には年齢らしい覇気がなく、瞳と同様に重く沈んでいた。
「ふーん。オレは家に帰りたくないんだ」
 レザラは聞かれた訳でもないのに自分のことを喋っていた。自分でも何故会ったばかりの他人にそんな事を話したのか分からなかった。
……俺も、帰りたくない、かも」
 隣の少年が膝を抱えながらぽつりと呟く。怯えるでも否定するでもなく、ただ共感だけが返ってきた。
 その事実が無性に嬉しくて、レザラは久しぶりに笑みを浮かべる。少年らしい、純粋な笑顔だった。
「だよな。おんなじだ。……なぁお前、名前は?」
 赤髪の少年は自分に向けられた笑顔にはっとしたような顔でレザラを見つめ、そして同じく控えめながら笑みを浮かべて答えた。
「ヘクトール……ヘクトールっていうんだ」


 その日以来、毎晩のように二人は街外れの高台で会うようになった。
 初めて会った日のように隣に座り、お互いのことを話し合った。ヘクトールの家は母子家庭で、いつも母親の帰りが遅いこと。レザラの両親が日に日に祖霊信仰に入れ込むようになっていること。街の子供たちから吹っ掛けられた喧嘩で返り討ちにしたこと……
 レザラにとって、レギュレーターを着けているのに不快感のない相手というのは初めてだった。もっと話したい、一緒にいたいとごく自然に思うようになり、毎晩高台に向かう足取りはこれまでにないほど軽かった。

 レザラとヘクトールは高台に並んで街を見渡す。自分たちを閉じ込める牢獄のように見えていた街は、並んで見ると本当にちっぽけで、指先で簡単に潰せてしまえそうだと笑う。
「レザラはどこに住んでるんだ?」
 と尋ねるヘクトールに、レザラは自分の家を指差す。家の窓からは明かりが漏れていた。喧嘩の絶えない自分を咎めてばかりな両親の顔を思い出し、レザラの眉間に皺が寄る。
 えい、とレザラは指で自分の家を潰す仕草をしてみせた。一瞬驚いたような顔をしたヘクトールは、堪えきれず小さく吹き出して笑った。
「ヘクトールの家は?」
 とレザラも尋ねる。ヘクトールが自分の家を指差すと、レザラはそこにも親指と人差し指を合わせて、えい、とまた潰してみせた。
 夜の高台に少年たちの笑い声が響く。街は今も呑気にネオンの明かりを灯していて、今日も明日も変わることはないのだろう。それでも二人にとってその瞬間だけは、世界に二人しかいない幸せな空間だった。


 始めは特に約束するでもなく集まっていた二人の密会も、回を重ねる中で次第に会うのが当たり前になっていって、二人だけの密かな楽しみは新たな日常になっていた。
「また明日、遊ぼうな」
 昨夜の親友の言葉を思い浮かべながら、レザラはいつものように高台へ向かう。その目は期待に輝いて、唇は緩く弧を描いていた。

 しかしレザラの期待とは裏腹に、どんなに待ってもヘクトールは来なかった。
 いつもならとっくに来ているはずの時刻になっても現れない。レザラは一人高台に座って不貞腐れたように尻尾を揺らす。かつては一人で見下ろしていた街の景色も、今は一人で見てもちっとも面白くない。
 ふとレザラの目がヘクトールの家を捉えた。かつて指先で潰したその家には今も明かりが灯っていた。
 ──もしかしたら、あそこにヘクトールがいるかもしれない。
 そう思い立った途端じっとしていられなくなり、レザラは立ち上がって来た道を引き返す。ただヘクトールに会いたい。それだけがレザラの足を動かしていた。

 息を切らせながらレザラはヘクトールの家に辿り着いた。来たはいいものの何て声を掛けよう。そもそも本当にヘクトールはここにいるだろうか。踏ん切りのつかないレザラは家の前でうろうろと彷徨う。
 その躊躇いを、突如家から響いた破砕音が引き裂いた。

「アタシはこんなに苦労してるのに、何でアンタは楽しそうにしてんの!?」

 家の中から女性の怒鳴り声が飛び込んでくる。びくりと尻尾を逆立てたレザラは、慎重に窓から部屋を覗き込んだ。
 部屋の中には知らない女性がいた。女性は窓に背を向けていて、肩で息をしている。ヘクトールと同じ赤い髪。恐らく母親だろうか。
 その足元には見知った顔があった。頬を腫らしたヘクトールが、母親の足元で蹲っていた。

「アタシばっかり惨めでッ! アンタを食わせるためにアタシがどんだけ辛い思いしてると思ってんだッ!」
 母親が怒鳴りながらヘクトールの腹を蹴り上げる。苦しげに咳き込むヘクトールは何度も何度も踏みつけられながら、それでも黙って耐えていた。
 レザラの脳裏に初めて出会った時のヘクトールの顔が浮かぶ。顔の青痣と、全身の怪我。最近は少し薄くなっていた澱んだ目。
 喧嘩が日常だったレザラは、それを異常として認識できなかった。しかし今、親友の本当の“日常”を理解してしまった。

 頭に血が上った母親が机の上の酒瓶を手に取る。やめろ、とレザラが叫ぶ間もなくそれはヘクトールの頭に振り下ろされた。
 ガラスが砕ける耳障りな音が響く。倒れ込んだヘクトールが頭を押さえる。その額からは真っ赤な血が流れていた。
 母親は相変わらず何かを叫んでいたが、レザラは聞こうともしなかった。ただ、頭を押さえるヘクトールが口を動かして何を言っているのか聞き取ろうとするだけで精一杯だった。
 ヘイザ・アロ族の聴覚を以てしても親友の言葉が聞こえない。それでもその口の動きは、ごめんなさい、と繰り返していた。

 瞬間、沸騰しそうなほどの怒りがレザラの全身を支配した。
 視界が真っ赤に染まり、爪が食い込むほどに両手を強く握り締める。体中の血潮が煩くざわめいて、震えを抑えることができなかった。
 親友を傷付けるあの母親が憎い。けれどそれ以上に、何もせず耐えて謝るだけのヘクトールへの怒りと悲しみで頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。

 ──なんで、何も言い返さないんだ。
 ──やり返せよ……怒れよ……っ!

 悔しさを押し殺すように、砕けそうなほど歯を食いしばる。自分が殴られた訳でもないのに、どうしてか殴られた時よりもずっとずっと胸の奥が痛かった。喧嘩で流したこともない涙が、気が付けばレザラの頬を伝っていた。

 俯いたレザラの視界に、不意に地面で光るものが飛び込んできた。
 ガラス片だ。外に打ち捨てられたガラス瓶が砕けて、鋭利な断面が剥き出しになっている。
 いつの間にか、レザラはそれを手に取っていた。都合良くナイフのような大きさだった。
 握ったガラス片にレザラの顔が映り込む。先程まで激情に歪んでいたその顔は、今は不思議とただ暗く冷えていた。
 大声で喚き立て、錯乱しているあの女は恐らく周囲の事なんて気にも留めていないのだろう。
 これはヘクトールの苦しみを終わらせるための、千載一遇の好機。不意を突けば子供にだって勝ち目はある。ただ突き刺すだけ。それだけでこのクソみたいな光景は終わる。
 瞳に凶々しい光を宿したレザラは、ヘクトールの家の扉に手を伸ばし、そして──。

『また明日、遊ぼうな』

 動きを止めた。
 何故か、親友の他愛もない言葉を思い出していた。
 扉の向こうからはまだ罵声が響いていて、ガラス片を握り締めた手のひらからは血が滲んでいたけれど、見開いたレザラの瞳からは先程までの凶暴な光が消えていた。
 血の付いたガラス片が、からり、と空虚な音を立てて地面に転がる。
 レザラは泣き出しそうな目で固く閉ざされた扉を見上げて、無理やり踵を返した。
 ただひたすら足を動かして家路に就く。自分の部屋に閉じ籠もって、頭まで毛布を被って目を閉じる。ガラス片で切った手のひらが、今更のようにじくじくと痛む。何も考えることができなかったけど、眠れる気もしなかった。


 翌日、レザラはまた高台にいた。
 いつもの場所に一人座って、親友を待つ。
 来てくれるだろうか、と不安がる心の声を考えないようにして押し殺す。上空では相も変わらず雷鳴が轟いていて、重苦しい雲はレザラへ陰鬱にのしかかるようだった。

「レザラ!」

 背後から声を掛けられた。聞きたくて堪らなかったその声に、ぴくりと分かりやすいほどに耳が跳ねる。
 咄嗟に振り返る。嬉しそうな顔で駆け寄るヘクトールがそこにいた。
 安堵の笑顔が零れそうになったレザラの表情が固まる。親友の額には大きなガーゼが貼られていて、頬には赤黒い痣が未だに残っていた。額の傷は遠目に見た時よりも大きく見えて、右瞼にもかかるそれはもう少し深かったら右目を傷付けていただろう。
 昨夜の光景は夢ではなかったのだと、あれは間違いなくヘクトールが生きる現実なのだと思い知らされたレザラは、隣に座る親友のことをただ黙って見守ることしかできなかった。

「昨日は来られなくてごめん。ちょっと家で用事があってさ」
 何事もないかのようにヘクトールが笑う。その笑顔が少しぎこちなくて、瞳にはまた暗い影が宿っていたことに、レザラは気付いてしまった。
 その“用事”が何なのか知っているレザラは、ヘクトールに何かを伝えようとして、でも何を言えばいいか分からなくて、唇を戦慄かせる。
 様子のおかしいレザラを不思議がったヘクトールは、心配そうにレザラを窺う。傷だらけの親友に気遣われることに耐えられなくなったレザラが、とうとう口を開いた。

「昨日、お前んち行ったんだ」
「え……
 ヘクトールは親友が来ていたことなんて想像もつかなかったのだろう。自分の状況がそれどころではなかったのだから。
 昨夜のことを思い出し、ヘクトールの顔色がさっと青くなっていく。親友を追い詰めている罪悪感を抱きながらも、一度吐き出した心情は止められない。
「いつもあんな事されてんのか」
…………
 ヘクトールは黙って、ただ俯く。まるで怯えるかのように小さく震えるその姿に、よりによって自分にそんな態度を見せるのかと、かっと怒りが湧き上がった。
……何でやり返さないんだよっ! おかしいだろ! あんなの!」
 衝動的に立ち上がって声を荒げる。本当に怒るべきなのはヘクトールにではないと分かっていても、不条理に対して冷静に振る舞えるほどレザラは大人ではなかった。
 それでも心配していることは伝わったのか、ヘクトールの瞳からは恐怖の色が少しずつ消えていく。観念したかのように目を閉じた後、再び開かれた目に宿っていたのは初めて会った時と同じ、全てを諦めた色だった。

……母さんには、俺しかいないから」
 感情の揺らぎがない、凪いだ声だった。積み重ねた諦観がヘクトールの心を重く封じ込めて、立ち上がることすら許さなかった。
「俺のせいで、母さん、苦労してるから。母さんの辛いのに比べたら……これくらい平気だ」
 ヘクトールの小さな手が頬の痣に触れる。その顔には弱々しい作り笑いが浮かんでいた。
「そんなの……そんなのって……
 あまりにも理不尽な境遇にレザラの身体が震える。俯き、認めたくないと拒むかのように首を振る。
 それでもレザラとヘクトールは無力な子供で、大人の下でないと生きていけないことを理解してしまう程度には無知でもなかった。
 親友のためにできることなど何もないのか。諦めてしまった心に、届く言葉などあるのか。
 何も言えないレザラの目が、ふとヘクトールの頭に着けられたレギュレーターを捉える。忌まわしいそれは死者の傷は癒すくせに、死にそうなほどの心の傷も、今尚痛むはずの額の傷も治そうとはしなかった。


……駆除人ってさ、危ないししんどいから人手が足りないんだって」
 長く続いた沈黙を、レザラの一言が破る。脈絡のない言葉に思わずヘクトールも顔を上げた。
「だから他の仕事より募集年齢早くてさ、あと少ししたらオレたちも志願できるんだ」
 両親から伝え聞いた知識を思い出す。今この時ばかりは両親に感謝してもいいかもしれないと、他人事のように感じていた。
 いきなり何を言っているのかと言いたげにヘクトールはレザラを見上げる。レザラは親友の傷だらけの顔と、無機質なレギュレーターを見て、それでも不思議と落ち着いた心地で口を開いた。

「二人で駆除人になってさ、一緒に家を出よう」

 真っ直ぐヘクトールを見つめて、レザラは決心を告げる。ヘクトールは目を見開いて、唖然と見つめ返すことしかできなかった。
 この選択が正しいのかは分からない。本当はもっとやるべきことがあったのかもしれない。
 それでもレザラは、今のヘクトールに必要なものを確信していた。

 希望。

 それは頭上のレギュレーターでも、永遠の女王とやらでも決して与えることのできない。レザラにしか手渡せないものだった。
 レザラは親友の暗い顔など見たくはなかった。
 絶望に澱んだ目ではなく、喜びに輝く目が見たかった。
 ただ、今はこのクソ喰らえな現実を生き延びて、何の気兼ねもなく笑い合える未来へ至るための灯火が欲しかった。

 しばらく放心していたヘクトールが、やがて落ち着きなく視線を彷徨わせる。青ざめていたその顔に僅かに血色が戻り、おずおずとレザラを見上げる。不安げな表情の影で、確かな期待がそこにはあった。

…………できるかな?」
「できるさ。オレたち二人なら」

 確信に満ちた顔でレザラはヘクトールに手を差し伸べる。ヘクトールはその手を掴んで、ゆっくりと立ち上がった。
 向かい合った少年たちが、決して互いの手を離さないよう握り締める。どちらからともなく笑みが零れて、少年らしい朗らかな笑顔が互いの顔を染めていく。
 繋いだ手の温もりだけが、二人にとって明日を生きるよすがだった。


 それから数年の時が過ぎた。
 レザラとヘクトールは毎晩高台で落ち合って、駆除人になるための鍛錬をするようになった。
 喧嘩の経験が豊富なレザラが、ヘクトールに戦うための手ほどきをする。最初は覚束なかった動きも、研鑽を積む中で少しずつ肩を並べられるようになっていった。

 やがて自己流では限界があるからと、駆除人たちの訓練を見学させてもらうことも増えた。学ばせてもらう以上、レギュレーターを着けた他者が苦手とも言っていられない。全てはヘクトールと共に未来を掴むためだ。
 現役の駆除人たちから教えを請う中で、レザラもまた剥き出しの攻撃性を抑え、表面上だけでも円滑に振る舞う術を学びつつあった。

 家に帰れば相変わらずの日常が待っていて、ヘクトールが怪我をしていない日はほとんどなかった。それでも、叶えたい願いがあり、そのために努力をしているという積み重ねが二人を強く立たせていた。
 レザラはヘクトールの怪我の手当てをしながら、根気強く今の境遇がいかに不当で不条理なものかを伝え続けた。諦めて受け入れることだけはさせないように、理不尽を理不尽と認識できるように諭し続ける。それはまるで、消えそうな火を両手で包み守るかのようだった。

 次第にヘクトールも少しずつ、自身の境遇について愚痴を零せるようになっていった。
 痛かった、辛かった、帰りたくない。そんな当たり前の感情を、当たり前に吐き出せるようになっていくことを、レザラは誰よりも喜ばしく思っていた。

「もう一本! もう一本付き合え!」
 地面に尻餅をついたヘクトールが、木剣を片手に立ち上がる。既に手合せの数は両手で数えられないほどになっていて、互いに疲労の色も濃くなっていた。
「いいのかい? あんまり遅くなるとまた立派な傷を付けられちゃうよ?」
 レザラは自分の額の辺りをとんとんと指差しながら茶化すように微笑する。
「うるせぇ。そういうお前はどうなんだよ。毎晩遅くまで付き合ってていいのか?」
「いいんだよ。最近はキモい動物の骸骨持って祖霊がどうとか言ってるし」
……俺んちの親もヤバいけど、お前んとこのも大概だよな」
「まったくだ」
 呆れるように肩を竦めれば、二人揃って腹を抱えて笑う。
 最初はぎこちなかったヘクトールの笑顔も少しずつ自然なものになっていって、瞳の暗い影もまた姿を消しつつあった。
 いつか、ヘクトールの心から安心しきった笑顔が見たい。そう思うとレザラの胸にじんわりと温かいものが広がっていった。


 レザラとヘクトールが駆除人になれる日が目前に迫ったある日、レザラの端末にヘクトールからのメッセージが届いた。
 急用が入ってしばらく忙しい。何日か会えないかもしれないと告げるそれに、かつてヘクトールの家を訪ねた時のことを思い出してレザラの心臓が跳ねる。
 慌てて通話をすれば、心配とは裏腹にヘクトールの声は穏やかなもので、危惧する必要はないと落ち着かせるように何度も説かれた。
 珍しく安らいでいたヘクトールの声と言葉に、レザラもまた不安を飲み込んで、日課の鍛錬をこなした。

 そして約束通り数日後、ヘクトールはいつもの高台に現れた。何があったのかと尋ねるレザラに、ヘクトールは笑って答える。

「実はさ、母親が死んだんだ」

 何でもない事かのように親友は朗らかに語る。
 レザラは凍り付いたようにその場を動けなかった。

「記憶が預けられたから全然実感はないんだけどな、家帰ったら送迎係はいるし、知らねぇおばさんの死体はあるしでびっくりしたぜ」

 レギュレーターが白々しい光を放つ。何事もない日常を示す蛍光色の青が、ヘクトールの赤い髪を染める。

「急性アルコール中毒だってよ。どうりで家の中酒瓶だらけだった訳だよなぁ」

 後始末する身にもなれよ、と頭を掻きながら仕方なさそうにヘクトールが笑う。
 親友は、母親のことをこんな顔で語る奴だっただろうか。

「そんで片付けやら手続きやらでしばらく慌ただしくてさ、全然連絡も取れねぇくらい忙しかったんだよ。ま、ようやく一段落ついたけどな!」

 親友の言葉がレザラの頭に入ってこない。
 何かがおかしいのに、何もおかしいことなどないと世界が突きつけてくる。

「死んだのが駆除人になる直前で良かったぜ。仕事に就けりゃ親がいなくても何とかなるからな」

 不謹慎だったか?と笑うその瞳に、かつて宿っていた暗い澱みはもうどこにもない。
 自分があれほどまでに必死に取り戻そうとしていた心からの笑顔は、こんなちっぽけな機械によって簡単に取り戻されてしまった。

 死者の記憶は失われる。
 知識として知っていても、他者との関わりが希薄なレザラは実際に見たことがなかった。
 親しかった人も、そうでない人も、等しく記憶から抹消される。かつては何とも思わなかった周知の事実が、今になってレザラの頭に重くのしかかる。

 ヘクトールはもう、その額の傷がどうやって付いたのかさえ覚えていないのだろう。あの痛みを、流れた血を、覚えているのはもうレザラしかいない。
 死者の記憶は足枷で、前を向いて生きる上では重荷でしかない。それが苦しみをもたらしてきた相手のものなら尚更だ。
 だから、無くなった方が良い。
 アレクサンドリアという国では、それがこの残酷な世界を生き延びるための、優しさだった。


……何でお前の方がそんな顔してんだよ」

 ヘクトールが困ったようにレザラに微笑む。
 親友が笑顔を取り戻して、苦しみから解き放たれたことは喜ばしいはずなのに、レザラの胸中を占めていたのは泣き出したいほどの虚しさだった。

 きっと全てが失われた訳ではないのだろう。思い出せなくなったとしても額の傷が残り続けているように、これまでの積み重ねが今のヘクトールを形作っている。
 もし母親を覚えていたら、あの辛い日々の記憶がこれから先何度もヘクトールを苦しめていたかもしれない。それを思えば今の方がずっと幸せなのだろう。

 それでも……レザラにとっては、あの苦しみも二人で乗り越えた大切な思い出だった。
 身を焼く炎だとしても、真っ暗闇の世界で見つけた、ただ一つの光だった。

「ねぇ、ヘクトール……駆除人になろうって話した日のことを覚えてる?」
 レザラは震える声で問い掛ける。

「あぁ? 覚えてるに決まってんだろ。お前から駆除人になって家を出ようって言ったんじゃねぇか」
 ヘクトールは訝しげに、当たり前のように答えた。

 事実と相違はない。
 だが果たしてその思い出は、本当にレザラのものと同一だろうか。
 何故そうしようと思ったのか、言われた時どう思ったのか、当時の感情と今の認識に違いはないと、レザラにはどうしても思えなかった。
 あの夜繋いだ手の温もりを、今のヘクトールはどのように記憶しているのだろう。きっともう、本当の意味で思い出を共有することなどできないのだ。


……本当にどうしたんだよ、レザラ。なんか変だぞ?」
 黙ったまま動かないレザラに、ヘクトールは気遣わしげに声を掛ける。
 滲んだ視界に映る親友の顔は、心からレザラの身を案じているもので、憑き物が落ちたかのようで。
 堪らずレザラはその顔に手を伸ばす。震える手でそっと触れて、くしゃくしゃの顔で微笑んだ。

「何でもないよ、ヘクトール。これで良い。これで良かったんだ…………

 レザラはヘクトールの額に刻まれた傷跡を優しく撫でる。
 その傷が癒えるように。あるいは、決して消えないように。