夢篠
2025-07-20 15:06:35
2038文字
Public
 

明日天気になあれ

記憶の無い黄昏甚兵衛の奥方の恐怖

この部屋を出てはならぬ。始まりの記憶は涼やかな目に見詰められてそう、伝えられた場面だった。私は此処が何処かもそもそも私が誰なのかも分からないまま、彼の方のあまりの鬼気迫る様子に頷く他無かった。今の私が彼の方の目を覗いたのはその時が最初で最後だったけれど、何かとても寂しくて、悲しげに見えた。

ある日、目が覚めたら私はもう「私」になっていた。何も知らない、覚えていない真っ新な「私」。彼の方に、私の背の君だという甚兵衛様に聞けば、私は曲者に襲われて頭部を負傷してしまったのだそうだ。その影響なのか目の覚めた私は何も知らない、覚えていない真っ新な「私」になってしまったのだ。

幸いな事に記憶以外に関しては恐らく依然と変わりなくて、日常生活には全く問題無かったけれどそれでも何処か心許無かった。記憶というのはその人の基盤となる物だからだろう。私には基盤が無い。だからこそ、目が覚めてからはいつも不安を感じていた。

私の背の君は、甚兵衛様は、記憶の無い「私」をきっと以前の私として扱ってくださっているのだと思う。指先の温度も眼差しの柔らかさも、きっとそれは以前の私に向けられた物だ。その情愛を「私」が受け取って良いのだろうか。逃げるように視線を逸らすのを、甚兵衛様の手が追い縋るように伸ばされた。

「何を考えておる?」

……いいえ、何も」

嘘を吐いた。私は今、怖れを感じている。怖い。甚兵衛様の指の温度が、眼差しが、息遣いが、何もかもが何処か、閉鎖的に感じられるのだ。どろどろとした檻のような物を感じてしまう。極め付けが「この部屋を出てはならぬ」という言い付け。その声音が「私」には、ぞっとするくらいに冷たく聞こえる。聞こえてしまう。それは私を気遣っての言葉の筈なのに。

甚兵衛様の指先が私の頬を滑っていく。顔を持ち上げられて有無を言わせず視線を合わせられる。覗き込んだ瞳は「私」が最初に見た時と同じ色をしていた。暗くて昏くてとても深い。奥底の見えない深い井戸のような。視線を逸らそうとするけれど顎を掴まれて力を籠められる。痛みに顔を歪める。甚兵衛様の目が細まった。

「もう一度聞くぞ。何を、考えておる?」

それは最早詰問に近いのではないかと感じた。雰囲気に圧倒されて唇が震える。咄嗟に小さく首を振った。甚兵衛様の目が私を見ている。その目を怖い、と感じてしまう。きっと以前の私はそんな事考えてもいなかっただろう。

「な、にも。何も、ないです。ただ、明日のお天気の事を考えていました」

「明日の、天気」

「ええ。だって、お天気が良いと甚兵衛様はお仕事に行かれてしまうから」

あからさまに声が震えないように努めて感情を平坦にする。怖れが声に出ないように、胸の高鳴りを押さえる。甚兵衛様に阿るように少しばかり身体的な距離を縮める。甚兵衛様が満足そうに笑った気がした。この答えと行動で、正解だったようだ。愛玩するような手つきで身体の稜線を撫でられる。以前の私はきっと、これを喜んだのだろうと感じている。だって私が表情を緩めて見せると甚兵衛様がとても満足そうにしてくださるから。正解は慎重に選び取らなければならない。私が生きて行くために。

「忍軍に明日は晴れると聞いた」

「そうなのですね。……ではそれはとても、寂しゅうございます」

表情を隠すように甚兵衛様の胸に顔を寄せる。背中に大きな手が回されて、引き寄せられる。肩が揺れる。怖い。甚兵衛様の衣から、もうずっと薄らと血の臭いがするような気のしてならない。「私」と初めて出会った時はそんな事無かった。もっと品の良い、白檀の香りがしていた気がするのに。その理由を問う事は出来ないけれど。

「顔を見せよ」

……はい、」

大きくて骨張った手が私の頤を掬って甚兵衛様と私の視線が絡み合う。深淵のように黒い瞳に背筋が震える。当然のように口を吸われて目を閉じる暇も無く私はただ呆然とされるがままだった。飽きるまで私の口を吸った後、甚兵衛様はまた強く私をその腕に抱いた。血の臭いの一層濃くなるような気がした。

……良いか。明日、儂は此処には来れぬ。なれば決してこの部屋を出てはならぬ。良いな?」

「はい……

言い付けを守らなければどうなるのか分からない。それでもきっと、「あの日のあの男」と同じ末路を辿るのではないかと漠然と思っている。

あの日、私を襲った下手人が捕らえられたと聞いた。その男がどうなったのか私は知らない筈だった。それでも私は知っているのだ。だって人間の炙られる臭いは酷く怖ろしく、鼻の曲がりそうな程強かった。部屋はずっと閉め切っていた筈なのに、それでも何処かから入り込んで来るその臭いを特定するよりも先に、怖ろしい叫び声がずうっと聞こえていた。それ以来、庭には香りの強い花が沢山沢山植えられるようになった。あの日の事は誰に聞いても誰も何も答えない。私は何も知らないままであった。