夢篠
2025-07-20 14:55:34
2672文字
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藪の中

山本陣内と夫婦になったきっかけについて

ナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエ攫われた、というのがぴったりなのだろうか。どこか知らない屋敷のどこにあるのか分からない部屋で、私はずっと捕えられている。定期的な食事や身の回りの世話などは与えられているし、縛られたり酷い事をされたりする訳ではないけれど、でも決して自由にはしてもらえない。「家に帰りたい」と泣きながら懇願しても、その人物は私を振り返らない。一言も、或いは一息すらも漏らさない、面で顔を隠した人物。体格からして男だろうと思う。この男が、私を拐かした首謀者だったとして、何が目的なのだろう。その人物が男で私が女という事を、考えるのはとても恐ろしかった。

私はタソガレドキの城下町で茶屋の手伝いをしていた。私は別の領地で生まれた所謂余所者だったけれど親族が皆、戦で生命を落とした事で流れ流れてタソガレドキに移り住んだのだ。知らない土地で生きて行くのは大変だったけれど、運良く茶屋の手伝いの仕事を見付けてからは漸く、新しい生活を始められたと思っていた。顔馴染みのお客が増え、私を目当てで来てくれる人もいた。ここに受け入れられていると感じていた。その矢先だった。

仕事からの帰り道に、不意に気付いたら視界が暗くなって次に目を開けたらこの部屋にいた。窓という窓、戸という戸のどこに手を掛けても一寸も動かない。採光は取られているが、それだけだ。誰がいるのかも分からない屋敷のどこかも分からない部屋で私は一人幽閉されている。どうしてこうなったのか、分からない。あの男以外に尋ねる者も無く、もうずっと、私は怯え、泣き続けている。そして今、頑丈に閉じていた筈の戸が不意に開けられた。その向こうに立っていた人物に私は目を疑った。

「っ、ナマエ……!?」

「え……っ、じん様……?」

自分の目が信じられなかった。そこにいたのは「じん様」だった。彼は私が勤めている茶屋に時々来てくれる客の一人だった。何を生業としているのかは知らなかったが、穏やかな物腰と柔和な表情からはどこか達観したような様子が見えた。それ程言葉交わす訳ではなかったけれど、それでもいつも私を気遣うような言葉を掛けてくれる彼を、私は客の中では大分好ましく思っていたのだ。そのじん様が、何故こんな所に。

「っどうして、ここに、」

「それはこちらの台詞だ。私は今日、この家の主人の御用伺いで来たんだ。最近ナマエの姿を見ないから心配していたが、まさか、」

私の安否を確認するかのように私の手にそっと触れたじん様の温もりに喉が引き絞られたように詰まる。感情が昂るのが分かる。気付いた時には私はわあわあと声を上げて泣いていた。

「こ、わ、かった……!こわかっ、たです……!たすけて、じ、じんさま……、たすけてください……

縋り付くようにじん様の手を取ってその腕の中に無理にでも入り込む。これを逃したら私はもう二度とここから出られないのではないかと思ったから。じん様は私をじっと見詰めていた。まるで何か迷うように。それでも腕の中にいる私を拒絶する事は無く、反対に私を引き寄せて強く抱き締めてくださる。じん様の腕の中、彼が小さく「良かった……」と呟いたのが聞こえた。

「じん様……?」

「良かった……ナマエが無事で。ナマエを見付けたのが私で良かった」

「あ、の、」

「手短に話す。私はこの屋敷の主人の事を知っている。ナマエをここから出すよう説得してみよう。必ずナマエを助ける。約束する。もう少しの辛抱だ」

「じんさま、おね、がいし、ます……。たすけて、」

「必ずだ。約束する」

輪郭を確かめるように強く抱かれて、昂った感情を落ち着かせるようにじん様の厚い手が私の身体を摩っていく。その手に宥められる事で少しばかり気持ちが落ち着いた。それでもまだ、怖かった。もしかしたら、じん様がもうここには来てくれない気がして。気休めの言葉を与えられて、二度と帰って来てはくれないような気がして。言葉にはしなかったけれど、じん様は察してくださったのか、私の纏っていた打掛(それはこの部屋に閉じ込められて一番に与えられた物だった。定期的に私の様子を見に来る面の男から纏うように指示されていた)に手を掛けた。

「これを持って行こう。必ず返しに来る。これなら少しは信じられるか?」

「じ、んさま……

「大丈夫だ。必ず助ける。…………好いた娘の頼みなら尚更だ」

私を強く抱いた手が、再度落ち着かせるように涙の跡を辿っていく。真摯な眼差しにどこか希望を見出けた気がした。それが、じん様、もとい、陣内様との所謂「馴れ初め」というやつだった。
あの後、五日も経たず陣内様は私をあの牢獄のような室から救い出してくれた。その屋敷が一体誰の物だったのか、あの面の男がどうなったのかは聞けていない。陣内様が「知る必要は無い」と仰ったから。

救い出された後、外出するのも、一人で家にいる事も出来なくなった私を陣内様はとても甲斐甲斐しく世話をしてくださって、そのご縁から結局私たちは夫婦になった。閉じ込められていたあの日々はとても恐ろしかったけれど、でもあの日々が無ければ陣内様と私は「こう」はなっていなかったから、縁とはとても不思議だと思う。

私は今、とても幸せだ。春には家族が増える予定で、まだ少ししか膨らんでいない腹を陣内様がゆっくりと撫でてくださる感覚が好きだ。何もかも幸せで、気掛かりは何も無い。あ、でもそういえば。

「あの打掛、」

「うん?」

「陣内様が持って行ったあの打掛、あれからどうなって……

ふと、思い出した。煌びやかで派手な真っ赤な打掛。私には少し派手過ぎたような気がした。不意にあの赤い生地を思い出した。椿の柄の真っ赤な。庭の木々が少しずつ赤らんでいるからだろうか。私の問いに陣内様が息を吐くように笑った。

「嗚呼、あれはナマエをあの屋敷から救い出した時に焼いてしまったんだ」

見るのも嫌かと思って、と続けられた陣内様の目が私を見詰めている。優しい目だと思った。有難い気遣いに微笑み返すと、握られたままだった手に指が這う。擽ったくて声を上げて笑ったら、陣内様も笑った。それから、ふ、と一瞬、何も音がしなくなった。まるで、あの面の男と対峙した時のように。

「それに、あの着物はナマエには少し、派手だったしなあ」

朗らかに笑う陣内様が、少し遠く見える。何故だろう。胸が少し苦しくなった。幸せ、だからだろうか。きっと、そうに違いない。