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sisimi
2025-07-20 05:17:27
3781文字
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ひまわり
夏の話です、父+水
水が呼べば絶対に来てくれる父
夏の、とにかく暑い日だった。
男がふと気づくとどこまでも続く向日葵畑の中に立っていた。視界は向日葵に埋め尽くされていた。
自身の背丈ほどもある向日葵に囲まれており周囲に人の気配は無く、ついでに自身の記憶も無い。
いつからここに。どうしてここに、いるのか。
直前まで何をしていたかも思い出せなかった。
男は水木という。自身の名前、年齢、身体に残る傷痕が持つ過去の記憶はあるにも関わらず、あれからどうやって生きてきたのか、現在に続く記憶が無い。考えようと、思い出そうとすればするほど頭は霞がかかったかのようにぼんやりとしてしまう。
ちりちりと身を焼く陽射しの下、額の汗がこめかみを伝い顎に雫を作った。熱気と土と植物の匂いの中で水木は立ち竦んでいた。
向日葵どもは皆、斜め上へ顔を向けている。痛いほどに眩しい太陽がある方を皆が一心に見つめていた。
時刻は分からないが太陽の位置は低めで、今が朝か夕方かで変わる方角の特定は難しい。目を細めて空を見上げた水木はそう思ったが、自身の腕に時計が巻かれているのに気がついた。
そうだ、俺はいつも腕時計をしていたのだった。今さらながらに思い出す。
短針は四を指している。時計の指し示すとおりの時間なのか、そうであったらよかったのだが針は停止しているようであった。これでは時刻など分かるわけがない。水木はため息を零した。
日が傾くか昇るか、暫く待てば分かるのだろうが水木は歩くことにした。ただ待つよりもそちらの方が水木の性に合っている。足を動かしている方が直視したくない不安も紛れるだろうと無意識に選択していた。
遠くに、近くに蝉が鳴いている。何処にいるのか視線で探しながら歩く。規則的にずっと同じ鳴き声が繰り返されているのを頭の隅に追いやって、何処かにいるはずの蝉を拠り所に歩く水木は無言であった。水木の他に動くものは無く、無風の中で僅かも揺れぬ向日葵を揺らし歩く。そうして空高く陽を注ぎ続ける熱源を左側にして向日葵の合間を真っ直ぐと進んでゆく。
長袖のシャツを腕まで折り上げ、汗を拭い歩き続けるが景色は変わらず、視界にあるのは向日葵だけである。前方や横に広がる向日葵どもの間に何か見えないかと目を凝らすが遠く遠くまで黄色と緑が続くのが見えるだけであった。
暫く歩き続けた水木は立ち止まった。一時間か二時間、いやもっと経っているかもしれないほどに歩いていたが向日葵の群れを抜けられない。
どれだけ広い場所なんだろうか、そろそろ何か見えはしないかとまた周囲を見渡す。
向日葵の黄と緑、空の青に土の茶。その花の他に植物は無い。そして水木以外に動くものは何もない。
向日葵よりも高い位置には何も見えない。これだけ広ければ遠くに山が見えたっていいはずだがそれもない。
ここにあるのは向日葵だけである。
知らぬ場所で一人っきり。足下から涌き出るような焦燥が体を上り、水木の背を押しその足を動かす。歩けども変わらぬ景色に膝が崩れ落ちそうになるがこんな所で止まることはできない。再び歩き出した水木は足を止めることができなくなった。
ふつふつと沸き上がる不安を考えないよう、背骨にべったりと張り付き膨れ上がっていく恐怖が羽化しないよう抑えつける。水木は冷静さを装い、後ろからぴったりと付いてくる焦燥から目を逸らし歩き続けた。
呼吸はとうに乱れ、息をしているのに苦しい。口の中が乾いて、嚥下するものも無いまま動かした喉の奥が痛い。
五月蝿いほどに鳴いていた蝉の声は耳の奥で鳴る心臓の音とどこか離れた所から聞こえるような自身の荒い呼吸音で聞こえなくなって、水木はとうとう走り出してしまった。
向日葵を避け、走る。息が切れて足が縺れても走った。
限界はあるもので、逃げるように走り続けていた水木は足が上がらなくなって遂には崩れるように転んだ。ひゅうひゅうと喉を鳴らして空気を取り込むが乾いた喉奥が潰れたように詰まって噎せた。
止まらぬ咳と格闘し、地に伏せ苦しさに開け放した口から唾液が垂れ落ちる。たらりと唾液が伸び落ちるのを薄く開いた目で見ていると、乾いた喉が痛くて苦しいのに唾液が滴るほど出ていることが不思議だと頭の片隅に残った冷静な部分が他人事のように思う。
呼吸がようやく落ち着いた頃、水木は頭を上げて地面に座り直した。
はぁ、と一つ息を吐くと地べたに座り込んだまま向日葵に囲われた空を見上げる。未だ薄ら寒い心地の最中であったが、一度不安を外に出したことによるのか先程よりも冷静さが戻ってきていた。
相変わらず太陽は同じ場所から動いていないような気がする。
真っ直ぐ歩いていたつもりであったがもしかすると段々と方向がずれていた可能性はある。しかし陽のある方向はともかく、角度すらも変わっていない気がする。水木は漸くこの場所がおかしいと認めるしかなくなっていた。
痛む喉に粘ついた唾液を送りながら、酸欠からなのか陽光と色彩の眩しさからなのか目が眩んでいたのがじんわりと治っていくのを待つ。ズキズキと痛みの走る頭を抱えて水木は改めて周囲を観察した。
風の無い中ぴたりと止まって動かない向日葵、暑いと感じていたはずの陽射しには熱を感じられず、地面近くにいても土の匂いがせず、姿の見えない蝉の音は録音か何かのように一定であるような気がした。おかしいと認めてからの周囲の様子は先程とは全く変わっていた。
自身以外の生き物がいるのだと拠り所にしていた音の元には何もいないのだろうか。ごく近いところから聞こえるのだから、近い何処かにいるはずだと探しても見つからなかったのが今さらどうしようもなく怖くなった。そうして「ああ、これは蝉もここにはいないのだ」と分かってしまった。
その瞬間にうるさいほどに鳴っていた音が止み、水木はやはりそうかと思う。必要がなくなったから音は止んだのだ。
静寂が生まれると同時に今まで分からなかった濃厚な気配が周囲に満ちた。ここには何もいないと思っていたが、いる。すぐ真横に、すぐ後ろに、そして正面にも。
見渡す限りの視界を埋め尽くす向日葵どもが静かにじっと水木の方を向いていた。
太陽を見つめるのが向日葵だ。それが今は水木を見つめている。耳が痛くなるような静寂の中で花に囲まれ、水木は立ち上がることができなくなった。
最初から熱も匂いも音もまやかしであったようで、本当にあるのは向日葵だけであったのか。
向日葵だけの果ての無い場所で、自分は何処に行けばいいのか。帰れるのだろうか、何処に帰るのか。
『呼べ』
遠く霞がかる記憶。何かあった時は、と言われたのを唐突に水木は思い出した。
呼ぶ、とは何を。誰かを、呼ぶのか。思い出せない、思い出せ。口を開いては閉じる。分からないのに、知っているはずなんだ。
忘れたくない、忘れられないその名が水木の中にある。記憶が靄のように掴めない、今にも搔き消えそうになる残滓を必死に掴もうと足掻く。ずっと言葉を発していなかった喉からはひゅうと空気しか出てこない。それでも、呼ぶ。
「
……
ろ、」
「げげろう」
名を呼ぶ。
空気がキンと張り詰め、周囲の向日葵どもが風も無いのに一斉に震えて水木を見つめていた。
同時に水木の両肩口から左右二本の腕が空間を裂くように伸び現れ、水木の体を抱え込むように掴むと後ろに引いた。
引かれるまま倒れた水木の上体を受け止めたのは硬い地面ではなく、男の引き締まった膝であった。
白い髪を垂らして逆さに水木を見下ろしながら男が言う。
「おかえり」
「
……
ゲゲ郎」
やや間を空けてその名を水木が呼ぶと、男はにぃと口端を上げた。
「散歩にしては少々遠くまで行ったのう」
掴んでいた水木の腕を離し、丸く大きな目を柔らかく緩めた男は穏やかな空気を纏わせて水木の汗で張り付いた髪を掻き分ける。
「いや、ああ」
家に戻ってきたという安堵とよく知った男の顔を見て、その男に背を預けている安心から深く息を吐いた。男の大きな手のひらに額を撫ぜられた水木は体から緊張が抜け、その手に誘われるように目を閉じる。
それをじっと見下ろした白い男が口元の笑みを消した一瞬の静寂の後、次も呼べよ、そう言った。
疲れきった体を起こす気力も無くなっていた水木は男の膝の上で呟く。
「なんだったんだ
……
」
「おぬし、随分と大事にしておったろうが」
水木の言葉を拾った男がそう答えるが覚えの無い話に水木は聞き返した。
「
……
? なに?」
「花を、な」
「はな?」
「ワシと鬼太郎の持ち帰った向日葵じゃ」
「は、」
先日の事、散歩から帰ったゲゲ郎と鬼太郎が水木へ向日葵を持ち帰ってきた。花をもらうのは存外嬉しく、毎日水を替えては頻繁に眺めていたのを水木は思い出した。
「大事にしてもらえて嬉しかったんじゃろうなぁ」
ゲゲ郎は水木の顔に手を添えると親指で緩く目元をなぞる。
「いつも見つめる側であったのが、ああも愛おしげにおぬしに見つめられては」
男は大きな目を眇て水木を見下ろしていた。目の下の薄い皮膚越しに目玉の形を確かめるよう指先を動かしながら続ける。
「のぼせ上がるのも致し方無い」
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