Hari0520001
2025-07-20 02:59:53
13744文字
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今日だけ僕は④

女装×パーティ潜入
やっとパーテー会場に来たぜ

04

ラジオ局からパーティ会場へ向かうこと20分。時計の針は十八時四十分を過ぎていた。
あまり張り切って早めについても、あからさまにパパラッチをしに来ているのが分かってしまうのではと考えてのことらしいが、新聞記者らしい男なんて山ほどいて、すでに写真を撮るのにいい場所を陣取って露出計で光を計っていた。
何枚も連続で撮れるわけではないことを考えると、大物が登場するその一瞬を捉えるのによほど計算を繰り返しているだろう。
押さえておきたい場面を頭の中で組み立て、ここぞとばかりにシャッターを押す瞬間を夢見る男たちの、露出計を見つめる必死な顔たるや。
そんな男たちの横を悠々と通り過ぎ、会場の端で一度まとまると、少し話してペアは散り散りになって人込みに溶け込んでいった。
「ハスカー、背中が丸まってきてる」
「あ、ああ」
「なに?緊張してる?」
「いや、緊張はしてないが……
この”女”———アリー、つまりはアラスターだが———視線を集めすぎているのだ。会場に入るところから、招待状を見せる仕草、堂々と歩く姿、挨拶を返す時の上品な笑顔、何から何まで美しく、周りの男どもがぽかんと口を開けて頬を染めている有様だ。
最初はゲテモノが来たのだと変な視線を集めているのかと思って不安だったが、どうやらそうではない。
完璧に女を装った隣の人物は、良い意味でも悪い意味でも注目の的。ついでに俺にまで視線が刺さる。嫉妬なのか羨望なのか分からない、ねっとりとした視線があちこち張り付いて一向に取れやしない。
パーティ開始まであと十分ほどあるが、早くも何かで喉を潤したい気分だった。
「君を見た女性がみんな目を離せなくなってるの、面白いね」
耳元に手を添えて囁いてくるアリーのせいで、別な意味で緊張する。エスコートしている時点ですでに諦めねばならないことだが、こんなに親密そうにしていては男どもの視線が今度は俺に向かってくるじゃないか!
「あんまり目立つと動きにくくなるんじゃなかったのか」
「そうなんだけど、もうこんなに目立ってて、いまさらどうしようもないじゃない」
ケリーの気持ちが痛いほどわかった。アラスターと一緒だと動けなくなりそうだと言っていたが、これは男女差などなく、”アラスター”と一緒だと動けなくなるのだ。
そのままの姿だろうが女装しようが関係ない。所作から何から、すべてが人を惹きつける、いわば高嶺の花に、どんな場面であっても成ってしまう。
「お前ってもう少し、そのキラキラした空気感をおさえることはできないのか」
「キラキラしてる自覚がないからなんとも」
自覚がないときた。困ったものである。
「給仕が回り始めたね、ドリンクもらってこようか」
「お前が行くな、俺が行く」
「そう?じゃあよろしく」
腕を離すと、これまたお上品に手をひらひらと振って見せた。肘は動かさず、手首から先だけを少し動かして、まるで貴族が馬車から挨拶しているかのようだ。
長時間一人にしておくと後が怖いので、さっさとドリンクをかっぱらって戻るにかぎる。
しかし給仕が持っているのはなんと酒ばかり。さすがニューオーリンズ、なんてゆるゆるな街なんだ。禁酒法の真っただ中だというのに、こんな大きなパーティ会場で大っぴらに酒が振舞われるなんて、警察は職務怠慢だと言われても反論すらできないだろう。
自分の分はシャンパンを取ったが、肝心のアリーが口にする水を配る給仕が見当たらず、パーティ開催の挨拶が目前まで迫っていた。
壇上が準備であわただしくなり、主催者らしい、恰幅のいい中年男が脇の方で背広を整えて待ち構えている。ようやっと水の入ったグラスを持つ男を捕まえられたのは、マイクが男の声を拾い始めたころだった。
《えー、みなさん、今宵はお忙しいなかお集まりいただき感謝いたします。堅苦しいパーティではありませんのでどうぞ、ピクニックにでも来たつもりで、わが社と、わが社を支えてくれている方々との交流を深めていただきたい。そしてまたそれぞれが発展していくことを夢見て乾杯を!》
———なんてこった、乾杯が早い。
スピーチがこんなに早く終わるとは思っていなかった。アリーにドリンクを渡すより前に、周囲が乾杯し、グラスに口をつけ始める。
足ばやに元居た場所に戻ると、驚いたことに人だかりができていた。当然男が多いが、ちらほら女もいる。どうせ無理やり連れられてきたか、浮気を警戒して連れの男を監視しているかのどちらかだろう。
眼を凝らすと、中央で男に迫られて困り果てたアリーが両の手で何かを断っているのが見えた。スピーチが終わってまだ五分も経っていないというのに、早速口説かれているなんてどうかしているが、自分も同じ場面に遭遇したら、あんな美人なら放っておくわけがない。
「ドリンクをお持ちでない?良ければシャンパン、ワインもありますから、遠慮なさらずに」
「いえ、連れのものが今持ってくるので……お酒も控えているんです、恥ずかしい姿を晒してしまうのではと」
「それは勿体ない!こんな素敵な夜に、お飲みにならないなんて……良ければVIPルームへ!個室ならそんな心配はありませんから……
ごり押しだ。とてつもなく強引に酒を飲まされそうになっている。いつもならその辺の水でも酒でもぶっかけてやって、しつこいと嫌われるとかなんとか言って一蹴しているところだろうが、今日はそんなことできるわけもない。しかもVIPルームに誘われているということは、主催と何らかの関わりがある人物だろう。
早速目を付けられるとは末恐ろしいが、そんな早くにVIPルームに連れ込まれては何の意味もない。
「あらそんな……かえって緊張してしまいますわ、VIPルームなんて……
しおらしいアラスターなんて気持ちが悪いと思ったが、ちょっと悪くないな、なんて思ったりして———気を取り直し、勢いよく輪の中に分け入る。
「失礼。連れの顔色が悪いようで———席を外しても構わないだろうか」
持ってきた水を差し出すようにして、男とアリーの間に割って入った。
思ったより低い声が出ていたのか、背筋を伸ばすよう言われていたのが功を奏したのかわからないが、アリーに迫っていた男もそこそこ鍛え上げられた身体をしているようだったが、圧に負けて一歩後ろに下がった。
「あ、いや、申し訳ない、素敵な女性だったのでつい———こんな素敵な方が一人でいたらかえって失礼かと思いましてね」
「それはすまなかった。主催者より目立つなんて失礼だと思ってな」
アリーを抱き寄せ、守る様に肩を抱いた。惚れた女相手なら、誰だって守るのにこうするだろう、という考えである。
いつもならこんなことはできないのだから、今のうちに面白味をじっくり味わっておかねば勿体ない。アリーもこの流れに合わせて、手を胸に置いて顔を寄せた。
「あはは、それは、そうかもしれないですね!で、では、私は一度失礼いたしますので、楽しんで……あ、気が変わったらいつでもVIPルームへ」
腰が引けたまま、人をかき分けて去っていく男の背中が情けなくて鼻で笑ってしまった。
周りの人間もどうやら今のやり取りを見て気まずくなったのか、さりげなく散っていく。
「お前、何さくっと捕まってんだよ……!」
「めんぼくない……こればっかりはね……どうしようもなかったんだよね……
グラスに入った水に口をつけると、ぽつりと「水しか飲めないのつまらないなあ」と呟いた。そこそこ強いのだから、一杯くらい飲んでも問題ないような気がするが、一応仕事中だから、と言うことらしい。
「でもちょっと、格好良かったよ、さっきの」
「は?」
ふいに肩に乗せられた手に力が入ったと思うと、乗ってきた体重で片側に身体が傾いて、頬に柔らかい何かが触れる。ご丁寧に、リップ音まで聞かせて。
「あ、ちょっと口紅ついちゃった」
いつもと違う雰囲気にあてられて、顔がかっと熱くなった。横にいるのはアラスターであるのに、アラスターではない。
女装したアラスター、アリーと名乗る女と言うだけなのに、なぜこんなにも心がかき乱されるのか、自分でも不思議なくらいだ。
「顔赤いよ?大丈夫?」
「誰のせいだよ」
「いや、そんな反応すると思わなくて……”アリー”のこと、気に入っちゃった?こっちの方が良い?」
「お前はお前だろ、雰囲気が違うってだけで」
天井で輝くシャンデリアを眺めながら口ごもる。すると、下方からくふくふ笑う声が聞こえた。声の方を見やると、口元を隠しながら肩を震わせ、必死に堪えている”女”がそこにはいた。
「笑いすぎだろ」
「ごめん、雰囲気だけであてられてるの、可愛いなって」
水がグラスの中で跳ねる。いつか零してしまうんじゃないかと、空いた手でグラスを取り上げた。
「ありがと———はあ、面白かった」
落ち着いたのか、グラスを受け取って一気に飲み干した。自身もシャンパンを煽る。
「いやあしかし、シャンパンもワインもあるなんて、警察は何してるんだろうねえ」
「仕事してねえんだろうな」
「そう思うじゃない?壇上の前の取り巻き見てよ———主催者の右隣、えーと、四人くらい横なんだけど……
アリーの言う人間を探すと、場にそぐわない、いかついスーツの男が立っていた。黒一色のスーツに、ボルドーのタイを着けた男は、かぶりを振ったところで髪の一本も乱れることのないようながちがちに固められたオールバックで、装飾品も少なく、SPのようにも見える。
「あれ、警察本部のちょっと偉い人———知らない?」
「知るわけないだろ」
「そう?……取り締まる側の人間が、あんな風に堂々とこの場に立ってるなんて、どう考えても”VIP”だろう」
あまり見ていると勘づかれるからと、視線を外すように囁くアリーが、どことなく呆れたようなため息を吐いた。
「あと……あっちは某製薬会社の役員かな?何かで顔を見たことがあるんだけど、なんだったかな」
さすが、流行の最先端、あらゆる情報を頭の引き出しにしまい込んでいるだけある。どこで見たかは思い出せなくとも、顔が記憶に残っているだけで僥倖と言えるだろう。
「そんな上流階級に片足突っ込んでるようなみなさんが?こぞってこんな怪しいパーティに?」
「そうねえ~……極めつけは、彼が今握手してる人かな、とんでもないのが来てる」
握手している男はずいぶんとめかし込んでいて、装飾品がぎらぎらと輝いて眼に刺さってくる。身振り手振りが大仰で、まるで演説でもしているかのような———
「ああ、アイツは俺も新聞で見たことある」
「新聞?えらいでちゅね~覚えてたの?よしよし~」
「やめろよ、なんだよそれ———最年少で上院議員に選出されたとかいう、胡散臭いヤツだ」
「サバ読んでるってもっぱらの噂だけどね」
こんなことがあっていいのだろうか?汚職の多い州だと人々は言うが、法を守る人間、法を背負う人間が、あまりにも軽率すぎやしないだろうか。
「面白いよね、こんなに堂々と悪事に加担してるなんて、逆に清々しいよ」
「お前みたいな招待客もいるってのに、なんか書かれるとか思わねぇのか?」
ラジオ局の人間やら新聞社の人間やら、報道に長けている人間はいくらでも招待されている。この場でこんなド派手に法を犯したパーティを開いて、社会の大物を招き親睦を深めていることを世間に流されでもしたら、失脚どころの問題じゃない。
「わかってないねえハスカー?僕らみたいな小さなラジオ局の人間が騒ぎ立てたところで、買収された新聞記者が山ほどいたら?大物が乱痴気パーティに参加してた、なんてことだ!ってニュース読み上げたって、何かの間違いだとか言われて、単なる噂話として街中でその辺のごみと一緒に民衆の頭の中から消えてくだけさ———下手をしたら、ラジオ局の方が変に新聞に書かれて消えちゃうかもね」
一瞬、いつも通りの声色が出てきてドキリとしたが、喧騒に紛れて搔き消えていった。
「つまり、その辺にいた新聞記者が全部アイツの懐の中だって?たしかに自分とこの新聞社の人間も何人か置いてるとは思ったが」
「秘密を知りたくてこんなパーティに来る新聞記者が、”新聞記者です”って格好で現れると思う?僕らみたいに一般招待客を装ってくると思わない?だから、写真を撮ってるような人間は、あくまで”新進気鋭の新聞社社長がVIPと煌びやかなパーティで大物と親睦を深めました”って美しい記事を書くためだけに用意された人間ってこと」
近くを通った給仕に空いたグラスを渡して、水が欲しいことを伝える。
給仕の男もそこそこ大きいが、並んだアリーも大概大きい。給仕の男が若干驚いた顔をしていたが、柔らかく微笑んだアリーに心臓を射抜かれたのか、頬を染めて踵を返していった。
その様子を見て、なんとなく、無性に、腹が立って———
「ん、ちょっと、何」
アリーの腰を抱いた。
「なんか、いつもより腹が立つような」
「ああ、My little kitty~!嫉妬してるの?可愛いんだから!もう」
肩に置いた手の上に頬を乗せ、ぴったりと寄り添う。
「スーツに化粧がついちゃうから、今はこれぐらいにしておこうね」
そんな濃密な空気を醸し出している最中、先ほどの給仕が戻ってきた。その顔は赤らんでいるような、青ざめているような何とも言えない色をしていたが、気にせず水の入ったグラスを俺が代わりに受け取って一瞥すると気まずそうに去っていった。
「あ~あ、可哀そうに」
「人の連れに色目使うような給仕だ、ちょっとくらい痛い目見たっていいだろ」
「嫉妬深い猫ちゃん、爪はまだ仕舞っておいで———さて、水も来たことだし、少し単独行動させていただきましょうか」
俺の手からグラスを取ったアリーは、直前の甘ったるい雰囲気をパッと消し去って一歩、二歩と下がった。
「大丈夫か?さっきみたいなことになりかねねえぞ……
「何かあったら君を探すよ、だから、ちゃんとこの中にいてね」
———それが、アリーとの最後の会話になった。

***

一人でパーティ会場を歩いてしばらくたった時、その男は現れた。
新聞社”ArkD社”を創設し、このパーティを主催した男———アルヴィン・クリストファー。
すぐ後ろには、パーティが始まってすぐに僕を口説こうとした男が立っている。お叱りを受けたのか、大きな体を縮こまらせておろおろとしている。
「レディ、先ほどは私の息子が失礼をしたようで……お詫びと言っては何だが、VIPルームへお越しいただけないだろうか?」
勢いのある企業の社長とは程遠い腰の低さだ。女性に対して紳士にふるまう男は、下心があるか、一握りしかいない生粋の紳士と言えよう。目の前の男は———確実に前者のように思える。
「あら、ご子息様でしたか……お気になさらず、連れもおりますし……
「お連れの方は、先ほどお会いしたので同じくVIPルームへご案内していますよ」
見え透いた嘘。ハスクがそんな簡単に誘いに応じるだろうか———いや、自分が過去に放った言葉を思い出す———《もし会場内で、当日にVIP待遇が受けられるチャンスが巡ってきたら、僕だけでも参加するかもしれない》と、たしかにそう言ったのだ。
「全く、あのバカは……
相手に聞こえないように、口元を隠してぼそりと呟く。これは、やはり保険をかけておかねばなるまい。
「お待ちいただけますか?会場内に知り合いがおりますので、少し言伝を……どちらに伺えばよろしいかしら?」
「ええ、ええ、もちろんですとも!会場右手のあちら、ドアの前に警備員がいますでしょう?こちらを見せて頂ければ通れますので」
ねっとりとした触れ方で手に握らされたのは、小さなバッジだった。0,5インチ程度の大きさで、ゴールドで薔薇の花弁が象られた中央に真っ赤な血の色をした石がついている。中央の石はガーネットか、まさかルビーなんてことはないだろう。金がかかりすぎている。
「美しいでしょう?あなたのようなお美しい方には薔薇が似合いますなあ!」
手を掲げて、のちほど、と去っていったアルヴィンの背を少しばかり眺めた後、会場にいるティムを探して”あること”を依頼して別れた。

———そこからは簡単な話だ。警備員に例のバッジを見せると、二階へ上がる階段を案内され、一番奥の部屋へ通された。案の定ハスクはおらず歯噛みしたが、仕方なくその部屋でアルヴィンを待った。
待っている間に食事も酒も運ばれてきてしまい、酒は何とか断ったが、目の前のステーキが悲しみに暮れていたので腹に入れてやるしか選択肢がなく、それも仕方なく食べ進めている途中でようやくアルヴィンが息子と登場したと思えば、三人で食事をしながら世間話をし、非常に和やかに時が過ぎていった。
途中、さすがに用を足したくなり、化粧直しをと部屋の外へ出た。一度入ったからには出れないものと覚悟していたが、案外すんなり部屋を出れた。
とはいっても警備員らしき男が道案内と称してどこまでもついてくるので、一人になるタイミングはなく、逃げ出せるかと言うとそうではない。
そしてなにより、この空白の時間が一番まずかった。おそらくこの間に薬を盛られていたのだろう。水すらボトルで出てきて、欲しいときだけ伝えて注いでもらうようになっていたからグラスに何か入れようものならすぐにわかる。ボトル一本に対して薬を入れるなんて、緻密に計算しなければ薬が薄まるだけで効果が出ないかもしれない。そう考えて、薬を盛られることはないと思っていたのだ。そこは計算が甘かったことを認めよう———

天井を見上げたまま、膀胱の心配をする。
「何を飲まされたのか……力が入らない———筋弛緩剤?でもそれだと口もふにゃふにゃになりそうだけど」
利尿剤なんかは一緒に飲まされていそうである。
用を足した後、極力水分は避けていた。だというのに、こんなに急激に尿意を催すなんて、利尿剤以外に思い当たるものがない。
「まずい、ほんとにおしっこしたい……
「体の感覚が残ってる間に出した方がいいぞ」
すっかり意識がないものと思っていた男の口から、至極真っ当な言葉がぽろりと出てきた。
「君、起きてたの?」
「まあ、割と」
「怪我は」
「せいぜい打撲ぐらいだ———あんまり抵抗するとスーツがボロボロにされちまいそうで」
呆れた。自分の体の心配よりスーツの心配とは。スーツなんてまた仕立てればいいって言うのに。
「スーツなんて今どうでもいいだろ」
素直に言葉にする。だって一歩間違えば殺されていたかもしれないのに。僕以外の人間に、だ。
そんなことはこの僕が許さない。
「良くねえよ、これは……いや、なんでもない」
含みを持たせたまま、口を噤んだ。言いたいことがあれば言えば良いものを隠すと余計気になってしまう。まさかこんないいもの貰ったの初めて、なんて言い出さないだろうか。
「まあいい、僕以外の人間に殺されるなんて絶対許さないからそのつもりで」
「そもそも殺されたくねえが———んなこたぁどうでもいい、早いとこ出さねえとそのうち勝手に流れ出るぞ」
言うのは簡単だ。何せ他人事である。一体この部屋のどこに排尿しろというのか。
「わかってるけど……まさか窓から、なんて言わないよね」
「ん」
後ろ手に縛られたまま体を起こすと、ハスクの顎先がテーブルの方を指した。
ぐらつく視界に気持ち悪さを覚えながらも何とか力を振り絞って上体を起こす。この動作だけでも膀胱に圧がかかって、今にも漏らしそうだ。
「え、ごめんちょっと分かんない」
「ああ、見えねえのか」
「違うよ、意味が分からないって言ってるんだ」
テーブルの上にあるのはシャンパングラスとミディアムのステーキが乗っていた皿、ナイフとフォーク。ちょうど3人分だ。
この時点で、ハスクが何を示唆したのかは容易に想像がつく。つくのだが———
「よりによってそれか……でもなあ、背に腹はかえられないかあ……
「手伝う、これ解いてくれ」
背中でくくられた手をパタパタさせる。足は自由らしく、こんな自由度の高い状態で監禁するなんてあまりに不用心ではと思う。下手したら鍵なんて壊せるというのに。
「こっちまで来れるかい?」
「余裕」
「そんなところでいきがるな、早く来い」
器用に立ち上がって隣まで来ると、背中を見せて座った。
「ナイフとか必要そうか?」
「うーんちょっと……あれ、意外とすぐ取れそう」
こんなに簡単に取れそうな拘束を施して、いったい何のつもりなのか。疑問ばかりが生まれて積み重なっていくが、今はとにかく漏らすか漏らさないか、尿意が思考の邪魔をしてそれどころではなかった。なんなら、こうして縄を解くための力を込めただけで、先の方がじんわり嫌な感じがする。
「あ、やば、気を抜いたら出ちゃうかも———はい、取った!」
「俺はお前が漏らしても、珍しいもんが見れたなあくらいにしか思わんから平気だぞ」
「バカ!あのクソ野郎と思考が似てる!~ッそんなこと言ってる場合じゃない!」
ソファを背に何とか膝立ちになる。グラスひとつで済むかと言うと、絶対にそんなことはないだろうからみっつ全部を床に置いた。
「ハスク、ドレスの裾持ってて」
「ん?いや、俺がやるからお前は後ろ向いてろ」
「は?」
「え?」
排尿補助するって言うのかこの男は。信じられない。もの好きにもほどがある。いや、それだけじゃない。何より———
「屈辱的すぎる!!」
「んなこと言ってる場合か!漏らす方が屈辱的だろうが!」
「そんなこと言ってまさかの向きじゃないだろうな!」
「飲むか!いいから早くしろ、ソファに腕置いて、足開け!やらねえと無理やりやるぞ———
今、無理やりそんな姿勢を作らされたら、刺激になって決壊しかねない。悔しい。大変悔しいが、言う通りにするしかないとわかって絶望した。
ソファの座面に腕と頭を預けて足を開くと、「もう少し膝を後ろに立てろ」と注文が入った。コイツ、楽しんでないだろうか。
「よし、そのままキープだ———任せろ、酒をこぼしたことは一度もない」
ジャケットを脱ぎ捨てて袖を捲ったと思えば、シャンパングラスをみっつとも片手で持ち前に差し出して見せた。
「カッコつけてんのそれ……
「うるせえな。なあ、ドレスの裾思いっきり上げるから固定できるか」
「腕で挟む」
「よし」
ドレスの裾を上げるというか、もはや尻までまくり上げてしまう。
「お、お前、下着まで女物だったのか」
「男物だとラインが出ちゃうだろスリップで隠すつもりだったけどそれでも駄目だったんだ」
下着もずり降ろされる。想像するにとてつもなく屈辱的な格好だ。尻丸出しでソファに凭れかかって———まるで発情期の女鹿みたいな格好である。
ハスクが少し胴体の下に潜り込んだところで、グラスの冷たい感触が亀頭の先に当たる。同時に、ハスクの指が竿を軽く持って固定した。
「なんか牛の乳しぼりみてえ」
「牛乳飲めなくなるだろ、やめろ」
「冗談だ……ほれ、いつでもいいぞ」
いつでもいいぞ、なんて言われると、逆に出しにくくなるものであるが、もう限界だった。ぱんぱんになった膀胱から、尿道を通って流れ出るそれは勢いがなく、しかし確実にグラスに溜まっていく。
「う、ああ、きもちい……
「おま、やめろ、今そんな声出すの」
「んん、過敏すぎるんだよハスカー……はああ……
先ほどまであんなに嫌悪感や屈辱感に苦しんでいたというのに、人間とは単純なものだ。限界まで耐えていた膀胱を解放したことの快感から、直前までのそんな感情が気持ち良さに完璧に置き換えられてしまった。今はただ”排尿の気持ち良さ”に脳が支配されていて、口からは安堵のため息ばかりが出てしまう。
「おっと」
かちん、と綺麗な音がしたからした。グラスを変えたのだろう。
「もしかして零した?」
「いや、全然。勢いねえから……年か?」
「失礼な奴だな。我慢した時って勢い失くさない?我慢したことないのもしかして……その辺でしちゃいそうだもんね、君」
くだらないやり取りをしているうちに、身体がぶるりと震え、排尿が終わったのがぼんやり分かる。
「最後か?」
「うん、たぶん……まだちょっと感覚が分からないけど」
何かで尿を拭きとったあと、ハスクは僕の下から慎重に出てきて、グラスを見せた。
「二杯と三分の一ってとこだな」
「わざわざ見せなくていいんだけど……お尻寒い」
「ああ、ちょっと待ってろ」
グラスをテーブルに置く。ドレスを直しながら、まだ感覚が鈍いままの下半身をハスクが丁寧に床に降ろす。
元居た場所に近い方が良いと、ハスクに自身を運ばせたところで、ようやく気持ちが落ち着いてくる。
「尿意ってさあ、ほんとにやっかいだね」
「なんも考えられねえだろうな」
ハスクも近くにどっかりと座りこんで胡坐をかく。
「で、どうするんだ。ここからどうやって出る?」
鍵は内鍵と外鍵がそれぞれある。壊せば出られなくもないが、大事になってしまう。大事になってしまうと人が集まるわけだから、それだけ逃げにくくなってしまう。
ならどうするか?もっと盛大に”逃げる人を増やせばいい”のでは?
「ちなみにハスカー?君、ここに連れてこられる前に何をしていた?」
「おっと、そうだった」
突然スラックスを寛げ始めたと思うと、とんでもないところから紙束をごっそりと取り出した。下着は二枚重ねにしてあり、物が入れられるようにしてあったのだ。さすが、手癖の悪さはニューオーリンズでトップと言えよう。
「お前が一人で会場を歩き始めた時、俺にもVIPルームへの招待が来たんだ。それでまあ、例のバッジを使って中に入ったんだが、ちょうどあの社長さんがいる部屋に招かれて女あてがわれて……
「好き放題してきた?」
「するわけないだろ……薬やってそうな、やべえ女しかいなかった———途中であのオッサンが抜けたんで、女は酒で酔わせてその辺に転がしといた」
「それで、まさかその部屋でそれを見つけてきたってこと?」
「その部屋がたぶん、薬やら情報を売るための部屋だったんだろうな、見つかると思ってなかったが普通にあったんでかっぱらってきた」
大手柄だ。だが、それが見つかってぼこぼこに殴られてここに連れてこられたのではないのか?と言うことは、それをここに持ち込んでいるのはとっくに向こうにも知れているはずなのに、なぜ放って置いているのか?
「それ、持ってたらまずくないか?よくひん剥かれて没収されなかったな……?」
「部屋を物色しているのが見つかった時、金目のものを探してるふりをしてた。顧客リストには別な紙束を挟んであるから、実際に開かれるまでは偽物かどうかすらわからないだろうな」
「君、咄嗟の嘘とは言え、僕の連れなのに金目の物を物色したのか……
「仕方ないだろ、そうするほかに隠す方法がなかったんだよ!おかげでこいつは気付かれずに、まるで俺の自慢のペニスのようにそこに在り続けたってわけだ」
「じゃあ、早く仕舞っておいて、そんな大事な、も、の……
顧客リストをしまい込もうとするハスクの股座を見てぎょっとする。どう考えても平常時とはサイズが違ったからだ。つい先ほどまで女と遊んでいたというのもあるだろうが、それにしたってずいぶん———主張が激しい。
「ねえ、ハスカー?もしかして君、他にも何か盗んでそこに入れてる?」
「んなわけあるか。これはたぶん……なんか、盛られたんだ」
まるで勃起した一物を隠すように、二重になった下着の中に顧客リストを仕舞う。僕は、リストが汚れないようにと祈るしかなかった。
「大丈夫なの?正気は保っていられる?」
「まだ———まだ、大丈夫だ。だがそんなに長くは持たせられねえ」
「今抜いちゃったら?」
「だめだ、歯止めが利かなくなる」
以前、薬でとんでもない目に遭ったからよくわかっている。ものによっては一日中頭がぼうっとしてとにかく下半身に集まってくる熱を逃がしたくて仕方がなくなる。普段からそんなことには興味ない人間だろうが、身体が勝手にそういうふうに作り替えられてしまうのだ。
それが、ハスクみたいな猛った若者に飲ませたらどうなるか……小指の先にほんのちょっとつけた薬を舐めただけで、とんでもない目に遭ったことを思い出す。
「早く出るしかないね……となると、一番大事なものはそこに仕舞ってあるから問題ないとして———どうやって火を点けよう」
「火ィ!?」
「声が大きいよ、外に誰か立ってたらどうするの———僕らが逃げるためには、あの警備員たちをかいくぐらなければならない。いつも通りの僕と君だったらたぶん、できないわけではないけど、今は薬も回ってていつもより動きが鈍いだろ?なら、人がみんな出ていくように仕向けてしまえばいい」
火元をどうするかという問題はあるが、この大きな会場が火の手に包まれたとなれば、誰しも逃げ出すだろうし、消火しようと慌てふためくだろう。その間に逃げ去ることができれば、僕らは”火事から逃げ出した人間”となるわけだ。
「ただ、もちろん最初はこの部屋を強行突破する必要が出てくるだろうね。でなければ僕らもローストされちゃうから」
「なら、俺のこの状況を利用すればいい。緩く縄がかかってたのも、おそらく”そういう趣向”のためだろう」
「僕らが事に及ぶのを横で見たいってこと?変態にもほどがある———けど、それをどう利用するの」
薬で盛りついて、部屋にいた男を襲うとして、それを見たアルヴィンは横で楽しむだけだ。隙なんて生まれやしない。
「簡単だ、アイツも混ざる様に仕向ければいい」
返ってきた言葉に開いた口が塞がらなかった。彼を混ぜる?
「触りたくないよあんなの」
「本当にやるわけじゃない、ふりでいい。お前から混ざる様に誘惑して、近くまで来させる……そうしたら、俺があいつを押さえりゃあいい」
「彼だけ押さえたって……まさか脅して外へ出るの?そっちの方がトップニュースになっちゃうよ……”大きな猫が新聞社社長を人質に!”って」
誰が大きな猫だ———そう言うと、ハスクは少し辛そうに俯いた。薬の効果が、次第に身体を犯しているのだ。本当ならきっと、硬くなった一物を慰めたいところだろうがそうはいかない。今そんなことしていたらいざと言う時動けないことは馬鹿でもわかる。
「警備員は外させればいい。さっき俺が別な部屋に入れられた時は、あのオッサンが言えば警備員は部屋の外に出ていった」
「それなら、多少勝算はある、か……
「後は、お前の足がどうなるかだな」
利尿剤はもう効果が薄れてきているとして、他に盛られた薬がなんなのかはわからない。だが、わからないなりに考えられることもある。利尿剤と併せて服用させたのは間違いだった、ということだ。
代謝が早まれば、その分だけ薬の効果も薄れていく。つまり、身体の自由を奪っている謎の薬の成分だって、尿と一緒に排出されていき、身体は徐々に動くようになるはずだ。
「ちょっと手伝って」
ハスクが重い腰を上げるのを見てソファを支えに立ち上がってみる。思っていたよりも足の感覚は戻りつつあったが、平衡感覚はまだ戻ってはいなかった。ふらつくのをハスクが急いで支える。
「あぶねえな、俺が来るまで待てよ……
「いけるかと思って」
もう少しすれば、完全に立てるような確信はあった。ハスクがこの床に転がされ、駆け寄ろうと足がもつれた時とは感覚が違う。あの時はもっと足があるのかないのか、急にわからなくなったような不思議な感覚がして、一緒に目も回したのだ。
今は視界もクリアで頭がぐらつくこともなければ、多少痺れているものの足の感覚はある。アルヴィンがいつ戻ってくるかは分からないが、いっそもう少しこのままなら、自身もひと暴れできるかもしれない。
「ハスク、ちょっと手持ったまま歩かせてくれる?」
「ああ」
両の手を持ったまま、後ろに下がるハスクに連れられて、一歩、また一歩と足を動かす。歩く度、じんわりと血液が巡るように少しずつ感覚が研ぎ澄まされていく。
「なんだ、動いた方が良いみたい。一曲踊ってみる?」
「調子乗ってるとまたコケるぜ」
「そうか、なっ」
言ってるそばから何もないところで躓いて、思いっきりハスクの胸に突っ込んだ。あんな雑に床に転がされたというのに、まだ香水の香りが鼻をくすぐってくる。我ながら良い香水を選んだものだと、香りを肺いっぱいに吸い込みながら当時の自分を褒め称えた。
「ほんとにコケたたじゃねえか」
倒れそうになったのを抱き留めた体制のまま、ハスクの腕に力が入る。首元に顔を埋めて深呼吸しているのは、おそらくハスクも同じ理由だ。
「お前、今日のこれ、何の香りだ」
「ピーチ、チュベローズ、ムスク……女性が好みそうな可愛らしい香りだね」
首元に顔を埋めたまま、熱い息を吐く。開けた肩に直接息がかかってぞわぞわした。いつもならこのままベッドまでまっしぐら、なんてことも少なくない。
「だめだ、暴発しちまいそう」
「こら、顧客リストを染み付きにするつもりか?我慢しなさい」
可哀そうと思わなくもないが、今はそんなことを言っている場合ではない。ハスクを引き剥がし、一度座ろうと思っていたその時———部屋の外から足音が複数聞こえてきた。
「このタイミングでか———アラスター、お前、足が動くようになってきたのは隠した方が良い、ソファに凭れてろ」
「んじゃあ君は僕に迫ってるふりでもしといて」
「言われなくても」
ソファに凭れる僕とそれに迫るハスクのカットを作り上げて間もなく、部屋のドアは開いた———


To be continued