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2025-07-19 23:54:37
2664文字
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お題:「初めて」

#ししさめワンドロワンライ 2025/07/19


 帰るぞ、と言っておきながら格好のつかない話だが――勝者として扉を出てすぐ、獅子神と村雨は医務室へと連れていかれた。メディカルチェックの結果は特に問題がなく、ただ、現在出ている痛みは明日になればもっとひどくなるかもしれない、とのことであった。
 ギャンブラー専用の緊急連絡先を把握しているか、いつも通りに確認されて、それからついでのように痛み止めを渡された。左目の出血は――結膜下出血だとか言うのだと教わった――、このまま放置して血が引くのを待つしかないらしく、点眼薬すら渡されるということがなかった。
 勝者だけあって、表向きは丁寧に――その実かなりの流れ作業で――、獅子神は医務室を追い出された。廊下を少し行ったところにはベンチがあって、そこには村雨が腰を下ろし、処方薬の紙袋を膝において、前を向いたままじっとしていた。
 ――ほっせぇやつ。
 向かい合わせに見たこの男の姿は、もう少し身体が大きく見えた。座り方の問題なのか、それとも、剣道だの何だのでよく言う「気」とかいうやつのせいなのか――今、背筋を伸ばし、膝を揃え、ベンチに座る男の姿は、獅子神からすると、針金のように細い、とすら言ってよかった。
 それが獅子神の想像をはるかに超えた化物であったことを、今の獅子神はよく知っている。
「何してんだ」
 声を掛けると、眼球が――つまり顔についている二つの眼球が――ぎろりと動いて獅子神を見た。
「稀なことだと言うだけあって、書類仕事に手間取っているらしい」
「へえ」
 相槌を打ってからしばらくして、獅子神は辛抱強く「つまり?」と尋ねた。
 こちらも辛抱強さをにじませて、村雨は答える。
「梅野も渋谷も、送迎には少し時間がかかるとのことだ」
 つまり村雨は――彼だけではなく獅子神も――、ここでしばらく待たされる、ということらしい。
「ここでなくとも、ロビーで茶でも飲みながら待つこともできるが」
 獅子神の思考を読んだように、村雨は言った。その顔色は、常よりさらに悪い。レベル1のペナルティで咳き込んでいた男だ。さほど表に出してはいないが、おそらく疲れ切っているのだろう。
「そうかよ」
 口に出してはそう言ったが、獅子神はロビーへ向かうことなく、ベンチに――村雨の右隣に腰を下ろした。
 広々とした廊下を、担架に乗せられた男が一人、うめき声を上げながら運ばれていく。それが、自分が先ほどまで見ていた顔ではないかと――一縷の望みを抱いて見送っていることを、自覚して獅子神は「チッ」と舌打ちをした。
「今日試合だったのは、我々だけかと思っていたが――
 言いかけて、いや、と村雨は言った。
「銀行から――4リンクから負傷者が回されてきたな。最近はちょくちょくあることらしい」
 試合の数が増えているのだ、と村雨は言った。戦争とかいうやつの影響なのだろう。
 出血している左目は、激しい痛みはないものの、目を開けづらいような、乾燥したような感覚が続いている。乱暴にこすりたくなるのをこらえて、獅子神は医務室の扉を見た。
 あの男が――あの男たちが運ばれてくる様子はない。
「お前、」
 そんなこと訊いてなんになる、と心の中で誰かが言ったが、獅子神の口は動いていた。
「今までにも、人を殺したこと――あんのか」
 獅子神の毛羽だった神経は、村雨が顔を動かしてこちらを見た、と感じ取った。
「それは、賭場での話か? それとも職場での話か?」
 問い返す声は、流れ作業で患者をさばく医師のように、冷ややかで――落ち着き払っていた。
 何のことだ、と思いかけて、そうか、と獅子神は言葉を呑む。
 ――コイツの職場は、人が死ぬんだ。直接的に。目の前で。
「医者が人を殺すってこたぁねえだろ、死なせることはあったとしてもよ」
「遺族がそれらを混同するのは、よくある話だ」
「まあ、心情としてはな……
 何か事情があって、先に担ぎ込まれていて――あるいはここじゃなく集中治療室に――
「その様子だと」
 落ち着いた声が、獅子神の脳を突き刺した。
「あなたは初めてだったらしいな」

 だから何だよ、という虚勢を、獅子神は吐くことができなかった。
……たぶんな」
 昇格祝いのパーティーを開いたときに、賭場での珍しい事件として、村雨当人が話したことだ。4リンクで負傷した男が、負傷のショックで死亡するような例もあると。
 ……あるいは、生きることに必死だったあの頃の、路地裏での喧嘩の果てに、獅子神の知らぬところで死んだ人間がいないと、言い切ることができるわけでもない。
「何事にも初めてはあるものだ」
 そう言われて獅子神は、村雨のことを振り返ろうかと、少しためらった。
 ――この男にも、初めての殺人があった。
 それが職場での医療過誤や、あるいは人工呼吸器を外したことを言っているのか、それとも、ハーフライフで眼前の敵が死んでいくさまを見届けたのか、それは、獅子神にはわからない。ただ、後者については、おそらく確実にあったことなのだろう。ワンヘッドまで行った人間が、一度も人を殺さずに済んだとはとても思えなかった。
 ――見てみたかった。
 ふと、そんな思考が浮かび上がり、そんな自分に獅子神は苦笑した。
 村雨礼二の初めての殺人。それは確かに、見届ける価値がありそうだ。
「おめでとうよ」
 だから獅子神はそう言った。
「てめーはオレの『初めて』を見届けた。一方的にな」
「フン……
 それは鼻で笑ったというよりは、何かを考え込んだ、という音に聞こえた。数秒間の沈黙、また一人、男が暴れながら担ぎ込まれ、そうしてバタンと扉の閉まる音と共に、静けさが戻って――それから村雨は、やはり落ち着き払った声で言った。
「いつかはあなたも、私の『初めて』を見届けるかもしらんぞ」
「なに?」
 思わず振り返った獅子神の、そのすぐ眼前に、無機質で透明な眼鏡のプラスチック板が――そしてその奥の、暗い赤い目がこちらを見ていた。
 ――『初めて』、
 その単語が連想するものを、脳が勝手にいくつもいくつも弾き出そうとする。
「てめーそれどういう」
「いやーお待たせしてスイマセンねぇ」
 梅野君にまとめてやってもらって、そのぶん私がお二人まとめて送り届けるってのはどうでしょう――
 酒と煙草にややざらついた、渋谷の声が廊下に響く。

 既に赤い目は獅子神から離れ、眼前の痩せた身体は、立ち上がって声の方角へと向き直っていた。