ミーンミーンと耳を劈くような大きな声を上げて、セミが鳴いている。その声に集中力をかき消されながらも俺は鉛筆を握りしめ、夏休みの宿題として出された山のようなプリントとにらめっこをしていた。
数字の羅列に顰め面をしたところで答えなど浮かんでこない。エアコンを掛けていてもじっとりとした暑さがまとわりついてきて集中力を奪った。時折扇風機の風であおられたエアコンの冷風が当たると頭の中がシャキッとしてくる。が、それも束の間。集中力は数分ともたず、数字の羅列を眺めることしか出来なくなった。
「あちぃ……」
昼が近くなり強くなる日差し。独り言を零すと、ペシッと頭をはたかれた。
「ちゃんと宿題やれって」
俺の頭上から指示を出すのは親父だ。
今日は日曜かつ、母親が珍しく友人と出掛けたので、親父が俺の面倒をみるということになっていた。
とはいえ、親父は基本的には何もしない。何も言わない。ただただ新聞を眺めているだけ。時々思い出したように俺の様子を見ては、手が止まっていると見ていた新聞を丸めて軽くはたいてきた。
「だってわっかんねーんだもん」
「だってじゃねえよ。わかんねーから勉強して理解するんだろうが」
正論を叩きつけられては、俺はむくれるしか出来ない。むぅと頬を膨らませると、親父は「しょうがねえな……」と言うと、俺に1つ提案をもちかけた。
「宿題終わったら動物でも見に行くか」
「マジで!?」
「おう。マジだ。だから頑張れ」
「わーった! 頑張るわ!」
親父にしては珍しく、俺を連れて動物園へ連れて行ってくれるらしい。俺は先程までとは打って代わり、スラスラと問題を解いた。やり始めれば今日の分の宿題はあっという間に終わり、俺は満を持して出掛けることとなった。
ウキウキしながら親父と一緒に電車に乗り、着いたところは……。
「ここ、動物園じゃなくね?」
「あ? 動物いるぞ? ほら」
親父は俺たちが立つ観客席から真っ直ぐに指を指す。そこには芝と砂、大きな電光掲示板、そして馬がいた。
「馬しかいねえ!」
「人間もいるだろ」
「そういうことじゃねえよ!」
「なんだよ。お前の好きな疾さが売りの動物だぞ。俺は嘘は言ってねえ。動物を見に行くっつったからな」
そう。親父が連れてきたのは地元の競馬場だった。
親父は入れ込んでいるという程ではないが、競馬が好きだった。先程宿題をやっている俺の隣で見ていた新聞ももちろん競馬新聞だ。
なんで気が付かなかったんだ。俺は後悔の念に苛まれた。
動物とは言ったし確かに馬も動物だが、ミスリードで競馬場へと繰り出すとか親のすることかよ。
心の中で悪態をついたが当の親父に伝えたところでのらりくらりと交わされて終わりだろう。それは幼心ながら理解していた。仕方なく俺は黙って親父と馬を見ることにする。
親父は何レースか予想していたが、悉く外していた。1回たりとも当たらない。財布は薄くなる一方だ。
「外してばっかじゃねーか」
「ちげえわ。紐は来たけど軸が飛んだんだよ。読みは悪くねえ」
言っていることは分からねえが、要するに惜しくも外れたと主張したいようだった。
「惜しくても外れは外れだろ」
「お前には分かんねーよ」
分かりたくねえよ、ギャンカスの気持ちなんて。
そんな風に心の中で悪態をついたりしながら付き合うこと数時間。とうとうメインレースの時間になった。
この日、ここ小倉競馬場では重賞の小倉記念が行われることになっていた。ローカル競馬場ではこの時期にしか見られない貴重なレース重賞とあって、たくさんの人が集まってくる。そんな中で親父はそのレースの馬券を買うために券売機に並んだ。
親父の順番になると、財布からすっと1万円札を取り出す。それを券売機に吸い込ませ、続けて予想を書いたマークシートも券売機に入れた。
流石に1万円を全部賭けるほどバカじゃあねえだろ。お釣りが来るんだろうな。
そんな俺の予想に反して、券売機から吐き出されたのはたった1枚の馬券だった。
その馬券には「単勝」という文字とともに枠で囲まれた数字と馬の名前、そして10,000円と書かれている。
つまり親父はそこに書かれた番号の馬が勝つということだけに1万円を賭けたのだ。
「1万も賭けたのかよ!」
「おう。もう財布の中はすっからかんだぜ」
親父はそう言ってヘラヘラと笑う。しかしながら財布の中はすっからかんということは、帰りの電車賃すらないということだ。
「はぁ!? 俺たち帰れねーってことかよ!」
「帰れるわ! こいつが勝つからな」
そう言って親父は馬券をピラピラと見せびらかした。
「勝つ保証なんかねえだろ!」
「勝つっつったら勝つんだよ」
親父は相変わらずヘラヘラしながら答え、俺を置いて観客席へと足を進めていく。
ふざけんな。帰れなくて困っても知らねえぞ。
そう思ったが親父に聞く耳など最早なさそうだ。何を言ってもしょうがない。俺はどうやって帰るのかだけを必死に考えながら、親父の後を追った。
観客席へと戻るとそこは、先程までとは比べ物にならないほど熱気に包まれていた。
そこにいる人たちの手には親父が買ったものと同じ色をした小さな紙切れが握られている。何枚も持っている人もいれば、親父みたいに1枚に夢を託した人もいる。
ただ皆同じだったのは、誰もが夢と希望に満ちた目をしていることだった。
たかが馬が走ってそれにお金を賭けただけだろ。それなのになんでこんなに楽しそうなんだ?ギャンブルってそんなに魅力的なのかよ。
よぎる考えを首を横に振って否定する。理解できるようにはなりたくなかったから。少なくとも帰りの電車賃も突っ込んでしまう親父のようには。
場内アナウンスと共に大きな歓声が上がる。
その声につられるようにレース場を見ると、そこには馬が何頭か入場してきていた。ゼッケンの番号順に入ってきた馬たちを眺めていると、親父の賭けた馬が入ってくる。
俺はその馬に違和感を覚えた。でも馬を見慣れているわけではないので確信は持てない。俺は続けて入ってくる馬たちを眺め、そして違和感の正体を口にした。
「父ちゃんが応援する馬って仔馬?」
そう。親父の応援する馬はほかの馬に比べて小さいのだ。俺の感じた違和感はほかの馬が入場してくるごとに確信へと変わっていった。
誰よりも小さな馬。つまりあの馬は仔馬なのではないか。大人に混じってレースをして勝てるのか。そんな不安が胸を覆う。
「は? 古馬だわ」
「こば?」
「簡単に言えば大人の馬っつーことだ」
親父はワクワクした表情であの馬を見つめながら答えた。
大人の馬なら少し安心する。しかしながら、完全に不安を拭うには至らなかった。
「でもちっこくね?」
「だから何だよ」
「勝てんの?」
小さいやつは勝てない。学校リレーでも背の大きな上級生が勝つし、クラスのかけっこだって俺は6年並みにでかい同級生に負け続けていた。
でかいイコール疾い。その法則は簡単には崩せないと思う。
そう思う俺に、親父はこちらを振り向いてまっすぐに見据えると静かに一言放った。
「勝てる」
「なんで」
「アイツなら勝てるからだよ」
それだけ言うと親父はジョッキーを背にした馬たちのほうへ向き直ってしまう。
俺は何がそんなに自信あるのか理解できず、その親父の背を睨みつけた。
ファンファーレが鳴り、会場内が歓声で沸き立つ。
その声に動じることなく、馬たちはゲートに1頭ずつ入っていった。
予定されたゲートにすべての馬が入ると、係員が離れたと同時にゲートが開く。それと同時にすべての馬が前へ向かって走っていった。
そんな中、親父の応援している馬はゲートを出てすぐ、分かりやすく馬群の後ろに位置を取る。
それを見た瞬間、俺は悟った。終わった、と。
親父が賭けた馬ともう1頭だけが離れて遅れている。ほかの馬はゲートから出た勢いそのままにガンガン前へと走るのに、アイツは後方でみんなの後をついていくだけだった。
「父ちゃんが応援してる馬、遅くね?」
「遅くねえよ」
親父はこちらを向くことなく答える。その目は芝の上を走る馬に夢中といった感じだ。
「遅せぇじゃん。だってビリのほう走ってる」
「あのなぁ……」
親父は呆れたように息を吐くと、くるりと俺を見つめた。
「速さにも種類があんだよ。アイツは速い。それをこのレースで証明するから黙って見てろ」
それだけ言うと再び俺に背を向ける。
疾さに種類? 意味が分からねえ。俺は首を傾げながら先頭あたりで固まっている馬を見つめた。
アイツらこそ疾いだろ。だって先頭を走っているじゃねえか。勝つならあの中のどれかって感じだろ?
むくれたままレースを眺めていた俺の視界に、後半のカーブに入ったあたりで、先ほどまでいなかった馬がスルスルッと入りこんできた。
それは親父の応援している馬ではない。一番人気の馬だ。当初は中団よりやや後ろにいたはずなのに、気がついたら加速して前団に捕りついていた。
その様子に会場が一気に盛り上がる。ワッと人の声がこだまし合い、そして飽和状態になっていた。
――なるほど。これが疾さの種類か。
最初に先頭を突っ走るだけが疾さではない。じっくりスタミナを溜め、みんなが疲れたところでそれを爆発させて抜け出していく。そういう戦法もあるんだな。
納得しかけた俺の隣から大声が耳を劈いた。
「行けぇ!!」
親父の声にビビって俺の体が跳ねる。
(行けっつってるけど、父ちゃんが買った馬じゃダメだろ)
心の中で独り言ちた言葉は、瞬きをする間もなく掻き消された。
俺の目はたった1頭の馬に惹き付けられる。
一番人気の馬のすぐ後ろにいるのは親父の応援している馬だった。一番人気の馬のスピードを凌ぐ勢いで風を切り、グングンと前へ進んでいく。
そして、先頭に立ちその速度を緩めた一番人気を隣から置き去りにするように走り去っていった。
――まるで、風だ。
俺は息をすることも忘れて、その馬に釘付けになった。
瞬きもせず、その馬の走りを記憶に焼き付けるように目を見開いてその走りを見つめる。
カーブが終わり最後の直線に入ると、スピードに乗ったその馬はさらに加速して後続の馬群を突き放していった。
食らいついてくる自分より大きな体の馬たちを気にも留めず、ただ自由に、己の本能の赴くまま前へ駆け抜けていく。
そしてその馬がゴール板を駆け抜けた瞬間、ひときわ大きな歓声が競馬場内を包んだ。
舞い散る馬券はさながら紙吹雪。ここにいる全ての人間の夢が降り注ぐ。
「よぉっしゃー! 言ったろ! アイツは速いから勝つって!」
話しかけてくる親父のほうは見ることなく、俺はひたすらレース場を見つめていた。
「おい、どうかしたか?」
流石の親父も心配になったのか、こちらを覗き込む。俺は視線を動かすことなく、心に生まれた想いを口にした。
「俺も、風になりてえ……」
「は?」
「俺もジョッキーになって風みてえに駆け抜けてえ!」
俺の勢いに圧倒され、親父は面食らった表情を浮かべる。
「おい……お前、何言っ……」
「おう坊主! 立派な夢じゃねえか!」
「強くなって俺たちに稼がせてくれよなー!」
俺の言葉を聞いた見知らぬおじさんたちが、親父の言葉を遮って囃し立てた。それに俺は頷くことで答える。それを見たおじさん達は更にテンションを上げた。
「今日この場所が坊主にとって夢の旅路の出発点ってことか! 頑張れよー!」
「おう。頑張る。で、ここに戻ってきてぜってー勝つ!」
俺の返事におじさん達は俺の背をバシバシと嬉しそうに叩いた。
「楽しみにしてっぞー!」
おじさん達はそう言うと、手を振りながら観客席を後にした。
「おい、お前本気か?」
「本気に決まってんだろ」
俺は親父をまっすぐに見据える。親父は難しい表情を浮かべながら後頭部を掻いた。
そうしてしばらく悩んだ末に、足を屈ませ、俺と視線を合わせた。
「わかった。帰ったら早速乗馬教室を探すぞ。んで、場合によっちゃ俺の小遣いの全額を使ってでも教室へ通わせて乗馬の技術を身に着けさせる。いいな」
親父は俺から目を外すことなく、俺が驚くようなことを静かに伝える。
「父ちゃんはそれでいいのかよ」
「いいよ。この馬券と一緒だ!」
親父は的中した馬券を俺に突き付けてきた。
「今日から俺はお前に全額ベットする。だから、ちゃーんと返してくれよ。強えジョッキーになってな!」
そう言った親父の瞳はあの馬券を買ったときのように、いやそれ以上に輝いている。
「わーった。約束する」
「頼んだぞ」
親父はニィッと笑うと頷いた俺の頭を撫で付けた。
「んじゃ、換金して帰るぞ! 今日は寿司だ!」
「やったー!」
俺は歩き出した親父の後ろから追い抜くように駆け出す。
これが俺の夢へのゲートが開いた瞬間。あの日から俺は夢の旅路を追いかけ続けていた。
誰よりも早く駆け抜け、あの熱気と歓声を手にするために。
そして今日、俺は戻ってきたのだ。夢の始まりの場所へ。
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