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雑種栗丸
2023-06-04 00:47:28
34958文字
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花影に咲く
6/3〜6/4のフィガ晶♂Webオンリーの展示作品でした。お付き合いしている二人のお話です。
手遅れだった。彼自身がそう言っていた。
見渡す限り一面雪の世界で、そこだけ絵の具が落とされたように色がついていた。上空から見るとそれはただの黒い点でしかなく、普段なら獣か何かだろうと気にも留めていなかった。しかしその時は不思議と目を引き、双子の魔法使いの呼び出しを後回しにして、点のもとへ降り立った。単なる気まぐれだった。
薄っすらと雪の積もったそれは魔法使いだった。うつ伏せになっている長身を黒いローブが覆い、細い体が白いキャンバスの上にくっきりと際立っている。お腹のあたりの雪は柔らかな果実でも潰したように赤く染まっていて、鮮やかだった。他の魔法使いにやられたのか、魔法生物に襲われたのか。その男はずいぶんと弱っていた。
「
……
はは」
男は自分のそばに降り立った存在に気づいて、乾いた笑いをこぼした。海のような色をした瞳が波打つことなく事態を冷静に受け止めている。起き上がる力もないほど弱っているのに、その横顔は紳士的で穏やかだ。
北の魔法使いのようだ。しゃがんで顔を確かめるが、見知った者ではない。しかしこの状態でも伝わってくる魔力は鋭い針のように肌をチクチクと刺激する。名のある魔法使いではなさそうだが、小物でもないらしい。
立ち上がり魔道具を出すと、彼は「だろうな」という表情をした。ここは北の国なのだから、自然と自分の運命を悟ったのだろう。なけなしの力で抵抗したところで、肉体がもはや手遅れだ。遅かれ早かれ石となって誰かに取り込まれる。ならば誰かに横取りされる前に、と、オーブに魔力を込める。
「
……
ここは」
とどめを刺すため呪文を唱えようとした唇を、彼の掠れた声が遮った。風の一つでも吹けば消え失せていただろう呟きが、耳に届いた。
無視してもよかった。ただの石となるモノに耳を貸す必要はない。さっさととどめを刺して、再び目的地へ向かって飛んでもよかったのに。
「
……
ここは、寒いな」
そんなただの挨拶みたいな言葉に。
「
……
北の国なんだから当然じゃないか」
なぜ答えてしまったのだろう。
「
……
先生
……
フィガロ先生
……
!」
この日、フィガロが目覚めて最初に見たのは、自分を揺り起こすルチルの姿だった。揺すられた頭は意識の半分を夢の中に残しているのか、現実である魔法舎の一室と夢の雪景色がちらちらと交互に目に映る。次第に雪景色は溶けていき、現実が輪郭を濃くした。
「
……
おはよう、ルチル」
「おはようございます、フィガロ先生。乱暴な起こし方をしてしまい、すみません」
「いや、いいよ」
フィガロが目覚めたことにルチルはほっとしたようだったが、足先がそわそわとベッドの方を向いたり扉の方を振り返ったりと忙しない。その様子に察しがついたフィガロはベッドから身を起こし、呪文を唱えて手早く着替えを済ませた。
「何かあったんだね」
「そうなんです。賢者様が大変なんです」
「賢者様が?」
どうせミスラとオズが戦ってミスラが大怪我をしたとかそのあたりだろうと予想していたフィガロは、意外な名前が出たことに驚いた。朝から恋人である賢者の話題が聞けるのは喜ばしいことであるはずなのに、不穏な気配が高揚する心を押し止める。ルチルが起こしに来るなんて、余程のことだ。
「賢者様は今どこにいるの?」
「食堂に。ネロさんと一緒にいます」
「わかった。行こうか」
足早に訪れた食堂には、ルチルの言ったとおり賢者である晶とネロの姿があった。晶は皆が食事をする長テーブルの前に腰かけて、こちらに背を向けている。テーブルの上には朝食と思われるサラダやパンやスープが並べられていた。今にも食事を始めそうな状態だけれど、晶は朝食に手をつけることなく、そばにいるネロに何かを話している。
「違うんです。ネロのパンが悪いわけじゃなくて」
近づくにつれて聞こえてきた声からは、必死に弁明している様子が伝わってきた。話の内容はちらりと聞こえてきただけではよくわからなかった。朝食のパンを巡って何かあったのだろうか。ネロは晶をなだめるように何度も頷き、空色の髪がゆったりと揺れていた。
「おはよう賢者様、ネロ」
「フィガロ」
振り返ったネロの顔にも、先ほどのルチルのような安堵の色が窺えた。一歩後ろに引いて晶との距離を取り、視線でそちらを促す。
「おはようございます、フィガロ」
対して晶は表情が和らぐことなく、余計に緊張したように体を固くした。お腹の前で緩く組み合わせていた両手にも、何かを隠すように力が入る。どうやら手のひらに何かしら秘められているらしいと、直感が働いた。
フィガロは晶の目線まで腰を落とし、努めて優しく問いかけた。
「何かあったの?賢者様」
晶は素直だ。口止めでもしない限り、大事なことはきちんと話してくれる。彼の部屋の扉をノックすれば、すぐにすっと開くように。その唇は信頼を言葉に変える。
「あの
……
パンが、熱くて」
「パン?そのテーブルにあるパン?」
「はい」
「えーっと、焼きたて?」
「まあ
……
そう、だな。焼きたて」
ネロが気まずそうに答えたものだから、晶が慌てて首を振った。
「違うんです。ネロが悪いんじゃなくて、焼きたては美味しくていつも嬉しいんです。ただ今日は、持てないくらい熱く感じてしまって
……
」
花が開くように、晶の両手が解かれる。見たところ肌が赤くなっているような異変は認められない。
晶が後ろめたそうにしていたのは、ネロに対する申し訳なさからきたものだった。パンを食べようとして手に持ったところで、あまりの熱さに悲鳴を上げてしまったそうだ。そのためネロが作った朝食に対して失礼なことをしてしまったと反省しているのだ。訳もなく晶がそのような態度をとる人間ではないことは、賢者の魔法使い全員が承知している事実であるため、気にする必要もないのにとフィガロは思いながら、試しにテーブルの上のパンを手に取ってみる。晶が触れた時からは幾分冷めているため想像でしかないが、指に伝わる熱からは時間の経過を差し引いても悲鳴を上げるほどのものは感じられない。
「まるで火に直接触れたみたいな悲鳴でしたよ」
「お恥ずかしい
……
」
ルチルも同時刻に食事をしていたため、パンがそれほど熱くなかったことは彼の口からも証明された。現に晶の朝食の隣にはルチルが食べた後の空になったお皿が、ルチルの証言を手助けするように置かれている。
パンには異常がないとなると
……
。フィガロはふと思い当たることがあり、一度遠くに視線を投げてから、晶に向き直った。
「賢者様、君の手を握ってもいい?痛いかもしれないから、ちょっと覚悟しててね」
「は、はい」
晶の返事を待ってから一呼吸置き、彼の手を両手で包み込んだ。瞬間、悲鳴をのみこんだような音とともにびくりと晶の体が震え、強く手を振りほどかれた。当然フィガロは予想していた反応だったのだが、晶は拒絶してしまったことに驚き、反射的に謝罪の言葉が口をついた。
「すみません!」
「大丈夫だよ。むしろこれは診察だからね。ありのままの反応を見せてもらわないと困るくらいだ。俺の手が熱かったんでしょ?」
晶は頷いて、信じられないものを見るように自身の手を見据えた。
「じゃあ、次はこれね」
そう言って、フィガロは手のひらを顔の前に持ち上げ、ろうそくの火を消す要領でふーっと息を吹きかけた。すると指先から手首にかけて、体温が血液にのって引いていくように失われ、氷のような冷たい手が出来上がった。
その手でもう一度晶の両手を抱きしめる。また熱いのだろうと身構えていた晶は、魔法の存在を忘れたように呆気にとられた様子で、振り払うことなくフィガロの手を受け入れた。
「どう?」
「
……
熱くないです」
「そう。ありがとう」
晶の手を離し、立ち上がる。胸に抱いていた仮説は、ほとんど確信に変わっていた。その裏付けを得るために、最後の問いを晶に投げかける。
「賢者様、昨日俺たち南の魔法使いと一緒に南の国に行ったよね?その時、花の香りを嗅がなかった?」
「花の
……
香り?」
晶はフィガロの言葉をゆっくりと繰り返してから、あっと声を上げた。
「嗅ぎました。昨日の任務の途中で、赤い花が岩の近くに咲いていて、良い匂いがしていたので」
「どんな形の花だった?」
「えっと、俺の世界では彼岸花っていうのがあって、それによく似ていて
……
」
上手く言葉にできないのか、晶は手のひらで花を真似たり指で空中に描いたりして、花の形を伝えようとした。指と指の間隔を広くして開いて見せたり、指先で山を作るような仕草をしたり。ネロとルチルは首を傾げたけれど、フィガロは晶の指が描いた線を自身の記憶と重ねて、間違いないなと結論付けた。
「ありがとう賢者様。もういいよ。原因が何なのかわかったからね」
「本当ですか、フィガロ先生!」
ルチルが目を輝かせる。頷いてから、フィガロは診断を下した。
「これは植物の毒による中毒だ。賢者様が昨日見た花はアジュールと言ってね、その香りに毒の成分があって、吸い込むとあたたかいものが異常なほど高温に感じられてしまう状態になるんだ」
「高温
……
」
「焼きたてのパンでもまるで熱したガラスのように感じられて、とてもじゃないけど触っていられない。ただこの毒は神経に作用するものだから、実際に皮膚が熱を感じているわけではないんだ。そう思い込まされてしまうだけ。だから君の手がやけどを負うわけではないんだよ」
なるほど、と三人が晶の手のひらをしげしげと見つめて呟いた。そのうちの一人であるネロが顔を上げる。
「そんな毒をもつ花、聞いたことねえな」
「君は知らないかもね。あの花は南の国でしか確認されていないから。他の国には生息していないんだよ」
それを聞いたルチルが、授業で先生に質問をするように手を挙げた。
「私も聞いたことがありません。そんな危険な花なら、学校でも教えそうなものですが
……
」
「ああ、それはね、君が生まれる前に俺が全部焼いちゃったから、今はもう絶滅しているはずなんだよ」
「ええ!?」
「どこかで生き残っていたのかな。偶然、賢者様が見つけちゃったんだね」
最後の方は半ば独り言になりつつ、フィガロは手早く呪文を唱えた。それからもう一度晶の目の高さまでしゃがんで、安心させるように微笑みかける。
「一時的に君の神経をいじらせてもらったよ。これで熱さはわからなくなっているはずだから、このまま食事をして、その後は部屋で安静にするんだ。温度を感じとれなくしているから、ご飯はいつもより美味しくないかもしれないけど、頑張って食べてね」
「はい」
晶の返事ははっきりとしているけれど、それは彼の癖のようなものだった。自身の感情よりも聴き分けの良さを優先させた、シャボン玉のような柔くて外側だけきれいなもの。少し触れれば割れてしまい、内包していた本音が現れる。それは自らの軽率な行いに対する自責や、これから他者に迷惑をかけてしまうのであろうことへの心苦しさだ。
二人きりであれば、フィガロはその薄い膜をあえて割っていたかもしれない。けれど晶を尊重して、今すべきことではないと判断した。晶が食事を終えた頃に、自然と割れるだろう。
「じゃあ、俺はスノウ様とホワイト様に事情を話してくるよ。それと治療の準備をするから、少しの間留守にするかもしれない。またね、賢者様」
明るく手を振って廊下に向かうと、朝の鍛錬を終えたレノックスとカイン、シノが入れ違いに食堂に入ってくるところだった。手短に晶の現状を伝え、特にカインには晶の肌には触れないように念を押しておいた。皆一様に朝食よりも晶のもとに駆け寄る背中を見送って、双子の部屋へ赴く。
二人に話をしたところ「可哀そうだ可哀そうだ」とオーバーに嘆いたため、そのうち面倒になってしまい、とりあえず要点だけを伝えることにした。晶に熱いものを触れさせないこと、食べさせないこと。安静にさせること。治療には南の国の植物が必要なため、今から取りに行くこと。
「賢者のことも、任務の調整も、我らに任せておれ」
「フィガロちゃんは安心して南の国に行っておいで」
「よろしく頼みますよ」
それからは自室に戻り、棚からいくつか本を取り出してぱらぱらと目を通した。あの毒にかかった患者を最後に治療したのはずいぶんと前のことだ。治療自体は難しくないのだが、使用する薬草が南の国各地に散らばっており、揃えるのに骨を折った覚えがある。ただし記憶に残っているのはそのことだけで、詳しい治療法は曖昧にしか思い出せない。本をいくつか確認したけれど、どこにも答えは載っていなかった。もともと南の国特有の病と言ってもいいものだったため、魔法舎に治療法に関する書物は持ち込まなかったのだ。どちらにしても一度南の国に戻る必要があった。
エレベーターを使おうか、オズに飛ばしてもらおうかと考えながらドアノブに手を掛けたところで、こつこつと控えめに戸を叩く音が聞こえた。ノックの音でフィガロは誰が扉の前に立っているのかすぐにわかった。三つ目の音が鳴る前にドアを開く。
「食事は終わったの?」
「っあ、はい」
空振りした晶の手が宙に放られたまま、行き場を失くして浮かんでいた。思いがけず扉が開いたことに驚いたのか、彼の瞳が猫のように丸くなっている。フィガロはそんな晶の様子を微笑ましく思いながら、部屋へと招き入れた。
「どうしたの賢者様?俺の部屋で眠りたくなった?」
「いえ、そういうわけではなくて」
「そうか、残念」
口ではいたずらめいたことを言いながらも、次に続く晶の言葉は「すみません」とか「俺のせいで」あたりだろうかと予想する。計算式のように、この言葉が来たらこうフォローしようと、自然と頭の中が晶を傷つけない未来への道筋を組み立てていく。
そうして五十通りほどの公式ができあがったところで、晶が続きを口にした。
「
……
俺も一緒に南の国に行ってもいいですか?」
すべての公式が不正解になってしまった。その台詞は考えていなかった、と、今度はフィガロが目を丸くする。
「双子先生から聞きました。あなたが治療のために南の国に行くって。もし良ければ
……
邪魔でなければ、俺も連れて行ってくれませんか?」
扉の前で、駄目だよと言われれば一歩下がって出て行ける場所でわがままを言う晶をいじらしく思う。毒に冒された体への不安を抱え、味のしない食事を喉奥に流し込みながら、そんな願いを持ったのかと思うと、叶えてあげたくなる。
笑顔になろうとした時にはすでに口角が上がっていた。君が大変な状況なのにごめんねと、フィガロは心の中でそっと呟いた。
南の国は夜になると眠る。開拓途中であるこの国では、西の歓楽街のように夜中まで明かりが煌々と光る場所はほとんどない。自然の残る森も、剝き出しの岩肌が続く山も、月がかげると地上は一つの暗い海に見えた。手を伸ばせばすぐに触れるようにも、どんどん深くへと潜れてしまうようにも思われる。頭上には星が無数に散る空が途方もない大きさの正体を現し、明るい時分よりも世界は広く、秘密の多い場所なのだと思い知る。天と地の境を飛んでいると不思議な気持ちになった。
ひゅうひゅうと風を切る音が耳に涼やかだ。昼間は日差しが強く汗ばむ日もあるが、太陽が熱を連れ去ってしまったように、宵になると肌に心地良い空気が満ちる。
これならば晶にとっても負担が少ないだろう。フィガロはそう思い、肩越しに後ろを振り返った。
「体調は問題ない?賢者様」
一緒に箒に乗っているため、少し顔を向けるだけですぐに晶と目が合った。晶は風に前髪を煽られながら、体を小さくさせた。
「大丈夫です。すみません、俺のせいで夜になってしまって」
「君のためではあるけど、君のせいってことはないよ。だからもう謝らないで。今日だけで十七回目くらいの“すみません”だ」
晶は再び「すみません」と言いかけたけれど、そっと言葉をのみこんで弱く微笑んだ。風に髪が流されて、いつもより表情がよく見える。
本当は朝のうちに南の国を訪れる予定だったのだが、晶が同行することになったため夜まで待ってから出発した。晶の症状は日差しであっても痛みを感じる。悲鳴を上げるほどではないとは言え、じりじりと肌を焼かれるように痛むため、慎重に行動する必要があった。そのため南の国への出発は夜に変更して、治療も明日行うこととなった。
「ありがとうございます。フィガロ」
「どういたしまして。うん、ありがとうの方がずっと良いね」
そう言うと、晶が柔らかな笑顔を返した。やはり、この微笑みの方がずっと良い。
診療所まではもう少し時間がかかる。フィガロは箒の旅を少しでも楽しんでもらおうと語りかけた。
「その毒を持った花のことだけどね、姿形だけなら全く同じ花が存在するんだ。それはネリネという名前で、今回君が見つけたアジュールは南の国にしか咲いていなかったけれど、ネリネは他の国にも生息しているんだ。色も豊富で、赤以外にもたくさんの種類があるよ」
好みの色のオペラグローブをつけた細い腕を、無邪気に大きく広げるような花弁。雄しべはその中心からすっと空を目指すように伸びる。一筋の茎からいくつもの花を咲かせる様は、花火のように鮮やかだ。
「ネリネに毒はないんですか?」
晶の問いかけに、フィガロは頷いた。
「ないね。毒を持つのはアジュールだけ。でも見た目に差がないから、見分けるのがとても難しいんだ。人間だとわからないだろうね」
「人間だと
……
魔法使いだとわかるんですか?」
「わかるよ。ネリネとアジュールだと、魔法使いにとっては普通の動物と魔法生物くらいの違いがあるからね」
「動物と魔法生物
……
」
晶は月に話しかけるようにひっそりと呟いた。
「犬とオーエンのケルベロスくらいの違いですか?」
「うーん。そんな感じかな」
そう答えると、興味が増したのか背中越しに晶が身を乗り出す気配を感じた。一層近づいた声が問いを重ねる。
「犬とケルベロスは外見だけで違いがわかりますが、その花は同じ姿なのに、どうしてわかるんですか?」
尊敬を滲ませた声音が夜に光を灯す。遠くに見え始めた雲の街の明かりがちらちらと揺れていて、自身を見上げる晶の瞳の輝きのように思えた。
「それじゃあ賢者様、これを見て」
歌うようにフィガロが呪文を唱えると、晶の目の前に小さな丸い石が二つ現れた。まばたきの間に気づけばそこにあって、重力に逆らってふわふわと飛んでいる。淡い乳白色の艶やかな表面が月明かりを受け、美しさを競うように胸を張っている。
「この二つの違いはわかる?」
そう言われて、晶はまじまじと二つの石を見つめた。途端にどちらの石もどこか恥ずかしそうにもじもじとし始めたので、思わず笑みがこぼれる。二つとも大理石に似た色と模様だった。違いと言われても、これといって挙げるものがない。わかりませんと晶が正直に答えると、片方の石が嬉しそうに飛び跳ねた。
くすくすと聞こえてくる笑い声に耳を澄ましながら、フィガロは正解を発表する。
「この石はね、片方が天然石で、もう片方が人造石なんだよ。それが違い」
「なるほど
……
!」
「知識があれば、天然石と人造石を見分けることはそう難しいことではないんだけど、知らない人は同じ石に見える。それがネリネとアジュールにも当てはまるんだよ」
「えっと、つまり?」
「アジュールの方が作られた物ってこと」
晶の鼻の先で石たちがおもむろに回り始める。
「天然石は自然に生まれ、自然なままのものだ。ネリネがそれに当たる。対して人造石は天然石を含んではいるものの、その他の素材と掛け合わされて形成された人工物だ。アジュールがそれと同じだね。元はネリネだったものが、魔法使いによって作り変えられている。俺たち魔法使いはその差を捉えることができるから、別物として見ることができるんだよ」
あっ、と晶が声を上げる。しかしすぐに静かになった。足元には雲の街の家々が立ち並び、歩いている人も少しだけ確認できる。窓から漏れる光を頼りにゆらゆらといくつかの影が彷徨っていた。
上空を行く二人の会話は聞こえるはずもなかったが、晶は心持ち声を潜めてフィガロに囁きかける。
「魔法使いがアジュールを作ったんですか?何のために?」
「さあ。理由まではわからない。毒が必要だったのかな」
くるくると回っていた石たちは、現れていた時と同じように、ふいに晶の前からいなくなっていた。寂しさを感じる隙も与えないほど完璧に消えてしまったため、晶は別れの事実に思い至るまでに辺りを見回して、その姿を探した。
「なんとなくわかった?」
「
……
はい、なんとなく」
雲の街の上空を通り過ぎ、再び闇がしっとりと満ちる世界を翔けていく。暗闇がぼかして曖昧になっている空と地上の境を見つめながら、フィガロは続ける。
「あたたかな気候である南の国では、アジュールの毒は地味に厄介でね。肉体的には問題なくても、精神が参ってしまうんだ。食事が上手く食べられなくて飢えで死ぬ人間もいたし、苦痛に耐えられなくて自ら命を絶つ人間もいた。人間には見分けられないから被害にあう人間も多くてね
……
面倒だから確認できた分は全部燃やしたんだ」
その出来事は今朝まですっかり忘れていたことだった。晶の症状を確認した際にはたとその光景が思い出された。それは不思議な光景だった。平地のとある一帯に群生していたアジュールに火をつけたところ、ごうごうと燃え盛ったのは赤い炎ではなく白い炎だった。勢いよく揺らめく炎は北の国の吹雪を思わせるほど勇ましく、それは固い氷河のように芯の部分が澄んだ青色をしていた。
その光景を思い返し、フィガロはそういえばと呟いた。
「こんな言い伝えもあったな。北の魔法使いが惚れた人間を北に連れて行く口実にその花を生み出した、なんて」
そう言ったそばから微苦笑めいた笑いをこぼす。
「北の魔法使いならもっと強引な手を使うだろうに。言い伝えとも言えない、冗談みたいなものだね」
晶の手がフィガロの白衣をぎゅっと握った。彼は何も言わなかったが、花の被害者となった自らに、思うところがあるのだろう。フィガロは安心させようと縋ってきた手に触れようとして、すんでのところで思い直した。今まさに毒の話をしていたのに危ないところだった。触れてしまったら晶が悲鳴を上げて手を離し、真っ逆さまに地上へと落ちてしまうところだった。
難儀だなぁとフィガロは胸中で呟く。お互いに難儀だ。
「さて、そろそろ見えてきたよ」
湖畔を囲む集落。その中心にあるのが大きな湖、ラッセル湖だ。闇が地面の起伏を全て飲み込んだ黒く平らな地上に、ぽっかりと白い大穴があいている。それはよく見ると湖に映る月の姿で、波ひとつ立たない沈黙した湖にしっとりと身を落としている。集落には明かりが乏しいが、反射する月の光によってぼんやりと家々の形が浮かび上がっていた。
その一つである診療所に二人は降り立った。人気のない建物はしんとして、主の帰りを待っている。
湖の上を撫でるようにして届いた風はひんやりと冷たく、晶は気持ちよさそうに目を細めた。診療所を取り囲む草花が左右に揺れて、フィガロの突然の帰宅に歓声を上げるようにさわさわと音を立てた。
「おいで、賢者様」
フィガロが診療所の扉を開くと、室内にぱっと明かりが灯る。沈黙していた部屋に二人分の足音が響いて、にわかに張り詰めていた空気が和らいだ。物質を組み立てただけの空間が、人の生きる場所へと変わる瞬間。おかえりと言われたような、あたたかさがある。
二人とも夕飯は魔法舎で済ませていたのですぐに就寝の準備をすることにした。晶も今日一日で三日分ほどの疲労を感じていた。ベッドを見てつい欠伸をしてしまうくらいには、体が睡眠を求めている。体の変化に心が追いついておらず、眠りについて一旦思考をリセットしたいようだった。
フィガロは呪文を唱えて手っ取り早く晶に寝間着を着せる。ベッドのシーツを取り替えると、ふかふかの布団を用意した。晶が眠い目をこすっているうちにベッドメイキングは終わり、倒れ込む体をしっかりと受け止める。晶は枕に対して「失礼します」とかなんとか小声で律儀に断ったかと思うと、フィガロがおやすみを言う前にあどけない寝息を立て始めた。
「
……
お疲れ様」
あっという間に眠りの世界へと行ってしまった恋人に、置いて行かれた寂しさをほんのりと感じながらも、フィガロは上機嫌だった。無防備な寝顔は信頼の証でもある。それに、晶が頼ってくれたことが何より嬉しかったのだ。
普段の晶は誰にも迷惑をかけないように努めている。自分の足で立っていられるように、彼なりに考え、日々決断している。時には我慢し、諦めもしている。そんな晶が今回は自分の願いを口にした。一緒に南の国に連れて行ってほしいと。
南の国に来ることは魔法舎に比べて体への負担が大きくなるため、本来ならば避けるべきところだろう。しかしこうして連れてきたのは、それが彼のフィガロへの甘えでもあったからだった。
南の国に行きたいと晶が願ったのは、今の体で魔法舎に居ると皆に心配と気遣いをかけるからだ。朝の一件から魔法舎を発つまでの間も、賢者の魔法使いたちから代わる代わる声をかけられていた。励ましの言葉も、お見舞いの品も、どれも優しさの結晶で、決して悪いものではない。だた、その輝きが眩しい時はある。それらを贈られて喜ぶ心も確かにあるのだが、晶は申し訳なさが勝るのだろう。
だから離れたかった。自分の存在が皆の時間を奪うことを許容できなかった。ただ一人を除いて。
「
……
ふふ」
ふと気づくと笑みが滲んでしまい、おっとと口元を手で覆う。もうずいぶんと長く生きているのに、プレゼントを貰った子どもみたいに笑うなんて、と、自分でも呆れる。
でも嬉しかったのだから仕方ない。晶がこうして自分には迷惑をかけていいと思ってくれたことが、何よりの甘えに思えて嬉しかった。
こんな風に特別扱いされること。他人には見せない顔を自分だけが見られること。まるで恋人みたいだと思って、恋人なんだよと思うこと。
「おやすみ、賢者様」
幸せだと口にしようとして、もったいない気がしてやめた。言葉にしなくてもお腹の底からじんわりと広がるぬくもりが心を満たしてくれる。ああ、あたたかいな。
その熱を一人でしみじみと味わうようにして、夜は更けていった。
「寒い」
雪原に倒れ伏した彼は、もう一度そう言った。北の国だから当然だと、こちらももう一度返そうかと思ったけれど、やめた。
「たぶん死にかけてるから余計寒いんだと思うよ」
代わりに身も蓋もない話をする。男の腹部から流れる血液にはまだ温度があるようで、周囲の雪を溶かしていくけれど、それもそのうち凍るだろう。
下手に会話をしてしまったと後悔がちらちらと顔を覗かせている。死にかけの男だ。ぱぱっととどめを刺せばよかった。石にしようと取り出したオーブも所在なげにふわふわと浮いている。
そんな様子がおかしかったのか、男は小さく笑った。
「どうせ放っておいても石になるから、まぁ待て
……
誰かと話したい気分なんだ。私の話を聞いてくれないか」
痛みに慣れ始めたのか、男が話す言葉がスムーズに耳に届くようになってきた。彼の言うとおりで、それほど待たなくても石を得られそうだったため、暇つぶしをかねて話を聞くことにした。
呻き声を上げながら男が体を揺らす。ぱたりと仰向けになると、何かに貫かれたようにお腹にぽっかりと穴があいていた。今までローブに隠れて見えなかったが、そこから血が流れていたようだ。
一仕事を終えて、男は息をついた。雪に溶けるような色白で、鼻筋の通った美しい顔立ちだった。
「
……
君は、人間と暮らしたことがあるか?」
彼はそう尋ねた。お腹の大穴がどのようにして出来上がったのか、血みどろの話をされるのだと勝手に思っていたため、人間の話題を投げかけられたことに少々意外性を感じる。この国で他の魔法使いに自らのことを語るのは気が引けるが、いずれ死ぬ男に嘘を話しても仕方がないので、素直に答えた。
「あるよ。生まれた時から、何度か人間の中で暮らしている」
「
……
そうか、そういう奴もいるな。器用なんだな」
「器用、ね」
「私には無理だった」
はぁ、と、男の口から白い息が漏れる。ふわりと一瞬漂って、すぐに跡形もなく消え失せた。「私の両親は人間だったが、私を恐れてどこかに行ってしまったからな。少しイラっときて祖父を殺してしまったのが良くなかったんだろう」
大して反省をしていないように聞こえる声音で彼は苦笑した。忘れ物をしたことに気づいたような、力の抜ける笑いだった。
「それからは一人でいたんだが、私のことを魔法使いだと知っていて全く恐れずに挨拶をしてくるような人間と会ってな。妙だと思ってついて行ったら、そいつが住んでいる村の人間全員がそうなんだ。虫の居所が悪かったら殺していたかもしれないが、変に興が乗って、そいつらと暮らしてみたんだ」
彼はそう言って、目を細めた。珍しく晴れた空を、もっと遠いどこかを見るような眼差しで見上げながら、彼は呟いた。
「
……
あそこは、あたたかかったな」
妙な夢を見る。とうの昔に忘れていた記憶を掘り起こされたような夢だ。それはこれまでの生の中で、目の前を通り過ぎた一粒の雪のように一瞬の出来事で、そういえばそんなこともあったなと感慨深くなるほどの思い出でもなかった。それなのに、どうしていまさら。
「おはようございます。フィガロ」
声が聞こえて振り返ると、寝間着を着替えた晶が寝室から出てくるところだった。
「おはよう、賢者様。よく眠れた?」
「ぐっすりです」
昨日よりも顔色が良く、言葉のとおりしっかりと眠れたのだろう。柔らかく膨らむ頬に、フィガロもつられて笑みをこぼす。晶はテーブルの上のサンドイッチを見つけて、明るい声を上げた。
「美味しそう
……
!フィガロが作ってくれたんですか?」
「うん。これなら美味しく食べられるかなって」
「ありがとうございます!」
晶はぴょんとうさぎが跳ねるように椅子に座り、さっそく両手を合わせた。
「いただきます
……
あれ?フィガロは食べないんですか」
「作りながら食べちゃった。飲み物は冷たい水でいい?」
「はい。なにからなにまですみません」
「俺がやりたくてやってるんだから、気にしないで。あとこれね」
そう言ってフィガロは人差し指の先を晶の眉間に向ける。触れないギリギリの位置で止めて呪文を唱えた。不思議そうにまばたきをしていた晶は、顔に冷たい風が緩く当たるのを感じて、目を閉じる。北の国に続くミスラの扉を開けたときに感じるような冷気は数秒間続いて、どこかまだひやりとした感覚を残したまま風は収まった。
「
……
今のは?」
「君の周囲だけ温度を下げたよ。あまり冷たいと体に良くないから、ほんの少しだけね。多少の日差しなら熱さを感じないと思うけど、なるべく日陰にいるように」
日陰にいても体が常時火照っているような状態になる。それを緩和する効果もある魔法だ。以前同じ中毒症状だった患者を看ていた時にも使用した魔法だった。患者の望むまま冷やしすぎて、凍傷を引き起こしてしまったこともあるので、威力を落としたお守りのようなものだけれど。
サンドイッチを頬張る晶の正面に座り、簡単な問診を行う。どうしても触れる必要があるときは、昨日と同じように手のひらを氷のようにして触れた。短い時間で済ませ、晶の頬が赤く染まっていくのを見たいだとか欲を出さないことを第一に心がける。
「
……
体は大丈夫そうだね。それじゃあ俺は治療法を確認してくるから、ゆっくり食べててね」
フィガロはカーテンを閉め切ったキッチンから診察室へ移動し、棚に並べた書物からいくつかを引き抜いた。アジュールに関するものは本棚の奥の方にしまわれていたため、書物自身もまた開かれる時が来るとは思わなかったのではないだろうか。フィガロが治療をしていた当時の記録を見返していると、花に関する情報が次から次に思い出された。
あの毒はフィガロが南の国に定住する前から存在していた。しかし治療法を確立させたのはフィガロだった。魔法使いが生み出した花だったために、治療にも魔法を使う必要があるからだ。それまで人間の医者が何度となく治療を行ったが、完治できなかったのはそのせいだった。フィガロが花を絶やそうと考えたのも、治療の難しさが理由の一つでもある。
「
……
ああそうか、これも必要だったな」
記録を目で追いながら、過去の自分と対話するように独り言を漏らす。治療に使う薬草は診療所に残っているものもあるが、やはりいくつかは採取しに行かなければならないようだ。晶を連れて行くわけにもいかないので、心苦しいが留守番をお願いすることになる。
引き続きぱらぱらとページを捲っていると、紙の隅の方に走り書きを見つけた。
――
最初の患者は女性。山の麓にある小さな村の若い女性。
その一文から始まる記述は、この症状を初めて診た医師の診療録を書き写したものだった。ベテランの医師だったようだが、診療録にはこの症状に太刀打ちできなかった悔しさがつらつらと書き残されていた覚えがある。最初の患者は医師のもとに来てから半年後に、死んだのだ。
「
……
彼女は治療にとても協力的だった。様々な薬草を試したが、どれも良い結果は得られなかった。これではただの実験体だと嘆く私に、彼女は言った。病を治して会いたい人がいるから、何でもするわ、と
……
」
しかし願いもむなしく亡くなってしまったのだ。精神が耐えられなかったのか、様々な薬を試した副作用なのか。そのどちらともが理由だろう。
治療法は全くわからないままだったが、原因は不思議と掴めていたようだ。その証拠に、あの花をアジュールと名付けたのはその女性だという記録があった。赤、白、黄色と多彩な色を持つネリネに、なぜ青を示す言葉を与えたのか、理由は定かではない。
「それじゃ、行ってこようかな」
治療に必要な物と採取できる場所を頭に入れて、本をぱたりと閉じた。そのまま本棚に戻そうと顔を上げたが、本を閉じた音に重なって何かが聞こえた気がして辺りを見回す。トントンと木製のものを叩く音が、確かに聞こえる。玄関からだった。
扉を開くと、目の前に見知った顔がいくつも並んでいた。
「フィガロ先生
……
!やはり戻られていましたか!」
玄関の前に集まった人々はフィガロの姿を見るとぱっと表情を明るくさせた。
「昨夜、診療所に明かりがついていたので、もしや戻られたのではと思い参りました」
口々にフィガロの名前が喜びとともに囁かれる。ほとんどがこの湖畔の集落の人間だが、中には雲の街の住民も混ざっている。噂が広まるのはルチルの箒よりも速い。
日の光を受けて煌めく湖の水面のように、人々は瞳を輝かせてフィガロを仰ぎ見た。
「以前いただいたお薬が切れそうで」
「母の容体が思わしくなく」
「ちょうど昨日息子がけがをしてしまって」
助けを乞う声が矢継ぎ早にフィガロへと向けられる。皆必死なのだ。憐れだし、もう少し定期的に戻ればよかったと思いつつ、フィガロはドアノブを握り直した。期待に応えたい気持ちはあるが、優先させるべきは晶の方だ。悪いが今日は帰ってもらおう。
フィガロは人間たちの声に負けないように、息を深く吸って口を開いた。
「ごめんねみんな。今日は
――
」
「フィガロ」
澄んだ声が耳に届いた。どれほど音が重なっていても、それだけは真っすぐに届くもの。
振り返ると晶が診察室に立っていた。日の射し込まない隅の方の、彼には似合わない影の多い場所で、いつものように微笑んでいる。続けて何を言うのか、フィガロにはわかっていた。
「俺は大丈夫なので、皆さんを診てあげてください」
「賢者様
……
」
こういうときの晶は、どこか有無を言わせない迫力がある。いくら揺すっても倒れない、彼を立たせている芯の部分が剥き出しになっているような、強さがある。反論したところで無駄だろう。
「
……
わかったよ。みんな、入って。ただし今日だけだよ。誰かに話すなら、明日はお休みってことも追加しといて」
わーいと無邪気にはしゃぐ人々。湖の向こう側から走ってくる人の姿も見える。どうやら今日はいつ解放されるかわからないようだ。晶の治療は敢え無く明日に回された。
ぞろぞろと診察室に入ってくる人々に対して、挨拶をしたり椅子を勧めたりと、すでにてきぱきと動いている晶にため息を吐く。魔法で上着の両肩部分を引っ張って、その働き者の動きを止める。
強制的に向き合わされた晶は叱られる気配を察して、先手を打った。
「俺、フィガロが皆さんに頼られているところが見たくて。だって、俺も嬉しくなるから。かっこいいです!頑張ってください!」
「
……
っもぉ~」
調子のいいことを言って
……
と呆れを通り越して感心する。そして、決して悪い気はしていない自分にはもっと呆れた。
「その代わり働かないこと。日陰でじっとしているんだよ」
「はい」
晶は良いお返事をすると、奥の部屋から椅子を持ってきて、診察室の端っこに置いて大人しく座った。
それからは丸一日診察と処方にかかりっきりだった。後から判明したことだが、別の街から持ち込まれた食材によって食中毒が流行っていたらしく、主にその患者が後を絶たなかった。フィガロがそのことに気づいたのは、同じ病名を五人目に告げたあたりだった。昼過ぎには薬草探しに行けるかもしれないという淡い期待は、その瞬間打ち砕かれた。
とは言え、フィガロが患者を診察し終わる度に、晶が誇らしげに微笑むので、やりがいは異常なほどあった。診察室に晶の姿は溶け込んでいて、住民と楽しげに歓談をしていたり、棚の中の薬品を興味深そうに眺めていたりと、診察の合間に目で追うのは楽しかった。まるで二人で診療所を営んでいるようで、実際患者にも何人かそう問われた。
「あの子は新しい助手さんかい?」
「違うよ。彼は俺の上司にあたる人」
「へー」
「あと俺の恋人ね」
「ほー!」
そういった会話を何度か繰り返しているうちに、時間はまたたく間に過ぎていった。
日が傾き、診察室に射し込む日の光も時間とともに場所を変えていく。影について行く晶の居場所は移ろい、フィガロの方へ近づいたかと思えば離れていった。
魔法舎でも同じだ。患者の中に紛れて一瞬見失いかけた晶を見つけて、ぼんやりとフィガロはそう思った。賢者として忙しく動き回る晶は、触れることができたかと思えば、もうそばにはいなかったりする。たとえ恋人であろうとも、夜の時間をミスラに奪われたりもする。
運命の赤い糸というものの話を、以前晶から聞いたことがある。運命の人同士が小指に結ばれた赤い糸で繋がっているという話。「俺たちにもありますかね?」と照れたように笑った晶に、上手く返事ができなかった。
もし繋がっていたとしても、と思う。もし繋がっていたとしても、それは伸縮自在で、どこまでも離れることができて、切れ味の良い鋏に見事に切られてしまうのだろう。異なる世界という大きな鋏の前では、なす術もなくあっさりと。
いつか糸を辿れなくなる運命の人。そう遠くない未来に見失う存在。
それが晶なのだ。
「いや~フィガロ先生が来てくれて良かったです。このケガじゃ明日は働けないかもしれないと思っていたので」
大きな手のひらで頭を掻きながら、最後の患者が心底ほっとしたように笑った。彼は開拓の最前線で働いている、集落の中でも一番の働き手だった。まだ若く、屈強な体を動かしたくてたまらないというエネルギーが漲っている。その後ろでちょろちょろと駆け回るのは、まだ幼い彼の娘だ。
「相変わらず過労気味なんじゃない。休むことも仕事のうちだよ」
「そうですかねぇ」
「
……
おいおい、どうやったら指がこんな風に明後日の方を向くんだい?明日は働かない方が良いよ」
「困ったなぁ」
お願いだから働きたいと懇願する彼に淡々と休むことの大切さを語って聞かせながら、痛みを和らげる魔法をかける。娘は普段目にしない物が溢れる診察室に好奇心をそそるらしく、室内を駆け回ってはフィガロの視界にちらちらと映りこんだ。
彼女の小さな足音が旋律のように流れていたのが、ふと気づいたらぱたりと鳴り止んでいた。続けて話し声が聞こえてくる。ふっと視線をそちらに向けると、女の子と晶が会話しているところだった。
「お兄ちゃんもどこか悪いの?」
彼女の目線に合わせて屈んだ晶が、そうだよと答える。子ども相手にも妥協しない誠実さが遠目にも窺えた。
「ふーん
……
」
女の子が足を揺らし、もじもじと気恥ずかしそうにしている。何かを言いたそうだ。晶もそのことに気づいて、促すように微笑み返した。その優しさが女の子の背を押したのか、彼女はすっと両腕を胸の高さまで挙げて、晶に向かって両手を差し出した。
「私の手、柔らかくて気持ちが良くて、触ったら元気になれるんだってよく言われるの。お兄ちゃんも握ってみて」
たどたどしく紡がれた言葉が、フィガロの意識に強く刻まれた時には遅かった。あっ、と思い声を掛けようとした時には、すでに晶は彼女の手を取っていた。
彼は少しも顔をしかめなかった。本当なら手を振り払いたいほどの熱を感じているだろうに、微笑みを湛えたまま、彼女の小さな手を握っていた。
「ありがとう。本当だ。元気が出たよ」
そうして、何でもないことのようにそう言った。
事情を知らない人間からすると、とても微笑ましい光景だっただろう。美しいやり取りだっただろう。夕日のあたたかな色が満ちる診療所の一角で、それはおとぎ話のような完璧さを感じさせた。
フィガロだけが、傷ついていた。
「
……
えへへ」
女の子が嬉しそうに笑う。晶から手を離して、たった今起こった喜ばしい出来事を報告するように、父親の大きな背中に抱き着いた。どうしたんだい?と彼は驚きに両眉を上げる。晶はそんな二人を遠く見つめながら、ひっそりと立っていた。
両手を背に隠した彼の表情を、フィガロは追うことができなかった。
「
――
ありがとうございました、フィガロ先生」
「完治しているわけじゃないから、明日はしっかり休むんだよ」
「わかってます、わかってます」
こりゃわかってないな、と胸の内で呟きつつ、帰路につく親子の後ろ姿を見送った。隣で晶も手を振っている。すっかり日も落ちて、晶が玄関先に立っても問題がないほど外は暗くなっていた。
「お疲れさまでした、フィガロ」
「うん、君もね」
「俺はなにも」
そう言って微笑む晶に、喉奥から言葉がせり上がる。自らを落ち着かせようとして、時間をかけてゆっくりと扉に鍵を掛けた。
さっきの、と言いかけ、一度言葉をのみこむ。
「
……
賢者様、手は大丈夫?」
「え?」
「握ってたでしょ、あの子の手を」
晶はキッチンへ進めていた歩みを止めて、フィガロを振り返った。ひなが初めて親鳥を見るような、何を言われたのか分かっていない顔をしている。しかしそれも刹那のことで、すぐに思い至ったのか目を伏せ、自身の手のひらを開いてみせた。つい先ほど痛みを受け止めた両手。なんてことはない、ごく普通の人間の手のひらだ。
天井から吊り下げられた照明のろうそくの炎がゆらゆらと揺れる。その光は頭上から降り注ぎ、晶の目元にまばらな影を落とす。まつ毛の隙間から覗く黒い瞳はなおも色を濃くして、月の隠れた夜の湖のような静寂に満ちていた。
フィガロが息をのんだと同時に、晶は口を開いた。
「
……
す」
「
……
す?」
「す
……
っごく熱かったです!」
正直に、ようやく、満を持して、という勢いで晶はそう言った。
「子どもの体温ってすごいですね。ぷにぷにしててとても気持ちは良かったんですけど、めちゃくちゃ熱かったです。でも優しい子でしたね。元気が貰えました」
晶は一息にそう言って、両手を握ったり開いたりと繰り返した。あの時の熱さを思い出しているのか困ったように眉を寄せているけれど、元気が出たのは確かなようで、綻ぶ笑顔は年相応に明るい。
フィガロも同じのようにきれいな微笑みを返し、晶に聞こえないようにそっと息をついた。
「
……
君があの子の手を握ってるから、びっくりしちゃったよ」
「見てたんですね、フィガロ」
「うん。実はあの子はね、両親がともに働き者で、あまり気にかけてもらえていないんだ。だから君に優しくしてもらえて、君が思っている以上に嬉しかったと思うよ」
フィガロの話を聞いて、空に流れ星でも見つけたように晶の瞳に喜びの光が瞬く。微笑みの余韻は流れ星のように尾を引いて、晶の横顔は晴れ晴れとしていた。
「良かったです」
自分にとっても、あの子にとっても。言外に滲む満ち足りた気持ちが、水面を滑る波紋のようにフィガロのもとにも届く。手を浸しても止めることができないそれを、フィガロはただ眺めることしかできない。
「そうだね」
そうして晶の心と同じ温度の称賛を贈った。花束を添えるように美しい音色で言葉を奏でる。本当の気持ちは多数の花で隠してしまうようにして。
診療室にはフィガロと晶の二人だけで、もう誰もいないはずなのに、昼間の賑わいが残響のように耳の奥にずっと残っていた。
「賑やかな村だった。人間だけの村だ。魔法使いは私一人だけだった」
腹部に大穴があいた男が、掠れた声で続ける。そこにはひゅうひゅうとお腹からも空気が抜けているような侘しい響きがあった。
全てが過去形で語られていること。彼が今ここで、冷たい雪の上に死にかけで転がっていること。物語の結末は明確だ。ハッピーエンドは迎えられない。彼が石になってバッドエンドが確定する。
「
……
始めはただの興味本位だ。この国では私たちは崇められるか恐れられるかのどちらかだからな。友人のように親しげに話しかけてくる奴らが珍しくて、村人の家に少しの間住むことにした」
近くの山頂から風が吹き降りてきて、細やかな雪の粒が二人を囲むように舞い上がる。珍しく晴れた空に上る太陽が、結晶一つ一つに丁寧に光を当てて輝かせた。
「その家には一人娘がいた。若い女だ。庭に咲く変な形の花が好きで、いつも飾っていた。細く華奢なのに溌溂としたその花が、彼女には
……
よく似合っていた」
濡れたまつ毛が微かに震える。彼はまばたきをして全てが消えてしまうことを恐れるように、薄く開いた瞳で宙を見つめていた。僅かに残った力を振り絞って言葉を紡ぐ彼は、死よりも何よりも、自身の思いが腹部から流れる血のように無意味に失われていくことが嫌なのだろうと思った。
「彼女は村人からも好かれ、村人のことも好いていた。人間であろうと魔法使いであろうとお構いなしだ。誰に対しても優しく、呆れるほど無警戒だった。試しに私は魔法で脅してみたりもしたが、体調でも悪いのかと本気で心配された」
極寒のこの国で、彼がその娘のことを語る声だけはどこか温度があるように感じられた。
「彼女のそばにいると調子が狂った。魔法使いとしての威厳を奪われていくようで居心地が悪かった。彼女の隣にいるとただの“私”という存在になって、皮をはがれた果実のような気分になった」
だから、と彼は続ける。
「すぐにあの村を発つべきだったんだ
……
それなのに数日の滞在が一週間に延び、一か月となり
……
結局何日いたのかわからない」
それでも別れは訪れたのだろう。先ほど彼自身が人間と暮らすことが無理だったと語っていたことが頭をよぎる。正解だと言わんばかりに、男は自嘲した。
「しかし、ある日から娘が不治の病にかかり、その原因は私にあるとして、私は村を追い出された」
比較的落ち着いた、紳士的な物言いをしていた彼が、その時は北の魔法使いらしく鋭く研ぎ澄まされた微笑みを広げた。人間ならば首筋にナイフを突きつけられたような恐怖を感じただろう。もう反撃する力も残っていないだろうに。ほんの一瞬凍りついた場の空気を溶かすように、問いかける。
「原因は本当に君だったのか?」
「
……
そうだ。直接手を下したわけではないが、私の魔力が原因だ」
男は一度沈黙し、重い扉を開くようにそう答えた。
「村人たちは自分が同じ病にかかることを恐れて、あの手この手で私を村から追い出そうとしたよ。私は平和な村に災いをもたらした大罪人だ。弱いくせに様々な農具で私に対抗しようとしていて、必死だったのが滑稽だった」
そう言いながらも、彼の冷えた唇は少しも笑わなかった。
「もともと人間と私たち魔法使いの関係なんてそんなものだ。正しい形に戻っただけのこと。人間どもは私たちを恐れ、ひれ伏し、身勝手に弄ばれるためにあるのだ。だからそいつらを殺してもよかった。あの程度の攻撃で私に勝てると思ったその傲慢さを後悔させてもよかった」
雪に濡れた髪から雫が落ちて、彼の頬を伝う。空を閉じ込めたガラス玉のような青い瞳が、投げやりに細められた。
「だが、そうしなかった」
彼はそう言ってから、ぽつりと独り言のように呟いた。
――
ぬくもりなど、知らなければよかったのだ。
「いいかい?賢者様」
「はい!」
「俺が戻るまで外には出ないこと。この部屋の怪しい瓶には触らないこと。お昼は机に置いているパンを食べること。誰か患者が訪ねてきたら居留守を使うこと。たとえ外から大きな悲鳴が聞こえてきても、無視するんだよ」
「そ、それはちょっと、難しいかもしれません」
「ダメだってば。じゃあこうしよう。そういうときは俺の名前を呼ぶこと。そうしたら飛んで帰って来るから」
「わかりました」
患者の嵐から一夜明けて、フィガロはようやく晶の治療のために出かけることとなった。玄関前でいくつか留守番の注意事項を確認していると、晶の顔がみるみるうちに緩んでいくので、フィガロは不思議に思う。
「賢者様?」
「あ、いえ。すみません、何でもないです」
解けかけた結び目をきつく結び直すように、晶は表情をさっと引き締めた。
「夜までかかりますか?」
「それぞれ場所が離れているから時間はかかるけど、夕方までには戻れると思うよ。それじゃ、お留守番よろしくね」
「はい。気をつけて」
晶の見送りは魔法舎でもよくあることだ。任務や市場に買い物に行くために外出するとき、晶はいってらっしゃいと手を振ってくれた。箒に乗って空に舞い上がり、小さくなっていく晶の姿を振り返り見ると、出発したばかりなのに帰りのことを考えてしまう。晶の「おかえりなさい」を聞きたくなる。
場所は違えども考えることは同じだ。今回は特に、帰って来る場所が場所なだけに普段と少し異なる趣がある。そんなことを思いながら、フィガロは診療所を後にした。
まず向かうのはティコ湖。その後、東部へと進み、少し北にも寄り道をしながら、薬の原料となる植物、果実、鉱物を採取していく。採取場所のおおよその見当はついているが、今回の治療を最後に行ったのはいったい何年前のことなのか思い出せないほどに昔だ。土地の変化にも敏感になっておいた方がいい。
晶も不運だ。眼下に広がる人々の営みをぼんやりと眺めながらフィガロは思う。数日前の任務の時と同じように、魔法使いに気づいた子どもたちがこちらを指差してはしゃいでいた。あの時レノックスの箒に乗って、晶は嬉しそうに手を振り返していた。南の魔法使いと賢者でレイタ山脈での任務に向かう途中だった。
思い返せば晶はずっと動き回っている。南の前は東の国での調査。さらに前は任務で西の国に一泊。読めない文字が敷き詰められた書類と睨めっこをする姿は、談話室でよく目にする。北の国の魔法使いたちの喧嘩を止めたり、子どもたちとキッチンでお菓子作りをしたりもしている。
そのうえ今回の件だ。疲れていないはずがないのに、彼はいつも変わらず、特別なことでもないようにひっそりと立っている。生まれた時に皆名前を与えられるように、賢者という役割を与えられて。
フィガロの瞳には昨日の女の子と晶のやり取りが焼きついて離れない。思いやりに溢れた美しい光景なのに、思い出す度に胸が痛んだ。
晶自身もとても熱かったと言っていたあの手を、表情一つ変えずに受け止めた彼は、とても優しい。晶が優しいなどということは彼に関わった人間であれば周知の事実であり、晶はどんな人ですか?という質問があったならば最も多い回答かもしれない。そう、彼は優しく、聡明だ。
しかし、本当にそうだろうか、と思う。
元の世界でも彼は同じ行動をとっただろうか。激しい痛みを伴うとわかっていることを、他者を気づかって我慢して受け入れただろうか。
もちろんそうしたかもしれない。晶を構成する揺るがない本質として、世界の違いなど関係なく、同じことをした可能性はある。けれど人は、与えられた役目に応えようとする生き物だ。
普段着から正装に着替えれば自然と背筋が伸びるように、賢者という役目が晶を動かしているのだとしたら
――
「
……
あの子はよくやっている」
誰に聞かせるわけでもなく、ぽつりとそうこぼした。
とても賢者らしい賢者様。魔法使いにも人間にも優しくあり、この世界で自分にできることを見つけて努力している。それは無償の愛にも似ていて、世界を救ったところで見返りがあるとも思えないのに懸命に尽くしている。真木晶はどうしようもなく、賢者だ。
当然だと思う。なぜなら晶はこの世界に“賢者”として呼ばれたのだから。選択の余地すらなく、本当の名前などどうでもよく、この世界に生まれた瞬間から「賢者」と呼ばれた。フィガロ自身も、出会った当初は賢者として利用できないかと考えたのだから。真木晶という名前に、愛情を抱くよりも先に。
ではあの時、あの女の子から手を握ってと言われた時に、晶が断っていれば満足だったのか。昨夜から幾度となく自問するが、答えは見つからない。
「熱かった」と正直に告げてくれたことは嬉しかった。自分自身も晶の前ではそうありたいと思うからだ。世界がほんの少しよそ見をしている間に、こっそりと秘密を打ち明け合える関係でありたい。
けれど喜びと同時に、やはり晶は賢者なのだと思い知らされた。そして、口では賢者様と呼んでいるのに、恋人という肩書が増えてからは、彼が賢者であることを意識しないように努めている自分がいることに気づいた。賢者だと意識すると辿り着く問いを、避けるために。
――
晶は賢者としてこの世界に存在している。では、賢者でなくなった時は?
フィガロはすっと胸が冷えていくのを感じた。箒を握る手に力を入れて、溢れそうになるため息を深呼吸をして誤魔化した。
真木晶が賢者でなくなった時。役目を終える時。それはこの世界からいなくなることと同義だ。
晶が晶らしくいることを喜ぶ半面、賢者であり続けることを望んでいる。そんな身勝手な望みは、恋人になってからより強くなったように思う。単純に、失うことが怖いのだ。
「ダメな大人だな
……
」
考えたって仕方のないことだ。フィガロは頭を振って強制的に思考を止めた。胸に引っかかった小さな棘は傷み続けるけれど、診療所では晶が治療を待っているのだ。今やるべきことに集中しよう。
良く晴れた空と地上を二つに分けるように、箒に乗って真っすぐに音もなく進んでいく。茶色の壁が続く岩山の上を通っていると、隊列を組んで飛んでいる渡り鳥の群れに出くわした。大きくしなやかな翼をゆったりと羽ばたかせ、器用に風に乗っている。
どこに向かっているのだろうか。羽を休める場所は見つけているのだろうか。フィガロはそんなことを考えながらしばらく隣を飛んで、最初の目的地であるティコ湖へと降り立った。
緑色に透き通る鉱石を粉々に砕く。苦い果肉に包まれた種子を取り出して熱する。紫色の小さな花をつける植物を急速に乾燥させてから煎じる。それから、それから。
箒の周囲で様々な道具が忙しなく動いていた。薬草を切ったり、擦り混ぜたり、蒸したりする道具たちだ。宙にふわふわと浮いたまま、手慣れた動きで流れるように作業をこなしていく。「早く」と声をかけると、道具たちは一瞬びくっと体を震わせてからスピードを上げた。
フィガロは目的のものを全て手に入れて、家路を急いでいた。同時に薬の調合も行うことで、帰宅後すぐに晶の治療に移れるようにしている。太陽は目線と同じ高さにあり、日が暮れるまでもう少しだ。
そうして雲の街が見える頃には薬が完成していた。くたくたになった道具たちを労いながら、晶の顔を思い浮かべる。いつものようにおかえりを言って出迎えてくれる姿も。そして薬を見てふわりと微笑むのだ。
空の青がじっくりと橙色を帯び始めた。ラッセル湖も同じ色に染まり、誰かが描いた空の絵を地上に落としたように見えた。フィガロの帰宅に気づいた集落の人々が、手を振っておかえりを告げる。
フィガロは診療所の前に降り立つと、意気揚々と扉を開いた。
「ただいま、賢者様」
おかえりなさい、とすぐに返事があるものだと思っていたため、しんとした沈黙しか返って来なかったにもかかわらず、しばらくそのまま待ってしまった。少しの間の後、診察室には誰の姿もないことに遅れて気づいた。今朝ここを出た時のままの状態で、診療所はフィガロを迎え入れた。
夕日が照らす室内は十分に明るく、人の姿を探すために目を凝らす必要もない。一目見て、誰もいないことは明白だった。フィガロは荷物を机に置き、奥の部屋へと歩みを進める。キッチンだろうかと顔を覗かせるが、いない。では寝室だろうかと見回すが、そこにもいない。
心臓が何かを訴えるように鼓動を速めた。
トイレやお風呂場も探したが、やはり姿が見えない。小さな診療所で、隠れる場所はそうそうないはずなのに、待ち望む声はいつまで経っても聞こえてこない。ただ「おかえり」と言ってほしいだけなのに。
もう一度診察室へ戻って、カーテンを捲ってみたり机の下を覗いてみたりと、隅々まで確認していく。いない。続いてキッチンを同じように探すが、やはりどこにもいない。昼食を食べてお皿が洗われた形跡はあるのに、片づけた人物だけがいない。
鼓動がますます速くなる。痛いくらいに耳の奥で鳴り響く。
重く叩きつけるような雑音の中、双子の声が思い出された。「前の賢者ちゃんは急にいなくなったからの」と、以前スノウとホワイトがそう話していた。先の厄災との戦いの最中、前の賢者は気づいた時には忽然と姿を消していたという。
賢者の代替わりが、もしもこんな風に何の前触れもなく、この世界に存在した事実だけ残して肉体は消え失せてしまうのだとしたら。
フィガロは呆然として立ち尽くした。キッチンの白い壁を信じられない思いで見つめる。視点が定まらずに、目の前に広がる白さが膨張して体の中に入り込んでくるような目まいを感じた。
その時フィガロはあることに気づいてハッと目を見開いた。そうだ、記憶だ。賢者が変わる際には、前の賢者の記憶は失われる。残されたこの世界の住民は、賢者の顔も名前も思い出せなくなる。
もしまだ覚えているのなら
――
唇が震える。息が上手くできず、声が喉の奥の方で躊躇っている。ただ人の名前を口にすればいいだけのことが、どうしようもなく、怖かった。先ほどまで思い浮かべていた名前を音にすればいいだけなのに、もし言えなかったらと思うと身が竦む。
でも、確かめなければ。そう自分を奮い立たせ、フィガロは重くなっていく唇をそっと開いた。
「
……
晶」
ふっと力が抜けた。よかった。まだ覚えている。消えてなんかいない。胸中でたった今声にした名前を繰り返し唱え、自らを安心させる。黒い髪に青みがかった黒い瞳。細身で背はそれほど高くない。猫が好きで食べることも好き。真木晶。俺の大切な人。
気持ちが落ち着いてくると、頭が正常に働き始めた。焦る必要はない。簡単なことだった。フィガロは周囲の温度を下げる魔法を晶にかけていた。その魔力を辿れば彼の居場所はすぐにわかるはずだ。
意識を集中させると、すぐ近くにその気配を感じた。寝室の隅。ベッドの近く、サイドテーブルと壁の間
……
。
感じとった場所に向かうと、僅かな隙間に小さくなってすっぽりとはまっている晶がいた。いつもの白い上着のフードを被って、壁に寄りかかって丸くなっている。フィガロが近づいても顔を上げることはなく、彼の肩はのんびりと上下していた。そろりとフードの端を持ち上げると、穏やかな寝息とともに緩み切った寝顔が現れた。
昼から夕方へ時間が変化しても日の光が当たらない場所を求めたのだろう。サイドテーブルの影に隠れていたため、探し回っていた時には見つけることができなかった。
思わず肺の中の空気を全て出し切ってしまいそうな、大きなため息をついた。安堵のため息だった。そのままふらりとよろけて、ぐったりと床に座り込む。普段のフィガロならばこれほど焦ることもなかっただろうが、昨日の一件が胸に引っかかったまま彼の不安を煽った結果だった。
フィガロのため息があんまり大きかったため、晶が目を覚ましてしまった。彼はまだ夢の世界から脱しきれていないとろりとした視線をうろうろさせる。夜を落とし込んだような静穏を湛えた黒い瞳が、艶やかな仕草でフィガロの輪郭を撫でた。
「
……
あれ
……
フィガロ?」
「うん。おはよう賢者様」
「あ
……
おはようござい
……
じゃなくて、おかえりなさい」
「
……
うん
……
うん。ただいま」
徐々に意識がはっきりし始めた晶は、フィガロが子どものように地べたに座りこんでいることに少々驚いた様子で身じろぎした。起き上がろうと床に手をついたけれど、自身の上着を巻き込んでいたために滑ってしまい、再び壁に倒れ掛かった。まだ半分寝ぼけているのだろう。フードの端をつまんで持ち上げようとして頭に引っ掻けたり、体勢に無理があり腰が上がらなかったりと、ただ起き上がるという行為にずいぶんと時間をかけている晶を、フィガロは手助けをする気にもならず見つめていた。もたつく晶が可愛くて、愛おしくて。そんな姿を見ることができるのが、嬉しかった。
「いつの間に寝てたんだろう
……
」
やっと立ち上がった晶は欠伸をこぼして恥ずかしそうに笑った。
「すみません、フィガロが大変な思いをしている間に
……
」
「疲れが出たんだろうね。眠ってすっきりした?」
「はい」
フィガロも晶に続いて立ち上がり、そっと目を伏せた。胸に巣食った焦燥感は細かな砂のようになって晶の微笑みにさらさらと流されていく。けれどすべてはなくならないまま残り続ける。
フィガロはざらざらとしたその表面を払うように、診察室へと手を向けた。
「じゃあ薬を飲んでも問題ないかな。お待たせ賢者様。やっと元の体に戻れるよ」
「ありがとうございます!」
できたてほやほやの薬が診察室で二人が来るのを待っていた。薬包紙に包まれ机の上にいくつか積まれたその一つを手に取り、魔法でグラスに水を入れて手繰り寄せる。晶が薬とグラスを受け取ったのを確かめて、椅子に座るように勧めた。
「君がこれを飲んだら魔法をかけるから、少しの間じっとしててね」
緊張した面持ちで晶は頷くと、薬包紙を解いて薬を口に含んだ。続けて水を飲んでいる喉の動きを認めてから、フィガロは晶の胸に手をかざし、静かに呪文を唱えた。
意識を集中させ、晶の体に広がった毒を感じ取る。神経に蔦のように絡みついたそれを、少しの根も残さないように慎重に取り除いていく。繊細な作業の繰り返しを、一瞬で晶の体に行き渡らせた。
全ての毒を消し終わると、フィガロは手を離して晶の顔を窺った。
「治療は終わったけど、どう?」
「肌がぴりぴりする感じがなくなりました。あの、手を借りてもいいですか?」
そう言って晶はおそるおそるフィガロの手に指先をちょんと当てる。一回二回とノックするように突いて、それから手のひら全体でぎゅっと握りしめた。驚きと喜びが同時に彼の顔に浮かぶ。
「熱くない
……
熱くないです!」
「それは良かった」
「ありがとうございます!」
心底嬉しそうな微笑みに、今まで体の痛みを言葉にせずに平気そうにしていたのは、晶が気丈に振舞っていたからだと悟る。アジュールは香りを嗅いだ時間に比例して症状が重くなる。晶はフィガロが思っていた以上に重症だったのかもしれない。
初めておもちゃを手にした子どものようにはしゃいでフィガロの手を握ったり離したりしていた晶が、ふと気弱に目を細めた。懐かしいものに出会ったかのように息を詰め、躊躇いがちにフィガロの手のひらに頬を寄せる。そうして手の感触を味わうように目を閉じた。
伝わってくるふっくらとしたあたたかく柔らかな感触は、フィガロにとっても久しく感じていなかったもので、けれど一度触れてしまえばこれまでの触れ合いを思い出すには十分すぎた。医者と患者という関係は毒の消滅とともに崩れ去り、それを望む眼差しが互いに注がれた時、自然と口づけを交わしていた。
あっ、と、小さく声が上がる。
「
……
なに?」
「あ、あの、ちょっと待ってください」
「君が誘ったのに?」
「う
……
すみません。ただ」
耳をほんのりと赤く染め、軽く唇を合わせただけで濡れた瞳が、それでもしっかりと強い意志を宿していた。
「俺以外の被害を出さないために、アジュールをどうにかしておきたいなって」
「どうにか?」
「はい。人間にはネリネとの見分けがつかないのなら、対処しておいた方がいいかなと。また俺のような人が出て、フィガロがいなかったらすごくつらいと思うので」
絡め合った指から晶の手がするすると滑り落ちる。このまま触れ合いを求めたところで晶の気はそぞろになってしまうだろう。医者と患者の次は賢者と賢者の魔法使いか、と思いつつ、晶のその優しさはやはり尊ぶべきものなのだろうとフィガロは思う。
「
……
それじゃあ、今から行ってさくっと解決して来よう。賢者様は場所の案内をお願いね」
「はい!」
善は急げとばかりに晶は立ち上がり、玄関口へと駆け出した。第二の被害者が出ないかとずっと気がかりだったのかもしれない。そう考えると、期待に応えてたくさん褒められようかなとやる気が出てきたため、フィガロも早々に箒を取り出して晶の後を追った。
晶がアジュールを見たというのは、先日のレイタ山脈での任務の時だ。山の中から奇妙な足音が聞こえるという報告を受けてのもので、手がかりを探して森を歩き回っていた際に出会ったのだという。
レイタ山脈に到着し、二人は任務で歩いた道を辿る。慣れない山道に日もすっかり落ちて暗いこともあり、同じ花を見つけるのに時間がかかってしまったが、無事に発見に至った。
「そうです、この花です」
「確かにアジュールだ。よく生き残っていたね」
晶が見つけたそれは赤い花弁のもので、二輪が岩陰に隠れて咲いていた。木々の生い茂るもの淋しい森の中で、その赤は場違いに思えるほど凛とした印象を見る人に与えた。
フィガロはすぐに呪文を唱え、その赤い花をあっさりと燃やした。たった二輪だったので白い炎を一度揺らめかせたかと思うと、あっという間に燃え尽きてしまった。少なからず晶を苦しめたことからくる恨みから火力が強くなってしまった感は否めない。
「二輪だけとは思えないな。どこかにたくさん生えているかもね。少し探してみようか」
そうして辺りを調べると数十メートル離れたところに、まるで赤い絨毯のようにアジュールが咲く一帯を見つけた。緩い斜面の木々の間で、息を潜めてそれは生きていた。
フィガロは周囲の植物に影響が及ばないように守護の魔法をかけ、すぐに火をつけた。先ほどは一瞬で消えてしまったが、今度は量が多いために白い炎がゆらゆらと立ちのぼる。赤い花に触れる炎は僅かな青と雪のような白さで、辺り一帯を覆いつくした。
その光景を目にして、フィガロの心に何か思い浮かぶものがあった。
「
……
不思議な色ですね」
ぽつりと晶が呟く。彼は最初の二輪を燃やしてから口数が減っていた。
「あの
……
少し思ったのですが、香りに毒のある植物を燃やしても大丈夫でしょうか。煙が危険だったりしませんか?」
晶の質問に、授業の調子でフィガロは答える。
「普通の有毒植物ならそうだね。処理に気を遣う必要がある。だけどアジュールは生まれがそれらとは違うから問題ないんだ。ネリネという器に微小の魔力が毒として入り込んでいるイメージかな。だから器の部分を燃やしたところで有毒な煙は発生しないんだよ」
「器、ですか」
晶は白い炎を眩しそう見つめながら、揺れ動くそれを、何かを求めるように目で追っていた。周囲の木々は騒めくことなくひっそりと佇み、風のない夜の中を煙が真っすぐに空へのぼっていく。星が無数に輝き、月が青白く照らしていた空は薄い煙のベールを纏い、辺りはいっそう暗闇を深め、炎だけが明るかった。
「
……
いったい誰が、何のためにこの花を作ったんでしょうか」
晶が問いを重ねる。今回南の国に来てすぐの頃にもそんな会話をした。魔法使いがこの花を作ったのだと話した時のことだ。
「さぁ
……
噂のとおり北の魔法使いが気に入った人間を連れて行くためだったのか、単に人間を苦しめたかったのか
……
後者かな?実際に君は大変だったわけだしね」
「そうですね」
じりじりと焼け落ちていく花を、晶はどこか寂しそうに見守っている。細く美しい花弁は力なく炎に身を任せ、真っすぐに伸びた茎も次第に倒れていった。
どんな目的があって、誰が作り出したのかもわからない。すべては憶測でしか語れないけれど、どちらにしても花に込められた魔力は“願い”そのものだ。誰かを思いどおりに動かしたいという気持ちも、誰かを痛めつけたいという身勝手さも、願いの一つだ。どこかの魔法使いが、その願いをこの花に託したのだ。今となっては願いのこともその人物のことも、知る術はないのだけれど。
「
……
確かに、熱くて痛くて大変でした」
晶は両手を軽く組み合わせて、密やかにそう言った。
「でも、こんなことを言うと変かもしれませんが、俺にとってはそれが一番つらかったわけじゃなくて
……
」
「え?そうなの?」
「そうなんです。実は」
苦笑する晶の横顔を白い光が撫でている。明るく照らされた頬が、ほんのりと赤みを帯びているのがわかる。晶はその顔を隠すように俯いて、続きを口にした。
「
……
本当につらかったのは、フィガロに触れなかったこと
……
あなたのぬくもりを感じられなかったことなんです」
その声音には恥ずかしさとともに、息が詰まるほどの寂しさが込められていた。押し隠してはいるけれど、じわりと滲んだそれには切実な響きがあった。とても単純な感情が吐露されただけなのに、晶の心の直に触れたような気持ちになる。
彼は静かに、誰かを思いやるときに見せる柔和な眼差しを花に向けた。
「だから、この花が生まれた理由はもっと他のところにあるような気がして
……
」
花に託された願いが、他者を言いなりにさせるためではなく、痛めつけるためでもなく、別のものだとしたら。
晶の言葉を胸の内に落とした時、反響するものがあった。それは花に火をつけた瞬間からフィガロの中でちらちらと見え隠れしていたものの正体だった。目の前に広がる光景と重なる記憶。雪の白さと青い瞳と血液の赤。ぬくもりなど知らなければよかったと呟いた、彼の声。
ここ数日、そして今朝も見た夢と、過去にあったあの出会いだった。
「
――
殺せなかった」
男は雪の上に倒れ伏したまま、弱くそう言った。
「私のことを侮った人間に怒りを覚えようとも、殺すことはできなかった」
その言葉を聞いたフィガロは不思議に思った。今はもう死にかけてはいるが、それなりの強さをもつ彼が、なぜ人間を殺すことができないなどと言うのか。
そのように問えば、男はふっと微笑んでから答えた。
「彼女が大切にしているものを、奪う気にはなれなかったんだ」
「どうして
……
」
「愛してしまっていたから」
男のその答えは、フィガロにとっては遠くから鳴り響く鐘の音のように聞こえた。
「彼女のことを愛してしまっていたからだ。本当は人間になど執着したくなかったのにな」
彼は色の薄くなった唇で自嘲を繰り返す。
「わかっていたはずだったのに。人間はすぐに死んでしまう生き物だ。寿命は魔法使いには遥かに及ばず、私が少し癇癪を起しただけで消え失せてしまえるほどに弱い。私を恐れ、そして置いていってしまうのが人間だ。愛したところで空しいだけだ」
そう言って、海のような色の瞳が歪められた。
「ずっと彼女のもとを離れなければと思っていた。触れないでほしいと、これ以上ぬくもりなど知りたくないと願った。知ってしまえば愛してしまう。愛してしまえば苦しいだけだ。だからそう願って、願って
……
彼女をあんな病にしてしまった
……
」
掠れた声で懸命に語る男を、フィガロはただ見つめることしかできなかった。嘲ることもできなければ、同情することもできなかった。
彼はそんなフィガロの様子にどこか安心したように、白い息を吐き出した。
「村人に追い出され、彼女のもとを離れて
……
すべての願いが叶ったはずなのに、もはや手遅れだったんだ。私は彼女のことを愛してしまっていた。いまさら気づいたところで何にもならないというのに
……
心をあの場所に残したままこの国に帰って来ても、油断して命を取られるだけだ」
穴のあいた腹部からの出血がいつの間にか止まっていた。凍りつつあった傷口が氷の結晶とは異なる輝きを持ち始めているのが見えた。男もそのことに気づいたのか、身を委ねるように深く呼吸をした。
「だが好都合だったかもしれないな。この気持ちを抱えて生きるくらいならば、石になるのも悪くない」
君は間違えないようにな、と、雪が吸いとってしまいそうなほど小さな声で男は最後にそう言った。そしてフィガロへ一瞥を投げてから、ゆっくりと目を閉じた。
彼がなぜ自分にそんなことを語って聞かせたのか。命を削りながら何を伝えたかったのか。言葉自体は耳に届いても、受け止めることはできなかった。なぜならフィガロ自身、わかっていたからだ。
「
……
なんだ、君だったのか」
「え?」
晶が不思議そうな顔をしてフィガロを見上げた。なんでもないよと返して、あの日の雪原のように広がる炎をじっと見つめた。
思えばヒントはいくつか与えられていた。晶が中毒になってから繰り返される夢も、花の名前も、妙な言い伝えも。気づく要素はあったのに思い至らなかった。
あの花は愛した人を連れ去るためでも苦しめるためでもなく、ただ触れたくない、触れてほしくない、ぬくもりを知りたくないという気持ちに応えたものだったのだ。男は娘に惹かれながらも愛することを恐れ、無意識に周囲の植物を変容させた。
不器用な男だ。不器用で哀れで、一途だった。
彼の気持ちに応えたネリネは炎に身を預け、願いとともに消えていく。フィガロも晶も何も言わずにそれを見つめ続けた。互いの思いを伝えないために黙っているような沈黙だった。夜のしんとした空気の中でぱちぱちと爆ぜる音だけが何度も鳴っていた。
徐々に炎は花を燃やし尽くして勢いを失い、地面の上で手を振るように小さく揺れ始めた。花の姿はもうどこにもなかった。
暗い地面に灯った最後の光が消えた時、フィガロはそっと晶の手を握った。
「あの
……
フィガロ?」
「ん?」
「俺たちはどうして帰宅してすぐにベッドの上にいるのでしょうか
……
?」
レイタ山脈から診療所へと戻ると、フィガロはそのまま晶を寝室へと連れて行き、ごろりと二人でベッドに横になった。フィガロが何も言わずに晶を見つめたまま数分が経過したため、困惑した晶が口を開いた次第だ。
フィガロは待ってましたとばかりに口角を上げて答える。
「だって君、さっき可愛いことを言ってたからさ。ぬくもりがってやつ」
「
……
あ、あぁ
……
」
自らが発した言葉を思い出して、晶は恥ずかしそうに枕に顔を埋めた。バタバタと両足を交互に動かして、何かに耐えている。そうしてしばらく唸ったかと思うと、ちらりとフィガロの方に顔を向け、おずおずと申し出た。
「
……
触ってもいいですか?」
「もちろん!」
「返事が早いです」
くすりと笑いながら晶は体を寄せて手を伸ばし、フィガロの顔をぺたぺたと触れた。頬から耳、瞼に鼻と、順に手のひらを当てる。なんだか検査みたいな触り方だなぁと思っていると、ふいに晶は背伸びをしてフィガロの唇に口づけをした。
「
……
油断してましたね」
「うん
……
ほんとにね」
いつもならば晶から口づけをした時には、彼は羞恥心からか「撤収です!」の号令でもかかったかのように手も顔も引いてしまうのだが、今日は吐息が触れる距離で会話を続ける晶に、フィガロはこっそりと微笑みを浮かべる。今度はこちらから迎えに行くと、晶の瞳には隠しようがないほどの喜びの色が広がった。
「我慢してたの?賢者様」
「
……
はい」
「俺も。我慢してた」
晶の瞳がもっと見たくて、彼の前髪を指先でかき分けた。いつも聡明な顔つきで任務にあたっている彼が、フィガロにだけ見せる表情がある。欲に溺れないように理性的であろうと努める姿がいじらしく、フィガロを余計に煽っていることを彼は知らない。
晶の望むように頬を撫でたり耳に触れたりするにつれ、フィガロの名前を呼ぶ声が甘く溶けた。そばにいるのに触れられなかったこれまでの時間を取り戻すように唇を重ね、互いの体温を確かめ合うように時間をかけて触れていく。もう一度最初から教え合い、知っていくように。
晶の肌は柔らかく、あたたかい。たったそれだけの事実が、今夜は胸にじわりとしみていった。このぬくもりを忘れずにいたいと、強く思う。いつか忘れてしまう時が必ずくるのだとしても。
晶と恋仲になることは、容易な選択ではなかった。
異界からやって来た賢者である晶。魔法使いでもなければこの世界の住人ですらない彼は、近い未来に必ずフィガロの前から記憶とともにいなくなる。そんな存在をかけがえのないものにしてしまうことは恐怖だった。
現に今だって心のどこかで怯えている。目を閉じて、次に開いたときに晶の姿が消えていたらどうしよう。今日でなくても明日、明日でなくても明後日。唐突に訪れる別れを、フィガロは否応なしに受け入れざるを得ない。その苦しみを知っているからこそ、これまで自ら別れを告げてきた。傷つく前に離れてしまえば、傷つかないことと同じだと思っていたから。
そのため、あの花を生み出した男の気持ちが少なからず理解できる。人の短い命の輝きに触れることを恐れ、自分自身を誤魔化そうとする行為を。置いていかれないために、置いていこうとする心を。
フィガロも同じように恐れ、けれど晶の手を取ることを選んだ。あの男の言うとおり、先に待つのは空しさだけかもしれない。深い悲しみに苛まれるかもしれない。いつか来る未来に怯え、心が潰れてしまうかもしれない。
それでも。
「
……
賢者様」
何度目かの口づけの後、フィガロは晶の瞳を真っすぐに見つめた。唇に残る体温が消えてしまう前に、誰にも聞こえないように、晶にだけ届くように小さく囁きかける。
「君が好きだよ」
自分を誤魔化せないくらいはっきりと言葉にする。君が好きだ。大好きだ、と。
たとえいつかこの言葉を口にできなくなる日が来るとわかっていても、出会わなければよかったとは思わない。もし時間を戻すことができて、晶の恋人になる前に戻れたとしても、もう一度恋人になろう。今ここにあるぬくもりを知らずに石になる方が、ずっと怖いことだと思うから。
そう思わせたのは晶だ。彼のそばにいるうちに、誰よりも近い距離で見ていたいと思った。触れると特別な反応をしてほしいと欲が出た。わがままを言ってもらえる存在になりたいと願った。そんな素朴な思いがつき動かす感情があるのだと知った。
目の前の幸福をつかむ勇気をもらった。
「君が好きなんだ。どうしようもなくね」
晶の黒い瞳が驚きに染まり、星を散りばめたようにきらきらと輝く。素直な喜びが彼の頬を赤く染め、ふわりと顔をほころばせた。
今このタイミングで晶があの花に出会ったことに、何かしら運命めいたものを感じる。「君は間違えるな」というあの男の忠告を、再び与えられたように思えた。
間違いかもね、とフィガロは胸中で返す。晶の恋人になったことは、間違いかもしれない。
それでも良いのだと思う。なぜならそうして間違えた彼が、愛を語りながら石になった姿は、それはそれで美しかったのだから。
「
……
そういえば、賢者様」
アジュールのことを思い起こしたフィガロは、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「あの花は香りを嗅いでもらうために、近づいてきた人が最も好む匂いに変化するんだ。賢者様はどんな匂いだったの?」
そう言った途端に晶の目が落ち着きなく泳ぎ始めた。フィガロから目を背けてまばたきを繰り返し、あからさまに慌てている。ちょっとしたお喋りのつもりだったが、俄然興味の湧いたフィガロは体をもぞもぞと動かして、やんわりと詰め寄る。
「なになに?」
「えっと
……
」
晶にしては歯切れが悪い。できれば話したくないという雰囲気を感じるが、とりあえずフィガロは押してダメなら引いてみる作戦を仕掛けることにした。
「ああ、ごめんね。マニアックな匂いが好きってことかな。言いたくなかったら言わなくていいよ」
「え!?そうではないんですけど、恥ずかしくて
……
」
「恥ずかしい匂いなの?」
「違います!」
晶は微かに答えを言いかけてから、じわじわと口を閉ざした。赤くなった顔に両手を押し当てて隠してしまう。余程のことだな、とフィガロは固唾をのんで見守った。頭の中は冷静に、何の匂いだろうかと思いを巡らせる。晶が好むご飯は何だっただろうかと。
しばらく晶は眉根を寄せて心の内で格闘するような呻き声を上げていたが、とうとう観念したようにぽつりと呟いた。
「
……
あなたの匂いです」
「え?」
「フィガロの匂いがしたんです
……
こう、抱きしめてもらっている時の匂いがしたんです」
予想外の答えにフィガロは面食らい、言葉を失った。しかしすぐに込み上げてくるものがあった。
「
……
ふ、あはは!」
年甲斐もなく子どものように笑ってしまった。ただただ幸福から溢れ出したすっきりとした笑い声だった。晶は両手を顔から外せないまま、耳まで真っ赤にしている。そんな姿も可愛くて、上がった口角がなかなか下がらない。
「フィガロ~」
「ごめんごめん」
まだまだ笑いの余韻を残したまま晶の手に触れて、しっかりと閉じられてしまった扉を丁寧に開いていく。指先でくすぐるように手の甲を撫で、少しずつ緩んだ隙間から指を差し込んでそのまま握れば、拗ねたようにまつ毛を濡らした瞳がこちらを見上げた。
「
……
もう。わかって言ってましたよね?」
「いいや、わからなかったよ。びっくりしちゃった」
「そうなんですか?」
意外そうな晶は僅かに目を見開いて驚きを表した。それから何かを思案するように唇を閉じて、不意に繋いだままになっている手を抱きしめるように引き寄せた。白いシーツの上で彼はいたずらっぽく目を細めて微笑む。
「俺があなたのことを大好きなのは知っていました?」
「ええ?そうなの!?」
フィガロが大袈裟に驚いてみせると、晶はたまらずにくすくすと笑った。頬のふっくらとした曲線が瞳に優しく映る。その瞬間、嘘でも冗談でもなく、世界中の光が彼のために存在しているのではないかとさえ思えた。暗い森の中でも、海の底でも、晶のもとに光が集まっていき、フィガロが見つけることができるようになっている。そんなことを考えてしまうほどに、幸せだった。
「俺もあなたのことが大好きだってこと、知っていてほしいです」
光の中で晶が微笑む。それから息を潜め、夜のしんとした空気を微かに揺らすように呟いた。
「忘れてしまうまででいいので
……
知っていてください」
知っているともと心の中で囁き、フィガロはそっと額を触れ合わせる。そこから伝わるぬくもりが今は確かにこの世界にあって、触れることができる場所にいられることに、喜びと少しの寂しさを感じながら、願う。
――
この幸せが少しでも長く続きますように。
愛するほどに切なくて、愛した分だけ傷つくことになるこの恋を、少しでも長く、大切に抱えて生きていけますように。
「好きだよ、晶」
もう一度、ただ一人に届くように静かにそう呟いた。
抱きしめた晶のぬくもりを胸に感じながら、もしあの魔法使いのように自らの願いが花になるとしたら、どんな姿形になるのだろうかと考えてみる。晶との出会いが種となり、交わした言葉や触れ合った記憶が水となって、その花は育つ。フィガロが願う度に蕾がほころび、薄く繊細な花弁を広げるのだ。
その花はきっと、世界に見つからないように月の光の影に隠れて、密やかに、それでも幸福そうに咲くのだろう。
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