雑種栗丸
2023-05-13 22:46:32
13523文字
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ハグの話(フィガ晶♂)

フィガ晶♂Webオンリーのワンドロ企画のお題「ハグ」で書かせていただいた作品です。ふざけた内容ですので、なんでも許せる方のみでお願いします。



 穏やかな朝だった。
 魔法使いたちの争う物音で飛び起きることもなく、小鳥のさえずりに呼びかけられるようにして晶は目を覚ました。体調は普段より良いくらいで、二度寝の誘惑に負けることもなかった。カーテンを引くと鼻歌を歌いたくなるような気持ちの良い晴天が広がっていて、思わず窓を開いて一日の始まりの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。なんて素晴らしい朝なんだろう。良い一日になりそうだ。
 晶はてきぱきと着替えをすまし、ネロとカナリアが作ってくれたほかほかの朝食を思い描きながら食堂へと向かった。すると食事を終えたらしいスノウとホワイトと扉の前で出くわした。ぱっちりとした瞳が朝露のようにきらりと光る。小さな彼らは晶を見上げ、いつもと変わらない愛嬌のある笑顔を浮かべた。
「おはよう!賢者ちゃん!」
「おはようございます。スノウ、ホワイト」
「おや?おぬし、ハグされると死ぬ呪いがかけられておるの」
「そうですか。美味しそうですね」
 ――え?死?となったのは、晶がはきはきと返事をしてから5秒後のことだった。衝撃的な発言をホワイトがあまりにも普通に告げたものだから、てっきり今日の朝食のメニューを教えてもらったのだとばかり思っていた。
……賢者ちゃん、我らのお喋りをいつも話半分に聞いておるのか?」
「軽く聞き流している説が浮上しておるの」
「いえ、ちが……あの、ちょっと、理解が追いつかなくて……
 今なんて言いました?と晶が問えば、ホワイトが親切に先ほどと一言一句違わず答えてくれた。
「おぬし、ハグされると死ぬ呪いがかけられておるの!」
「魔法の気配からして、昨日東の国で会った青年のものじゃろうな。ほれ、我らの悪口を言っておったから、賢者ちゃんが怒ったやつ」
 そう言われてすぐにその人物には思い至った。任務のために向かった東の国で出会った青年。どこかの貴族のような、身なりは立派な青年だったけれど、眉をひそめてしまうほどの言葉で賢者の魔法使いを悪く言っていたので、たまらず「やめてください」と晶が声をかけたのだった。
「あやつも魔法使いのようじゃとは思っておったが、やはりそうであったか」
「賢者ちゃんに怒られてプライドが傷つけられたのかの~?逆ギレで呪いをかけるとは、まったく器の小さい男じゃ」
「それにしても妙な呪いをかけたものだ」
 スノウとホワイトは胸の前で腕を組むと、柔らかな頬をぷっくりと膨らませた。怒っているらしいのに愛らしさが勝っているせいか、緊張感に欠けている。晶もいまいちぴんときていないまま、首を傾げた。
「呪いを解くことはできますか?」
「無理じゃの」
「無理そうじゃ」
 せめてもう少し悩んでほしい。
……ファウストに相談してもダメそうですか?」
「ダメそうじゃな。おぬしが思っている以上に強い呪いじゃ」
「下手に扱えば、周囲の者にも呪いがうつってしまう仕掛けつきじゃ」
「それは……ダメですね」
 そう呟いた晶の脳内には、数学の問題で問題文が言っている意味すらわからなかった時の、“これはどうしようもないな”というお手軽な絶望感が思い出されていた。最年長の二人がこう言っているのだ。おそらく本当に、どうしようもない。
「とは言え、ハグなら避けようがあるというものだ」
「誰ともハグをしないように、よくよく気をつけるのじゃぞ」
「我らも賢者ちゃんに抱き着きたくなる前に、退散するかの」
 ひらりと目の前で二人の上着が蝶のように翻った。晶に手を振りながら、スノウとホワイトは新しい花へ飛んでいくように去って行ってしまった。残された晶はというと、可愛らしい蝶に食欲という蜜を吸いとられてしまったかのように呆然と立ち尽くしていた。
 呪いの話を聞いて、すぐに朝食を美味しく口にできるほど図太くもなければ、大騒ぎするほどの実感もなかった。唐突に告げられた事実をどう受け止めるべきなのか、見当がつかない。
 とりあえず外の空気でも吸って、頭の中を整理しよう。そう考え、晶は食堂の扉の前から踵を返し、中庭へと足を向けた。


 中庭の噴水は今日もきれいだった。
 思えば噴水など、元の世界では目にする機会があまりなかった。家の近所の公園はブランコと滑り台だけが設置されたシンプルなもので、少し足を伸ばしたところにあった公園も、鉄棒がそのラインナップに加わるだけで、噴水なんてビッグスターはなかなかいなかった。だからだろうか。中庭の噴水を見る度に、晶は密かに心を躍らせていた。晴れた日には水滴一つ一つが星粒のように輝いていて、空を写した水面には無数の波紋が音楽を奏でるように広がる。のんびりとした午後など、縁に腰かけているといつまでも見ていることができそうだった。そういえば数日前にルチルと一緒に――
「賢者様?」
「は、はい!」
 噴水の袂に立っていたところ、背後から囁きかけるようにゆったりと呼ばれ、晶は噴水をネタに現実逃避をしていたことに気づいた。慌てて振り返ると、朝からずいぶんと楽しそうに笑うオーエンの姿が目に入り、再び現実逃避をしたくなる心をなんとかぐっとこらえた。
「おはようございます、オーエン」
「おはよう」
 上機嫌に返される挨拶に、喜びと嫌な予感が晶の胸を同時にノックする。オーエンは色の異なる左右の瞳をすっと細めて、画家が競って絵にしたいと願いそうなほど、とても美しく微笑んだ。
「ねぇ賢者様。僕聞いちゃったんだよね。君の呪いの話」
 退避退避!と嫌な予感が晶の心の扉をバーンと開いた。わかってる!わかってるけど、逃げるのもまずい気がする!と、晶は嫌な予感を必死になだめてその場に踏みとどまった。もしかすると別の話かもしれないという一縷の望みにかけて、おそるおそる確認する。
「の、呪いの話というのは、スノウとホワイトが話していた、あのことでしょうか」
「正解」
 クイズで当たると嬉しいはずなのに、全く嬉しくなかった。オーエンの声音は明るく、上がった口角に沿ってスキップをするように語尾が跳ねている。オーエンはそのまま歌でも歌うように続けた。
「これから死ぬまで誰にも抱きしめてもらえないなんて、可哀そうな賢者様。君の呪いを恐れて、誰もが君との接触を避けるだろうね。当然だよね、自分のせいで大切な賢者様を死なせてしまったら大変だもの。そうしているうちに君の存在は煩わしいものになっていくだろうね。誰も神経をすり減らしてまで一緒にいたいとは思わないから、君はどんどん独りになっていく。淋しい人生だ。君にぴったりの人生だよ」
 つらつらと淀みなく続けられる言葉はまるで噴水のようだ。次から次に溢れてくる。とは言えいつものことなので、晶も今度こそ話半分に受け止める。こうして悲観的な未来を語られるだけなら大丈夫だ。“死ぬとわかっていて急に抱きしめてくる”が最も悲しい展開と言える。その気配がないのなら、有難いと言ってもいいくらいなのだ。
 晶はオーエンの語りを聞きながら思った。そうだ、スノウとホワイトが言っていたように、誰にも抱きしめられないように、抱き合わないようにすればいいだけのことなのだ。もともとハグの習慣があまりない日本人である自分には難しい話ではない。避けるくらい簡単な話だ。恐れるほどの呪いではない。
 そう考えると、思いのほか気持ちが軽くなり、枯れていた食欲もじわじわと戻ってきた。これならば朝食も美味しく食べられそうだと、晶が食堂に戻ることを検討し始めたところで、オーエンが一旦話に区切りをつけた。
……ところで、賢者様はご飯を食べていなかったよね」
 朝食のことを考えていた晶は、思いがけずオーエンと思考が一致したことに驚いた。そして喜びさえ感じた。同じことを考えているという事実が、相手がオーエンだからこそ嬉しい。そうなんです!と喜びのままに答えようとした晶の頷きは、しかしオーエンの呪文に遮られた。
――これ、良かったら食べなよ」
 オーエンが呪文を唱えた直後、その白い手にはどこからともなく現れたマフィンが握られていた。それもとても見覚えのあるマフィンだった。一時期魔法舎で流行し、ひと騒動を巻き起こしたスイーツ。冴えわたる空のような青がふっくらとした風船のように膨らんだ、そう、それは。
「ぶるぶるローズのマフィン……!」
 晶は息をのみ、やっとの思いでその名を口にした。
 ぶるぶるローズとは、食べると震えが止まらなくなり、誰かに抱きしめてもらえば震えが止まるという不思議な食材。このマフィンを誤って口にした賢者の魔法使いたちが、なす術なくぶるぶると震えていた光景が脳裏に思い出される。記憶の中でそんな彼らが震えながら持っていたマフィンが、今目の前にあるものと同じだった。
「た、食べられません」
 現在、そしてこれから先も、晶が食べてはいけない食材ナンバーワンであるところのぶるぶるローズ。食べたが最後、抱きしめてもらうまで震えは止まらず、止めようと抱きしめられれば死を迎えるのだ。せっかくオーエンが差し出してくれた食べ物ではあったが、断る他に道はない。
 けれど晶の返事を聞いたオーエンの顔からはすっと表情が消えた。笑みはすっかり抜け落ちてしまい、上機嫌だった瞳は無を抱えている。まるで秋の天候のように、つい先ほどまで快晴だったのに、一瞬で雷雨へと様変わりしたようだった。
 オーエンは鋭さの増した眼差しで晶をじっとりと見つめる。
「どうして?これはただのマフィンなのに」
「え!?」
「ぶるぶるローズなんて使っていない、普通のマフィンだよ。それなのに、お前は僕のことを疑うんだね」
「いえ、そういうわけでは」
「仲間だなんて口では言えても、本心は隠せていない。所詮お前にとって僕はその程度なんだ」
「違いますオーエン!」
「だったらどうして食べられないなんて言うの?」
 そんな言い方をされると答えに困ってしまう。晶は上手い言葉が見つからないままに、頼りなく口元をもにょもにょとさせながら押し黙った。確かにオーエンの言うとおりだった。姿形が似ているからというだけで、例のマフィンだと決めつけてしまった。
「僕がそんなひどいことをすると思う?賢者様は賢者の魔法使いのことを信じてくれないんだ?」
 そう言って、オーエンはマフィンを持っている方の手をゆるゆると力なく下げた。伏せた瞳にはまつ毛が濃い影を作っている。その暗さが、晶の胸にも冷たい影を落とす。
 オーエンの指先からずるりとマフィンが滑り落ちそうになった時、晶は思わず手を伸ばしていた。
……すみません。俺はまたあなたを疑ってしまいました。ごめんなさい」
 そう言って、オーエンから取り上げたマフィンを両手に乗せて、そっと息を吐いた。近くで見ても、やはり例のマフィンにそっくりだ。けれど、さすがのオーエンも晶を死に追いやろうとしているとは思えない。例のマフィンではないだろうかと思う気持ちは正直まだ残っているけれど、命を奪う気はないと、そう信じる心があるのも本当だ。
 きっとあえて似たマフィンを用意してからかっているのだ。晶はそう確信して、唇を開いた。
……ありがとうございます。いただきます」
 意を決してマフィンにかぶりつく。しっとりと舌触り良く、オーエンの好きそうな甘さだけれど、続けて鼻を抜ける花の香りが甘みを優しく整えてくれる。ラスティカがセッティングしてくれたお茶会にぴったりな上品な味で、二口目も軽く、甘いものが苦手な人でもパクパクと食べられそうだ。
 マフィンを口にした途端、空腹を思い出したように体が疼いた。体は単純なもので、美味しいものを食べると喜ぶのだと、最後の一口を頬張りながら晶は思った。だってほら、体が歓喜に揺れている。
「おおおおいいししいいでですうう。おおえええん」
 ハッとした時には遅かった。
 オーエンはとても嬉しそうに笑っていた。



 震えていても、空は大きくて広いから美しく見えるらしい。
 ぶるぶると震える体を中庭の芝生の上に横たえて、晶は何をするわけでもなく空を見上げていた。がくがくと揺れる視界は、手ぶれのひどい動画のようだ。けれど空は広いから、澄んだ青さが視界いっぱいに広がっていて、多少揺れていても美しさは損なわれていない。
 バイブレーションで震えるスマホってこんな気分なのかな。晶はそう考えてふっと微笑む。ポケットや鞄の中で一人で震えるよりは、今の自分の方が比較的ましな環境なのかもしれない。こんなに自然豊かな場所で震えられるのだから。
 ――いや、良くはない。
 ぶるぶるローズのマフィンかな?と思って食べたら、やはりそれだった。オーエンはしばらくにやにやと震える晶を眺めてから、満足したように姿を消してしまった。すぐに双子先生のところに助けを求めようかとも思ったが、あまりにも情けなかったので、しばらく一人になりたくて、少し離れた芝生に倒れ込んだ。
 こんなに震えたことがないから妙な感じだ。晶は空を見つめながら己の状態を確認する。風邪をひいた時に悪寒によってぶるぶると震えたことはあったけれど、なにか別の力によって強制的に震えさせられるこの感覚は味わったことがない。
 上空を流れる雲も終始揺れているので、その速度もよくわからなくなっている。ほほに触れる風がそれほど強くないから、ゆったりしているのかもしれない。ただ震えているというだけなのに、世界の見え方や感じ方が変わってしまう。
 さて、これからどうしたものか。
 震えを止めるには誰かに抱きしめてもらうしかない。魔法で止められないだろうかと考えたが、マフィンが流行した時にあの北の魔法使いでさえ抱きしめてもらっていたので、どうにもならない可能性が高い。しかしハグされると死ぬ呪いがかけられている以上、抱きしめてもらえば晶の震えは止まるが、同時に死ぬことにもなる。究極の選択だ。
 では、震えたまま生きていく場合。晶はそんな自分を思い描いてみる。食堂で震えながらみんなと食事をする自分。食器がカタカタ鳴ってうるさそうだ。クックロビンと震えながら依頼について話をする自分。ふざけているみたいな絵面だ。魔法使いの箒に震えながら乗せてもらう自分。落っこちること間違いなし。震えながらベッドで眠る自分。不眠症になりそう。
 想像すればするほど、不便だし恥ずかしいし情けないししんどそうな人生だと晶は思った。現状、すでに15分ほど震え続けているが、この短い時間でもストレスが積み上がっていくのを感じる。これが富士山やエベレスト級に積み上がってしまっても、果たして正気でいられるだろうか。
……無理かも」
 この状態がずっと続くのかと思うとゾッとする。それならば、震えを止めることができるのならばと、徐々に思考が片方の道に偏り始めていた。楽になれる道があるのなら、その方がいいかもしれない。震えるにつれて頭の中も散らかった部屋のようにごちゃごちゃと乱れるばかりで、考えをまとめることを諦めつつあった。
 この震えを止めるために、誰かに抱きしめてもらうとしたら……
 正常な体に戻ることを望む心が、その先にある暗闇を空ろな瞳で見つめながら、楽な方へと流されていく。晶は目を閉じて、“誰か”の姿を追い求めてみる。真っ先に誰かの顔を浮かんだ気がした。けれど、散る桜の花びらのように思考は浮かんではばらばらと零れ落ちていくため、すぐに誰だったのかわからなくなる。“誰か”をもう一度確かめよう、晶は瞼を強く閉じ合わせ、その姿を追った。
 ……ウッ、待って、酔いそう。
 暗闇の中でも絶えず襲ってくる揺れに気持ちが悪くなり、晶はぱっと瞼を開いた。すると目の前に人の姿があった。寝転ぶ晶を上から覗き込んでいる。瞳がその顔を捉えた瞬間、「この人だ」と、晶は思った。
「賢者様?何をしているの?」
……っあ、え、フィ、ガロ」
 おはようと彼が言う。晶はきちんと発声できる自信がなかったけれど、おはようございますとかすれた声で返すと、伝わったのかどうかわからない曖昧な表情でフィガロは笑った。
「震えてるね」
「はい」
 フィガロの穏やかな声に引っ張られるようにして、周囲の音が晶のもとに戻ってくる。噴水から舞い降りて水面を跳ねる雫の音も、言葉を交わしているような木々の葉擦れの音も。極力震えを感じないように体の内側へとどんどん閉じかけていた感覚が、目の前の人物を認識するために再び目覚めたようだった。
 フィガロの姿は晶の視界の中では例に漏れずブレている。青い髪は陽の光に透けて空の色に溶け、白衣の白さも雲のように輪郭がぼやけている。そんな光景は奇妙だけれど、きれいだなと晶はぼんやりと思った。
「どうしてこんなところで震えているの?賢者様」
「えっ、と、実は」
 かくかくしかじかと、晶は今朝からの出来事を順番にフィガロに語った。できるだけ聞き取りやすいようにと言葉を区切りながらゆっくり話したために時間がかかってしまったけれど、フィガロは晶の隣に腰をおろし、話を途中で遮ることもなくじっくりと聞いてくれた。オーエンの名前が出たあたりで察したように眉を下げたけれど、
「なるほどね」
 晶がこの芝生に寝転んだところまで話し終わると、フィガロが両手を地面について、空を仰ぎ見た。うーんと深呼吸ともため息ともとれる長い息が鼻から漏れ聞こえる。
……どうしようかな……治療法は……抱きしめることしか、知らないからな……
 フィガロも考えあぐねているようで、彼には珍しく自信のない様子でぽつりぽつりと呟いている。やはりそうなのかと、晶の体から芝生に溶けだしていくように力が抜けていった。
 互いに悩んでいるのだとわかる沈黙が続いた。解決策は浮かびそうになかったけれど、晶は一人で寝転んでいる時よりもいくらか楽な気持ちになっていた。こんなにおかしな状況になっているのに、フィガロが当たり前みたいにこの場に残ってくれたことが嬉しい。少し穏やかな顔つきになったことに気づいたのか、フィガロが労うように晶の額に手を当てて、「これは見事な震え」なんて評したものだから、晶は思わず笑ってしまった。
 脱力していても震える体とは対照的に、晶の心はしんと静まり始めた。夜に漂う静穏のように、心が動きを止めて、眠りを待っている。一人でいた時からこの選択は決まっていたけれど、今なら落ち着いて話せそうだった。
 フィガロの手が額から離れたところで、晶は薄く口を開いた。
……あの、賢者の、書が、俺の部屋に、あるので」
「ん?うん」
「次の、賢者様に、渡して、ください」
……え?」
 晶は横たえていた上半身を起こし、フィガロの前に正座した。きちんと膝を揃えて姿勢を正し、真っすぐにフィガロと向き合う。対してフィガロは初めて正座を見る人のように、まばたきを繰り返しながらまじまじと晶を上から下まで眺めていた。
 晶はできるだけ震えを抑えようと両脇をしっかりとしめて、頭を下げた。
「フィガロ、俺を、抱きしめて、ください」
……えぇ~」
「あなたには、責任を、押しつけてしまう、ので、申し訳ないの、ですが、俺は、あなただと、嬉しい、です」
……そういうのはもうちょっとロマンチックな雰囲気で聞きたかったなぁ」
 お願いしますとほぼ土下座と言えるくらいに深く頭を下げると、フィガロからは息をのむ音が微かに聞こえただけで、返事はなかった。嫌な役目を負わせてしまうことは、晶も重々承知している。「抱きしめて」と言葉は優しいものだけど、今代の賢者の殺害を依頼しているのと同義なのだから。
 しばらく続いた沈黙を破ったのは、フィガロだった。
……死んじゃうの?賢者様」
「はい」
「それでいいの?」
 はい、と答えられるほどの決意はなかったけれど、仕方ないですと返すのも違うなと晶は思った。フィガロは見透かしたように続ける。
「あまり実感がなくて、混乱したままで、死ってものがよくわからなくなってるんじゃない?」
「それは……そうかも、です」
 フィガロの言うとおりだと晶は思った。朝から怒涛の展開続きで、死ぬかもしれないという実感がわく前に震えによって思考する力を奪われているところはある。ただ、これから先もこの状態で生きていける自信もなかった。
……それに、後悔、していないので」
「後悔?」
「俺が、したことに」
 眉をひそめるフィガロに、晶は弱く微笑んで返した。後悔していない。昨日賢者の魔法使いのことを悪く言った人にやめてほしいと言ったことも、オーエンを信じてマフィンを食べたことも。結果はどうであれ、どちらの行いにも後悔はなかった。自分が能天気に死を選んでしまうのは、実感がないこともあるけれど、きっとその譲れない部分に満足しているからだ。
 そう告げると、フィガロは瞳だけ晶に向けたまま、口を閉ざした。片膝を立てて肘をつき、唇に手を当てる。口元を隠すと眼差しだけでは感情が読み取れない。そのせいかぴりりとした緊張感が無数の細い針金のようになって、晶の周囲を囲っているような心地になった。少し身じろぎすると触れてしまい、肌を傷つけそうな重い静けさが続く。
 断られるかもしれないと晶は思った。そして同時に、断られるのは嫌だとも思った。今になって、自らが他の誰でもなくフィガロに抱きしめてほしいのだと強く願っていることに気づいた。その理由は靄のようにまとまらない頭ではわからなかったけれど、初めてちゃんと話した時には手をとることさえ迷ったのに、と、不思議だった。この変化にもおそらく名前がある。けれど、今その名前を知ってしまうと余計に悲しくなる気がして、晶は考えるのをやめた。
 フィガロが再び口を開いたのは、晶の正座が苦しくなってきた頃だった。彼は指の隙間から笑みをたたえる口元を覗かせて、こう言った。
「いいよ。君を抱きしめてあげる」
 その答えに晶はほっと胸をなでおろした。そんなに安心することじゃないでしょとフィガロが笑う。
「それじゃ、みんなのところに別れの挨拶に行く?」
「いえ。こんなこと、知らないまま、俺を、忘れてくれた方が、いいですから」
……君らしいね」
 ほんの一瞬、フィガロの瞳が晶から逃げるように伏せられた気がした。その仕草が目に焼きついて、晶は咄嗟に何かを言おうとしたけれど、飛び立った鳥が後ろを振り返らずに彼方へ消えてしまうように、次の瞬間には普段と変わらないフィガロがそこにいた。
 彼は言う。
「安心して、賢者様。俺は仕事柄、こういうことには慣れている方だよ。それこそ死を目前にした人間を抱きしめたことは何度もある。本人が希望したからとか、痛みを和らげたいからとか、死の瞬間が怖いからとか、理由はいくつもあった。まあ、今回みたいなケースは初めてだけど」
 フィガロは腰を上げて晶の正面に向き直ると、白衣をぱたぱたと手で整えながら、穏やかに言葉を続ける。
……そういえば大昔からそうだったかも。死んだ人も、死にそうな人も、生きている人も、抱擁を求められれば応えてきた」
 ――俺が抱きしめたところで、何にもならなかったけど。
 ぽつりと落とされた呟きは響きをもたないまま力なく空気に溶けて、それを振り払うようにフィガロは晶の前で腕を広げた。
「さぁ賢者様、おいで。今回は確実に君の震えを止めたという成果は得られるね。息の根も止めちゃうわけだけど、心の準備ができたらいつでもおいで」
……はい」
 大きく開かれたフィガロの胸に、晶は手を伸ばす。指先で触れると布越しに胸板の厚さを感じ、指を滑らせて手のひらを当てると僅かに鼓動が伝わってきた。
 何か別れの挨拶を、と思ったけれど、「ありがとう」と「ごめんなさい」が、どちらがこの場面に相応しいのかと喉元で争ってしまい、結局「さようなら」さえ出てこなかった。別れも言えないままにフィガロの胸へと身を預け、広げられていた腕に扉を閉じるようにして包みこまれた。
 抱きしめられた直後、元の世界にいる家族のこと、友人のこと、そしてこの世界の人々と魔法使いのことが自然と思い出されて、初めて事の重大さに気づいたように心臓がはねた。けれどもう手遅れであって、晶はフィガロの腕の中で、すでに世界から切り離された存在になっていた。
 ようやく実感すると、実態を得た死への恐怖が大きな手のひらとなり、目の前に突きつけられたように感じられて、恐ろしさに晶は目をきつく閉じた。今や体の震えはぶるぶるローズによるものなのか、恐怖から来るものなのか判然としなかった。瞼の裏はすとん夜が落ちたように暗く、ぱちぱちと小さな光が瞬くのは、最後に網膜に残った景色なのだろう。いずれそれも消え失せて、震えさえも感じ取れなくなる。そして真っ暗闇の中に命とともに消えてゆく。
 怖い。怖い。
 明確な恐怖が襲ってきたのに、そう口にするのも恐ろしかった。ただただ何もかもを失っていく恐怖に耐えるしかないことが、とても孤独で、悲しいことなのだと知った。あれほど止まってほしいと願っていた震えが消えてゆく感覚さえ怖くて仕方なくなり、体の中心から先端へと消える震えを、感覚を研ぎ澄まして、行かないでと追いかける。
 そうして追った先で、自分を包みこむ確かな存在があることに気がついた。消えることを恐れた感覚が、その存在を必死に掴むように感じ取る。皮膚に触れる圧迫感と温度。そしてそれは、応えるようにさらに強く晶の体を包んでくれた。まだこの世界にあるのだということを教えてくれる、優しい力で。
 ――そうだ、自分はフィガロに抱きしめてもらっているんだ。フィガロが最後まで、一緒にいてくれるんだ。
 大きな手のひらが頭を撫でてくれる。大丈夫だよと、あたたかな声が繰り返してくれる。フィガロの部屋で嗅いだハーブのような緑の香りが漂っている。消える運命にある感覚たちが、最後に味わうものがこれらなのだとしたら。
 晶は薄く瞼を開き、自分をしっかりと抱きしめてくれている白い腕を見つめた。恐怖は少しずつ、少しずつ、肌に触れた雪のように、ぬくもりによって形を変えていく。感じ取るフィガロの存在が、恐怖をじっくりと溶かしていった。
 言えなかった別れの挨拶も、今なら相応しい言葉が見つかる。この瞬間、絶対に伝えたいと願うこと。
……フィガロ」
 なに?とすぐに柔らかな声が返って来る。晶はふっと微笑みを浮かべた。
「“何にもならなかった”なんてこと、ないです。あなたに抱きしめてもらった人は、安心して、幸せな気持ちになったんだと思います。それだけで、きっと十分なんです。今の俺が、そうだから」
 そう言った途端、頭を撫でていた手がぴたりと止まった。繰り返されていた励ましの言葉も、すっと音を失った。抱きしめている腕の力が緩むことはなかったけれど、寄せては返していた波が去ったきり戻ってこなかったように、当たり前のように繰り返されていた行為が予期せず止まってしまった。
 まずいことを言ってしまっただろうかと、晶の胸中がざわめき始める。彼の全てを知っているわけでもないのに、出過ぎたことを言ってしまっただろうかと。しかし、晶が再び名前を呼ぼうと口を開いた時、額に触れるものがあった。それはひどく柔らかなもので、直後、小さな風が前髪をそっと揺らした。
……ねぇ賢者様。俺より先に、いなくならないで」
 それは内緒話よりももっと密やかな囁きだった。晶に聞かれることを本当は望んでいないのではないかと思えるほど、ささやかなものだった。
 晶にはその意味がすぐには理解できず、確かめようと顔を上げてフィガロの表情を窺う。彼は晶の視線を受け止めて、寂しそうにほんの少し目を細めた。
……フィガロ?」
「生きてるね、賢者様」
 そうして今度ははきはきと紡がれた言葉も、晶はすぐには理解できなかった。生きてる?と遅れてやってきた疑問は、はっきり顔に出ていたらしく、それを見たフィガロは一度堪えようと我慢したけれど耐えられなかったように笑い出した。
「ハグされたら死ぬ呪いなんて、始めからかけられていないよ」
…………え!?」
 今日一番の大きな声が出た。
 取り繕う余裕もなく、晶は驚きを残したまま口をぽかんと開けた状態で固まってしまった。頭の中でフィガロが告げた衝撃の事実が魚のようにぐるぐると回遊しているけれど、根底からひっくり返るその発言を受け止めるには、ずいぶんと時間を要した。そんな彼を腕から解放しながら、フィガロはにこにこと語って聞かせる。
「スノウ様とホワイト様も罪な人だ。おそらく昨日の出来事を受けて、君を少し脅かそうと思ったんだろうね。相手がどんな人物かもわからないのに、口答えするのは危険だよって、呪いをかけられかねないよって教えたかったのさ」
「えぇ……
「実際に起こり得ることだし、俺も君はその辺を気をつけた方がいいと思うよ。本当に怒らせたのであれば、ハグなんて条件をつけずに死ぬ呪いでもなんでもかけるだろうからね……スノウ様もホワイト様もこんな風に口で言えばいいものを……お二人らしいと言えばそうだけど」
「え、えっと、それじゃあオーエンは……
「いたずらだね。呪いの話を聞いてたんじゃないかな。でも君に呪いがかけられていないなんてことは、力のある魔法使いであれば一目瞭然だからね。単に君をからかいたかっただけさ」
「そ……そうですか」
 安堵と精神的疲労が同時にやってきて、晶の口からは大きなため息が漏れた。全部嘘だったなんて。死ぬ運命ではなくてよかったと思う一方で、どっと疲れが押し寄せてくる。腰を抜かしたように座りこんだまま、スノウとホワイトに会ったらフィガロの言うように今度は口で注意してほしいとお願いしようと心に決めた。
「大丈夫?」
「ダイジョブデス……
 立てないでいる晶の頭を優しく撫でてから、フィガロは晶の前に手を差し出した。晶はその手を取って杖のようにして、重たい身体を持ち上げる。それから服のあちらこちらについた芝を互いに払いながら、二人はため息と苦笑の混ざった会話を交わした。
「安心したらお腹がすきました」
「それはいいね。俺もまだだから一緒に食堂に行こう」
……フィガロ、色々とすみませんでした」
「そうだね」
 フィガロは仕上げだと言わんばかりに、晶の肩をやや強めに手で払う。
「さっき君は自分の行いに後悔していないと言っていたけど、反省はするんだよ。今度からは他人を注意する時はオズを従えるとか、オーエンに先にマフィンを食べてもらうとか、やりようはいくらでもあるからね」
「そうですね。そうします」
……でも、俺も君に謝らないとな」
 晶は目を瞬かせて、フィガロを見返した。フィガロには迷惑をかけただけで、謝ってもらうことなどないはずなのだ。しかし、彼はゆったりと首を振って続けた。
「君に呪いがかかっていないことを真っ先に教えるべきだったのに、そうしなかったから」
……どうして?」
「最初は俺もちょっといたずらにのろうかなって思ったんだけど、君があんなにも呆気なく死ぬことを選んだから、途中からは意地になってたんだ」
 そうしてフィガロに「ごめんね」と言われても、晶は恥ずかしさが募るばかりだった。軽率に死のうと思った愚かさの自覚はある。今思い返すと、なぜあんなにも即決したのか不思議に思えるけれど、それだけぶるぶるローズの威力が凄まじかったとも言える。人間は弱い。これもまた、反省することの一つだ。
「もう死にたいなんて言いません」
「うん、そうしてくれると嬉しいかな」
 フィガロはそう言って、静かに微笑んだ。その笑顔は先ほど一瞬目にした表情によく似ていて、ふいに向けられたそれを逃すまいと晶は慌てて目で追った。あの時も今も、どこか寂しそうな微笑みだった気がしたから。
 しかしそれは叶わなかった。あっと思った時にはフィガロは晶を抱きしめていて、再びその顔は隠されてしまった。
 唐突な抱擁に驚きを隠せない晶をよそに、フィガロは抱き着いたきり黙ったままで、余計に晶を混乱させた。先ほどのものは緊急事態での出来事だったため、晶にとってはときめきなど生まれる隙もなかったのだが、この距離感がいまさらのように心臓を揺らす。
 晶は動揺を声色にのせないように、喉に細心の注意を払いながら声を掛ける。
……あの、フィガロ。これは何のハグですか?」
 んー?とやっと返事があったものの、続いた言葉は「俺もわからない」だった。
「わ、わからないんですか……?」
「そう。いつかわかるかな」
 晶の首筋に頬を寄せて、少しくぐもった声で答えるフィガロに、その声の近さに、あの時感じた幸せとは別の感情がじわりと胸に広がるのを晶は感じていた。震えを止めるためでもない、死を迎える恐怖を和らげるためのものでもない、今はまだ名前のない抱擁。
……俺も……いつか、わかるかもしれません」
 誰かに抱きしめてもらうならと考えた時に、フィガロが浮かんだ意味も、いつか。
 今度は緊張で手が震えるのを止めるように、晶はフィガロの背中に腕を回した。