雑種栗丸
2022-05-08 00:32:54
8729文字
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フィガ晶♂①

付き合っていませんがフィガ晶♂です。
「事後だけど片方だけ覚えていない」というお題をいただいて書いたものです。
直接的な描写はありませんが、最中の会話がありますのでご注意ください。



「ミス……ラ、じゃ、ない」
 その日、目覚めた賢者の第一声はそれだった。
 音の始まりは、まだ眠りの余韻と慣れを感じさせる気楽なものだった。それが状況を理解するにつれて、戸惑いを滲ませるものへと変化した。なぜなら、覚醒とともにベッドの上で感じた他者の存在が、当然に賢者の力を頼って度々寝床に侵入してくるミスラのものだと思っていたのが、全くの別人のものだと気づいたからだった。
「おはよう、賢者様」
 目を丸くする賢者の目の前で、フィガロは爽やかな微笑みを浮かべた。賢者が横になっているベッドで、同じように横になって同じ布団に潜り込んでいる。それは賢者がこの世界に来てから、初めて目にした光景だった。
 朝の挨拶を返す前に、賢者の視線がサッと部屋中を見回した。部屋を間違えた可能性を考えてのことだったが、自室であることを確認して、疑問を宿らせたままの視線が再びフィガロを捉えた。
……おはようございます。あ、あの、どうしてフィガロが、ここにいるんでしょうか」
 気遣いよりも困惑が勝った様子で、賢者はフィガロにそう尋ねた。普段の彼ならばもう少し柔らかな問いを投げることができたが、思いのほか直球な質問になってしまっていることに、フィガロは笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
「昨日のこと、覚えてない?」
「はい……あ、いえ、食堂で話していたことは、今思い出しました」
 正解、と言って、フィガロは身を起こした。服を着替えることなく寝ていたようで、白いシャツが見たことがないほど皺だらけになっている。その姿を見て、いつもの白衣はどこに行ったのだろうと、賢者はぼんやりと思った。
「昨日の夜、俺とルチルとレノがお酒を飲んでいたところに君が来て、それから西の魔法使いたちが加わって、どんちゃん騒ぎになったんだ。それは覚えてる?」
「えっと……途中からお酒がシャボン玉みたいになって飛んでいたところまでは覚えています」
 フィガロの説明を聞いて、霞がかかっていた賢者の記憶が、色のついた絵画のように鮮明に蘇ってきた。眠る前に水を一杯飲もうと向かった食堂で、南の魔法使いたちによる飲み会が行われていて、賢者も仲間に入れてもらったのだった。それでもお酒は遠慮していたのだが、そこにバーを閉めたシャイロックと、バーで飲んでいたらしいムルとラスティカが加わり、飲み会はさらに盛り上がりを見せ……そこから先の記憶が賢者にはなかった。
「シャボン玉が飛び始めたところから、お酒の匂いで頭がふわふわしてきたような……
「俺もうっかりしていてね……気づいたときには、君はムルに飲まされて、すっかり出来上がっていたんだよ」
 賢者がお酒を飲んでしまったのだとその場の全員が知ったのは、彼がいつもより大きな声で笑い出したときだったと言う。穏やかな印象の強い賢者が、年相応の少年のような笑顔でケラケラと笑いながら箸を何度も転がし、そんな彼の珍しい姿に、魔法使いたちはその夜一番の盛り上がりを見せた。賢者は面白がった西の魔法使いたちとダンスを踊り、一発芸大会が開催され、その後家族ごっこが始まり、亭主関白ですと言いながら賢者が胡座をかいて――
「もういいです!もうやめてください!」
「えー?離婚調停が始まってからが最高なのに」
「お酒の失敗ってこんなに恥ずかしいんですね」
 賢者は慌ててベッドから身を起こし、真っ赤な顔でフィガロの口を押さえた。冗談であってほしいと願うけれど、飛び起きた瞬間から感じたことのない嫌な頭痛が頭いっぱいに広がって、お酒を飲んだのは確かなようだと認めざるを得なかった。
「まぁでもそれから俺も覚えてないんだよね。俺自身も結構酔っ払っていたからね」
 フィガロはそう言ってベッドから立ち上がり、シャツに手のひらを這わせる。しわしわだったシャツは、触れたところからアイロンを掛けたように綺麗に伸びていった。
「覚えてないけど予想はできるよ。酔っていても俺は優しい魔法使いだからさ、賢者様の身を案じて、お開きになった後に部屋までちゃんと送り届けたんじゃないかな。で、そこで力尽きて一緒に寝てしまったと」
 白衣がどこからともなく現れて、ふわりとフィガロの肩に掛かった。目の前で行われた鮮やかな身支度に、魔法を見慣れてきた賢者でも見惚れていた。それは、魔法を使うフィガロの指のしなやかな動きの美しさに惹かれているところもあった。
「仕上げだよ」
 目で追っていた指先が唐突に自分に向けられ、驚きに賢者の心臓が大きく跳ねる。フィガロの指はそんな賢者を宥めるようにその頭をひと撫でし、呪文を唱えた。 直後、賢者の頭をガンガンと打ち付けていた頭痛が、次の一撃を与えようと手を振り上げたと同時に霧散したように消え去った。あまりにも一瞬できれいに消えたため、その現象に追いつかなかった心が、偽りの痛みを生み出すほどだった。痛みの伴わない妙な感覚を頭に数回感じてから、それさえも波が引いていくように失われていった。
「ありがとうございます、フィガロ」
「うん。俺は優しいお医者様でもあるからね」
 そう言ってウィンクするフィガロの心遣いに、賢者はようやく微笑み返すことができた。
「それじゃあ、賢者様。俺は先に行くけど、君は体調が良さそうなら降りておいで。慣れないお酒で体が参っているかもしれないから、無理はしないように。お大事に」
「はい」
 手を振るように白衣をひらりと舞わせて、フィガロは賢者の部屋から出て行った。



 今日は授業も任務もないため、部屋でゆっくりしようと自室に向かっていたフィガロの足を止めたのは、背後から現れた小さな子ども、否、スノウとホワイトだった。
「フィガロや」
「フィガロちゃんや」
 二人はパタパタと賑やかな足音を立ててフィガロの後ろから前に回ると、手を繋いで通せんぼをするように立ち止まった。大きな瞳が爛々と輝いており、フィガロは自室へと続く廊下の長さがぐんと伸びたように感じられた。やれやれと肩を竦めながら、期待に応えるしかないと諦めの中で足を止める。
「おはようございます。スノウ様、ホワイト様」
「フィガロは朝帰りかの」
「賢者の部屋から出てくるのを、我らは見てしまったのう」
「なんだ。そのことですか」
 年若い女性たちが噂話をするように、キャッキャと楽しげな笑い声を上げながら、スノウとホワイトはフィガロに迫った。
「実はルチルから昨夜の話を聞いたのじゃ。そなた、賢者を部屋まで送って行ったそうじゃな」
「抜け目ないの〜。送って行ったついでに、手を出しておらぬか〜?」
 外見はともかく、二人の中身はもう随分と長く生きている魔法使いであるのに、よくもこれほど若者のテンションではしゃげるものだ。ミチルくらいの歳の子が、親から学校のことを聞かれて面倒に思う気持ちに共感しながら、早めに終わらせようとフィガロは口を開いた。
「そうですよ。手を出しましたよ」
「え?」
 楽しくからかっていた双子の動きがピタリと止まった。顔は笑顔のまま、きれいに、ピタリと。
……フィガロや。今、なんと?」
「だから、抱きましたよ。賢者様を」
 片足を上げて踊り出しそうな勢いだった双子は、フィガロの言葉を聞いて、すとんと顔から笑顔を消すと、怪訝そうに彼を見上げた。
「それはマジバナかの」
「それはガチバナかの」
「マ……?なんのことかわかりませんが、抱いたのは本当ですよ」
 スノウとホワイトは揃ってあんぐりと口を開けてから、重いため息を吐き出した。フィガロは心外なと眉根を寄せる。
「最初に言ったのは、お二人の方じゃないですか」
「我ら冗談のつもりだったんじゃが」
 あーあ、と、互いに墓穴を掘った迂闊さに、三人は天を仰いだ。誰も得をしない穴が、今さら塞ぐこともできずにそこにあった。
「なんでそんなこと訊いてきたんですか〜」
「そなたの方こそ、なぜ正直に話したんじゃ〜」
「魔力の気配でバレたと思ったんですよ」
 言ってしまったものは、もうどうしようもない。フィガロはこれ以上事態が悪い方向に行かないことを願いながら、白状した。
「成り行きで……
「うわぁ……
 双子は手を繋いだまま、揃って一歩後ろに下がった。心理的にも物理的にも引いている。
「でも賢者様はすっかり忘れていますよ」
「記憶を消したのか?」
「いえ、俺は何も。彼も酔っ払っていたので、そのせいで覚えていないようです」
……それは朗報じゃ」
 双子はため息とも安堵とも取れる深い息をふっと吐いて、肩の力を抜いた。とりあえずこの話はこの三人の胸に納めるだけで済みそうだ。
 そもそもスノウとホワイトが今回の件を厄介に思ったのは、一夜を共にしたからと言ってフィガロが責任を取るとは思えないからだった。長く生きている魔法使いにとって、人間の命の巡りはあっという間の出来事だ。異界からやって来る賢者の存在は、それ以上に儚い。この世界で老いていく人間のように、別れまでのタイムリミットが目に見えるわけでもなく、この世界と皆の記憶からいつ消えてしまっておかしくない。そんな賢者と共に過ごす夜など、魔法使いの人生の中では、瞬きにも満たないほんの僅かな時間だ。だからこそ、些細なものだという意識すらなく、一時の慰みに手を取ることもおかしくない。けれど、賢者にとってはそうも言っていられないだろう。人生の大きな転換期になることさえありえる。
 双子にとってはフィガロの考えの方が理解できる。だからこそ、中途半端な関係は避けたいところだ。北の魔法使いを含めて、今の魔法舎はそれなりに上手くいっている。賢者がフィガロの軽率な行いによって不安定になることで、今の状態が崩れてしまうことは見過ごせないのだ。
「賢者が忘れておって助かったの」
「今後は気を付けるのじゃぞ、フィガロや」
……あ、でもさっき、きっかけがあれば昨夜のことを思い出す魔法を、賢者様にかけてしまったな……
 ぼそっと小声で呟いたフィガロの言葉を、双子は聞き逃さなかった。安心したのも束の間、消火したと思っていた爆薬の導火線に再び火が付いてしまった。スノウは愕然とし、ホワイトは呆然とフィガロを仰ぎ見た。
「な、なぜそのようなことを!?」
……なんとなく」
「成り行きで賢者を抱いて、なんとなくで魔法をかけたのか!?」
「改めて確認しないでくださいよ。恥ずかしいなあ」
「そなたのことじゃろう!?」
 魔法舎の治安の問題、というよりむしろ風紀の問題か。何かが欠けている弟子だとは思っていたが……と頭を抱えながらも、フィガロがかけた魔法を解くこともできないことではないと二人は考え直した。ただし記憶を扱う以上、少し慎重になった方がいいだろう。フィガロがかけた魔法の詳細を確認しておく必要があると、無言のうちに結論づけて、スノウとホワイトは頷き合った。
「弟子の失態の尻拭いも、師の仕事じゃ……
「して、その魔法の発動条件は何なのじゃ」
 二人の言葉を受け、フィガロは魔法をかけた瞬間を思い出すように目を伏せ、こう言った。
「俺が賢者様の名前を呼ぶこと、ですね」
 ハードル低ぅ!!!という二人の叫びが魔法舎中に響き渡り、その朝、数名の魔法使いがその声で目を覚ましたという。


 フィガロはその夜、賢者を抱こうと思って部屋まで送ったわけではなかった。飲み会は続いていたが、途中から賢者が疲れて船をこいでいたため、本当に親切心で手を引いたのだった。恋人でもない相手に、下心は少しもなかった。
「賢者様、大丈夫?」
「はい……
 手を引かれるままに頼りない足取りでついてくる彼を、フィガロは部屋まで連れて行くと、ベッドに座らせた。何度も瞬きをして辛うじて睡魔と戦っている賢者は、誰の手を握っているのかもわからないような状態で、賢者を誘拐するならば酒を飲ませるのが一番という、超機密情報を握ってしまったとフィガロは苦笑した。
「それじゃ、ちゃんと寝るんだよ。その前に着替えかな。一人でできる?俺がやってあげようか?」
 お酒が入っていたことも手伝って、フィガロはいつもの調子でそう言った。一人でできますよと、昼間の賢者であればさらりと躱す軽口も、今の賢者はぼんやりとした瞳で受け止める。
「着替え……
 じっとフィガロを見つめて、賢者は呟いた。
「上着は……?」
「上着?」
 何を言っているのだろうと思ったが、賢者の視線がフィガロの肩口に触れたことで、白衣のことを指しているのだと納得した。そう言えば食堂に戻るつもりで置いて来たなと、フィガロもそこで初めて気が付いた。
……ふふ」
「ええ、なんで笑ってるの」
 急にくすくすと笑い始めた賢者に、間違いなく酔っ払いだなあとフィガロは狼狽えた。これまで賢者がお酒を断る場面はよく目にしていたが、こうなってしまうことを彼自身は知っていたのかもしれない。若いながらも聡明さを感じさせる賢者が、頭に浮かんだことをほいほいと口にしているような今の状態を明日思い出したとき、羞恥にうずくまる姿が容易に想像できる。
 賢者の名誉のためにも、これ以上は目撃しない方が良さそうだと、フィガロは早々に部屋を出ることを決意したのだが。
――あなたは」
 踵を返そうとしたところで、賢者が不意に口を開いた。
「あなたは普段、よくわからない人だから」
 賢者の手がフィガロに伸ばされ、彼の腕をすっと撫でて引き寄せた。その力は弱いけれど、突然のことに抵抗できず、フィガロの身体は簡単に賢者のもとに引き戻される。近づいた距離の中で、賢者はふわりと顔を綻ばせてフィガロを見上げた。
「上着一枚でも、なくなったら、とても無防備に見えますね」
 そんなことを、とても嬉しそうに、彼は言った。プレゼントを貰った子どものように、少し照れた様子で、宝物みたいにフィガロに触れながら。
 フィガロの胸の内が、強いお酒でも流し込まれたかのように、急速に熱をもった。物珍しいだけだった賢者の姿が、特別な輪郭を持った存在へと色を変えていく。間近に賢者の瞳を覗きながら、何かを言いたいという衝動が喉元を苦しくさせた。今を逃したくない。逃してしまったら、きっと――
……無防備だなんて」
 賢者の頬に手を当て、そのまま首筋を滑らせて、いつもきつく閉じられている襟元に指をかけた。
「君の方こそ」
 少し力を加えるだけで、簡単にネクタイが解けていく。心に湧く衝動に突き動かされるまま、片手でボタンを外して、首元を広げていくと、賢者はゆっくりと瞬きをしながらフィガロを見つめた。不安が生まれたのだろうかと瞳で窺えば、フィガロのシャツの袖口に引っかかったままだった賢者の指先に、ぐっと力が込められた。ああ、可愛いなと、フィガロは欲望に緩んでいく思考の中で微かにそう思った。
 今夜は、見たことない賢者の姿をいくつも知った。皆とはしゃぐ姿は普通の若者で、千鳥足になって廊下を歩く姿は立派な酔っ払いで、触れたら頬を染める姿はただの人間。異界からやって来た、たった一人の真木晶という存在がそこにいた。
 柔らかく溶けた声を耳にしながら、今夜のことを賢者様は覚えてなさそうだなぁと、行為の中でフィガロは思った。そして同時に、それでも良いと思った。気持ちが良くて、口づけが甘くて、胸が痛いけれど。長い生の中でも、一瞬で終わるものがあることを知っている。触れたと思ったら消えていく、雪よりももっと短命で、どうしようもないものがあることを。
 晶、と、気まぐれに呼んでみた。今までだって呼んだことはあった、特別なものでもなんでもないその音を、口づけの合間に一度だけ落とした。頬を伝う汗よりも不確かで、夜の闇に消えてしまってもおかしくなかったその小さな囁きを、けれど賢者は拾い上げた。酔いの中でとろりと曖昧な心地よさに溺れているようだったのに、その時はっきりとした意思を持ったように、賢者はフィガロの首に手を回し、微笑んだ。それはいつもの彼らしい、幼くて素直な笑顔だった。
「はい。俺も、あなたのそばに居たいです」
 細身で頼りない身体に抱きしめられる。触れ合う肌が初めてぬくもりを知ったように驚いていた。反射的に離れようとしたけれど、それはもはや、叶わなかった。


「フィガロ!」
 双子の尋問が終わり、ひと眠りして目覚めた夕暮れ。フィガロが談話室に歩みを進めていると、向かいから賢者が駆けてきた。
「やあ、おはよう」
「おはようございます……?寝ていたんですか?」
「そう。賢者様は元気そうだね。よかった」
 どこかいつもより明るい足取りに首を傾げていると、元気というよりも恥ずかしさからハイになっているのだと、賢者が見る間に肩を落としていったことで察した。
「皆さんから酔った俺の話を聞いて、穴があったら入りたい気分なんです。誰一人として忘れていないんですよ。俺だけ忘れているなんて……それはそれで少し寂しいんです」
 窓の外の夕日を見つめて、失くしたものを懐かしむような横顔に、フィガロは自然と目を細める。得意げに胸を張りながら、フィガロも声をはずませた。
「俺も覚えている側だけどね。なに、俺の話もまた聞きたくなったの?」
「そ、それはもう、勘弁してください」
 賢者は大慌てで手を振って顔を赤らめた。こんな反応をしたから、皆面白がって話したんだろうなと、同じように疼く悪戯心を年長者の余裕で胸の内に押し込める。わかったわかったと物わかりの良い優しい人を演じながら、賢者に問いかけた。
「それで、どうしたの?」
 こうして再びからかわれることをわかっていながら、自分に声をかけたのは何か理由があるのだろうと考えての言葉だった。その予想は的中したようで、賢者は跳ねるようにしてフィガロに向き直った。
「それで俺、皆さんのお話を聞いているうちに思い出したことがあって、フィガロにお礼を言いに来たんです」
「お礼?俺に?」
 酔ったところを襲った俺に?という言葉が口をついて出そうになったため、急いで笑顔を被せて止めた。そうしてフィガロが葛藤していることとはつゆ知らず、賢者は目を伏せて続ける。
「昨日のことは覚えていないんですけど、今朝のことは思い出したんです。目が覚めた時のこと。フィガロが隣にいて驚いてしまって、忘れていましたけど……
 目を閉じて、今度は忘れないと大事に記憶を抱えながら、ぽつりぽつりと賢者は呟いた。
「目が覚めた時、俺、すごく幸せな気持ちだったんです。楽しい夢を見た後の朝みたいに。まだ意識もはっきりしていないのに、夜からずっとその幸せが続いていて、今日も楽しい日になると予感させるような、そんな気持ちです。きっと部屋に連れてきてくれたフィガロが、優しくしてくれたんだろうなって思って……
 ありがとうございますと、そう言って、賢者はフィガロに微笑みかけた。夕日に照らされて頬を温かな色に染めながら、昨夜のことは消えてはいないと、夜の延長線上を思わせる、あの時と変わらない笑顔で。
 刻一刻と何かが変わっていくのを、フィガロはうっすらと感じていた。今朝自分が賢者にかけた魔法の意味は、本当のところ何だったのだろうと思う。その意味を見つけることは、無駄なことだろうか。ほんの刹那の出来事だろうか。
「なぜそのような簡単に発動する魔法をかけたのじゃ」
 あきれ返ったスノウの声が脳裏に思い出された。尋問の途中、改めて問われて初めて、衝動的に魔法をかけていたことに気づいた。けれど、なぜでしょうね?などと再びふざけて答えてしまえば、今度こそ怒られそうだ。フィガロは仕方なく、今朝の賢者とのやり取りを思い出しながら、慎重に口を開いた。
……賢者様が目を覚ますまでは、そんな魔法をかける気はなかったんですよね」
「ほう?」
「でも、彼が目覚めて開口一番にミスラの名前を口にして……
「ミスラちゃん?」
「あー、俺はどこに触れれば君が気持ちよく感じるのかも、耳が弱いことも、おへその形まで知ったのに、他の男の名前を呼ぶのかと思ったら、なんとなく……
……
 正直に話したのに、責められるわけでもなく、怒られるわけでもなく、ただただ沈黙が流れた。そのことが逆に怖くなって、恐る恐る双子を見ると、二人は顔を見合わせてから大きく息をついた。
「なーんだ」
「心配して損したの」
 くるりと二人はその場で回ってから、フィガロの脇を通り過ぎて、来た道を戻っていく。なぜ急に態度が変わったのかがわからず、ここできちんと確かめておかないと後が困ると思い、フィガロは慌てて呼びかけた。
「俺は無罪放免ですか?」
「そうじゃ」
「その魔法は自分でなんとかすることじゃな」
 キャッキャとどこか楽しげに去っていく小さな背中を見送りながら、胸に湧いた困惑と居心地の悪さ。あの時に感じたものを、賢者を目の前にした今も味わっている。
「フィガロ?」
 フィガロが急に押し黙ったことを心配したのか、賢者がその顔を覗き込んだ。澄んだ瞳が、出会ったばかりの頃よりも美しく見える。
……なんでもないよ、賢者様」
 自分を真っすぐに見つめてくる存在を、ただ安心させたくて、フィガロは微笑んだ。次に名前を呼ぶとき、どんな気持ちでいるのだろうかと思いながら。
 それはきっと、自分にかけられた、彼の魔法を知るときでもあるのだろう。