不知火白夜
2025-07-19 18:00:16
3802文字
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ヴェルナーと蕎麦

ヴェルナーが蕎麦を食べる話です。

 ある年の夏、ヴェルナーと十真はおよそ一年ぶりに日本に行くことになった。これは単なる観光というだけでなく、帰省でもある。しかも結婚の挨拶のための帰省だ。
 これまでの交流を踏まえて、結婚を反対されるということはないだろうが、やはり緊張もする。だがその中で、ヴェルナーにはひとつ大きな楽しみがあった。
 それは、関東で食べられる立ち食いそばである。しかも、春菊の天ぷらが添えられた蕎麦だ。ヴェルナーは、日本食の中では跳び抜けてそれが好きなのだ。

 若い頃、まだ交際から数年ほどしか経っていなかった頃のある冬の日。十真に会うために日本にやってきた際に、東京の立ち食いそば屋に寄った。
 そもそも、ヨーロッパでは『立ち食い専門店』のようなものが珍しいため、最初十真から聞いた時は『立ったまま食べるの? それの専門店? そんな店があるの?』とかなり驚いたが、興味はあったため行ってみることにした。
 時刻は夕方頃で、年末も近づいていた時期であり空もすっかり暗くなっていて空気も冷たかった。
 ヨーロッパとは異なる寒さを感じながら行ったその先で、ヴェルナーは何度もカルチャーショックを受け、ある意味運命の出会いをすることになる。
 駅近くの立ち食いそば屋の入口付近にある食品サンプルを目にし、ヴェルナーは目を丸くした。まるで本物の食べ物のように精巧に作られた見本が、いくつも置いてある。写真ではなく、実物の見本。食品サンプルというのは、いままでチラチラ見かけたことはあった気がするが、これまではそこまで意識していなかった。しかし、こうまじまじ見ているとやはりこれはすごいものだと感嘆の息を吐いたのだ。
 そんな時目に入ったのが、ある食品サンプルである。ヴェルナーの目が釘付けになったのは、緑色の塊が載った謎の品である。他の食品サンプルも、蕎麦の上に様々なものが載っている。しかし、その緑色の塊が強烈にヴェルナーの目を引いたのである。ヴェルナーが『これ何?』と十真に問いかけると、十真は食品サンプルに添えてある札に目を向けてからぽつりと呟いた。

「えっと『春菊天そば』だって。確か関東にしかないんじゃなかったかな?」
……シュンギク? なにそれ」
「日本で食べられてる野菜だね。苦みがちょっとあるから好みは分かれるけど……。気になる? 食べてみたい?」
……うん、食べてみたい!」

 十真に投げかけられた言葉に力強く頷いて、ヴェルナーは十真に教わりながら券売機を操作した。
 店内に入ると、仕事終わりの会社員と思われる人が何人か利用しており、皆各自のスペースで黙々と食事をしており、ズルズルという蕎麦を啜る音が時折聞こえる。当時のヴェルナーにはあまり好ましくない音だったが、この時はさほど気にしていなかった。
 十真に続いて店員に食券を渡すと、受け取った壮年の店員が一瞬目を丸くして、食券に目を落とし、十真に不安げに問いかけている。恐らくこのメニューで大丈夫なのかと確認をしているのだろう。先程も十真が『好みが分かれる』と言っていたから、そういった反応をされるのも致し方ないか。
 少し不安だったが、注文は通ったらしい。この後はどうすればいいのか迷ったが、どうやら今いる場所あたりで少し待っていればいいようだ。
 大人しく待っていると、2人が注文した蕎麦が用意されたのでそれぞれ礼を言って受け取った。同時に、フォークとスプーンが添えられていることに気づいたので、それについても合わせて短く礼を伝える。伝わったかどうかは分からないが、会釈を返してくれたのでよしとしよう。……ちなみに、このフォークは十真が言ってくれたそうだ。彼の気遣いに感謝である。
 手渡された春菊天そばはほかほかと湯気を立てており、緑色の大きな天ぷらが圧倒的存在感を放っていた。思わず見蕩れそうになったがいつまでも立ち尽くしている訳にも行かない。十真に促されて、席に向かった。ちなみに十真は卵が載った月見蕎麦にしたらしい。それも美味しそうだ。
 テーブルにおいて、十真の真似をして両手を合わせる。スプーンを手にして真っ黒なスープを少し口にする。最初はきっとしょっぱいのだろうと警戒したが、濃い味わいではあるもののいうほど塩辛くはない。麺をフォークですくい、ゆっくりと食べてみると、固すぎず柔らかすぎないほどよい食感を楽しめた。次に、天ぷらを食べてみようとするものの、フォークとスプーンではうまく食べられない。仕方ないので席にあるケースから箸を取り出してそれも使いつつゆっくりとかぶりついた。
 途端に、ヴェルナーは衝撃を受けた。甘塩っぱさのあるつゆに浸かった部分と、サクサクとした部分の食感の違い。そこから口の中でじわりと広がる未知の苦み。そういったものを一気に味わう。要素としてはバラバラなのに、それがひとつになった瞬間、体に電撃が走ったような不思議な感覚に襲われた。これまで食べてきたどの野菜やハーブとも違うおいしさに、目を見開いて数秒固まってしまった。
 その瞬間、彼は確信した。この春菊天そばは、完全に『好きな食べ物』入りしたということを。
 呆然とするヴェルナーに気づいたのか恐る恐る声をかける。

……ヴェルナー、大丈夫? 厳しそうだったら僕食べるから……
「おいしい」
「えっ」
「これ美味しい……!」

 硬直しているヴェルナーを心配したのだろう。徐に声をかけてきた十真にそう返してからヴェルナーは、黙々と蕎麦を食べ続けた。麺もつゆも美味しいが何よりこの天ぷらがヴェルナーの好みに深く刺さった。これを誰かにあげるなんてできるものか。そう思ったヴェルナーは拙いながらもフォークと箸を使い、天ぷらも蕎麦もしっかり完食した。

……おいしかった」
「おー綺麗に食べきったな。満足してもらえたようでよかったよかった」
「うん! もう毎日でも食べたいくらい!」
「そんなにかぁ。まあ気に入ってもらえたようで良かったよ」

 ニコニコと笑みを浮かべつつ、そっと手を合わせてから器を返却する。そして店員に片言の日本語で礼を述べてから、十真と共に店を出た。
 これ以降、ヴェルナーはこの春菊天そばの虜となり、日本に来る度に食べるようになったのだ。

 そのため今回の帰省に際しても、東京で春菊天そばを食べるつもりだ。その気持ちを口にすると、十真は呆れたように眉を下げる。

「ほんと、あんたは春菊天そば好きだよなあ」
「うん。もうあのときかトリコだからね。あの時ソバ食べようって言ってくれて良かったよ」
「まぁ……そう言われたら悪い気はしないけど……まさかここまではまるなんてなあ」
「だよねぇ……自分でもびっくりだよ」

 ヴェルナーはどちらかというと食に関しての興味は薄かった。しかし『特別な日の料理』や『旅行先での食事』にはある程度拘りがある。その結果『特別な日の料理』として春菊天そばが入ったということか。
 ちなみに、初めて口にして以降、十真の協力を経て自宅で春菊天そばの再現をしようとしたこともある。そうして再現した春菊天そばも美味しかったものの、やはり本場のものとは違う。そう思うとやはり東京の立ち食いそば屋で食べるのが一番だ。味だけではない。現地の日本人の会社員達に混ざって食べていると自分もこの雰囲気に馴染んでいるような気がするのだ。

 日本の東京の駅にやって来た二人は、真っ先に立ち食いそば屋に向かう。嘗てはスプーンやフォークで食べていたが、何十年と経つ内に箸もうまく使えるようになった。啜って食べることはどうしてもできないが。周りが啜っている分には特に気にならない。
 食券機の前で、ヴェルナーは迷いなくかけそばと春菊の天ぷらを選択して店員に渡す。何度も食べている内に『春菊天そば』と最初からなっているところもあれば、トッピング形式のところもあることに気づいた。最初はこれも戸惑ったものの、何回か経験する内になれてきた。
 更に、店員に食券を渡したときも昔は『外国人がこれを!?』と驚かれることもあったが最近は特に動揺されることもなく食券を受け取り蕎麦を用意してくれる。それもありがたいと思う店のひとつだった。
 十真も食券を渡して蕎麦を受け取った後はカウンターで並び食事を始める。
 つゆも味わって、麺もゆっくりと口にする。ほどよい歯ごたえの蕎麦は実に美味しく出汁の味が体に染み渡る感覚があった。ここのつゆは以前食べたものより少し甘い気がする……そう思いながら、蕎麦に天ぷらを載せてからかじりつく。独特のほどよい苦みと香り、つゆの甘さに思わず笑みがこぼれる。

「おいしい……
「そりゃよかった」

 ほぅと息をつくように一言零してから、ヴェルナーはひたすら蕎麦を堪能し満足げに食事を終えた。十真も、自分が頼んだえび天蕎麦を堪能し、ごちそうさまと手を合わせた。
 店を出てから二人で改めて新幹線乗り場へ足を向けて長野へと移動する。結婚の挨拶前の貴重な食事の時間をこうして堪能したヴェルナーは、少し落ち着いた気持ちで十真の実家へ向かうことができた。
 ちなみに、新幹線の中ではスマートフォンのメモにさっきの店の名前と蕎麦の感想を綴っていたため、十真は呆れつつも微笑ましい気持ちで眺めていたのだった。