鮮やかな色彩をまとう花々と、全ての花を支えるように広がる真っ白なカスミソウ。通行人の目を引くであろう豪華な花束は、店主の腕前を持って個々が誇張しすぎず、しかし埋もれもしない絶妙なバランスで美しさが保たれていて、アキラは満足げに頷いた。
「さすがランさんだ。お見事だよ」
その賛辞を静かな微笑で受け止めてから、「朝露」の店主であるランはふと考える仕草をする。
「あなたの大切な方への贈り物なのでしょう? それなら、ここで代理店長もしたことのあるあなたが仕立ててもよかったのでは?」
恐らく心からの言葉なのだろうが、それを聞いたアキラは何とも言えない気持ちで苦笑する。
「何年前の話をしているのかな。その場限りで磨いた技術なんて身に付くわけがないだろう。せいぜい綺麗な思い出として残る程度だ。大切だからこそ、その道のプロにお願いする方が断然いいに決まっている」
「あら、ふふ。私の腕を高く買ってくださっているようで嬉しいですね」
謙遜しつつも、満更ではない様子で笑みを湛えるランににこりと頷いて、アキラは改めて花束を見る。目を引くのは鮮やかな色彩以上に、中央を飾る大輪の向日葵だろう。
「向日葵、お好きなんですか?」
「ああ。この花束を贈る相手がね」
「とてもセンスの良い方なんですね」
「僕もそう思うよ」
好きな相手が誰かに褒められれば、自然と嬉しさがこみ上げる。思わず顔を綻ばせるアキラを見て、ランも釣られるように笑みを深くした。
代金を渡してガーデニングショップを後にする。店の軒先から一歩足を踏み出した瞬間、刺さるような日差しが頭上から襲いかかってきた。見上げた空は晴天で、雲一つない。じわりと滲み始める汗が酷くなる前に、とアキラはいつもより速度を僅かに上げてルミナスクエアの路地を歩く。
手にした花束に時々視線を遣りながら、彼と出会ってもう何年経っただろう、と考える。具体的に数えようとして、他にも寄るところがあることを思い出し思考を中断する。さすがにこのまま行くのは目立ちすぎるかもしれないが、今日はリンが車を使う用事があるというので電車を利用している。羞恥に耐える覚悟をして、アキラは目的地に足を向ける。意外と周囲の連中はすれ違う他人のことなど気にしていないものだ、そう自分に言い聞かせながら。
飾り気のなかった真っ白な部屋は、今は誰かが持ち込んだ花やお菓子、暇潰し用のビデオやカードゲームといったものが雑多に置かれ、日に日に賑やかな状態になっていた。
「あれ、来ちゃったんだ」
この部屋の現在の主である悠真は、中央のベッドの端に腰掛けてスマホを弄っていたが、アキラの来訪に顔を上げて驚きを顔に貼り付けた。
「なんだい、その反応は。まるで来なくていいみたいに」
少し拗ねた気持ちでそう返すと、悠真は申し訳なさそうに眉を下げ、持っていたスマホをサイドテーブルに置いた。
「そんなつもりはなかったんだけど、言葉って難しいねえ。いつもお見舞いありがとう、アキラくん」
病衣ではなく珍しく私服に着替えている悠真に若干の疑問を抱く。そんな彼はアキラの抱えている花束を見て、そわそわと何かを言いたげにする。彼の口が何かを紡ぐ前に、アキラは手にしたそれを悠真に差し出した。
「誕生日おめでとう、悠真」
ふ、と短く息を吐くと、悠真はそれを両手で受け取ってその色彩を目に映した。彼の視線は全体を巡った後で向日葵で止まり、眦に緩く笑みが浮かぶ。
「ありがとう。やっぱりこれ、そういうやつだよね」
「花より団子の気分だったかな」
「ううん。あんたがくれるのならどっちでも嬉しいな」
「あと、これも」
ぺら、とトートバッグから取り出した一枚の紙切れに、悠真は目を瞬かせた後、内容を確認して苦笑した。
「……本当に出すつもりなんだ?」
「君が言ったんじゃないか、昨日。結婚できたらいいのにって」
「言ったよ、言ったけど、昨日の今日で本当に届を取りに行くとは思わないじゃん……」
アキラの手にある「婚姻届」に、悠真は苦い顔をする。「朝露」を出た後でアキラが立ち寄ったのは、市役所だった。そこでこの用紙を貰い、アキラの抱える花束を見て何かを勘違いしたらしい係員から丁寧に書き方の指導を受けてから、ここに来るまで大事に鞄にしまっていたのだ。
「僕としては、君がようやくそこに至れたのかと安堵したところだったのだけれど」
「あんたは本当に、僕の意図をどこまでも汲んでくれるね」
薄っすらと笑みを浮かべながら吐き出される彼の言葉が、皮肉からくるものだということは分かっている。だが、この機会を逃したくない一心で即座に行動したアキラの意図こそ汲んでほしいと思う。
アキラは悠真の言葉を疑ったり、やりたいことを否定するつもりはない。数年付き合った彼からたとえ冗談でもその言葉を引き出した以上、それを叶えてやらねばと思うのも当然だった。しかし悠真の反応は芳しくはない。花束を膝の上に置くと、俯いて目を伏せた。
「僕もアキラくんと同じだよ。一秒でも長く一緒にいたい。……でもそれは、あんたのこれからの時間を縛ることにもなるでしょ?」
「時間を縛っているというなら、お互い様だろう。悠真は、僕らの関係に名前がつくのは反対かい?」
「反対というか、その観点がないというか……そもそも、名前に拘る必要があるのかなって」
沈黙が落ちる。少々勇み足だった自覚はあれど、拒否されるとそれはそれで辛い。彼と見ているものは同じだと信じていた自分の想いは一方的で、本当は見ているものも、方向も真逆ではないかという不安が湧き上がってくる。
そんな気まずい沈黙は、ノックもなしに開かれた引き戸の音に崩される。
「悠真、この後の退院の手続きのことなんだけ……あ、やば」
手に持った紙を見ながら中も見ずに入ってきたリンが、病室の中に立ち尽くすアキラの姿を見て口を押さえた。妹の言葉の中に聞き逃せない単語があったことに耳聡く気付き、アキラはそれを復唱する。
「退院?」
「リンちゃん……」
呆れたように呟かれる声に再度悠真を見ると、彼は顔を押さえていたたまれないと言いたげな態度を取っている。そして妹は、肩を竦めてたどたどしく弁明を始めた。
「だってお兄ちゃん、今日は出掛けるって言ってたから……でもよく考えたら、誕生日の悠真をほっぽってどこかに行くはずなかったなーって……あはは」
なるほど、とアキラの中で全ての点が繋がる。リンが今日は車を使うと言ったのは、彼の荷物と彼自身を積み込むのに必要だから。悠真が僕の顔を見るや驚いた顔をして「来ちゃったんだ」と言ったことも、想定外の事態にうっかり漏れてしまった心の声だったのだ。
「アキラくんを驚かそうと思ってたんだけど、サプライズ相手が先に来ちゃうんだもんなぁ」
悠真は先ほどまでの緊張感を解いて、若干悔しそうな顔をしている。アキラはと言うと、彼らがこの病室を去る前に来ておいて良かったと心底思った。少し体を崩して数日入院することになった恋人の見舞いに来たらもぬけの殻だったなんて、想像するだに心が痛くなる。最悪の可能性を想像して、だ。
「なんでお兄ちゃん、泣きそうな顔してるの?」
「悠真は、僕と一緒にはなりたくないそうだ」
つい浮かばせてしまった絶望を頭からかき消しつつ、その余韻を少しだけ利用してリンに弱々しい顔を見せると、リンはアキラと悠真を交互に見た後で兄の手にある紙切れを奪い、内容を見て眉を顰めた。
「結婚? そんなの今さらじゃない? 悠真うちに住んでるし、もう家族みたいなものじゃない」
呆れたような明るいリンの声に、悠真はうんうんと頷いている。今のところ多数決でこちらが不利だ。いっそ家に居るボンプたちと猫たちを味方につけて……と回答者の母数を増やそうと画策するアキラの手に、リンはずいっと白紙の婚姻届を戻す。
「私にとってはお兄ちゃんも悠真も、大事な家族だし、憧れなんだからね」
「憧れって、何にだい?」
「こんな風にお互いを思いやる相手が居るっていいな、っていう」
ふわ、と柔らかく微笑むリンに、アキラははっとして真顔で詰め寄る。
「……もしかしてリン、想い人や恋人がいるんじゃないだろうな?」
「過保護な兄のせいで居ませんよーだ。居てもギリギリまで教えてあげなーい」
「僕の見る限りでもアキラくん、妹の恋路をことごとく潰そうとするからなあ……」
「潰していない。リンに相応しい相手かどうか見極めているだけだろう」
「それをブラコンって言うんだけど、知ってた?」
じとっと悠真に見上げられ、助けを求めるようにリンを見ると彼女は悠真の言葉に同意するように何度も頭を縦に振っている。ここには自分の味方は誰も居ないのかと肩身の狭い気持ちになったアキラは、途端に無条件で主人を信じてくれるイアスが恋しくなった。ここに居ないのが悔やまれる。
「おっけー、じゃあ書類はこれでいいんだね。持って行ってくる!」
アキラが一人でいじけている間に、リンは悠真に退院の手続きを確認し、書類を持って元気よく病室を後にした。
「ほら、アキラくん。手が空いてるなら荷物詰めるの手伝ってよ。残念ながら僕、大事な花束を抱えなきゃいけないから両手が塞がってるんだよね」
冗談交じりに甘えるように頼まれて、アキラはしぶしぶ重い体を動かす。最低限の着替えやささやかな日用品を鞄に、見舞いの品の数々を紙袋に詰めただけで片付けは済み、賑やかだと思っていた部屋はシンプルなどこにでもある病室に変わる。
はあ、と息を吐きながら悠真が座るベッドの向かいの椅子に腰掛けると、悠真はぱちぱちと手を叩いてアキラの行動を賞賛してくれた。使えるじゃないか、両手。そう思いながらも突っ込む元気はなく、目だけで訴えるも悠真はどこ吹く風だ。
アキラに何かをして貰うことに彼はすっかり慣れてしまって、最近はむしろ甘えてくる始末だ。だがそれは、居心地の良さすらアキラに与えてくれる。上機嫌な彼を見ていると、知らずアキラも口元が緩んでしまう。
静かな空間に、互いの呼吸の音と部屋の外で誰かが話している声だけが響く。息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した悠真は、少し神妙な顔をしてアキラを見た。
「相談があるんだけど、いい?」
真面目な話だと悟って、アキラは無言で頷く。彼は言葉を選んでいるのか、ゆっくりと一つずつ声を零していく。
「今、内勤にして貰ってるでしょ。最近体調も崩しやすいし、無理をすることはないって課長や副課長にも言われてる……けど」
顔を上げた悠真の目は、揺るぎない何かが宿っていた。
「外勤も少しずつ入れて貰おうと思っているんだ」
「……つまり、ホロウの中での任務を増やす、ということかい?」
即座に頷く悠真に、すぐに返答が出来ない。言い淀むアキラに構わず、悠真は滔々と自分の想いを言葉にして紡いでいく。
「部下の育成にも人員は必要でしょ。せっかくホロウの中で発揮できる能力があるのに、腐らせておくのはもったいないと思うんだよね。使えるものは使うべきだと思うから」
あくまでも自分自身を駒の一つとして捉える悠真の冷静すぎる態度に、やはりすぐには言葉を出せずアキラは沈黙する。そんなの駄目だ、と言うことは簡単だ。恐らく彼のことだ、昔のアキラならともかく、今のアキラにそう言われたら考えを改めるだろう。しかしその言葉でねじ曲げられたその考えは、果たして彼の本当の意思なのだろうか。
思慮を重ねる間、悠真は何も言わずじっとアキラを見ていた。彼も彼で、こちらの苦悩を分かっている。必要以上に言葉を重ねることを良しとせず、悠真はアキラ自身が答えを出すのを黙って待っている。
ようやくアキラは腹を括って息を吐き、一度吸い込んでから、頭の中にある言葉をそのまま吐き出した。
「正直に言うと、君に無理はして欲しくはない。だけど……君がそうしたいのなら、僕は止めない。その代わり心配だけはさせてくれ。僕はいつでも君を思っているから」
「……あの紙切れ見せられた時よりドキドキするかも、それは」
そっとベッドに花束を下ろすと、悠真が立ち上がる。彼の手がゆっくりと頬に触れ、肩に触れ、そして背中に回る。上から抱き竦める状態で、悠真はアキラの耳元で囁く。
「ありがとう。やっぱり僕の一番の理解者は、アキラくんだったね」
「誰かに反対されたな、これは」
「雅課長と月城さんは、まだ最後まで納得してくれてないからさ……」
「なんだ、まだ大ボスが残ってるじゃないか。頑張ってくれ」
ぽんぽんと肩を叩くと、悠真は恐る恐るという様子で顔をこちらに向けてきた。至近距離で目が合う。
「アキラくんも説得するの手伝ってくれない?」
「嫌だね。これは君がどうにか対応するべき問題だろう」
ですよねー、と体を少し離した悠真が苦笑するので、その肩を掴んでその場に固定させる。動きを封じられて僅かに慌てる悠真の唇に自分のそれを重ねれば、悠真の体はますます氷のように固まってしまった。
扉が閉じられているとはいえ公共の場であることを配慮して、重なった時間は一瞬だ。唇が離れても虚を突かれた顔をしている悠真に、ふ、とアキラはおかしくなって笑う。
「説得する元気、出たかい?」
「……それ以外の元気が湧いてきたんですけど、どうしてくれるのかな」
「それは今日はお預けだな」
くう、と悠真は何かを堪えるように額を抑えるので、ますます愉快な気持ちになってアキラは笑う。ぼふ、と再度ベッドに腰を下ろした悠真は、そこで何かを思いついたように金色の目を輝かせた。
「関係性に名前をつけるより、一つだけ証みたいなものが欲しいかも」
「証?」
「うん、例えば……お揃いの指輪、とか」
何故か躊躇っている様子の悠真に内心で首を傾げつつ、アキラは頷いて答える。
「いいじゃないか。誕生日は過ぎてしまうけど、明日一緒に買いに行こうか」
すると悠真は再び驚いたような顔をした。今日はいつもよりも感情がくるくる回るな、と感心しているアキラの前で、悠真は小さくぽつりと漏らす。
「僕としては、あんたの方がこういう、形に残る物を避けてる気がしてたんだけどね」
「家にどれだけ君の私物があると思っているんだ。君との思い出の品も増えてきたし、一つ二つ増えたところで何も変わらないよ」
むしろアキラは、物に対して執着が薄い彼の意識改革に努めてきた方だ。物持ちは良いがそれ自体に頓着しない彼に対し、ことあるごとに写真を撮り、好きな物を買わせ、好きな食べ物を選ばせ、なるべく「自分」を出させるようにしてきた。彼と出会い、恋人という関係となってから、ずっとだ。次第に彼もアキラの写真を撮るようになり、好きな物を買うようになり、共に暮らす家の中も彼の私物が増えてきた。
悠真は部屋に飾る一つ一つを本当に大事にする。物自体は少ないながらもそこに彼の「好き」が詰め込まれているだけで、アキラは嬉しくなってしまう。
「でも、アクセサリーを買うのは初めてだな。どうしてまた?」
素朴な疑問に対し、悠真は恥ずかしそうに眉を歪めた。
「外勤に出ようって思った時に、ふと思ったんだよね。どんな時でもあんたとの繋がりが手元にあれば、生きて帰れる気がするなって」
「つまり、お守りみたいなものかい?」
「そうかも。だってアキラくんの居るところが、僕の帰るところだからさ」
くしゃりと笑う顔を見て、アキラの心臓の鼓動が早くなる。彼が預けてくれる信頼と愛情の分だけ、何かを返してやりたくなる。きゅう、と胸を締め付けられているアキラの前で、こちらの気持ちも知らずに悠真は「聞いてる?」と手を振ってくる。詰めていた息を吐くと、アキラはしっかりと悠真を見据えた。
「分かったよ、悠真。絶対に壊れない頑丈なものを買おう。純金がいいかな」
「待って待って、そういうのじゃなくていいから! 素朴なやつね! いっそ百ディニーのやっすいおもちゃでもいいし!」
「駄目だ。ちゃんとしたのを買うんだ。せめてシルバーにしよう」
「アキラくんの目が本気だ……はいはい、じゃああんたと僕が納得するやつ、明日探しに行こう」
苦笑しながら悠真が承諾したところで、退院の手続きを終えたらしいリンが元気に戻ってきた。アキラと悠真は同時に立ち上がって花束と荷物を手に持つと、うきうきと駐車場に向かうリンの後を追う。一時的でもアキラの大事な人の命を預けていた部屋に小さく頭を下げると、悠真は不思議そうに首を傾げていた。
「来年も、お揃いの何かを買いに行かないかい?」
歩きながらアキラがそう提案すると、悠真は口の端を上げてするりと空いた方の手を絡めてきた。咄嗟に人の目を気にしてしまったが、幸いにも前を歩くリン以外に誰の姿もない。荷物もあるのでそんな些細な変化に誰も気付かないだろう。一応周囲を確認してからそうっと握り返すと、悠真は満面の笑顔を作った。
「あ、じゃあアキラくんにピアスつけて欲しいかも」
「……この年になって初めてピアスか。分かった。覚悟をしておくよ」
「ピアスって覚悟するものでもないけどね?」
くすくすと笑う悠真が、今度は身を寄せてきた。振り向いたリンが兄たちの様子を見て呆れたように腰に手を当て「置いてくよー!」と声を掛けてきたが、悠真は離れる様子を見せない。もしかして駐車場までこのままのつもりかと焦りを浮かばせたが、彼の機嫌がすこぶる良さそうなのを見て、口から出かけた文句は形を失って空気に溶けた。
――まあ、こんな風に甘やかすのも悪くはない。今日だけは。
そう諦めて肩の力を抜く。リンの待つ病院の入り口は明るく、まるでこれから先の未来を示しているように思えた。
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