namaeggg
2025-07-18 19:22:38
10509文字
Public リバース:1999
 

讃歌

黄昏の旋律ED4後の、センメルワイスがローレライと再会するまでのお話です。

 大理石で囲った箱は潔白が塗り固められていた。淡白な蛍光灯の光が白亜の壁面を冴え冴えと照らし出し、すべてを白日の下に晒している。冷たい余白が埋め尽くす室内に閉じ込められたセンメルワイスは、厄介なことになったと白々しく思った。
 ウィーンで犯した数々の重大な違反行為、その対価を自身の稀少事例をもって支払う算段であったが、予期せぬ事故に遭遇し計画は水泡に帰した。財団との連絡を一方的に断ち切り、マヌス・ヴェンデッタが用意したセーフルームで雨宿りをしていただけでなく、あまつさえ収容対象だった吸血鬼とともにやり過ごしたなどと、一体どう釈明できようか。
 しかしてストームが時代を洗い流した後、一九九〇年のウィーン財団支部へ自ら出頭したセンメルワイスはそのまま身柄を拘束され、厳重に収容されることとなった。毎日決まった時間に取調室へ連行されては、ひっきりなしに職員がやってきて尋問を受ける。センメルワイスは周到に用意していた弁解を飲み込み、仕方なく真実をありのままに伝えることにした。下手に隠し立てをして不信を買うよりはましだろうという判断だったが、単純に尤もらしい言い訳が思い浮かばなかったともいえる。
 尋問が数日続いた頃、本部から見知った人物が来訪した。
 入室するなり、白髪の女性はセンメルワイスを認めて不快に眉を顰める。
「よくもおめおめと財団に顔を出せたものね」
 開口一番、吐き捨てるように言った。
「私は言ったはずだわ。『ストームが到来する前に、必ず撤退地点へ向かうこと』って」
 小さな空気孔しかない透明な障壁に怒気を含んだ声がぶつかって、くぐもった音が耳に届く。
 取調室はあらゆる神秘学家 アルカニストに対処できるよう、分厚いアクリル板が嵌め込まれたコンクリート壁で仕切られている。伝説の超自然者へ奇跡の転換を遂げた彼女は、その危険性を考慮しパイプ椅子に胴縄で括られ、さらに後ろ手に手錠をかけられていた。
 だけど、黒い影に変化し影の間を自在に飛び回ることができる吸血鬼に対して、この拘束に威圧以外の効果はあるのかしら。財団に復職できたなら、ここの防護体制について進言してみるのも良いかもしれないわね。
 センメルワイスは別の頭で冷静に考える。
「申し訳ありません、ミス・リンジー。わたしの……
 なんと表現すべきか一瞬迷い、慎重に言葉を選んだ。
「ウィーンで知り合った〝悪友〟が撤退を妨害してきたもので」
「その〝悪友〟とやらは、マヌス・ヴェンデッタの者ではなくて?」
 センメルワイスは素直に頷く。
「ええ、確かにそうでした。しかし、彼女はどうやら組織に裏切られたようです。それで途方に暮れて、わたしに助けを求めてきました。拒否権を与えない形でね」
 窮屈な姿勢のまま、わざとらしく肩を竦ませてみせる。
「ですが、財団に管理されるのはどうしても嫌だったみたいで。ストームが去った後に彼女は行方を眩ませてしまいました。古い人間なので、この時代の発展についていけずに今頃、夜な夜な一人どこかで泣いてるんじゃないでしょうか」
 悪友に関する供述は皮肉が多分に含まれているが、あの日受けた「吸血鬼ハラスメント」に比べればずいぶん温情的だろう。それはこの際重要ではない。
 カツカツと神経質な足音がピタリと止まる。
 足音の主は冷ややかな眼差しを吸血鬼に向けた。
「その馬鹿げた話をどうやって信用しろというの?」
「わたしも、自分が突拍子もない発言をしていると自覚しているつもりです。ですが、これほど杜撰な言い訳をわたしがするはずがないことも、「センメルワイス」という人物をよく知るあなたなら、理解できるはずです」
……それで?」
 片眉を上げ、リンジーは先を促す。
「後日、超自然者に関する報告書を始末書とともに提出します。収容対象だった吸血鬼の生態も、ある程度把握できましたので」
「その程度で、あんたの重大な違反行為の処罰が軽くなると思ったら、大間違いよ」
「ですが、「わたし」という存在はもはや軽々しく無視できないでしょう。すでにあなたの一存では、わたしの処遇は決められない」
――センメルワイス!」
 怒声が、張り詰めた室内に響き渡った。
 足早に詰め寄ったリンジーは、仕切りの手前に置かれた机を強く叩く。
「あなたを隊長に推挙したのは、私なのよ」
「ええ、もちろん存じております。敬愛なるミス・リンジー」
 非難めいた視線を真っ向から受け止め、センメルワイスは完璧な微笑を浮かべてみせる。
「財団にいた頃のわたしは神秘術 アルカナムこそ使えませんでしたが、組織の利益に少なからず貢献してきたと自負しています。それに、余命幾ばくもない人間を隊長にすれば、何かと御しやすくなる」
……あなたは、最も信頼していた部下の一人だったからよ」
 リンジーの視線がわずかに揺れる。
 その動揺を目敏く見つけて、フッと思わず鼻を鳴らした。
「ならば、血清なんて藁にも縋りたくなるような甘言で、弱った人の心を掌握しようとしないでほしかったですね」
「それが財団の方針だからよ」
 赤く染まった鋭い眼光から逃れるようにリンジーは目を逸らす。
 気勢を弱めた彼女に冷や水を浴びせるように、センメルワイスは口を開いた。
「ご心労お察しします、ミス・リンジー。裏切り者のわたしを再び受け入れたばかりに、財団での政治的立場が今、相当危ういことになってることでしょう」
……あんたのような躾のなってない部下を、みすみす敵に引き渡すよりはマシだわ」
――ハハハ!」
 突如、センメルワイスは哄笑を上げた。鋭利な牙を覗かせる狂気じみた態度に、リンジーは一度びくりと肩を揺らす。やがて彼女は盛大に溜息を吐き出した。
「おめでとう、センメルワイス。あなたはもう、立派な神秘学家 アルカニストよ」
 そう言って、看守に目配せすると拘束を解くよう指図する。すぐさま胴縄が解かれ、数時間ぶりに体が軽くなった。センメルワイスが目を丸くしていると、リンジーは顰め面のまま顎をしゃくってみせる。
「もう行きなさい。あなたのことを待っている人がいるわ」
「それって……
「家族、なんでしょう?」
 ハッと、息を呑んだ。
「申し訳ないけど、あなたの友人にも色々話は聞かせてもらったわ。悪く思わないで頂戴」
「それは彼女の判断です。彼女が素直に話をしてくれたなら、いいんですが」
 新生したばかりの吸血鬼が含みのある笑みを浮かべている。
 元上司は今度こそ、呆れたように肩を竦めた。
「あんたの友人って、変わった人ばかりだわ」

   //
 
 釈放されても、すぐに職務復帰というわけにはいかない。翌日、ラプラス計算科学センターに護送されたセンメルワイスは、今度は被験者として「貴重な事例」を提供することとなった。「灼熱の心」を躱し、見事に形質転換を果たした感染種は神秘術 アルカナム研究員にとって垂涎の研究対象といえよう。しかもローレライの歌声を長時間聴いていたからか、本来なら訪れるはずの拒絶反応期はほとんど無風で過ぎたらしい。臨床検査を担当していた「金魚鉢頭」はこれを奇跡だと大仰に評していた。
 だが、当の本人にとっては奇跡という抽象的な賛辞などどうでもよく、一刻も早く病室から出たいという思いばかりが日に日に募っていた。自身を担保に無茶を押し通した自覚は大いにあるが、毎日あらゆる検査を受けさせられ、得体の知れない薬品の匂いが染みついた部屋で二十四時間監視される苦痛は、想像を絶した。
 ある日の午後のこと。センメルワイスはとうとう堪りかねて、検査室で「金魚鉢頭」に不満を漏らした。
「せめて、夜は消灯してくれない? 太陽光じゃなくても、羞明が酷くて頭痛がするのよ」
「それは、なりません」
 案の定、担当医はおずおずと重たげな金魚鉢を横に振った。
 そのヘルメットを被り続けていたら、首の筋肉が煙突のように凝り固まってしまうのではないかと、センメルワイスはいつもくだらない疑問を抱いてしまう。
「どうして?」
「ミス・リンジーが、あなたのことを、徹底的に調べ上げるよう、厳命をしました。これも、あなたの身に起きた、身体変化の、モニタリングですので」
 喉の奥に何か詰まっているかのような話し方で、彼女は途切れ途切れに答える。
「それに、あなたはこの研究に、自ら被験者となることを、熱望していたと、伺いました……
……
 ぐうの音も出ない。
 つまり、これは処罰の一環なのだ。センメルワイスは閉口し、この非人道的な扱いを甘受するほかなかった。幸か不幸か、検査以外の時間は腐るほどあったから、彼女はもう割り切ってこの夥しい量の資料作成に専念しようと決心した。
 別の日の午後。机に齧り付いていると、元部下が押しかけてきた。
「隊長、病室でも仕事ですか?」
 センメルワイスは彼を一瞥すると、すぐに書類に視線を戻す。
「別に、病気というわけでもないもの。わたしの形質転換は無事、後遺症もなく成功したようだしね。だからもう、あなたを殺してしまうような幻覚に苛まれることはないわ」
「あー、それは……
 彼は明らかな困惑を滲ませて、乾いた笑いを浮かべている。
 センメルワイスは咳払いをした。
……冗談よ。それより、わたしはあなたの面会を許可した覚えはないのだけれど?」
 アミール。と、不法侵入者の名を呼んだ。
 彼は任務中にセンメルワイスと連絡が取れなくなった後、同じくウィーンで別行動をしていたカミソリ部隊と合流し、ストームの難を逃れたらしい。
 彼の裏切り行為はストームとともに水に流す予定でいたが、その裏切り行為が結果的に「ライン川のローレライ」を引き合わせたのだから、感謝こそすれ恨む理由はない。むしろ、最初から仲間を欺いていた自分のほうがよほど重罪だろう。
 それでも彼はセンメルワイスが財団に報告しなかったことに恩義を感じ、連絡がつかなくなったことも超自然者と遭遇していたせいだと思い込んでいる。ならば、そのほうが都合がいい。センメルワイスは取り立てて訂正しなかった。
「許可なら、ラプラスの職員にちゃんと断りを入れてますよ。運転中の、世間話のついでにですが」
「運転?」
 その一語で、センメルワイスはやっと顔を上げた。
 聞けば、彼は今、後方支援に回されて財団の専属運転手を勤めているらしい。ストーム症候群を実際に目の当たりにした人間は、たとえ運良く生き延びたとしてもPTSDの症状に長期にわたって悩まされることも多い。自分はただ楽観的なだけですよと、彼は述懐する。
「自画自賛に聞こえるかもしれませんが、自分は隊長の下で事件を調査することでこそ、己の真価を発揮できると思うんです」
 熱心に訴えるアミールを前に、センメルワイスは手持ち無沙汰に回転させていたペンを静かに置いた。
「残念ながら、わたしはもう隊長ではなくなったわ。財団にはかろうじて籍が残ってるみたいだけれど。要注意監視対象としてね」
「ですが、まだそうと決まったわけでもないでしょう?」
 アミールが顔色を伺う眼差しを向ける。
 彼は自分の進退を気にしているのだ。こうして病室に勝手に押しかけるのも、上司に甲斐甲斐しく尽くすことで職務復帰の口実を見出そうとしている。彼の、その人間らしい発想は嫌いではなかった。むしろそういった利己的な「人間」のほうが「神秘学家 アルカニスト」よりもよほど思考が分かりやすい。
「まぁ、わたしのような人間は財団も手に余るでしょうし、おそらく外勤任務に戻ると思うわ。その時は、あなたのことも推薦してもよさそうね」
「本当ですか! あ、いえ、これは別に、そういうつもりでは……
 軽く鎌をかければ、いとも容易く彼は引っかかる。
 慌てふためくアミールの態度に、センメルワイスは思わず苦笑した。
「大丈夫よ。気にしてないわ。それに、上層部の歴史保護隊の隊員に対する扱いも気がかりだったしね。そのついでよ」
「ならば、隊長には早く職務に復帰してもらわないと。そのためにも先生の言いつけを守って、大人しく検査を受けて、健康的な食事を摂ってくださいね!」
 調子を取り戻したらしい彼は胸を張ってみせている。まるで幼児に言い聞かせるみたいな口ぶりに反駁したい気持ちをぐっと堪えるも、ひとつだけ愚痴を零した。
……これ以上健康食品を口にするくらいなら、誰かの血を飲んだ方がましよ」
 そうして膨大な検査を淡々とこなし、二度と口にしたくないほどの健康食品を黙々と食し、淡白な生活に身も心もすっかり憔悴しきった頃、センメルワイスはようやく退院を果たした。気づけば一ヶ月近く経過していた。

   //

 退院後、まず向かったのは財団本部だった。入院中、皮肉にも唯一の気晴らしとなった始末書と報告書の束を角を揃えて提出したのち、辞令に従いタイムキーパーの元を訪れた。職員の説明によれば、当面は本部ではなく彼女の管理下で登録されるらしい。
 タイムキーパー。かねてより噂は耳にしていた。ストームの影響を受けない存在。カウントダウンを告げる者。彼女のスーツケースには種々の奇人変人が集まっているのだとか。わたしもそのコレクションのひとつになりそうね。
 そんなことを考えながら足を動かしているうちに、指定の場所へと到着した。
 部屋にはすでに小柄な女性が待機していた。ロングコートを羽織り、細身のスーツをさらりと着こなした彼女は、目深に被っていたシルクハットを軽く持ち上げた。
「こんにちは。君がミス・センメルワイスだね」
 落ち着いた振る舞いを見せているが、色白の肌にそばかすが散らばった面立ちはまだ少女と言ってもいい。想像よりも幼い、と抱いた印象をおくびにも出さずに、センメルワイスはごく自然と笑みを作ってみせた。
「こんにちは、タイムキーパー。以前からあなたのことは耳にしていたわ。このご訪問がご迷惑にならないといいのだけれど」
 和やかに握手を交わす。爪を隠し、笑顔を取り繕うのはセンメルワイスの処世術だ。首に巻いた白い繻子のスカーフは今日も汚れひとつなく清潔で、折り目のひとつひとつまできっちり整えられている。折り目正しく、それでいて相手に付け入る隙を一切与えない。彼女はこれまでも、そしてこれからも変わらずそう生きていくだろう。
 挨拶もそこそこに、タイムキーパーは持参していたスーツケースをセンターテーブルに広げ出す。センメルワイスはしげしげと観察した。
「にわかには信じがたいわね。スーツケースの中に人が入るだなんて」
 率直な感想を漏らすと、彼女は慣れた様子で淡々と答えた。
「みんな最初はそう言うよ。でも、きっと気に入ってくれると思う」
「楽しみだわ」
 スーツケースに足を踏み入れた瞬間、まるで巨大な掃除機に吸い込まれるような感覚が全身を襲った。視界が引き剥がされ、宙に放り出されたかのような、一瞬の浮遊感。次に地面に足が着くとわずかにバランスを崩したものの、しっかりと踏みとどまる。そして、瞬きの間に応接室とは別の、見知らぬリビングのような部屋が目の前に広がっていた。
 事前に知らされていたこととはいえ呆気に取られたように周囲を見回していると、後から来たタイムキーパーが平静に告げた。
「ようこそ、スーツケースへ。君のことを歓迎するよ」
 それから、と前置きして。
「君のことをずっと待っていた人がいるんだ」
 おいで、と彼女が風の中に呼びかける。センメルワイスが弾かれたように体を動かすのと同時に、背後からそよ風がやってきた。
――あっ、センメルワイス!」
 綿菓子のように甘くて柔らかな声が耳朶に触れた。
 パタパタと裸足の足音が近づいてくる。振り返れば、白い拘束衣の裾が干されたシーツみたいにふわりと軽やかに舞って、自由な腕で無邪気に抱きついてきた。
 センメルワイスは目を細めて、そっと風の名前を明かした。
「久しぶりね、ローレライ」
 ヒールの高さ分見下ろせば、美しい翠玉の宝石もまたセンメルワイスを見上げた。
「本当に待ちくたびれたわ! わたしの手を引っ張ってこの世界に連れ出してくれたのに、一緒に来てくれないんだもの」
 ぷっくりと頬を膨らませている。
「待たせたわね。財団はどうも、わたしのことが好きみたいで。なかなか解放してくれなかったのよ」
 乱れた前髪を軽く整えてやると、彼女は得心したように頷いていた。
「それもそうね。わたしもノートちゃんのことが大好きだもの」
……ローレライ」
 不意に止まった手つきに彼女はきょとんとしている。純真な視線から目を逸らすように、センメルワイスが切り出した。
「ミス。そろそろ部屋へ案内してもらっても?」
 静観に徹していたタイムキーパーは首肯した。
「そうだね。ここで立ち話もなんだし、二人とも積もる話もあるだろうから。行こうか」
 スーツケース内の諸注意とウィルダネスの説明を簡単に受けながら、部屋までの長くない距離をゆっくりと進む。道中、どこからか吸血鬼の噂を聞きつけて、耳の早いホラー好きに囲まれたりもしたが。奇人の対応はもう慣れた。今となっては、自分も同種であるからだ。
「センメルワイス。ここはとてもいいところだわ。面白い人がたくさんいるの。口笛や骨やバイオリン……。たくさんの楽器があって、その音色で会話するのよ。わたしも、何か楽器をやってみたいわ」
 センメルワイスの手を握りながら、ローレライは本当に楽しそうに語っている。それを心地よく聞き流していると、先頭のタイムキーパーがとある扉の前で立ち止まった。
「ここが君たちの部屋だよ。ローレライも同意してくれたし、一応希望通り同室にしたけれど、本当に良かった?」
「ええ、問題ないわ」
 どうせこの部屋を使うことは稀だろうし、という言葉は飲み込んだ。
 外勤任務に戻れば、財団は今まで以上に自分をこき使うだろう。数々の契約違反を犯した鼻摘み者を体よくケース内に押し込めている感は否めないが、自室を与えられるだけ厚遇だ。
「他に必要な家具があれば遠慮なく言ってほしい。申請が通るかは別だけど、必要に応じてなるべくすぐに手配するよ」
「お気遣い、感謝するわ。タイムキーパー」
 タイムキーパーと別れたのち、浮き足立ったローレライの手引きで入室する。彼女が先に暮らしていたとは思えないほどに室内は殺風景だった。家具らしい家具はダブルベッドとデスク一式くらいで、使用された形跡もほとんどない。空き部屋と言っても差し支えないくらいに生活感が微塵もなかった。
 彼女は何も欲しがらない。そのことを端的に示している。
「ローレライ。カーテンを閉めてくれないかしら。わたしが窓に近づくと火傷をしてしまうから」
「そうね。あなたはもう吸血鬼だもの。お日様に噛まれないようにしなきゃ!」
 綿毛が弾むようにローレライが窓辺へと駆け寄っていく。その間に外套と帽子を外し、センメルワイスは夢心地のまま一息ついた。
 まさか、完全密閉されたスーツケースの中で暮らすことになるなんて。
 無尽蔵に広がるウィルダネスも、その原理はまったく理解不能だ。奇妙なことは山ほどあるが、センメルワイスはひとまず考えるのを放棄して、ベッドの端に腰を下ろした。尋問に検査、奇怪なスーツケース探索と続いて、さしもの吸血鬼も疲労が溜まっていた。
 溜息を零していると、とてとてと足音が駆け寄ってくる。巻き毛がふわりと浮いて、少女は当然のように隣へちょこんと座った。
「取り調べでは厳しくされなかったかしら?」
「いいえ。白黒チェックの人たちに、ウィーンで起きたことを話してほしいって言われたんだけど、わたしが少し話し始めたら、すぐにお話が終わっちゃった。岸に当たって砕けたあぶくのように、わたしに聞きたいことがたくさんあったみたいなのに。変なの」
「そうね。あなたの話は、きっと石頭たちには理解できないでしょうね」
 彼らの困惑が目に浮かぶようで、センメルワイスは内心ほくそ笑む。
「そのあとにね、すぐにヴェルティがわたしを呼んで迎えに来たの。わたしのいた時代は「洪水」によって押し流されてしまったけれど、ヴェルティはこの箱の中にずっといていいって言ってくれたのよ」
「そう」
 ゆらゆらと揺れる鮮やかなリボンを穏やかな心持ちで眺めていると、唐突にローレライが振り向いた。
「ノートちゃん」
 空調の効いた室内は季節感の欠片も転がっていない。カーテンの隙間からわずかに零れる日差しはまだ明るくて、けれど、そもそもケース内は外界と同じ時間が流れているのだろうかと思う。
「何か、欲しいものがあるんでしょう?」
 薄暗い部屋の中。穢れなく透き通った瞳にまっすぐに見つめられて、センメルワイスは思わず息を呑んでしまう。
 ウィーンでは、生き延びることしか考えられなかったから、気づかなかった。
 ローレライは美しい。まるで、神の手ずから象られているかのように。
 歌以外にも、人を魅了する力を秘めている。
「ヴェルティは何も欲しがらないの。わたしを、この小さな箱に飾るだけ。不思議な人だわ」
 ローレライがぷらぷらと足を揺らすたび、水しぶきが上がる音色が聞こえた気がした。
「あなたは、わたしをどうしたい?」
 本質を見透かそうとする眼差しが、優しく問いかける。
 彼女は人々のために祈りを捧げてきた。何の見返りも求めず、両親から与えられた役割を喜んで引き受けている。その無償の善意に命を救われたのも事実だ。
……別に、どうもしないわ。あなたを守れたのだから、わたしはそれで充分よ」
 センメルワイスは無意識に拳を固く握る。
 ストームが時代を押し流す直前、両目を覆い隠された彼女は個人を剥奪され、救いのシンボルとして、信者たちの手によって天高く持ち上げられていた。そんなローレライを地上に引きずり下ろし、彼女自身を助けたいと思ったのは、センメルワイスの独善だったのかもしれない。
 だとしても、センメルワイスの気が済まなかったのだ。大勢の人を助けられたとしても、恩人の未来を犠牲にしていい理由など、現世に存在しない。
 ローレライは納得していないのか、柳眉を小さく顰めて、うーんと唸った。
「でも。今のあなた、とってもお腹を空かせてるみたい。何度もわたしのことを呼んでいるわ。助けて、助けてって」
 包帯の巻かれた手が、強張った掌の上にそっと重なる。
「ここにはわたしがいて、あなたがいる。水しぶきと水しぶきみたいに」
 あなたが、そうしたんでしょう?
 エメラルドの瞳が訴える。
 何もかもを湛えた深い湖の底に、欲しいものがある。
 手袋越しに伝わる柔らかな感触に促されるように、センメルワイスはやっと口を開いた。
「わたしを、あなたの言う音符 ノートの一員にしないで」
 目を丸くしていた少女は思い出したように、ぱっと相好を崩した。
「そうね。音符にもそれぞれ名前があるわ。「ド」だったり、「レ」だったり……。どの音符も大切なものだけれど、ひとつひとつ奏でる音は違うの。あなたはそのことに気づかせてくれたわ」
 一度吐露すると、センメルワイスの胸中に沸々と欲求が湧き出る。
 感性を許容した彼女は、もはやそれを拒むことはできない。
……名前を呼んで」
 それは、ずっと抱えてきた本源的な感情だ。
「わかったわ。センメルワイス」
 ローレライが目の前の、ただ一人の名前を呼ぶ。
 甘やかな声が鼓膜に触れた瞬間、衝動に突き動かされるように、ローレライに向かって渇望のまま手を伸ばした。
「もっと……
「うん。センメルワイス」
 ローレライの背中に腕を回せば、応えるように抱きしめ返される。
「センメルワイス。」
 名前を呼ばれるたびに自分の所在が明らかになっていく。
 心に何層も重ねた表皮が一枚一枚と捲られていくごとに、理性で蓋をしてきた本心が剥き出しになる。それは慣れない感覚だった。自分自身すら欺いてきたセンメルワイスは、この後どうすればいいのか分からない。
 大勢に祝福をもたらすローレライに、唯一無二の自分自身の名前を呼ばれる。
 それはなんて身勝手で……居心地がいいのか。
 まだ上手く制御できない吸血鬼の力で少女の体を壊してしまわないように、ほんの少しだけ腕の力を強くする。すると、ふふっと耳朶に直接吐息が触れた。
「何を、笑っているの?」
「ううん。ただ、今のセンメルワイス、まるで大きな猫ちゃんみたいだわ」
 よしよしと、あやすように背中を撫でられる。にわかに羞恥心が込み上げて、顔の中心が熱くなる。それを押し隠すように彼女の首元に頭を押しつけた。
「寂しかったのね、センメルワイス」
 そう言って、小さな声で上機嫌にハミングをし始めた。
 ローレライは、ただ相手の求めに応じて動いているだけだ。楽譜にたくさん存在する音符のひとつにたまたま名前を見つけて、まだそれを復唱しているだけ。そのことを、センメルワイスは明確に理解している。それでもローレライに名前を呼ばれると、胸の奥がどうしようもなく温かくなるのを実感した。
 あの日。咄嗟に口をついて出た言葉をセンメルワイスは静かに反芻する。
 
 ――家族。

 もしも自分に家族がいたならば、こんな感覚なのだろうか。
 穏やかな湖面に体を委ねるように、しばらくの間ローレライに身を任せた。

 次に、ドアが開くまでは。









 
「ミス・センメルワイス。すまない。書いてもらいたい書類を渡しそびれたから届けに来たんだけど……
……タイムキーパー。もう一枚申請書を寄越してもらえるかしら。部屋に鍵が欲しいの。早急にね」