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2025-05-26 23:57:01
11576文字
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だって、いっしょにいたい!

ポリネシアンセックスを試みるオトスバのお話。
導入〜1日目まで。行為自体は何もしていません。あしからず。

 それは、二人にとってまさに吉報と呼ぶに相応しかった。
 
『えっ? オットー、まじでこっちに来れんの?』
「ええ。なんでも先方が直々に挨拶に来て欲しいってことらしくてですね。いつもなら別の方に行ってもらうんですが、何しろ場所が場所なもんで」
 
 週半ばの水曜日、午後十時。一人分の食器を洗い流しながら、オットー・スーウェンはキッチンカウンターに置いたスマホに柔らかく語りかけた。
 スピーカーモードに切り替えた電話の向こうでいつもより声を弾ませているのはナツキ・スバル。オットーの友人兼恋人だ。ちなみに年齢は三個差、出会いはスバルが中学三年生のときである。
 不思議な縁で、スバルが高校を卒業すると同時に恋人関係になった二人は現在オットーの仕事の関係で遠距離恋愛真っ最中だ。
 
「僕もまさか行き先がナツキさんのところだとは思わなくて。多分一週間はそっちにいられるかと」
『え、一週間も!? ――い゛ッ!! ってぇ……!』
……落ち着いてください」
 
 喜びの声が掻き消される勢いで、スピーカーが音割れするほどの衝撃音が端末から響いた。その後すぐにスバルの悶絶する声が聴こえて、思わずオットーは喉の奥で笑いを堪える。
 おそらく今電話の向こうには、座った体勢から勢いよく立ち上がったためにローテーブルに膝を盛大にぶつけ、その痛みで床に転がっているスバルが居るはずだ。安易に想像できる。
 
『い、一週間もこっちいんの……?』
「はい。正しくは仕事日が平日の五日間、移動日が前後一日ずつ。あとは――もう一日有給を分捕ってきました」
『っ、それって……!』
「まる一日、僕と一緒に過ごしてくれますか」
 
 ひぇ、と奇声のような何かよく分からない声がテレビすら点いていない静かな空間に響いて、その可笑しさにオットーはとうとう吹き出した。
 洗い物と軽い水周りの掃除を終えてハンドタオルで手を拭い、通話中の画面を表示し続ける端末を掴む。スピーカーモードをオフにし、受話口を耳に押し当てた。
 
「僕はそっちの地理にはあまり詳しくないので……行きたい場所があるなら事前に言ってくれると助かります」
『おう! そういえばオットーはこっちにいるあいだ、どこに泊まるわけ?』
「あーまだ詳しくは決まってないんですが、おそらく会社持ちでどこかのホテルになるんじゃないかなと」
『そ、そっか。そうだよな』
「なんなら一緒に泊まりますか?」
 
 ソファに腰掛け口角を上げながら問い掛けるオットーの提案に、えっ、とスバルの声が驚きの音を残したまま途切れる。
 それから数十秒悩んだ気配を見せたあと、スバルはひとつの案をオットーへと提示した。
 
『あの……さ、』
「ん?」
『俺ん家に、泊まんねぇ……?』
 
 高校卒業後、大学への入学を期に親元を離れたスバルは新幹線を使わなければ会いに行けないほど離れた地で一人暮らしをしている。
 最後に会ったのは先月の盆で、それもたった二泊三日。一般的な会社員であるオットーよりも短い休暇に心配と寂しさを口にしたが、スバルは申し訳なさそうに一言謝っただけであっさりと帰ってしまった。
 もちろんそのあいだ、スバルは実家で寝泊まりしていたために性的な接触どころかゆっくり会話をする時間もあまり取れなかった。それでも慣れ親しんだ空気に触れて表情を綻ばせるスバルのそばにいることは、オットーも心地よかった。
 寂しくなかったかと訊かれたら、それはまた別の話だけれど。
 
『ほら、夏はあんま一緒にいられなかったからさ』
「どっかの誰かさんがそそくさと帰っちゃいましたしね」
 
 電話の向こうで「うぐっ」と些か心にダメージを受けた声が上がる。
 軽い反応。オットーが揶揄っているだけだと分かっているからこそ返せる反応だ。その証拠に続いた言葉は「ごめんごめん」とこれまた軽い返事である。
 生憎スバルは、揶揄っているように見せてその実一か月前のことを根に持っているオットーの胸中には全く気付いていないようだった。
 あの夏、本当はスバルが実家を後にしたらもう一泊は自分の家で過ごさないかとオットーは密かに提案しようとしていたのだ。お構いなしに出鼻をくじかれてしまったから計画していたことすら終ぞ知らせはしなかったけれど。
 
「ナツキさん、忙しいんじゃないんですか」
『まぁ普通に大学はあるけどさ、バイトは別に繁忙期じゃないから休めると思う』
 
 それにそろそろ休めって言われてるんだよな、と気まずそうに告げたスバルの言葉に思わず抗議しかけた口をなんとか噤む。オットーとて、恋人が強請った週一回の通話時間を無下にはしたくない。
 ちなみになぜ週半ばの水曜日に固定されたかといえば、週末はスバルが飲食店でバイトをしているために忙しいことと、『週の真ん中にオットーの声聞けたら一週間頑張れる』というスバルの可愛らしい根拠により決まった。
 そのため、土日祝が休みのオットーは水曜日は絶対残業にならないよう仕事を調整している。
 要らぬ気を遣わせぬよう、スバルには水曜日はノー残業デーだと法螺を吹いてはいるが。
 
「一週間も入り浸ってしまっていいんですか?」
『俺は大丈夫。あっ、でもやっぱホテルの方が綺麗だし広いし、そっちがいいなら無理にとは――
「いえ、お世話になります。ありがとうございます」
『! おう! 掃除しとくな! あ、駅まで迎えに行くから!』
「落ち着いてください、まだ二週間も先の話ですよ」
 
 そう窘めるオットーの顔も情けなく緩んでいる。とてもスバルもとい恋人に見せられる顔ではなかった。
 一週間二人きりの夜、それもスバルの家でなんて。嬉しくないわけがない。給料や福利厚生の面だけで選んだ仕事場にこれほどまで感謝をしたのは今回が初めてだった。
 少しだけ火照る気がする頬を手のひらで押さえていると、不意に強ばった声でスバルがオットーを呼んだ。
 先ほどの甘さから打って変わった空気に、オットーは端末をしかと持ち直しソファの上で姿勢を正す。
 
「どうしたんですか」
『あ、の……俺さ、俺……
「はい」
『オットーに、お願いっていうか、あの……して欲しいこと、あって、』
「言ってみてください」
『えっと……
 
 言い淀むスバルの言葉の続きをオットーは辛抱強く待つ。
 スバルがオットーに何かを強請る時、オットーは急かすことをしない。早く言えと詰め寄ってしまうと、やっぱり大丈夫と気持ちを押し込めてしまう癖があるのをオットーは知っているからだ。
 そもそもスバルが改まって何かを頼むことは珍しい。だからこそたとえ少し無理をしてでも――もちろんそれは表には出さないが――叶えてあげたいと思うのが友人心であり、彼氏心でもあった。
 次の言葉を待っていると、画面を二、三度叩く音がノイズとなって鼓膜を擦る。その直後、ブブ、と耳全体に端末の振動が伝わりメッセージアプリへの受信を知らせた。
 
『こっ、これ、もしオットーがよかったらでいいんだけど、』
「待ってくださいね、今確認を――
『わ、分かった! 返事はいつでもいいからさ! あと、無理なら無理って断ってくれていいから! じゃあ、また連絡するな!』
「え? ちょっ、」
 
 いつもの〝また来週〟の言葉すらなく、通話がスバルの一方的な捲し立てによりぶちりと切れる。
 その早急さに着いていけず、オットーは数十秒間無音の端末を耳に当てたまま呆然としていた。
 緩慢な動きで画面をタップしメッセージを開く。数秒の読み込み時間ののち切り替わった画面には見知らぬ単語が羅列していた。
 
「〝ポリネシアンセックス〟……?」
 
 てっきり自分の手持ちでは買えないような物を買って欲しいとか、一緒に行きたい場所があるとか、そういった類の頼みだと思っていたオットーは、ウェブサイトの見出しに大きく書かれたその文字を食い入るように見つめた。
 心做しか少し汗ばみ始めた親指を下から上へ動かし、下に続くその行為についての説明を噛み締めるように読んでいく。
 五日間かけてじっくりと行うらしいその行為は、最終日以外挿入おろか性器も刺激せず、会話や軽い愛撫、キスなどで気分を高めていくらしい。
 やり方や説明を読み進めていくうちに究極のセックスという言葉がやたらと目につきスバルに今までの行為で物足りなさを与えていたのではないかと不安になる。
 スバルが大学に入ってから、遠距離恋愛ゆえに会う回数はもちろん、身体を重ねた回数はそう多くはない。離れることで不安になったスバルを、否、自分自身を安心させたくて抱いた夜は記憶に新しいが、それからもスバルがまともに思考できなくなるまで時間をかけて抱いてきたつもりだった。
 
「ナツキさんに限ってまさか足りないってことはないでしょうし……
 
 足りないと言うなら、それはむしろオットーの方だ。
 愛おしさを具現化したスバルに会うたび、そしてその身体を自身の腕の中に閉じ込めるたび、性行為を覚えたての中坊さながら見境なく抱いてしまいたくなる衝動をなんとか年上の意地で噛み締めている。
 それでもやり過ぎだと翌日ベッドに沈み声を枯らしたスバルに悪態を吐かれるのだから、当の本人がそれ以上を望んでいるとはとても思えなかった。
 それに加えて、感じやすく達しやすいスバルが四日間も快楽を我慢することを強いられる行為をわざわざ選ぶ理由がオットーには分かりかねた。
 些か悶々としながら文字を追っていたその時、正答と呼ぶべきひとつの単語に目が奪われる。
 
……なるほど。これは……
 
 真の愛情を確かめ合える、とこれ見よがしに強調されたピンク色の文字をオットーは愛おしげに指でなぞった。
 どうやらオットーの可愛いスバルは、単なる身体同士の繋がりだけではなく精神的にも深く繋がることを目的としたセックスがしたいらしい。
 メッセージアプリを再び立ち上げ、送られてきたURL以降うんともすんとも動かないスバルとのトーク画面に「分かりました」と打ち、承諾を投げる。
 ずっと返事を待っていたのか、すぐさま既読の二文字が吹き出しの横に浮かび上がったかと思うと、その画面は瞬く間に着信画面へと切り替わった。
 
――はい」
『い、いいの……? 本当に?』
「ナツキさんがしたいって言ったんじゃないですか」
『そう、だけど……本当にしてくれんの……?』
 
 繰り返される問答にいい加減しつこいと思わないでもないが、その不安げに揺れる声を耳にすれば咎める気も起きない。
 こういう時、スバルはなぜか『自分が頼んだから承諾された』と思いがちだ。
 実際、スバルの頼みであればどんなことでも叶えたくなってしまうオットーにとってはあながち間違ってはいないのだが、何でもかんでも仕方なく願いを受け入れているわけではない。
 
「五日かけてやるんでしょう。じっくりとお互いに向き合うにはいい機会なんじゃないですか?」
 
 そう。だからこそ、今回のこの行為に興味を持ったとも言える。
 オットーがどれだけスバルを愛しているか。いつもならば手早く言葉と粘膜同士の触れ合いでぶつけるところを、今回は五日間という長い時間をかけて教え込むことが出来る。
 それは例えば、視線だったり言葉だったり触れ合いだったりと、オットーが持つありとあらゆる方法で。
 そんなオットーの胸の内を知るはずもなく、受話口の向こうでは嬉しさを隠しきれないスバルが照れたように笑っている。
 その声に、今すぐ抱きしめたくなるほどの愛おしさが胸いっぱいに広がってオットーは思わず奥歯を噛み締めた。
 
……楽しみにしてますね」
『うん……うん! 俺も……!』
「詳しく日程が決まったらまた連絡します。あまり夜更かししないでくださいね」
『ん、分かった! オットーもあんまり無理しないようにな。おやすみ』
「ええ。おやすみなさい、また来週」
 
 今度こそ綺麗に終わった通話でお役御免になったスマホをソファに放り投げる。
 
……五日間、ですか」
 
 放心状態のままオットーは己の顔面を手のひらで覆うと、ソファにその背中をぐったりと沈ませた。
 今ですら通話越しの恋人の挙動に胸が高鳴って全てを貪ってしまいたい衝動に駆られているというのに、逸るこの心が五日間も辛抱出来るだろうか。いや、辛抱しなければ全てが水の泡になってしまう。自身の勝手な欲で、スバルの願いを蔑ろにしていいはずがない。
 ある意味の責任がオットーに伸し掛かり、その重大さに思わず溜息が漏れる。
 今更、我慢出来なそうだからやめようだなんて一体どの口でほざけるだろう。
 ならばもう、腹を括るしかない。
 己の欲に負けない覚悟、そして、欲に負けそうなスバルの言葉に屈しない覚悟を持つべく、オットーはその夜からスバルに会うまでの二週間、煩悩を消すための時間を大幅に増やしたのだった。

  ◇ 
 
「オットー、こっち!」
 
 改札を抜けたオットーは、ただでさえ目立つというのに手まで振ってはしゃぐスバルの姿に目を細めた。
 そこそこ重量のあるキャリーバッグを引き受けようと伸ばす手を軽くあしらい、代わりに土産の袋を持たせる。気遣わなくていいのに、と尖らせた口はそれでもどこか嬉しそうに緩んでいた。
 
「なぁなぁオットー、昼何食べたい?」
「ナツキさんは?」
「俺はいいんだよ、オットーの好きなもん作りてぇし」
「待ってください、ナツキさんが作るんですか?」
「え? そうだけど……あっ、確かに店のもんと比べたらそりゃあ負けるだろうけど! でもそこそこ腕上げたんだぜ、俺!」
 
 いや、そうじゃなくて――
 オットーはそう開きかけた口を噤む。これから丸々一週間宿としてスバルの住まいを借りるというのに、このスバルはまさか飯の世話までする気でいるのだろうか。
 大学は通常通りあると言うし、それではあまりにもスバルにとって負担なはずだ。こちらにいる間は全食事は無理だとしてもある程度はオットーが金で何とかしようと目論んでいたのに、またもや出鼻をくじかれる。
 
「ナツキさんにばっかり負担をかけるわけにはいかないですよ」
「負担なんて思ってねぇよ全然。俺がやりたいからやってるだけ! それに――
「それに?」
「な、なんでも!」
 
 怪しさ満点にはぐらかすその態度に、オットーはますます眉間に刻んだ皺を深くした。
 その気配をスバルの勘でいち早く察知したスバルは、握った土産袋の細紐を手のひらで弄びながら上気した頬のまま否定の言葉をたどたどしく紡いでいく。
 
「ち、違うくて、その、さ……その……
「はい」
……いっぱい、してもらうから、俺は」
 
 ぶつ、ぶつ、と不自然なほどに途切れるその主張が何を指すかなど考えずとも分かる。
 つまりスバルは五日間オットーに抱かれる対価として宿や飯を提供するつもりらしい。
 なんとも、まぁ。よくぞそこまで気持ちを蔑ろにしてくれるものだとオットーは呆れ半分で舌打ちを鳴らしそうになる。
 苛立つ心のままに、空いた手でスバルの頭に軽く手刀を入れる。と、襲いかかった突然の衝撃に「いてぇ!」と頭を押さえ、スバルは若干の涙目でオットーを睨んだ。
 
「俺なんか変なこと言った?」
「言いましたねえ」
「え、し、したくなくなった……?」
……
 
 ここが、駅のロータリーでなければ。
 今いるところがこんな場所でなければオットーは間違いなくスバルの腰が立たなくなるほど荒々しく口内を貪っていた。そう、間違いなく、だ。
 不安げに見つめてくる潤んだ猫目が憎たらしい。何をどう曲解すれば恋人の言葉一つで今回の醍醐味――と言っていいのかは分かりかねるが――を易々とおじゃんに出来るというのか。健気もここまでくるともはや重症だ。
 だいたい恋人になってからもう何年も経つというのに、未だにスバルはオットーに対して『付き合ってもらっている』という感覚が抜けていないきらいがある。
 スバル自身は誰よりもオットーのことが好きで愛してくれているのが分かるだけに、同じだけ、否、それ以上の愛情を言葉や態度で返しても何故か半分程度しか受け取ってくれないのだ。
 それがオットーにとっては非常にもどかしく、だからこそ今回のスバルの提案はそういった意味でもまさに好機だった。
 
「楽しみにしてたのは別にナツキさんだけじゃないですよ」
「えっ、オットーも楽しみにしてくれてんの」
「遠距離恋愛中の恋人と一週間もいられるんですよ、当たり前じゃないですか」
「こっ、こいびと、」
 
 何年も付き合っておいて正直正気かとは思うが、未だにスバルは二人の関係性を表すその単語に顔面を茹でダコのごとく真っ赤に染める。
 その初な反応が見たいがためにここぞと言う時に口にするオットーこそが確信犯であることは否めないが、しかし。
 
「いい加減慣れてくださいよ……
「慣れるわけねぇよ……今だってオットーが俺の、こ、恋人でいいのかな、って思うし……!」
……そういうとこですよ、本当に」
 
 もはや呆れ半分で額を指先で小突く。刺激が甘かったからか、スバルは目尻を下げたまま「へへ」と照れたように笑った。
 オットーの言葉をまるで理解していないのは明白だったが、まぁ今はそれでもいいかとそのまま前髪をくしゃりと掻き混ぜる。
 
「張り切ってくれているのは嬉しいですが、今日は僕も休みですし、せっかくならどこかに食べに行きませんか」
「そっか、確かに仕事の日に飯作って帰り待ってた方が効率いいもんな」
「僕のために食事を作って帰りを待っててくれるんですか?」
「もちろん、そのつもり!」
 
 満面の笑みで振り返ったスバル姿に、ぐう、と喉の奥に出かかった言葉を押し込める。
 健気で尽くしたがりがデフォルトのスバルがオットーを引き留めようと企んでいるはずもないが、そんなことを五日間もされてしまったら本気で帰りたくなくなってしまうかもしれない。
 最も、進学先を熟考していたスバルに広い世界を見てこいと背中を押したオットーが帰りたくないなどと駄々をこねるわけにはいかないのだが。
 何食べたいか教えてくれ、とスバルが軽やかに笑う。
 オットーは最愛の隣を歩ける幸せを噛み締めながら、少しだけその身をスバル側へ寄せたのだった。
 
 *
 
 結局、昼食はスバルが『前々から行きたかった』という理由で訪れたラーメン屋になった。オープンしてから日が浅いのか店内は小綺麗で、メディアで紹介されたという張り紙のとおり客もそこそこに多い。
 男二人、札二枚で事足りる欲のない昼食に本当にこんなところでよかったのかオットーは懲りずに疑問を抱えたが、盗み見た横顔は無邪気に麺を啜っていたので良しとした。
 そんなオットーの胸中など露知らず、スバルはたびたび満面の笑みで「美味いなオットー!」と振り返るものだから目の前の白すぎるどんぶりに入った琥珀色のスープがたちまち最上級の料理へと変化してしまう。
 辛党なオットーには少々物足りなさを感じたが、それでもスバルが住む地で、スバルと一緒に啜った麺は格別だった。
 腹を満たしたその後は、当たり障りのない近況を互いに話しながらスバルの家へ向かう。
 足が少しずつ目的地へ近づくたびにスバルの頬が上気していくのが目に見えて分かり、オットーは行き場のないむず痒さに思わず頬を掻いた。
 解錠の際、スバルの微かにではあるが覚束ない手つきの様子にオットーを意識しているのがありありと伝わってきてつい苦笑してしまう。なんて素直で、いじらしい。自分から提案してきたくせに、今からそんなんで大丈夫なのか。
 揶揄ってやりたい気持ちはあるが、いっぱいいっぱいな恋人の様子にさすがにそれは野暮かと思い留まる。
 しかしなかなか全開にならない玄関扉に痺れを切らし、スバルの後ろから手のひらで扉に圧を掛けると慌ててスバルもドアノブに力を込めて引いた。
「ご、ごめんオットー、ぼーっとしてた」
「そんなに期待されるとこっちまで調子狂っちゃいますね」
「きっ、期待って……! する、だろ……だってオットーと一週間も二人きりなんて今までなかっ――
 
 むぐ、とくぐもった音が不自然に会話を切断する。
 オットーが手のひらで咄嗟に押さえつけたスバルの口は、最後まで言葉を紡ぐことが叶わなかった。
 
「計画を台無しにされたくなかったら、不用意に煽らないほうが得策ですよ……
「んー! んん!」
 
 煽るつもりなど毛頭なかったと伝える手段を無情にも奪われたスバルは、必死で首を横に振り手をばたつかせる。
 しかしその挙動や声色もこの場ではオットーにとっては十分すぎるほどの毒であり、自身の堪え性のなさにもはや溜息を吐くしかなかった。
 その長く深い溜息の意味を勘違いしたスバルの肩がびくりと罪悪感で跳ね、見開かれた猫目がみるみるうちに潤んでいく。一呼吸遅れてその事態に気付いたオットーは慌ててスバルの口を覆っていた手を外した。
 
「ナツキさ、」
「ご、ごめん、俺……俺ばっかり浮かれて……
「そうじゃなくて……あー……僕も少し……いや、だいぶ浮かれてる、ので……必死に抑えてんですよ、これでも」
「え? 別に抑えなくても――
「今から朝まで抱き潰したらナツキさんのやりたかったこと全部なしになりますけど、それでもいいんですか?」
 
 ひゅう、とスバルの喉が恐怖に鳴る。それは困るとばかりに青ざめるスバルの表情に苦い笑いを零したオットーは、空気を変えるように黒髪をくしゃりと撫でた。
 
「少し休んだら買い出しにでも行きましょうか」
「お、おう……
 
 キャリーバッグの持ち手を掴み床に車輪がつかないよう移動させる恋人の背中を見て、スバルのなかに愛おしさが募る。
 ――ああ、オットーがいる。俺の家に、オットーが。
 嬉しくて、むず痒くて、堪らない。幸せが過ぎる。
 スバルはだらしなく緩む頬を押さえながら、夢にまで見たこれからの一週間に思いを馳せた。

 *

 オットーの提案どおり、夕方まで仮眠をとった後はスーパーでとりあえず夕食と朝食の食材を購入し、帰宅した。
 夕食はオットーの要望が和食だったため、鯖の味噌煮とほうれん草と茄子の煮浸し、大根と油揚げの味噌汁、白米というシンプルな食事になった。
 居酒屋でバイトし、賄いを担当する日も多くなったというだけあって料理の腕は高校生の頃より格段に上がっている。それでいてオットーの舌によく馴染む味つけだった。
 洗い物を二人で分担し、一番風呂をオットーに譲ったスバルは甲斐甲斐しくオットーのスーツをハンガーに掛けたり自身の大学の準備をしている。
 
「お風呂、先にありがとうございました」
「ん。ゆっくりできた?」
「ええ、とっても」
「それならよかった。じゃあ俺も入ってくる」
 
 はい、と応えたものの目の前からスバルが動く気配がなくオットーは混乱する。
 どうしたのかと問えば、不自然に目線が右へ左へと動き最終的には俯いたまま固まってしまった。
 
「ナツキさん?」
「今日は、その……準備、は、しなくていいんだよな?」
 
 バスタオルを抱き締めるように抱えているスバルの指先に圧が掛かって白く染まる。
 緊張と期待。その二つをごちゃ混ぜにして赤面に塗りたくったオットーの恋人は猫目を潤ませてオットーの言葉を待った。
 
「そう、ですね。今日は一日目ですし。準備するのは最終日だけかと」
「う、うん……! 分かった!」
 
 途端、ぱあ、と眩しく綻んだ顔がオットーの胸を打つ。ギャグ漫画さながらに胸を押さえて蹲りたい衝動に駆られたが年上の意地でなんとか耐えた。
 ゆっくり入ればいいものを、カラスの行水かと思うほど早い上がりに思わず苦笑する。乱雑に水分を拭っただけの湿ったままの黒髪をドライヤーで乾かしてやればスバルはますます上機嫌になった。
 
「髪、ちょっと伸びました?」
「あー分かる? そろそろ切りてぇなって思ってるんだけどさ、髪長いとその分オットーに触ってもらえる時間が増えるって気付いて……勿体なくてなんか切れないままなんだよな」
 
 照れくさそうに眉を下げて笑うスバルを前に、オットーはとうとう愛おしさで堪らなくなる。
 こうしてドライヤーで髪を乾かしてやるのは、それこそスバルが友人である頃からのオットーの特権だった。スバルがオットーの髪を乾かすことも然り。
 恋人関係になり、ささやかなこの時間が再び訪れたことは二人にとって幸福以外の何物でもない。
 
「俺、オットーに髪乾かしてもらうの好き」
 
 これからもよろしくな、なんてスバルの顔して強請るスバルをオットーは後ろから強く抱き締める。
 
「お、オットー?」
「まだベッドじゃないので、いいですよね」
「え? ……んッ」
 
 堪らない。こうして触れ合える距離に最愛がいることがどうしようもなく心を満たす。
 ただ唇が触れるだけのキスでも、積もりに積もった愛おしさでもはや胸が痛かった。五日も本当に抱かずにいられるのかと不安に駆られるが、スバルが望んだことであればオットーは何だって叶えてやりたい性分なのだ。ここで理性をかなぐり捨てるわけにはいかない。
 煩悩を断ち切るようにスバルから身体を離したオットーは、ウェブサイトで何度か見た手順を思い出しながら部屋着を脱いだ。
 
「今日は服を脱いで三十分以上会話する、でしたっけ」
「う、うん。確か、そう。一日目は触っちゃ駄目なんだと」
……拷問ですね」
「俺、オットーの身体じっくり見んの久々かも……なんだかんだしっかりした体型してるよなあ。オットーのくせに格好いいの腹立つ」
 
 褒め方に少々引っ掛かりはあるが、恋人に純粋に褒められれば当たり前に悪い気はしない。嬉しさに思わず下がった目尻をスバルは見逃すことなくオットーと同じように微笑んで見せた。
 
「オットーが笑ってる顔、優しくて好きだよ俺」
「僕もナツキさんが笑ってるの見るの好きですよ」
「お揃いだな」
「そうですね」
 
 男二人で潜り込んだベッドは少しだけ狭い。肌と肌が触れてしまいそうな距離で触れてはいけないもどかしさが確実に身体を熱くしていく。
 
「オットーがこんな近くにいんの、嬉しい……
 
 少しだけ潤んだ猫目がオットーを真っ直ぐに見つめていた。せっかく成った恋人関係だ。離れていて寂しくないわけがない。
 けれどそれはオットーも同じで。同じだからこそスバルを信じて背中を押してくれたその優しさを無下にすることは絶対にしたくなかった。
 多忙とも呼べる日々の中、ふとした瞬間に想うのはいつだって離れたところで生きているオットーのことだ。スバルにとって誰より、何より大切な人。かけがえのない存在が今目の前にいる。この幸せな時間に終わりが決まっているのは酷く寂しいが、それでも。
 
「ナツキさん」
「ん?」
「卒業したら、一緒に住みませんか」
「っ……!」
 
 オットーの思いもよらぬ言葉に、スバルの双眸からぼろりと涙が溢れ落ちる。幸せを含んだ温かなその滴を、オットーはそっと指先で拭った。 
 いつかそうなったらいいなと、ずっと思っていた。
 けれど、その願望をスバル自身が口にするには余りにも未熟で言い出せずにいたのだ。
 
「俺、ずっとオットーのそばにいていいの」
「いてもらわないと僕が困ります」
 
 そっか、とスバルは目尻を赤くして嬉しそうに笑う。その破顔した表情を見て、オットーもまた慈しむようにスバルを見据えた。
 
「そう遠くはないはずですよ」
 
 物件探さないとですね、と待ち侘びるように未来を語るオットーの優しい声色が堪らなくてスバルは思わずオットーの胸元に顔を埋めた。
 
「っ、今日は触るの禁止ですよ!」
「やらしい気持ちじゃねぇからセーフだって」
 
 スバルの行為を咎めるオットーも満更ではなさそうだ。
 今日はこのまま幸せな気持ちで眠りについてしまえとスバルは瞼を閉じる。
 そんなスバルを、オットーは優しく抱きしめ同じように瞼を落としたのだった。