ストライフが険しい顔つきでエムリックの肩を抱き、素早い抱擁の後に去っていく。行かないでくれとも言えず、エムリックは立ち尽くす。
いつもこうなる。
この人こそと思っても、みんなエムリックの手を離していなくなってしまう。母も父も、数え切れないほどの恋人たちもすべて。ストライフだけは違うと思っていたのに、彼はエムリックよりも仕事を優先した。何十年もずっと仕事一筋で生きてきた男だとわかっていたはずだ。それにエムリックだって、自分のキャリアを失うのを厭うてストライフの誘いを断ったのだから、彼だけを責めることはできない。
呆然としていたエムリックの手を、誰かが力強く握った。ストライフではない。やわらかな指が勇気づけるように絡みつく。喜びが胸を満たしていく。
「エムリック」
エムリックはぼやけた視界を認識した。
白い天井、焦点の合わない世界、そして心配そうな青年の顔。エムリックの手を握っていた彼は涙ぐみながらエムリックの頬を撫でると「おはよう」と言った。
知り合いだろうか――教え子とか?
だとすれば覚えているはずだ。顔の右半分には特徴的な、先天性とおぼしき大きな痣がある。しかし痣よりも、春を彷彿とさせる薄紫の瞳が目を惹いた。ぼさぼさの黒髪のせいかとても幼く見えるが、驚くほどの美男子だ。会えば忘れるはずもないだろう。
彼はそっとエムリックの手を離し(離さないで欲しかったが、手に力が入らない)誰かに何事かを話しているようだった。エムリックは思考が空間のなかを漂っていくのを感じ、まぶたを閉じた。
何度か医者らしき男が現れ、エムリックは質問に答えながら、あの青年はどこへ行ってしまったのだろうかと考えた。彼に会いたい。知らない人だが、なぜだか会いたくてたまらない。エムリックは焦れ、ついに看護師に彼はどこへ行ったのかと聞いた。
「ああ、ミスター・インゲルヴァーなら退院の手続きをなさってますよ」
「彼はインゲルヴァーというのか」
「……ご家族ですよね?」
「失礼、私に家族はいないはずだが」
その後は上を下への騒ぎで、ふたたび医者が現れてエムリックは解離性健忘症だと診断された。『ご家族』枠であの青年が別室で説明を受けている間、エムリックは痛む頭でなんとか考えをまとめようとした。
インゲルヴァー青年は教え子ではなく、エムリックの唯一の家族であるという。幼い頃に両親を地震で亡くして以来、自分は天涯孤独の身のはずだ。なのに目を開けたら急に家族が生えてきた。さらに付け加えると相手はエムリックが食指を伸ばさないタイプの、年下かつかわいい感じの男だ。絶対にあり得ない。自身の好みもそうだが、これほど若い青年から相手にされるとも思えなかった。
だが、ようやく動くようになった左手をかざし、エムリックはすっぽりと抜け落ちた記憶のなかにその答えがあることを確信した。
左手薬指には指輪をしていなかったのに、そこには真新しい鈍い銀色の指輪が収まっている。しかもその隣にあったストライフから貰ったペアの指輪は消え去っていた。別れてからもずっと嵌めていた指輪だったのに、痕すら残っていない。つまり過去の(それとも未来か?)エムリックはどうしたことかストライフへの未練をばっさりと裁ち切り、若すぎる恋人と結婚したということらしい。
結婚。
だめだ、まったくイメージがわかない。あんな三十近く年下の子供と自分が結婚?財産目当ての詐欺だろうか。そうとしか思えない。
むしろストライフとそんな関係になったと言われた方が納得できる。実際、ストライフが転勤にならなければ結婚していた可能性だってある。元彼の頼りがいのある背中を思い出してエムリックは溜め息をついた。忘却した記憶はストライフと別れて一年後程度しかはっきりしていない。それ以降に読んだ論文の内容は覚えているが、どうにも個人的な記憶は漂白されてしまっている。
あの若者が病室に戻ってきたら、自分はもうそちらが知っている恋人ではないと言わねばならない。医者から聞いているだろうが、それでもエムリックとしては見知らぬ男と恋人ごっこをする気はなかった。傷つけるかもしれないがしかたあるまい。
しかし、病室にインゲルヴァー青年が現れた途端、エムリックは自分でも気づかなかった緊張がやわらかくほどけたのを感じた。
彼は憔悴しきっていたがエムリックを見ると穏やかな笑みを目元に浮かべ、ベッド横の椅子に腰掛けた。エムリックがねだるより先に彼の手をさりげなく握り、額にかかった髪をもう片方の手で優しく払いのけてくれた。
「気分はどうだ?」
「……吐き気はなくなった」
沈黙が流れる。
インゲルヴァーはうなずき、外傷はある程度塞がったから退院してもいいと伝えた。医者によればありがたいことに脳に損傷はなく、欠けた記憶もそのうち戻るだろうと。
「それから嫌かもしれないけどしばらく俺の家で暮らしてほしい」
「私とお前はどういった関係なんだ?」
「婚約者だ」
「この指輪は」
「俺があんたに贈った」
なるほど、結婚ではなく婚約か。いや、婚約も充分現実離れしている!
「俺のことはルークと呼んでくれ。それで――その指輪、嫌なら外してもいいぞ。預かっておくから」
エムリックがやたらと婚約指輪を触っていたせいだろう、ルークと名乗った恋人は優しくそう言った。差しだされた手をエムリックは大げさに避けて、左手をシーツのなかへ隠した。
「このままでいい!」
「遠慮しなくてもいいのに」
「返してほしいというなら返すが、お前はそれでいいのか?」
ルークは完璧な笑みをわずかに崩し、ぱちぱちとまばたきをした。驚きと、かすかな戸惑いだろうか。いかにも優しげな笑みよりもこちらの方が自然で好感がもてる。
「いや、返されるとつらい。あんたがいいなら嵌めておいてくれ。うん、嫌だったらいつでも言ってくれればいいし」
子供っぽい下手くそなごまかし笑いをして、ルークはエムリックの手を離すと着替えを準備しだした。
(私はいったいいつ嗜好を変えたんだ?)
ずっと落ち着いた素振りを見せていた青年のあどけない表情に、これほど胸をかき乱されるなんて思いもしなかった。年下好きを標榜する同性を愚か者だと断じて譲らなかった自分が、まさかこんな――見知らぬはずの青年と、恋人ごっこをしたいと望んでしまうなんて。
指輪を返せばそれで済む。お前を覚えていない、だから距離を置こうと言えばいいだけだ。
エムリックはまだ庇っていた左手をのぞき込んだ。婚約を申し込んだのはエムリックではなかった。ルークから、エムリックに求婚したのである。その事実に不思議と胸が高鳴る。
婚約者はエムリックの私服をずらりと並べ「どれがいいかわからなくて」ともごもごと言い訳も並べた。エムリックは目覚めてからようやく、笑顔を見せた。
困ったことに、どうやら自分は彼が好きになってしまったらしい。
・・・
ルークの自宅は古風なヴィクトリア様式の平屋で、大学近くの自然公園の間近くにあった。エムリックは数ヶ月前に住居を大学に返し、ルークの家に越してきたらしい。自分自身の話なのにエムリックは他人のことを聞いている心地だった。彼の言うことをすべて信じるのならば、エムリックは人生で初めて半年以上ひとりの人と交際を継続し、同棲を経て婚約まで漕ぎつけたということだ。
唖然としているエムリックを見かねて、ルークはもう休もうと提案した。自分は寝室にいるからと告げてルークはさっさと部屋へ向かい、呆気ないほどあっさりと扉を閉めた。
エムリックは見慣れぬ自室の見慣れた家具を眺め、安っぽいベッドに腰掛ける。婚約しているのに寝室は別なのかと思うと、少しばかり残念な気持ちになる。とはいえ、さすがに同じベッドで眠るのは緊張してしまう。助かったと思うべきだ。
自分も早く寝てしまおう。ずっと病室で寝ていたわりに、疲労感が強い。もぞもぞと服を脱いで下着姿のままベッドに潜り込んだ。考えなければいけないこと、わからないこと、これからのこと。すべてが微かな違和感に包まれて記憶という霧のなかを漂っている。一番の違和感はルークという青年だが、彼のことを考えると不思議と気分が落ち着いてきた。
スプリングが軋みをあげる。明らかに低質なベッドだったが、なぜだかとても体に馴染む。エムリックはすっかりリラックスして意識を手放した。
翌朝目覚めたエムリックは記憶が戻っていないことに落胆した。もしかしたら寝て起きたら記憶が戻っているのではないかと淡い期待を抱いていたのだが、そんなに都合良く物事が進むわけもない。エムリックの時間は止まったところから、いきなり現在まで飛び抜けている。
幸いにも失恋の痛手の方も現在基準で飛ばしたのか、どこか他人事のように感じる。記憶している限り、自分はストライフとのことを一年経ってもぐずぐずと引き摺っていたはずなのだが、病院で目覚めてから感傷に浸っていない。おそらく失った時間のなかで彼への想いを清算したのだろう。そしてその原動力となったのは、きっとこの家の主だ。
ルークはもう起きただろうか。エムリックと暮らしていたならもしかすると彼も早起きかもしれないと耳をすませたが、木々がざわめく音と窓枠が風に跳ねる音しか聞こえない。
ゆっくりと着替えを済ませ、エムリックはバスルームへ向かった。洗面台にはエムリックの髭剃りや愛用の整髪剤が置かれ、揃いの歯ブラシが仲良く並んでいる。反射的にその片方を手に取り、本当にこちらが自分の歯ブラシだろうかと一瞬考える。もし違ったら弁償すればいいだろうと考え直し、エムリックは歯を磨き、身支度を整えた。入院中髭も剃らず髪も整えずにいたせいで、ようやく本来の自分になった気がした。むろん、記憶を除いては。
大学はしばらく休んでも大丈夫だと通達があった。どうやら学長が手を回してくれたらしく、すでに代役の講師が授業を受け持ってくれているようだ。なにも気にせず静養してください、と若き学長から丁寧なメールを受け取り、エムリックはほっとした。自身の年齢を考えれば、これを機に引退してはどうかと言われてもおかしくはないのだ。まだ教職は続けていきたい。研究と教育以外にもう、エムリックが打ち込めるものなどないのだし。
(ストライフと別れたいま、この歳で恋愛なんて……いや、婚約しているんだったか。どうにも信じられないな)
件の婚約者はまだ寝室から出てこない。リビングの奥、緑色の扉が寝室へと続いているはずだ。エムリックは遠慮がちにノックし、薄く扉を開いた。
部屋は薄暗かったが、ここにもエムリックが暮らしていた形跡が色濃く残っていた。古いスタンドライト、スツール、絨毯、そして大きなアンティーク物のベッド。すべてエムリックの自宅にあった家具だ。音を立てないように室内に滑り込み、エムリックはベッドへ歩み寄る。
青年は枕を抱きかかえ、胎児のように丸くなって眠っていた。その頬には微かに涙のあとが白く残っている。エムリックが熟睡している間、彼はひとりで泣きながら夜を過ごしていたのだろうか。
「ルーク」
呼びかけても起きる気配はない。
エムリックはベッドに腰を降ろし、ルークの頬を指先でかすめるように撫でた。眠っているとますます幼く見える。無遠慮に体を触るのはよくないと思い直すが、己の左手に輝く指輪が甘くそそのかしてくる。婚約者だから別にいいではないかと。
結局、欲望に負けてルークの素肌に手のひらを滑らせる。奇妙なアニメ柄のパジャマから飛び出した手足は白くなめらかで、顔と同じく痣が無数に伸びている。そのひとつひとつをたどるように撫でていくうちに、ルークが微かに身じろぎした。
「――エムリック?」
ぼやけた口調で名を呼ばれ、エムリックはやめておけばよかったと後悔したが、もう遅い。罵倒されるかもしれないと身を固くした瞬間、ルークはエムリックの手を掴んでまぶたを閉じたまま「まだ朝じゃない」とふにゃふにゃと呟いた。
「いや、もう七時過ぎだ。寝坊だぞ」
「しばらく休みなんだし、昼まで寝ててもいいだろ……」
「お前が寝ている間、私は暇だ。恋人を放っておいて心が痛まないのか?」
「うーん」
逡巡の末にルークは目を開けて、エムリックを見上げた。
「それじゃあ一緒に寝るか」
エムリックの表情をどう受け取ったのか、ルークは少し寂しげに笑った。そしてそんな感情を見せたことを恥じたように腫れたまぶたを擦り、抱きしめていた枕をぽんと放り投げる。
「ごめん、いまのは冗談。着替えるからリビングで待っててくれ」
「ルーク」
衝動的だった。頭で考えるより先に、起き上がろうとするルークを押し倒し、動けないようにしていた。この行動にはエムリック自身もひどく動揺し、体の下に感じる熱に思わず赤面する。こんなことをするつもりではなかった。だが、ルークのうるんだ瞳を見て見ぬふりなどできない。
彼がどれほど愛してくれていたのかわからない。なにも思い出していないし、自分たちの関係性だって失われてしまった。それでもこの拘束を解くつもりはなかった。よく知りもしない相手にこんなことを思うのは常軌を逸しているとしか言えないが、確かに自分は彼を支配したいと思っている。この青年を自分のものにしたかった。
「普段は一緒に眠っていたのか?」
「うん」
「それならどうして私の部屋にもベッドがあるんだ?」
「あれは元々俺のベッドで、あんたがたまにひっついて寝たいって言い出した時に使ってるやつだ」
「別にこのベッドでもひっついて眠れるだろう」
「俺もそう言ったけどあんたがあのベッドが良いって……スプリングが軋むのが好きなんだとか。なあ、エムリック」
まだなにか言おうとしていたルークの唇を塞ぐ。彼は目を丸くして大きくまたたき、扉が鍵で開かれるようにキスを受け入れるために唇を開いた。そのことに心のどこかで狂喜して、求められていることに深く安堵する。
ふたりの舌が絡みあっては離れる。ルークはキスよりも喋りたそうにしていたが、エムリックは気づかぬふりをしてますます激しく、飢えた獣のようにキスを落とした。ルークの瞳から涙が一粒だけこぼれ、鼻筋を伝って流れていく。
エムリックはキスをしながら、ルークのパジャマをつかんだ。よくわからないサイケデリックな色遣いの子供向けパジャマを着た男なんて、いままで一度も好きにならなかったし、ゆるいズボンの下から出てくるのが素っ気ないボクサーパンツというのも本来なら興ざめしていただろう。何度見ても自分好みとは思えない趣味だが、体は素直だ。エムリックの手は明らかに焦り、パジャマはルークの頭につっかえている。
悪戦苦闘してようやく裸にし、エムリックはざらついた声でルークの名を呼んだ。
「記憶がこのまま戻らなくても、一緒にいてくれるか」
「ああ、当然だ。またいちから思い出を作っていけばいい」
これほどまでに愛情に満ちた言葉をもらったことがあっただろうか。
エムリックは祈るような気持ちで口を開いた。
「ルーク。お前を愛している」
「――知ってるよ」
「はあ。”ルーク“がハン・ソロで返すなんて!」
「ははは!」
軽やかな笑い声。この人のことが世界で一番好きだとエムリックは理解した。きっと記憶を失う前の自分も、彼のことが愛おしくてたまらなかっただろう。それにそう、もしも記憶が戻らなくてもきっと上手くいくはずだ。いまだってルークがエムリックと同じ映画が好きだという思い出ができた。ふたりでなら、きっと。
裸体のルークがエムリックに両腕を伸ばす。
「俺も愛してる」
(おそらくつづく)
本編もそのうち更新します。
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