今は確固な国として築かれている渋谷は、その力を狙われ他国に攻め入られることも多く、度々甚大な被害を受けていた。ある時は民に被害が、またある時は城まで攻め入られ、そして時には交戦に出た鞘姫が酷い傷を負った。無事に敵を退けることができたのだが、命に危険はなかったものの鞘姫は重傷を負い高熱に魘されていた。敵の動きを正確に掴めなかったことにより先手を打たれ、外で敵を食い止められなかったのは自分の責任であると酷く悔いた匁は、世話を終えて鞘姫の部屋から出てきた刀鬼に声を掛けた。
「貴方の万黒燕尾と桜花の力を使って、鞘姫の傷を他人に移すことは可能ですか」
俯く匁の表情は刀鬼からは見えなかったが、弱々しい声音から簡単に想像がついた。体がふらりと芯なく揺れる。
「何が言いたい、……いや、いい、わかる」
顔を上げない匁の肩を刀鬼はそっと叩いた。
「できない、とは言わない。だがそんなことをしても鞘姫は喜ばない」
「っ、わかっています。でもそうじゃない、これは、僕の失態だ。僕が負うべき傷だ!」
「匁」
刀鬼は肩を握る手に力を込める。匁の声は震えていた。
「……お願いします。こんなこと、堪えられない」
刀鬼は腰に携えた万黒燕尾に触れた。万黒燕尾は出血を操作する刀。
繰り返し縋る匁の声を刀鬼は拒みきることができなかった。
○
万黒燕尾と桜花は二本でひとつの盟刀とされるが、二本である以上各々に剣主が存在する。ひとりで万黒燕尾と桜花の両方を完璧に使うことは不可能であった。刀鬼ひとりでは剣主である万黒燕尾の力が強く、鞘姫の酷い傷を匁に移すとして、「傷を小さくすること」と「他人に移すこと」の両方を適用することは出来なかった。
こういう使い方をしたことはないために上手くいくかわからない、と念押しする刀鬼に、それでも構わない、と急かす匁。
月の綺麗な穏やかな夜、鞘姫が寝静まった頃に行われた秘密の儀式で、結果として無事に鞘姫の傷は匁へ移された。
傷はそのまま、あるいは更に大きな傷となって。
「……っ」
覚悟していたはずの痛みに匁の表情が歪む。一瞬遅れて、着物の下からじわりと血が染めはじめ、その滲みは段々範囲を広げていった。
自らの肩を抱きながら呆然と動かない匁を誘導しようと刀鬼が匁の体に触れると、普段は水のように冷たい体温が着物の上から触れてわかるほど熱かった。顔を覗き込むと、体温の割に仄白い肌と色の悪い唇が震えていた。
刀鬼は黙って匁に肩を貸し、規則正しい寝息を立てている鞘姫を起こさぬようにゆっくりと部屋を出た。なんとか二人が匁の部屋に辿り着き、匁を布団へと寝かせると、匁は冷や汗でびっしょりとした顔で微笑みながら「ありがとうございます」と小さく告げた。
○
鞘姫は順調に回復した。鬼と人の混血であるが故に、純血の鬼ほどの頑丈さや回復力を持ち合わせていない鞘姫は傷の治りも高熱も随分と周りを心配させていた。鞘姫の回復を国の者は皆手を挙げて喜んだ。勿論許婚である刀鬼も鞘姫回復の知らせを受けると飛ぶ勢いで鞘姫の部屋を訪れ、その手を握って喜んだ。普段は奥手な刀鬼の大胆な行動に鞘姫はカッと頬を赤らめた。鞘姫は照れ隠しに、こんな場面に出くわすといつもなら口を挟んでくる匁の姿を探したが見当たらなかった。不思議には思ったが匁の単独行動は珍しいことではないと、別段気に留めることもなかった。
握った手に額を押し付けるように喜びを噛み締める刀鬼は、しかしその下で複雑な思いを抱えていた。回復した本当の理由を知っていたからだった。
口の堅い者たちだけを最低限集めて、匁の治療が行われた。体の傷に加え、高熱にうなされて体を起こすことも難しい匁を刀鬼は何度も見舞った。
匁は意識がないことが多く、冷や汗をかきながら荒い呼吸でうなされていた。たまに起きているかと思えば「何か用ですか」「用がないなら帰ってください」とシッシッと手を払って追い出された。悪態をつけるならまだいい、と刀鬼はそれに従っていた。
渋谷は鬼の国である。人間もいることはいるが数はほんの一握り。鬼よりも身体能力の劣る人間は戦闘に加わることはなく、だからこそ匁は例外であった。
匁は剣主であることだけでなく、鬼と肩を並べる戦闘技術を持っていた。その他知識に富み、適応能力も高く、匁は渋谷でも頭角を表していた唯一の人間だった。
人間の匁が刀鬼や鞘姫よりも傷の治りが遅いことは理解していた。ただ、そういった匁の人間としての異例さばかり目について、その弱さをすっかり忘れきってしまっていた。匁自身、自らの弱さは見せないように振る舞っていたから当然ではあるのだが。
刀鬼が匁の傷の治りが遅いことが気になり始めたのは、鞘姫の体調も随分と回復し、彼女が匁の姿が見えないと口にした頃だった。
「そういえば、そうですね……」
「またどこかへ出ているのですか? それにしてもこんなに顔を見せないなんて少し気になります」
「……確認しておきます」
「頼みますね」
血色のいい頬が薄紅に染まる鞘姫を見て、最後に見た匁は身体中に巻いた包帯を過剰だなんだと布団に包まったまま文句を言いながら早く出て行けと手で追い払われた姿だったと思い出した。
鞘姫の言葉もある、様子見がてら話がしたいと刀鬼は匁の部屋へと足を進めた。
匁の食事を運ぶ女中に声を掛け、温かい食事の乗った盆を受け取った刀鬼は匁の部屋を訪れた。いつもの女中かと思えば刀鬼が現れて驚いた顔をした匁はすぐ気まずそうに目線を逸らした。
刀鬼は匁の隣に屈みながら盆をそっと置く。刀鬼が器を持ち上げるのを見て、匁は「自分で出来ます」と遮ろうとするものの、伸ばした手は刀鬼に拒まれてしまった。そんな震えた手で何が出来る、と言葉にはしなかった。
米粒のほとんど溶けた粥を乗せた匙を匁の口元へと寄せた。匁は唇を食いしばって拒否してみせたが、何度も匙を押し付けてくる強引さに折れて、小さく口を開いた。冷めた粥が匁の喉を下りていくのを見守ってから、刀鬼は次の粥を掬った。
「……いつもこれか?」
今度は素直に開いた匁の口に粥を流し込んで、刀鬼が呟いた。何度か形だけの咀嚼をした後にそれを飲み込んだ匁が渋々口を開いた。
「まだ、受け付けないんですよ」
匁自身、不本意そうな気持ちを隠さない物言いに、刀鬼は黙って次の匙を掬った。大人しく口を開ける匁の口の端を伝う汁を見ながら、人間はこんなに弱いのか、と考えていた。
時間を掛けて一杯をなんとか食べ終えた匁と少し話をして、包帯を替えながら見た傷はまだ随分と新鮮で痛々しかった。自分たちならば、と思ったがすぐにその考えを振り払った。
○
夜、匁は人の気配で目を覚ました。音もなく戸を開くその気配を暗闇の中で凝視した。
「こんな遅くに何の用ですか」
刀鬼は後ろ手に戸を閉めると、すっと匁へと近付く。横になっている匁の隣に腰掛けると、自身の手のひらを見つめて、その真ん中を爪ですうっと引き裂いた。
「は?」
つぷ、と傷口から血の玉が出来、大きくなって手のひらに溜まっていく。刀鬼はそれを匁の目の前へと差し出した。
「なんです? これ、どういうつもり……」
「飲め」
手のひらから溢れた血がぽたりと落ちた。刀鬼は匁に覆い被さるように肩を押さえつけ、その手を匁の口元に寄せた。ぽたり、と落ちた雫が匁の顎を伝う。
「馬鹿にしてるんですか」
「いいから黙って飲め」
「要りません」
匁は今出来る限りの力で刀鬼の腕を払った。顎に落ちた血を手の甲で拭う。懲りぬ刀鬼はまた血の滴る手を匁の口元へと運ぶ。
「人間のお前でも、俺の血を飲んで一時的にでも同化出来れば、痛みも軽くなるし傷の回復も」
ぐっと押し付ける手を匁は唇を固く食いしばって拒んだ。ぬるりとした温かい液体が口のまわりを汚したが、それらを刀鬼ごと押し退けて口元を何度も拭った。
「だから要りませんと言っているじゃないですか! 弱い生き物のように扱わないでもらえます、っ?」
「匁!」
両腕を突っ張って、蹴り飛ばそうと足も間に入れて刀鬼を拒んだ。体を大きく動かしたせいで傷口が痛む。表情を隠しきれなかった匁は眉を寄せて目をぎゅっと閉じた。刀鬼は匁をゆっくり横たえさせると黙って布団を整えた。
握りしめた手のひらからは、血がぽたぽたと落ち続けていた。
「……飲ませたら、いくら君でも殺します」
「……わかった」
刀鬼が黙って立ち上がるとゆっくり戸へと手を掛けた。ふと立ち止まって、「匁」と名を呼んだ。
「なんです?」
「鞘姫が、……心配していた。姿を見ない、と」
「そうですか」
「……早く治してしまえ」
トン、と小さな音だけ残し、刀鬼は部屋を出て行った。静かになった部屋に、訪問者の残した僅かな血の香りが鼻をつく。
「……ずるい人だな、まったく」
○
その日は落ち着いた日和の良い日だった。
とんとんと軽い足音を鳴らしながら、部屋の戸を潜る。
「ただいま参じました、鞘姫様」
「匁、よく戻りました」
振り返りながら柔らかく微笑む鞘姫を見て、匁は自然と表情を綻ばせた。温かい空気が心地良かった。
匁の報告を受けながら、鞘姫はしばらくぶりに見る匁の顔をじっと見つめた。
「あの、何か……?」
視線に耐えられずに問う匁の少しこけた頬を鞘姫はすっと撫でた。匁の着物の間からは包帯が覗いている。
「匁」
「はい、鞘姫様」
「……もしかして、何かしましたか」
「いいえ、何も」
さらりと答える匁の腹の内を全て読み取ることは出来ないけれど。鞘姫は力強い瞳で匁をまっすぐ見つめた。
「役目も大事ですが、私は貴方も無事であることが何より大事なのですよ」
「有難きお言葉にございます」
匁は瞼を閉じて返した。
鞘姫の部屋を出て、青空の下でうんと伸びをする匁の後ろ姿をまじまじを見つめながら刀鬼が声をかけた。
「本当に治ったのか」
「あんな念入りに確認しておいて、まだ言います?」
「お前、隠し事だけは上手いじゃないか」
現にあの時も、とぶつぶつと呟く刀鬼の言葉を風に流しながら匁は高い空を見上げた。
「……貴方と鞘姫様には、隠し事はできませんよ」
「何か言ったか」
「いいえ、なにも」
腰に携えた流水死命をそっとなぞる。久しぶりの重み。少しばかり休んでしまったが、その分も増してやることは山積みになっている。
とんとんと足元を確認して、フードを目深に引っ張る。
「そろそろ寝てばっかりなのも飽きたんでね。ちょっと新宿まで散歩にでも行ってきますよ」
匁のマントがふわりと舞った。
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