例えば、映画のポスターには色がある。赤と白の配色だと縁起が良さそうとか。黄と黒の配色だと危なそうとか。目に見えていると相性の良さとか悪さが分かりやすい。
例えば、すごく静かなところにいると逆にピンと張ったような音がずっと聞こえて怖いとか。賑やかな音に囲まれていると逆に一個ずつを聞き取れなくて静かに聞こえるとか。音の捉え方は人によってそれぞれだ。
だから、私の耳がいつの頃からか人の声にノイズが混じって聞こえにくくなったのも。そんな中にも時々だけど、聞こえやすい声の持ち主がいるのも。音と耳の相性の問題で、私自身の音の捉え方が変わっただけなんだと思う。そんな風に何とか折り合いをつけて『Dear』なんていう不思議な体質と一緒に私は生きている。
性別以外に、この世界には別の性が三つある。
『Dear』は、ある歳頃を境に人の話し声にノイズが混じってだんだんと聞こえにくくなる体質の人。
『From』は、そんなノイズ混じりの世界で生きる人に明瞭な声を届けることが出来る体質の人。
そして、この二つの性に干渉できる『Tuner』もいるらしいけど、そもそも滅多に居ない『Dear』と『From』よりもさらに少ないから私は見た事が無い。
ほとんどの人は、この三つのどれでもない普通の人間だから私たちみたいな少数の人間は特異体質ってことになるらしい。でも、基本的に生活に支障があるのはノイズが混じる『Dear』だけで……そのノイズも改良されている道具を使えば多少はマシになるから無性のように振る舞うこと自体は無理じゃない。
「疲れたぁ……」
好きなゲームも映画も音を出して見ているのが少しずつ疲れるようになってきている。誰もいない場所で無音のまますれば楽しいけど、今日は人とお出かけだったからそうもいかなかった。楽しいけど、磨り減った神経を戻すために手で耳を塞いで目を閉じるのが私の日常だ。そして、事情を知っているお兄ちゃんとかイアスたちが部屋にひょっこり顔を出して黙ったまま頭を撫でてくれるのを感じながら眠る。そんな日々を繰り返しながら、頭のどこかでクリアに人の声を聞くことが出来ていた頃を懐かしく思っていた。
だから、あの日。今思うと、彼でしかない姿の人とロビーで会話した時に一切のノイズなく聞こえた心地いい声に一人で胸を躍らせていた。
それから、紆余曲折……色んな出来事を越えた先で「どうか、ヒューゴと呼んで欲しい」と改めて自己紹介した声の持ち主に私は酷く心を奪われてしまった。
ヒューゴの声は、私の事情を差っ引いてもよく通る。怪盗として聴衆の目を惹く時が一番分かりやすいけど、エージェントとして協力して貰っている時に鎌を振りながら話す声もよく響く。どっちの彼も厨二病的で目立つからじゃないかと初めは思っていた。でも、二人で出かけた時の穏やかな彼の声も人によく届く。迷子になって泣いている小さい子に声をかければ、その子は彼を見上げてピタリと泣き止むし。私に絡んでくる奴もヒューゴが割って入って一声かければパッと散っていく。
そして、不思議とよく通る声を持っている彼に「リンくん」と呼ばれた時には頭がくらくらするほど嬉しくなってしまう。そのせいで「もう一回呼んで」と何回口に出しかけたか分からない。でも、彼の立場になって考えると友人でしかない人間にそんなことを言われても気持ち悪いだろうから、必死に抑えて……なんでもないフリをし続けている。
「ヒューゴの声……ですか」
「うん。なんであんなによく通るかライカンさんなら知ってるかなって」
「あなた様の言う通り、確かにあの男の声はけたたましく響きます」
「ふふっ、けたたましいってのは主観過ぎない?」
「……失礼いたしました」
喫茶店のパラソルの下でお茶を飲むライカンさんはこほんと一つ咳払いをした。彼の声も他の人よりずっと聞き取りやすいから落ち着く。だけど、ヒューゴ程の明瞭さではなくて……胸もドキドキすると言うよりほっと落ち着くような気がする。
「恐らくという言葉を話の初めに付けさせては頂くことになりますが、私もあの男も『From』なのだと思われます。私共はそんな話をするような間柄ではありませんので、本人へ確認をとった訳では無いのですが」
「やっぱりそうだよね〜」
「はい。そして、私よりもヒューゴの方が性としての質が高い。もしくは、波長が合いやすいのやもしれません」
「うんうん」
考えていた推測と同じことを言ってもらえたことに安心してカップを傾ければ、彼の宿敵で――きっと大事な友達の執事さんは心配そうに耳を下げた。
「私が述べるようなことでもないと重々承知しています。しかし……波長の合いすぎる者同士の存在は破綻も引き起こすこともある。どうか……よくお気をつけください」
「うん。ありがとう、ライカンさん」
ほんの少しノイズが混じる低い忠告にお礼を返せば、そっと目を伏せた彼は手入れのされたしっぽの先を緩く揺らしていた。
――でも、忠告の通りに、のめり込むこともなく付かず離れずの距離感でヒューゴと接していた毎日はふとした出来事で終わってしまう。
その日は、ヒューゴと二人で出かけていた。行先はルミナモールで、私の好きな雑貨屋の新作の販売日に「品物に興味がある」と言った彼が着いてきた。表向きにコレクターでもある彼の収集癖を満たすようなアンティークな物は勿論並ばない。だけど、私の隣であれこれ見ている二色の目は楽しそうに輝いていたから、そもそも雑貨とか小物が好きなのかもしれない。
「やはり、君といると個人の趣味の範囲というものは狭く限定的だと実感するよ」
「まぁ、あなた一人だと縁がないラインナップだもんね」
「否定はしない。だが、雑然としながらも何処か懐かしさを感じるこれらを見ているのは心が踊る」
「楽しいなら良かった!」
――うるせぇなぁ! 失せろ!!
ヒューゴに笑いかけた向こう側から突然飛んできた大きな声にはノイズがかかっていない。ぎくりと強ばった体を軋ませて振り返れば少し向こうで口論をしている二人組が……正確には、青ざめた一人をもう一人が怒鳴りつけている光景が広がっていた。あまりの声の大きさに周りのお客さんも「なんだなんだ」と騒がしくなってきて、警備の人も駆け付けてくるから昼下がりのモールでちょっとした騒動が広がった。
ざわざわ……ザワザワ、と絶え間なく聞こえるノイズの向こうから聞きたくもない酷い言葉がクリアに聞こえる。
「うっ……」
自分に向けられた声じゃないのは分かっているのに、強い言葉の命令に従っていない気がして吐き気がする。ノイズをクリアにする補助器具を通しても収まらないざわめきも気持ち悪くて荒れる息を隠すために口元を押さえた。
――リンくん。
落ち着いた声。そっと抱き寄せる体温の低い手。ぐらぐらと揺れる頭の芯を真っ直ぐにしてくれるような声に視線を上げると、私をじっと見つめるヒューゴがいた。彼の両手に耳を覆われてざわめきが少し遠くになった。
――息を吸いなさい。
「っ……」
向こうから響く罵詈雑言が聞こえなくなるほど、彼の声しか聞こえない。言われた通りに深く息を吸って吐けば少しずつ混乱した頭が落ち着いて、震えが収まる頃にヒューゴは私の手を引いてモールを出ていった。
そして、外へ出ても待ち行く人たちの声にかかるノイズが酷くて立ち止まってしまう。人生で一番酷い状態の自分が怖くて足も思考も動かなかった。
「私……」
もう人じゃないのかもしれない。無意識にそう言いかけた口にツンと手袋を着けた人差し指が当てられる。その感触に街中に固定されていた視線を動かすと目を細めたヒューゴが「おいで」とだけ囁いた。そんな短い言葉ですら心地よくて、こくりと頷いた私を彼が連れて行ったのは時々使うらしいビジネスホテルの一室だった。
部屋の中は綺麗に整えられていて、カーテンが閉じられているせいか外の声もほとんど聞こえない。過敏になった神経が少しだけ聞こえる外の音を拾ってしまうのだけが嫌で眉を寄せてしまうけど、外にいるよりずっと楽だった。彼に導かれてベッドへ座ると程よく軋むスプリングに体の力が抜けて背中からぱたりとシーツへ倒れてしまった。
そして、柔らかい場所へ倒れ込むとさっきまで聞いていた怒声を思い出して嫌な気持ちが戻ってきてしまう。家にいる時と同じように耳を塞いで静かにしようと伸ばした手が耳へ触れるよりも前に、違う手が私の両耳を塞いだ。
隣に座った彼が私を見下ろすようにしながらも、そっと耳を塞いでくれている。嬉しいような、照れるような……もしかしてちょっとマズイ? と感じるような。そんな景色を前に赤くなる顔もバッチリ見られてしまった。
「少し顔色が良くなったようだな」
「あ、ありがとう」
「ただ、今の君は無茶をしてはいけないように見える。このまましばらくここで休むんだ」
「……うん」
命令じゃないのに、ぴくりと体が震えてしまう。
クリアに響く声がもっと欲しくて、従えなかったという錯覚を埋めて欲しくて、ぴったりと波長の合ったこの人が欲しい。
――私はヒューゴに呼びかけられたい。
震える右手で私の耳を塞ぐ手の甲へ触れる。間近にある彼の二色の瞳には蕩けた自分が映っていて、もう何の言い逃れも出来なかった。
気持ち悪く思われても、普通じゃないと思われてもいいからズレることなく波形が合った音を響かせるヒューゴを手離したくない。
「俺は、今から君に不躾なことを聞く。もしも、違っているのなら否定してくれて構わない」
ノイズの混じらない問いかけは「君は『Dear』なのか?」と短くまとまっていた。だから、肯定するためにひとつ頷く私から彼は手を離した。
そっと離れたぬくもりに首筋がゾッとして咄嗟にジャケットの袖を追いかけてぎゅっと掴んでしまった。
「あぁ、すまない。少し思考を纏めたかっただけなんだ。そう不安そうにしなくていい」
「……あっ」
目元を緩めたヒューゴに抱き上げられて横抱きに膝の上へ乗せられる。包んでくれているような体温と「不安そうにしなくていい」の言葉にほっとして擦り寄ってしまう私の頭を彼は優しく撫でてくれた。
「君よりも長く生きている間に自分の性についてはおおよその見当はつけていた。現に過去に何人か俺の声を特別好む者もいたくらいだ」
「そう、だよね」
もしかして、既に呼び合う関係の誰かがいるのかも。何故か頭からすっぽり抜け落ちてなかったそんな不安が顔を出したせいか、外の音がまた聞こえ始める。
「リンくん」
音がざわざわする度に彼から名前を呼ばれるだけで静かになるのが不思議だ。意識が全部、落ち着いた声に持っていかれているような気がしてしまう。
「俺は他の存在では感じなかった感覚を君に抱いている」
「……?」
「その感覚に間違いがないか確認するために少し協力をしてくれないだろうか」
「いいよ」
「ありがとう」
ふわりと微笑んだヒューゴにどきりとする間にも、私の背中を支える方の手とは逆の指が髪を梳いて。スっと引っ掛けられた髪のおかげで片耳が露になる。そして、ほんの少し背中を丸めた彼の口元が耳へ近づいて「リン」と小さく名前を呼んだ。
「ッ!?」
たった二文字なのに、頭でも殴られたみたいな衝撃が走って目がチカチカする。思わずハッと息を吐き出して、不快感とは別の感覚に震えながらシャツの生地をきつく掴む私に彼は目を見開いていた。
「な、名前はだめ……別のにして」
「すまない。まだ、君に対しての理解が圧倒的に足りていないようだな」
「私の方こそ、驚かせてごめん……」
なんだかお互い気まずくなって顔を逸らして無言になる間も頭の中は「もう一回、もう一回」と煩くて掴んだ服を離す気にはならなかった。
気を取り直すように、こほんと咳払いもヒューゴの音なら綺麗に聞こえる。そして、抱えていた私をそっとシーツに横たえた彼が二色の目でじっとこっちを見つめた。その色に恥ずかしくなって隣にいる彼から目を逸らそうとしたけど「リンくん」と呼ばれてしまえば上手くいかない。
――こちらを向くんだ。
決定的な一言に、自分の首から繋がった紐をヒューゴが握った幻を見た。
波形がぴったり合っている『From』が相手だと体が自然と従いたくなってしまうんだ。違う……心まで明け渡してしまいたくなって、もっとこの声にだけ聞き惚れていたくなる。
ぼんやりとする頭で、言われたとおりに彼を見つめているといつの間にか手袋外した手のひらが私の前に翳された。すらりとしていて、血管が透けるような白さのヒューゴの手が私と彼の間辺りに下ろされていくから目でそれの行先を追った。
「少しずつ君への感覚を理解出来てきたよ」
「?」
――リン。ここへ、手を重ねて。
ずっとずっと恋しかったクリアな人の声。耳障りなノイズも、嫌な感情もなく私の耳に届く唯一の声を持つ人が目の前にいる。
震える手を持ち上げ仰向けになっていた体を横にして、重ねるというよりも縋るようにその手に自分のものを合わせた。見た目よりも硬くて冷たい手のひらは彼が振るう武器の鋭利さを思い出させる。その手へ擦り寄るように顔を寄せると彼はそっと私を抱き寄せた。体温を感じるほど一気に近くなった距離に目を見開けば、柔らかな声がずっと近くで響く。
「かつて、俺の声は誰かに届くことはなかった」
「っ……!」
「母上にも、友にも……まぁ、聞かせるつもりがなかったという面も否定はしないがね」
ゆっくりと髪を撫でてくれる彼の声に後悔が滲んではいない。既に受け入れた過去の一部として事実を語っているだけに聞こえる声を受け取りながら目を閉じた。
こんなにも、私の心に馴染む声の持ち主は人に届かない自分の音をよく知っている。そう思うと、私と彼の体質が重なったのは偶然じゃなくて必然だと思ってしまう。だから、その背中へ腕を回してサラリとしたシャツの生地をぎゅっと握り締めた。
「私の耳ってちょっとずつおかしくなって、もう好きな声って聞こえないんだって思ってた」
「……」
「でも、ヒューゴの声を聞き逃さないためにこんな体になったのかもって思うのは……変かな?」
「変であるはずがない」
キッパリと言いきって抱き締め返してくれるこの人と出逢う運命のために私は他のものをノイズだと思うように体を作り替えてきたのかもしれない。そんな大袈裟なことを思ったのが見つめ合った視線からバレたのか、ふっと笑った彼はこつりと私に額を寄せて肩の力を抜いた。
「運命だ、などと神が操る簡単な言葉で片付けてはいけない。俺か君のどちらがここまでの道を諦めていればお互いの波が重なることはなかったのだから――これは必然だ」
「ふふっ」
「……これといっておかしな事を言ったつもりはないのだが。まさか、今の全てが大袈裟なジョークだと思っているのではないだろうね」
「違うよ」
私が後から考えた運命の言葉を否定して、最初に感じた必然を言葉にしてくれたことが嬉しい。だけど、それをそのまま伝えるのは気恥しいから笑って誤魔化してしまった。
そんな私に「納得はしていない」って顔をしながらも、小さく溜息を吐いたヒューゴはもう一度私を抱え込んで指で髪をするりと梳いた。
「もう顔色の心配はなくなったようだ」
「あなたの声を聞いてたらなんでも良くなってきたからね」
「しかし、お互い慣れない感覚に苛まれたのも、また事実。こうして落ち着いて羽を休める場所にいるのだから……俺のためにも、君のためにも暫し眠るとしよう」
「はーい」
彼に言われて、自然と重くなっていく瞼の変化が分かりやすくて緩む口元は向こうには見えていないはず。だけど、念のために仕立てのいいシャツに顔を埋めて、好きな香水を楽しみながら目を閉じた。
目を閉じた私の背中をヒューゴの手が優しく滑る。ゆっくり繰り返されるその動きは眠りを誘う動きそのもの。そして、はっきり聞こえる囁くような大きさのハミングは知らない言葉の歌詞を紡いでいた。子守歌で間違いないソレは、ずっと昔に聞いたお兄ちゃんの声と少し似ている。眠りに落ちながら二度と聞くことはないと思っていた知らないのに懐かしい歌に導かれて私の意識はゆっくり落ちる。その意識の間でこの時間が終わってしまう事と、この声の持ち主を恋しく思った。
付かず離れずの距離感は埋まり呼び合う関係になった私たちは自然と会う頻度も多くなって、自然と距離が近くなった。
例えば、どこかに出掛ける時、人が多いとヒューゴは私をピッタリと傍に置く。本当は袖を通していないジャケットの中へ仕舞いたいと思われているのかと考えてしまうくらい、私を囲って近くで声を出そうとするから「ちゃんと聞こえるって」と思わず言ってしまうくらい近い。そして、言われた本人は珍しいくらいにきょとんとしてから「あぁ、すまない」とだけ謝る。でも、そっと距離を離すのは一瞬だけ。またすぐに似たような位置に戻ってくるからソワソワしながらも私がそこに落ち着くようになる方が早かった。
例えば、大きな変化として、彼が私を呼ぶ声が近くにいなくてもぼんやりと聞こえるようになった。勿論、距離があるほど不明瞭になるけど……ビデオ屋の前で呼ばれたりすればはっきりと聞こえるし、声に反応して窓から外を覗けば手を振るヒューゴと目が合う。こっちまで来る時は律儀に連絡をくれるからハッキリした呼び声はDMが無くても来たのが分かって便利だなぁ。くらいにしか思わない。でも、部屋でごろごろしている時とかに聞こえる微かな囀りは、遠くにいる相手が確かに自分のことを想っている証拠だから口元がムズムズしてしまう。それに、遠くにいても聞こえるってことはワザと彼には言っていないからあのヒューゴに無意識の内で呼ばれている。そう思うと余計に嬉しくなって、広めのベッドの上で抱き枕を抱えたまま転がってしまったことは一度や二度じゃない。
他にもいろいろあるけど、私と彼の関係はお互いの体質に噛み合っているだけじゃなくて――なんとなく甘いものに変化した。
「とても顔色が良くなられましたね」
「そう?」
「はい。一時期は差し出がましくも口を出してしまいそうになるほどでした」
いつかも忠告をくれたライカンさんとパラソルの下でお茶を飲む。少しだけノイズ混じりの優しい声で、ふっと息を吐くように笑う彼に笑みを浮かべる。浮かんでいる笑みと優雅に組まれた義足は優秀な執事さんが仕事関係ではなく、私と話していることを現していた。
だから、スっと細くなる紅い目とヒューゴとは違う声の質にはっきりと気がついた。
「もしかして、ライカンさんって……普通の『From』じゃない、のかな?」
「以前は『普通』でした」
「そっか……びっくりして不躾に聞いちゃった。ごめんね」
「あなた様は大切な友人ですので構いません。それに、聞き耳を立てている者が居ないのもこちらで把握しております」
周りに誰もいない喫茶店の二階席だから肯定してくれたらしい彼に感謝しながら一口珈琲を飲んだ。そんな私とは真逆にカップを置いたライカンさんは徐に人差し指をそっと自分の口元へ当てる。この場にいない旧友を思い出す仕草に目を丸くすると彼はそのまま小声で話を続けた。
「今は美しく聞こえるピアノもいつかは調子が外れてきます。その時に弦を綺麗に直すのか、もう音を奏でないように切ってしまうのか。あなた様がその決断を下す時は私をお呼びください」
「……うん、分かった」
言われた言葉をゆっくり飲み込んで頷く。
『Tuner』だけが使える他の二性の波長をさらに強く合わせたり、再接続不能なほど切ったりする能力は――お互いへの依存が強くなった時に使われる。だからこそ、貴重で悪用されないように管理されているらしいソレを持つ人が私の目の前で穏やかに微笑んでいた。
そして、優雅に組まれた足を解いたライカンさんは静かに席を立つ。
「さて、そろそろ私は失礼させていただきます」
「えっ、急ぎの仕事?」
「いえ……そうではないのですが。どうにも、いけ好かない匂いがしますので鉢合わせる前に去りたいと……言えばよいでしょうか」
「心配してたよって伝えておこっか?」
「どうか、そのようなご冗談はよしてください」
落ち着かなそうにしっぽを揺らす彼はこほんと咳払いをしてから、しっかりと優雅に一礼をする。その姿にひらひらと手を降れば柔らかそうな後ろ姿は階段の向こうへ消えていく。結局、一本道でしかない階段だから鉢合わせるんじゃないかと思うけど……どうせ会った所で二人とも何も言わないだろうから気にせずに残った珈琲を飲んだ。
――リン。
シンとした雪みたいに降ってきた声と、そっと背中に触れる手のひら。耳元で囁かなくても聞こえるのにワザと小さく吹き込まれる声にふるりと背筋が震えた。
「俺の呼びかけに応えてくれないとは、一体何が理由かね」
「誰かがちょっとだけ回線を弄ってたのかも」
「……手先の器用な奴がいたものだ」
「今はしっかり聞こえてるから心配しないでいいよ」
手に持っていたカップの中は空になっていた。そして、見上げた先で少し眉を寄せるヒューゴは手に何も持っていない。だったら、この場所にいる理由はもう何もなかった。
下へ返すトレイを持って席を立った私から、自然とそれを取り上げて歩く彼の腕にするりと腕を絡めれば寄っていた眉は定位置に戻る。
ライカンさんお墨付きで周りに誰もいないらしいから、階段を下りる前に「ヒューゴ」と大事な名前を呼びかけて背伸びをした。ツンとつま先で立って届く位置にある頬へ私からキスを贈る。あんまりしたことがない触れ合いにピアスのついた耳の先が一瞬だけひょこりと動いた気がした。それを指摘するよりも早く前髪の上へちゅっと返されたキスに目を見開けばヒューゴの二色の目がスっと細くなった。
「この手を塞ぐ軽き枷に感謝をするべきだな」
「め、目が怖いなぁ」
笑顔なのに圧が滲んでいる彼からは熱烈な音がする。それをグッと煮つめたような声で「覚悟をしておくように」なんて言われてしまえば私の体は大人しく頷くことしか出来ない。だって、私はヒューゴのことが声も姿も全部好きだから。
親愛なる、リンくん。
その言葉が私と彼を表す全てだ。私にはヒューゴの言葉が必要で、彼には私の存在が必要。呼び合い、ただ惹かれ合う私たちはお互いを知らなかった頃には――もう戻れない。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.