泊まりのロケになるから帰りは明日の昼過ぎになる、というひなたくんを、行ってらっしゃい、気をつけて、と見送って三秒も経たないうちに、だった。
「キスしてもいいだろうか。椎名さん」
そう言って、弟さんが僕を見つめたのは。
「…………ひェっ!?」
「駄目かな」
「いや、そういうわけじゃなくて」
まだ僕は、変な声を上げた以外には何も言ってないっすよ。っていうか、君がひなたくんの出かける前から妙にソワソワしてたのは、それを言うためだったんすか。そんなに必死に僕の腕を掴まなくても、僕は逃げたりしませんよ。
いろんな思考がぐるぐると高速で回るから、だから何一つ、言葉にできない。
ていうか。
「僕たちまだ、キスしたことないっすよね!?」
「ウム」
弟さんが粛々と頷く。
そうっすよね。まるでいつもしてるみたいなノリだったから、もしかして僕の記憶が間違ってるのかと一瞬焦ったっす。
「……あっ、それとも僕の知らない間にキスしてたとか?」
「椎名さんに黙ってそんなことはしないよ」
「そ、そうっすよね。すんません。疑ったわけじゃないんですけど」
「構わないよ」
にこり、と弟さんが笑う。表面上の思考をなぞっただけで内心では、とかそんなことは一切なくて、本当に、何とも思ってないんだろう。弟さんがそんな不誠実なことをするわけがない、とわかっているのに疑うようなことを言ってしまって、申し訳なくなる。
多分、これは、アレだ。
僕は混乱している。
「だから、きちんと許可を取ろうと思ったのだけど」
「なるほど?」
「どうだろう。許可してもらえるだろうか」
「え、あ、いや、その……」
「……僕とキスするのは嫌かな」
妙にグイグイ来るかと思えば、急に、しゅんと落ち込んでしまう。
その落差がかわいい、なんて言われて喜ぶ人間はいないと思うので、黙っておきますけど。
普段は夏の陽射しで彩られている弟さんの顔が、僕の前では年相応に曇るのが、僕は好きだ。
きっとこれは、彼が僕を好きでなければ生まれない色だと思うから。
「……どうしてキスしたいんですか?」
我ながら変な質問だな、と思いながらも、口にする。
そんなの、好きだから、に決まっているのに。
でも。
「恋人はキスをするもの、だよね」
「恋人だからって無理にキスする必要はないっすよ」
君は、他人が決めた正しさにすらとても純粋に、真っ直ぐに向き合ってしまう子だから。
他人の言うことに耳を貸さなくていいから、君自身がどうしたいのか、君が君に求める声を大切にしてほしい。
いつもよりもか弱い弟さんの瞳が僕をじっと見つめてから、斜め下へ滑る。
「……それが、椎名さんが僕にキスしてくれない理由?」
「え?」
瞬間、ぎくりとした。
どうしてだろう。
「僕は椎名さんよりも若輩者だから、差し出がましいことをするべきではない、と思っていたんだけれど。ひなたくんに言われたんだ。ただ待ってるだけなんて一彩くんらしくない、って」
「んぃ!?」
今度はちゃんと、理由があってぎくりとした。
な、なんでこの流れでひなたくんの名前が出てくるんすかね!? いやまぁ確かにひなたくんは、僕らの仲を知ってる数少ない理解者ですけども!
「この間、ひなたくんに聞かれたんだ。『そろそろ椎名先輩とキスした?』って。それで、してないよ、と答えたら、そんな話になって」
あ、なるほど。そういうことっすか。……って、全然なるほどじゃないですけど!! 他人の事情にあんまり首を突っ込んでほしくないっす。
いや、でも。
発端はひなたくんだったとしても、弟さんにこんな顔をさせる直接の原因をつくっているのは、僕だ。
最初にぎくりとしたのは、痛いところを突かれた、と思ったからで、そうされると痛い、と僕が自覚しているからだ。
君自身がどうしたいのか、それを大切にしてほしい。という気持ちに嘘はない。
でも、それだけかと訊かれたら、僕は嘘をついていることになる。
多分。
多分、僕は、本当は、少し、怖いんですよ。
君はとても綺麗だから。
真っ白に降り積もった雪に、足跡をつけるのを躊躇う、みたいな、そういう。
キスしてみたい気持ちがないわけではないけれど。
君にキスをして、君のその真っ白な心を汚してしまうくらいなら。
僕は、今のままでいいって、そう思っている。
いや。
思っていた、だ。
それは、君の気持ちを蔑ろにして、君にそんな顔をさせてまで通すべき道理じゃない。
今の僕は、そう思っている。
真っ白な雪へ一歩踏み出すことを躊躇ったままでは、どこにも行けないのだから。
「一彩くん」
僕の声で、一彩くんの顔がわずかに上向く。
少しでも早く、いつものあったかい顔に戻ってほしくて……というかそれは後付けの理由で、多分、ただ触れたくてしょうがなくなっただけだ。
彼の頬に左手を添えると、何となく明るくなったような気がして、それだけでほっとした。
「君は、恋人はそうするものだからキスしたいのか、僕だからキスしたいのか、どっちっすか?」
一彩くんには遠回しに聞けばそれだけ、伝わるまでに時間がかかるだけなので。
率直に訊くと、また少し、今度はわりかしはっきりと、顔が春の色に近づく。
僕は馬鹿だから上手には言えないですけど。
そのほころび始めたつぼみみたいな表情は、何だか僕のことを信じてくれているように思えて、嬉しい。
「……最初は、都会ではそうするのが恋人として正しい行為なんだと思ってた。本やドラマなんかでもそう描写されているし」
いつもはきはきしゃべる一彩くんにしては珍しく、僕の反応を窺うような、ぽつぽつと頼りなげな話し方だったから、完全には信じてもらえてないのかもしれないけれど。
いや、多分、これは。
言葉を切って僕を見つめる瞳に微笑み返すと、ほっと小さく息をついて、一彩くんが続ける。
「でも、それなら椎名さんだって同じように思うはずなのに、全然しないってことは、何か理由があるってことだよね」
なはは……。
理由を言っても一彩くんは呆れないだろうけど、僕が情けなくなるので、それは黙っておくっす。ごめんなさい。
「それで、僕なりに考えてはみたんだけど、正解がわからなくて。僕は椎名さんではないのだから当然なのにね。でも、どうしてか直接訊く気にはなれなくて、それどころか僕に恋人として至らない部分があって、それが原因で嫌われてしまったんだろうか、とか、いろいろ考えるようになってしまって……」
「……それは、絶対にないっす」
せっかく一彩くんが丁寧に気持ちを伝えようとしてくれているのに、途中で口を挟むのはよくない、という気持ちはもちろんあったのだけれど。この状況で反論したところで、言い訳にしかならないのもわかっていたけれど。
でも、本当に、そんなわけない。ありえない。
だから、それだけは、否定させてほしい。
という僕の葛藤が表情に出ていたんだろう。つぼみがまた少し、開く。
「……ウム。そんなわけない、ってわかってるのにね。そんな時に、ひなたくんにキスのことを訊かれて……というか、多分、僕が悩んでるのを察してくれたんだと思うのだけど……色々相談に乗ってもらううちに、そういう結論に至った、というわけだよ」
「そうだったんすか……」
ごめんなさい、ひなたくん。
僕はてっきり、君が余計な首を突っ込んだのだとばかり思っていたけれど。
君は、不甲斐ない僕のせいで悩んでいる友達を放っておけなかっただけだったんすね。失礼なことを思ってしまってごめんなさい。
それから。
「僕の日和った態度が、君を不安にさせてしまった、ってことっすね。ごめんなさい」
僕が一番謝らなくてはいけない子に、頭を下げる。
自分の感情を理屈で切り離すのが上手すぎる君は、気にしてないよ、と笑うかもしれないけれど、こんな時にまで他人を優先しなくていい。ここはきちんと、僕を責めてほしい……
「不安?」
一彩くんが、知らない言葉でも聞いたように、首を傾げる。
うーん、そこからっすか。
君にはもっと、自分の気持ちこそを気にかけてほしいんですけど……でも、まあ。
「……僕は椎名さんを信じているのに、不思議だけど、……確かに、そうかもしれないね」
そう、少しは納得できたように呟いてくれたから、今はそれでよしとするっす。
「あのね、椎名さん」
「はい」
「椎名さんのことが好きだから、椎名さんの気持ちを知りたいからキスしたい。では、答えにならないかな」
「百点満点っすよ」
僕を見つめる無垢なつぼみにそう答えた途端、ぱあっと桃色の花が咲く。
だから、とても綺麗でかわいらしいそれをもっとゆっくり、愛でたい気持ちもあったのだけれど。
今優先すべきは、彼の望みに真摯に応えることだ。ということはわかっていたから、ゆっくり顔を近づけると、一彩くんがちょっとぎこちなくはあったけれど、自分から目を閉じたので驚いた。
驚いたというか、感動したというか。
君のことだから、一般的な作法を知らずにずっと目を開けたまま、という可能性もあり得る、なんて思ってたんですけど。
本当に、ずっと待っていてくれたんですね。
僕が、君に、キスする、この時を。
「……少しは不安が減ったっすか?」
好きな子ができたことはもちろん、キスするのだって初めてのことだから、なんだか照れくさくて、決して茶化しているわけではないのだけれど。
照れ隠しの言葉が勝手に飛び出してしまう。
まあ、一彩くんは裏なんて読まずに素直に受け取ってくれるだろうけど……
「あ、その、見ないでほしい」
えっ?
「あっ、嫌だったっすかね!?」
「違うよ、そうじゃない」
「なら何……」
必死に顔を背ける彼への申し訳なさよりも、不快にさせてしまったことの方が気がかりで慌てて覗き込んだ先の一彩くんの顔を見て、また、
えっ?
となった。
ほんわりと桃色に染まっていたはずの顔が、真っ赤になっていたから。
どきん、と大きく心臓が揺れて、そのはずみでこぼれた感情に、びっくりした。
どうしよう。
もっと、キスしたい。なんて。
こんなふうに、腹ぺこなお腹を満たしたい、みたいに思うことなんて、今までなかった。
こんな気持ち、初めてだ。
どうしよう。
「えっと、これは、照れてる、のかな? とにかく今の僕はとても変な顔をしているから。キスしたらこんなことになるなんて知らなかったんだ」
「かわいいっすよ」
「あ……」
正直に、とか思う間もなく飛び出した言葉、というか僕の感情に、一彩くんが戸惑っているのがわかって、ますます僕は、キスしたくなってしまう。
どうしよう、という困惑が融けて消えるのなんてもう、時間の問題だ。
逃げようとする顔に手を添えて、僕が引き戻したからだろう。
「……椎名さんは意地悪だ」
一彩くんは恨めしそうに僕をにらんだけれど、その少し潤んだ瞳すら、かわいくて仕方がない。
「ごめんなさい」
一彩くんのそれが、単なる八つ当たりみたいなものだというのはわかっていたから、あえて軽く謝ると、彼もそれは充分わかっていたんだろう。
「……ううん。ひどいことを言ってごめんなさい」
素直に謝ってくれて、そんなところもかわいい。
ああもう、本当にかわいい。
どうしよう!
「何も気にしてないっすよ。君が、僕の思ってる以上に僕のことを好きなんだってことがわかって、最高にハッピーっす」
「うむ……」
「もう一回、キスしていいっすか?」
「……お手柔らかにお願いするよ」
僕にしては頑張って、自分の気持ちがちゃんと伝わるよう話したおかげか、一彩くんはもう一度、素直に目を閉じてくれる。
だから僕はもう、どうすればいいのかわかっていたし、何も、怖くなかった。
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