su7ga0
2025-07-15 00:27:20
10342文字
Public
 

酒屋にて

則→さに←孫 のお話。
独自設定がたくさんあります。

 孫六の住むアパートから歩いて三分もかからない場所に、小さな酒屋がある。
 酒屋は古い住宅街の風景に合わせて鄙びた佇まいをしており、いつ店仕舞いしてもおかしくない雰囲気を漂わせながら、ひっそりと営業をしていた。孫六がこの地に棲家を構えてから十年ほどになるが、その間ずっと、年齢不詳の爺が一人で店に立っている。
 店主は爺ではあったが、見た目はまるで年寄りには見えなかった。孫六が酒屋へ通いはじめた頃は、まさか店主が自分よりもはるかに年上だとは思わず、まだ若いのに渋い酒を並べるものだとよく感心していたものだ。
 店主の爺は、長くうねる豪奢な金の髪と若々しい肌を持ち、出す声は太く張りがあった。注意を凝らしてよく見れば、爺の首や目元、輪郭には、積み上げられた年輪が微かに窺えたから、彼が自分を「じじぃ」と称することに間違いはなさそうだった。だが、はたしてどの程度の年齢の爺なのか、まるで見当はつかなかった。
 くわえて、爺の眼差しには妙な眼力があった。会計をする時、たまに淡い色の目がまっすぐ孫六を見ていることがある。こちらの心の中を探るような上目遣いをして釣り銭を渡し、「お前さん、煙草は吸うのかね」などと話しかけてくる時の爺は、少々妖怪じみているのでは、と孫六は思うのだ。
 狭くて薄暗い酒屋の棚には、定番の焼酎と日本酒、ウイスキーが並んでいる。ウイスキーはオールドボトルも少しだけあり、店主の目利きが良いのか、稀に掘り出し物が見つかるのが楽しかった。
 入り口付近の小さな冷蔵庫には、ビールや缶酎ハイなどが入っていた。手っ取り早く晩酌の酒を求める者のためにか、冷蔵庫の中の品はいつでもよく冷えていた。酒の他には多少の生活用品と駄菓子があり、放課後から夕方のチャイムが鳴る前までの時間帯は、小学生がよくたむろしている。
 この静かな酒屋を、孫六は大変重宝していた。
 酒屋からもう少し歩けばコンビニがあり、そちらは酒屋よりも品揃えが良い上に、新商品も並ぶ。品物の値段も、さほど大きく変わりはしない。だが、喧しいBGMがなく、人目を気にせず酒を求めることができるこの酒屋を、孫六は気に入っていた。
 それに、なんといっても、この酒屋の軒下には、今どき珍しいアルコールの自動販売機があるのだ。
 どうやら、商品の管理はメーカーではなく酒屋の爺がしているようだ。ラインナップが店の冷蔵庫と同じだ。自販機のボディは塗装がところどころ剥げているし、色褪せも酷い。それに、電子マネーが使えるか云々以前に、新札も読み込んではくれず、大変に不便でもある。
 しかし、小学生がたむろする時間帯と、孫六が仕事終わりに酒を求めに来る時間がちょうどかちあった時などは、このボロ自販機がとても助かるのだ。
 信条とまではいかないけれど、自分なりのこだわりをいくつか持つ孫六にとって、いい歳の大人がふらふらと酒を求めに来る姿を子どもに見られるのは恥ずかしいことだった。だから、子どもが店にいる時などは、ひっそりと自販機で酒を買ってすぐに帰る。
 そんなこんなでこの店へ通う孫六は、「爺よ、俺がここを出て行くまでは、どうかくたばってくれるなよ」……などと、勝手に店主の爺の健勝を願っているのだ。
 時刻は十八時を回ろうとしていた。小雨が降る、薄暗く寂しい夕暮れ時である。いつものように酒屋へ酒を求めに来た孫六は、携えた傘を畳むのを面倒がり、自販機でビールを買うことにした。
 小銭を入れ、目当てのボタンを押す。開き口に手を突っ込んで缶を取り出し、さっさと帰ろうとした孫六だったが、思わず足を止めた。
 間違いなくロングサイズの缶ビールのボタンを押したはずなのに、孫六がいま手にしているのは、ストロング系の酎ハイだった。しかも、季節限定の桃。あいにく、人工甘味料の甘さを摂取したい気分ではないし、そもそも甘い酒は好まない。孫六は逡巡した末、一瞬だけ顔を顰めて店の中に入った。結局傘を畳む羽目になり、履いていたスウェットパンツが少々濡れた。
 上り框の、いつも爺が座っているはずの座椅子は空っぽだった。用足しにでも行ったのかと、孫六は奥へと声をかけた。
「すまん、親父さんいるかい?」
 少しだけ間を置いて、「はぁい」と女性の声がした。
 孫六は思わず、きょとんと目を丸くした。
 この酒屋で、爺以外の店の人間の声を初めて聞いた。しかも女だ。爺よりも相当若そうな気配がする。孫六が、声の主の女性と、爺との関係を頭の中で弾き出す前に、奥の部屋と店とを隔てる玉暖簾がかき分けられた。
「こんばんは。何か御用ですか?」
 暖簾の間から顔を覗かせた女性は、孫六を見とめると、人懐こい笑顔を浮かべた。その笑顔に惹き込まれて見惚れ、孫六は一瞬だけ用事を忘れた。だが、携えた缶に付いた結露がじっとりと手のひらを濡らす感触に我を取り戻す。
「ああ、表の自販機でビールを買ったら、違うのが出てきて。交換してほしいんだが」
「あっ、すみません。交換しますね、どのビールですか?」
 女性は土間に下り、店の冷蔵庫に並ぶ商品を孫六へ示した。その際、「……のりむね、間違えて入れちゃったんだ」と小さな独り言が聞こえた。のりむね、というのは間違いなく爺だろう。女性の言葉に、爺との親しい距離を感じ取り、孫六はなんとなく面白くない気持ちを覚えながらロング缶のビールを示した。
「これを」
「はい、こちらですね。値段は同じなので、このまま交換ということで。お手数を掛けてすみませんでした」
 女性は申し訳なさそうに眉を下げて微笑み、缶酎ハイを受け取り、ビールを孫六へ渡した。
……今日は、親父さんは?」
「ああ、ちょっと用事で出掛けてて。もうすぐ戻ると思います。御用でしたら、お伺いしましょうか?」
「いや、特に用事は無くて、店に来るといつも親父さんがいたから……
「いつもご贔屓にして頂いてありがとうございます」
 女性は客向けの笑顔を崩さずに愛想良く言ったが、言葉の最後にほんの僅か、つやめかしく笑んで孫六を見た。その目に思わず引き込まれて、孫六は女性へ礼を言うのを忘れた。
 これでもう用事は済んでしまったのだが、どうしてもこの場から去り難く思えて、ついでに何か乾きものでも買っていくかと考えた矢先、玉暖簾の奥から物音がした。恐らく爺が帰ってきたのだろう。喧しい足音が せわしくこちらへ向かってきて、暖簾が荒っぽくかき分けられた。
「なんだ、お前さんか。いらっしゃい」
 爺は孫六を見るなり気の抜けた声で言った。そして冷蔵庫の傍らの女性へ向けて、何だか気だるげに、つまらなさそうに声をかけた。
……ほらな。僕の言った通りだったろ。何にも解っちゃいないし、覚えてもいない」
「大丈夫だよ。きっと、意識の根っこの方では覚えているはずだよ」
「どうだかな。僕はもう、望みは薄いと思っているが」
「前にも言ったでしょ。最終手段。今やるしかないよ」
……気が進まん」
「お願い、則宗」
…………約束、覚えているだろうな?」
「もちろん」
 途端に訳のわからない会話をはじめた二人だが、何やら自分に関することを話していることは孫六にも分かった。だが、爺はともかく、女性とは初対面のはずである。彼女はなぜ自分のことを知っているのだろう。どうすればよいのか判断に迷い、僅かに後退りをした時、目の前の爺と女性は同時に振り向いて孫六を見た。
「お前さん、そこを動くなよ」
「孫六、ちょっと我慢してね」
 爺がゆっくりとした動作で框を降りてきた。
 金の髪から覗く碧い目が、淡く発光して孫六を見ている。
 
 ***
 
 ——遠征に出た先で、刀が行方不明になることがある。
 嫌な話だが、その年は当たり年だったらしく、私の本丸の孫六が遠征先で行方を眩まし、消えてしまったことを報告した際、対応してくれた職員が「なぜか今年は多いんですよね」と、ぽつりとこぼしていた。
 行方不明になった刀は、一通り捜索が行われるものの、見つかることは少ない。
 霊力の気配を頼りにして、行方不明になった年代の地域を探すことは、とても骨の折れる作業だし、力の供給源である審神者や本丸から離れて時間の経った刀の気配は、注意して意識を凝らさないとわからない。そもそも行方不明が判明した時点で、その刀は何らかの事象に巻き込まれている可能性が高く、見つからないことがほとんどだった。
 刀が行方不明になるということは、折れて消えるということとほぼ同じだ。ただ、本丸の刀が行方不明になった場合は、その旨を届けると、いくつかの手続きを踏んで、行方不明になった刀と同じものが届く。
 捜索に時間をかけるよりも、同じ刀を一から鍛え直すほうが簡単だ。
 見つからない可能性が高いものに時間をかけることは無駄である。
 一番良いのは、忘れてしまうことだ。
 しかし、私はそうできなかった。
 理解はしていても、気持ちが追いついていかなかった。
 本丸にいる刀らは皆愛着のある刀だ。
 彼らと初めて出会えた時のことはずっと覚えている。
 孫六たちの部隊を送り出した時、私は何と声をかけただろうか。あの時は、刀たちが帰ってくるのは当たり前だと思っていたから、どんな風に送り出したのか思い出せない。
 孫六は、気がつくと視界の端に佇んでいることが多かった。上背のある後ろ姿や、ひっそりと部屋の隅で読書をしている姿がどこかにあるのでは、と、探してしまう癖がついてしまい、一人で虚しくなるのを何度も繰り返した。
 私は、どうしても、新たな「孫六兼元」を申請する手続きを進めることができなかった。
 しかし、私の元にいる刀は孫六だけではないのだ。
 四六時中孫六を気にかけるわけにはいかず、心の隅に彼のことを残し、本丸の仕事に注力していくうち、時は過ぎていった。
 則宗が私に声をかけてきたのは、孫六がいなくなってから、季節が一巡しようとしていた頃だ。
「お前さん、僕がアイツを見つけたって言ったらどうする」
 やけに神妙な表情でそう言われ、はじめは意味がわからなかった。だけど、則宗は私に構わず話を続けた。
「僕が様子を見てきてやる。どういう状態になっているか、まだ詳しくは分からんが、あの刀を探す気持ちが残っているのなら、力になるぞ」
 則宗が孫六のことを言っているのだと気がついた時、私は思わず泣いてしまった。
 政府の捜索隊も、私の本丸の刀で編成した隊も行方を見つけきれなかった。それを則宗が見つけてくれた。私は心から何度も礼を伝え、則宗に感謝した。ただ、どんな方法を使って則宗が孫六を見つけたのかは、私が案じることは何もないと言って、最後まで頑なに教えてくれなかった。
 ——それから、則宗は孫六を発見した年代に降りて、行方不明になっていた孫六のことを調べてくれた。
 孫六は、遠征に出した年代から大きく離れた、私の出身年代付近の日本にいた。
 本丸では孫六が消えて一年ほどが経っていたけれど、孫六は全く違う早さで時の流れを感じていたようである。
 このことから、時空移動の際、何かしらの事故に巻き込まれて行方不明になった可能性が高いと推測された。
 やっと見つかった。無事でいてくれた。
 私はすぐに孫六を迎えに行くつもりで準備をしようとしたが、則宗は浮かない低い声で引き止めてきた。
「まあ待て。どうにも、ちと妙でな」
 孫六の居所近辺に、酒屋の店主となって潜む則宗は、衝撃的な事実を述べた。
 孫六は、本丸での出来事を何も覚えていないらしい。
 それどころか、自分が刀の付喪神であることも、己の本分すらも忘れ、只人として生きているそうだ。
 気配もすっかり人間と同じものになっていて、刀としての孫六は意識の底へ押し込められているようだった、と則宗は語った。
 則宗とはっきり顔を合わせても反応はなかったというのなら、私のことなど完全に忘れているはずだ。
 事故に巻き込まれた際に衝撃を受けてそうなったのかもしれない。原因は定かではないが、とにかく、孫六が自分のことを何も覚えていないというのは確かだった。
 ここまで何も覚えていないのでは、自力で記憶を取り戻すのは困難だろう……との則宗の見解は、そのまま、政府の識者の返答としてこんのすけを通じて戻ってきた。
 胸を抉られるように辛かったが、私は孫六がいつか本分を思い出す可能性に希望を託した。
……確率は低そうだが、お前さんがどうしてもと言うなら協力しよう。このまま見張りを続けてやるよ。ただ、お前さんの願いが叶った暁には報酬を貰うぞ」
 則宗は冗談めかして笑ったけれど、私は本気だった。報酬は何がいい? と尋ねてみると、則宗は一瞬だけ目を丸くして、ふむ、と声を漏らした。
「それじゃあ、長期の休暇に、僕を旅行へ連れてっておくれ。酒屋の爺とお前さんの刀の、二足の草鞋生活はなかなか骨が折れる。海辺か山奥か、とにかく静かな場所にあって、美味いものが食える宿が良い」
 わかった、と返事をした時に則宗の目が妖しくきらりと光った気がしたけれど、私の刀が帰ってくるのならば何でも良かった。
 そう、私の刀。
 則宗も孫六も、大事な私の刀だ。
 ——それからしばらく経ったが、孫六が自分の本分を思い出す兆しはなかった。彼があまりにも自分をただの人間だと思い込んで生活しているので、私は少々焦れてきた。
 こうなったら、私が孫六の元へ出向き、もう一度魂を励起させてみる手も有効かもしれない。そんなことを相談すると、則宗は渋い顔をした。
「僕は反対だ。普通の人間の魂に干渉することで、お前の身に何が降りかかるか分からん。それにまあ、あいつが身を損なう可能性も無くはない」
 店を閉め、本丸へ戻ってきた則宗は、報告ついでに私の部屋で遅い夕食を取りながら、口を尖らせて言った。しょんぼりとしていると、則宗は、私を気遣うように微笑んだ。
「焦るな。もう少し待ってみてもいいと思うぞ? ……そんなにあいつのことを思う姿を見せつけられると、妬けてしまうな」
 私は則宗の茶碗が空へ近付いていることに気がついたので、おかわりのご飯がいるかと尋ねた。則宗は嬉しそうに茶碗を差し出してきた。
 お櫃のご飯をよそいながら、私は考えついた方法をどうにか試せないかと頭の中がいっぱいになっていた。
 孫六の魂は限りなく人間に近いものへ変質してしまっているが、容れ物である肉体は、顕現の際に私が与えたものだ。人間の肉体ではない。私の呼びかけに、肉体の方は応じてくれる可能性があるだろう。……それならば、孫六の魂が只人でなくなれば良いのだ。
 則宗が孫六に少しずつ神気を流し込んでいけば、孫六の魂は人ではなくなる。閾値を超えたところで私が孫六を励起させれば、元に戻るかもしれない。
 そう言うと、則宗は苦い物を丸呑みしたような表情で呻いた。
「やめてくれ気持ちが悪い」
 ……則宗は、一体どんなことを想像したのだろうか。私が提案した方法には、人間には分からない、刀の付喪神だけが理解できる嫌悪があるのかもしれない。
 身震いして箸の進まなくなった則宗を不可解に思いながら、孫六が酒を求めて酒屋へ来る度、購入した酒に則宗の力を混入できないかと尋ねた。酒に少しずつ神気を盛っていけば、孫六はいつか人の理から外れる。嫌ならば無理は言わないが、できるだろうか。
「まあ、出来んことはないが、それでは時間がかかりすぎるだろう。やるなら一気に……だが、それは最終手段にしてくれないか」
 それならば、時が来た時はよろしく頼むと頭を下げると、則宗は更に呻いた。
「いや、お前に頭を下げられるようなことは…………心が痛む」
 ——本当に、則宗は何を考えているのだろうか?
 そうして、孫六を元に戻す最終手段について話し合ったあと、則宗は、 ねぐらにしている酒屋と、私の部屋にある姿見を繋げた。「こうした方が都合が良いし、お前もあいつの姿が見えた方が安心するだろう」と言って、管狐に改造を頼んだのだ。姿見に潜れば、私の部屋と酒屋を自由に行き来できる。則宗は、酒屋から私の部屋へ戻ると、そのまま夕食を食べて自分の部屋へ戻っていくようになった。
 また、姿見は、鏡面を通して酒屋の様子を見ることもできた。初めて姿見に映った孫六は、久しぶりに見たせいか、頬の輪郭が鋭利になって、体の線が細くなっていたように感じた。ただ、孫六の様子については、則宗から日々細かく報告を受けていたので、焦ったり驚いたりする気持ちに呑まれることはなかった。余計な心配を抱かず、自分の目で孫六の無事を確認し、安堵する心に浸ることができたのは則宗のおかげだ。
 姿見を通して孫六の無事を確認しつつ、私の部屋で食事をするのが当たり前になってしまった則宗の飯をよそう。そんな生活が定着した頃のことだ。
 ——その日は、朝から小雨が降っていた。
 孫六はまだ自分のことを思い出さない。
 私は仕事を終えて私室へ戻り、いつものように姿見を眺めていた。
 酒屋は平常通り、静かに営業していた。しばらく酒屋の様子を見つめていると、店番をしていた則宗が不意に立ち上がり、本丸へ戻ってきた。
「すまん、明日の当番の打ち合わせをすっかり忘れていた。すぐ終わるから店を見張っといてくれ。雨だし、もう誰も来ないだろうが、何かあったら頼む」
 そう言うと、則宗は慌ただしく去っていった。私は溜め息を小さく吐き、誰も来ないことを祈りながら姿見を眺めた。
 薄暗い酒屋は、ひっそりとした空気に包まれている。
 その静けさを割るように、店の引き戸が開いた。
「すまん、親父さんいるかい?」
 ——孫六が来た。
 気がついた時には、私は姿見へ飛び込んでいた。
 
 ***
 
 孫六兼元は、喉へ迫り上がる吐き気を感じて目を覚ました。
 ……確か、遠征へ赴いていたはずだ。
 遠征先で突然衝撃に巻き込まれて……そこから先を覚えていない。
 何故だかは分からないが、布団に横たわっているようだった。気が付けば、心配そうな顔をした涙目の審神者が隣で手を握っていて、その後ろに、心底面白くなさそうな顔で半分だけ目を開いた則宗がいる。
 これは何ごとかと尋ねる前に、白けた表情の則宗が口を開いた。
「お前さん、遠征に出て行方不明になってたんだよ。随分長いことな。それで、記憶喪失になってふらふらしていたところを、ついさっき連れ戻してきたんだ」
 どういうことだ? と起き上がろうとした時、視界が大きく揺れた。脳みそが揺れ、込み上げる吐き気に胃がぎゅうと縮んで冷や汗が吹き出す。
「神気酔いだ。顔面を掴んで上丹田に思いっきり喰らわせたから、お前さんの調子が安定するまで、当分は醒めんよ。大人しくしておけ」
 則宗は素っ気なく言った。
 なるほど、と孫六は息を吐いた。しかしすぐに疑問が湧き上がった。この吐き気が、体を巡る則宗の神気への拒絶反応だと理解はできたが、なぜ自分は則宗の神気を注がれる羽目になっているのだろう。
……孫六ね、行方不明になった先で、自分のことを忘れてしまって、ただの人間に近付いちゃってたの。だから、則宗にお願いして力を注いでもらって、私がもう一度孫六を顕現し直したの」
 審神者が、噛んで含めるように説明を重ねた。
 そうして、深く溜め息を吐き、「本当に良かった」と呟いて、孫六の手を握ったまま顔を伏せた。涙が布団へ落ちる微かな音がする。
 酷い吐き気と、寝ぼけた心地が抜けないせいで、まだ現状への理解は追いつかなかったが、とにかく、審神者に手間と心配をかけたことは分かった。孫六は、審神者をじっと見つめて、絞り出すように声を出した。
……何やら、迷惑をかけたみたいだな、主人。申し訳ない」
 孫六の言葉に、審神者は勢いよく首を横に振った。そんなことなどない、と、大きな声が聞こえてくるかのようだった。審神者はゆっくりと顔を上げ、孫六へ笑顔を向ける。
「おかえり、孫六」
 頬を伝う涙を拭うことなく、安堵を浮かべる審神者の笑みは、どんな美姫 びきの微笑よりも美しく孫六の目に映った。
 そして、自分を思って涙を流してくれる審神者のことを、心から愛おしいと思った。
 ——そんなに泣くな。心配をかけて本当にすまない。もう戻ったのだから、泣き止んでくれないか。そう伝えたかったが、乾いた唇は上手く言葉を紡げなかった。
 孫六は、審神者の頭を撫で、胸に抱きしめてみたいと思った。しかし、起き上がることは叶わなかったので、小さな手を握り返すしかできなかった。
「主人、——
「さあ。酔いが落ち着いたら一からまた鍛え直しだ。なに、すぐ元に戻れるよう、僕がとことん付き合ってやるから心配はないぞ。安心しろ」
 孫六と審神者の間に流れた甘やかな空気を断ち切るように、則宗の冷たい声が響いた。
 孫六は、審神者の背後にぴったりと寄り添う則宗へ視線を向けた。則宗の見開かれた碧い目は、『羨ましい。妬ましい。それ以上喋るな』と孫六へ嫉みを語っている。
……そうだ、孫六。あのね、則宗が孫六を見つけてくれたの。見つけた後も、どうしたら孫六を元に戻せるか、とても力を貸してくれてね……
「大したことはしていない。僕はただ、お前の刀としての勤めを果たしただけだよ」
 則宗は審神者へ鷹揚に微笑みかけ、落ち着いた低音の声音で言った。孫六への子どもっぽい無言の牽制など嘘であったかのように、頼り甲斐のある古刀の余裕を醸し出している。
 審神者は、困ったように笑う曖昧な表情をちらりと則宗へ向けると、改めて孫六を見つめた。
……本当に良かった。孫六の目が覚めたこと、こんのすけに報告してくるから、少しでも何かあったらすぐに私を呼んでね。無理しないでね。約束だからね?」
 審神者は立ち上がり、部屋を出る間際、もう一度同じことを念押ししてきた。もしかしたら、自分は知らぬ間に、彼女を心配症な性格へ変じさせてしまったかもしれない。自惚れかもしれないがそんなことを考え、孫六は苦笑した。
……それで、どうだ。そろそろ動けそうか」
 審神者の気配が完全に遠のいた時、則宗は待っていたかのように孫六へ問いかけてきた。放った声音は冷たく、淡々としている。
「そんなにすぐ動けるわけないだろ。それにしてもあんたの神気はねちっこいな。俺の ・・に置き換わるまで時間がかかりそうだ」
「それだけ口を聞ければ充分だ。もう一度、鼻血を噴くまで喰らわせてやろうか」
「はは、そんなことしたら主人が泣くぞ」
 牽制がまるで効いていない様子の孫六へ、則宗は心底憎らしげに舌打ちをし、そのまま苦々しく口の端を歪めた。
「お前さんも、『私の刀がいない』なんて泣かれてみれば良い。……言われてみたいもんだ。私の刀 ・・・
 渋面を作った則宗の眼差しが、口惜しさの中に寂寥を滲ませているのに気が付き、孫六は、自分がいない間に何があったのかを薄々感じ取った。恐らく則宗は、審神者可愛さに手を貸したは良いが、自分以外の刀へ思いを向ける姿をまざまざと見せつけられ、歯噛みする羽目になったのだろう。きっと、多少なりと審神者への下心もあったはずだから、大層悔しい思いをしたと見た。何とも滑稽である。
「ふん。まあ良い。酒屋はもう廃業だ。楽しみはこれからだからな」
 座った目をして言い放つ則宗へ、孫六は揶揄を込めて鼻で笑った。そんなに自分を鍛え直すのが嬉しいのか、と思ったが、どうにも引っかかるものがある。——実際に、この時の孫六の第六感は正しく働いていた。
 孫六の、刀の付喪神としての魂を取り戻すことができた報酬として、審神者は則宗を宿へ連れて行く約束をしている。旅行の予定はこれから決めることになっているが、則宗は審神者を上手く誘導し、離れ宿のある旅館へ泊まる目算を立てていた。喧騒を離れて審神者とふたりきりになれる場所で、ゆっくりと愛を囁いて、積年の思いを説く目論見を抱いている。
「返り討ちにされる可能性も考えておいた方が良いんじゃないか? どうやら俺は、主人の大事な刀らしいからな」
 そう言った途端、頭を捻られるような頭痛が響き、吐き気が強くなった。孫六の身体を巡る則宗の神気が、怒りに呼応して暴れ出しているのだ。額に冷や汗が滲む。
 無表情でこちらを凝視する則宗へ、孫六は嘔気を捩じ伏せて笑ってみせた。
 ——この後、およそひと月ほどかけて、孫六は行方知れずになる前と同じ水準にまで力を戻した。
 則宗が、八つ当たりにしては目に余るほどの勢いで、手加減せずに孫六の稽古の相手をしたお陰でもある。
 孫六を鍛え直した則宗は、ようやく勤めを完遂した、これでやっと審神者を口説き落とすことができる、と扇子の下で笑い、彼女と共にどんな夜を過ごそうかと妄想に耽った。だが、審神者と赴いた宿に、——伴の刀が夜目の効かない太刀一振りとは不用心にもほどがある。用心棒が要るだろう? と薄ら笑いを浮かべた孫六が現れることになる……なんて未来までは、予測できるはずもなかった。
 鄙びた酒屋は廃墟となって久しい。
 外の自販機は、いつのまにか、どこかの業者によって撤去されている。
 店主の爺と、酒屋の常連だった壮年の男の行方を知る人間は、この近辺には誰もいない。