せつが
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受験生のバレンタイン番外編

「宮本先生の秘密~受験生のバレンタイン」通販時における、ブーストおまけ小話を公開します。
三月の半ばまでくらいの、本編より少しだけ先のお話。
高校の卒業式はもっと早いのですけど、この学校は遅いのだと思っていただきたい。本編をお読みになってからお楽しみください。
途中までは「受験生のホワイトデー」と展開は一緒です。
一版より二版、そしてこの三版目?とその都度加筆しております。展開に変更点はないものの、ほんの少しだけ、受ける印象が違うかもしれません。


 暦も三月に入り季節外れの暖かな日。窓からさんさんと日差しがふりそそぐ準備室にて、大和健ヤマトタケルは教員宮本伊織の手伝いに駆り出されていた。
 部屋の中は半袖でもかまわないほどに暑く、タケルは男子制服を着てきたことを後悔しつつあった。スラックスには風も通らず、ネクタイを締めた首元も暑苦しい。伊織はシャツ一枚になり腕まくりをしている。
 窓際などはもはや汗ばむほどだった。窓を開けて涼をとろうにも春先の強い風が入り込み、プリントをさらってしまうので開けられなかったのだ。エアコンこそ動いているものの、開け放たれた扉からたちまち冷気は抜けてしまい、効き目といえばいまひとつ。その中でひたすらにコピーをとり束にして、それらをまたひたすらにホチキス止めする虚無の作業である。
 他学年の宿題用のプリントだ。すでに卒業が決まっている三年のタケルには関係のないものではあるが、職員室に用事があり登校したところを「ヤマトか、いいところに」と、伊織に捕まってしまった。
 普通の生徒ならば「うげ」のひと言で逃げの一手であるものの、大和健ヤマトタケルは普通の生徒ではないゆえほいほいとついてゆく。
 宮本伊織と一緒ならば悪くないと、むしろ喜んで捕まりにいくとそういう手合いであったのだ。

「おまえには関係のないプリントなのにすまないな。今日に限って誰も捕まらずにいたものだから助かった」

 そう云いながら伊織は、コピー機にかがみ込み、トレイ奥に詰まった紙を取り除いてゆく。
 作業の邪魔になったのか、ネクタイの先は胸ポケットにしまい込まれている。丸くなったその背は思いのほか広く、動くたびに白いワイシャツが窮屈そうに引っ張られていた。

「イオリ、生徒の私がいうことではないのかもしれんが、この量のプリントならタブレットに送ったほうがよかったのではないか?」
「先生と呼びなさい。そうではあるんだが……ここまで多いと提出されたものを確認するのに、紙のほうが都合よくてな」
「そういうものか」
「そういうものだ……っと取れた。なんだ、まだ詰まってるな」
「そうかー……お疲れさまだな先生」

 ふたりしてたわいもない会話をしながら作業を進めていく。
 紙詰まりを直す音にプリント用紙をめくる音。数える声、束をならしとんとんと整える音。準備室の扉は開け放たれ、廊下にもその音がこぼれ出ている。
 どんなに寒いときでもどんなに暑いときでも、伊織はタケルとふたりきりのときは必ず扉を開けている。気温がどうあれこの決めごとが覆されることは一度もなかった。
 暑い寒いでたまらないときもあったが、開け放つぐらいがちょうどよい季節は目の前だ。だが、そのときタケルはこの学校にはいない。扉を開けたまま質問を受けねばならぬ生徒はもう、いないのだ。
 
 ばちん。
 
 ホチキスの止まる音がした。


「あっ失敗した! イオリ、この針はちっとも通らぬぞ。先ほどから何度も失敗をする」
「安い針ではだめだったか。こちらの針を使ってくれ」

 そう云って立ち上がり、振り向いた伊織はぎょっと見開いた目でタケルを見た。
 そこには暑いと云いながらネクタイを緩め、大きくシャツの襟元をはだけた生徒がいたのだ。ボタンをいくつもはずし、もう少しで胸元さえ見えようというほど。その状態で下敷きを使い自身に風を送っている。

……ヤマト。ボタンをとめなさい。そこまで崩すと風紀違反だ」
「いやーこの部屋が暑くてかなわんのだ。窓を開けて涼もとれんし脱ぐしかあるまい。先生の手伝いを続けるためにはな、しかたがないのだ。見逃してはもらえんかなー」

 タケルはそう云うと、鎖骨や首筋をことさらに見せつけるよう襟元をくつろげてくる。

「ヤマト」
「ふふ、どうだイオリ。これはグっときただろう? 汗ばむほどの準備室で、かわいい生徒の艶めかしい部分を眺めながらの秘密作業だぞ。先生はしんぼうたまらんと互いに一枚ぬぎ二枚ぬぎと――
「おまえはなにを云っとるんだ。そんなわけあるか。さっさとしまいなさい。さもなければ帰るように」
「またまたー。このプリントの量をイオリひとりでか? それは無理だろう。この私がいなければ終わらないなー困ったなー。これは目をつぶるしかないんじゃないかー?」

 そう云いにたりと妖しく笑い、これでもかと首元を露わに煽り立ててくる。
 たしかに暑い室内だ。タケルのしなやかな首筋にはうっすらと汗がひかり、薄い肌はしっとりと湿り気を帯びていた。

……やめなさい」
「おっ? ミヤセンもとうとう手を出す気になったか? くふふ。卒業を前についに、というところか」
「それをしたら俺は淫行教師として御用だな。ボタンをとめるように。そうでなければこちらへ来なさい」
「なんだ? 触れてみたくなったか? 私としては撫で回されるのもやぶさかではないぞ」

 調子に乗ったタケルは素直に伊織の前にやってくると、シャツの襟元をゆらした。そのたびに汗ばむ鎖骨がちらりと見えて悩ましい。だが、それを見下ろす伊織の顔にはなんの感情も浮かんでいない。
 ただ一度だけ、はくり、となにかを逃がすよう薄く唇が開いた。そうしてゆっくりと手が上がる。

「お?」
「云ってもわからないようなら指導だな」

 くるり。
 伊織はタケルの胸元に手を伸ばすと、シャツのボタンをとめはじめた。再三の警告を聞かないようなら直接に指導をすると、そういうことであるらしい。
 タケルより頭ひとつぶん背の高い伊織に覗き込まれ、タケルの顔には影が落ちた。

「あ」
「じっとなさい」

 制服の白いシャツにかかった手はボタンひとつひとつを丁寧に、その肌に指が触れぬようそうっと順にはめてゆく。
 下のほうからくるり、くるり。ゆっくりとした指の動きそのたびに、さわりと、布ずれの音がした。
 ボタンをとめられている。
 ただそれだけのことになのにタケルは、その様子から目を逸らすことができなくなった。
 伊織の手が、長く骨ばった指が、己の胸元にそえられている。その指はほんのわずか惑うよう動いては、正確にボタンの穴を探しあててゆく。
 爪の短い指先が、動くたびにあたるそのかすかな感触を、否が応でも拾ってしまう追いかけてしまう。
 布越しだ。直接肌に触れているわけではない。なのに、伊織に触れられていると思うだけで、ぴりりと痺れがほとばしる。そうして生まれた電流は、タケルの肌へ、喉へ、脈へと伝播してゆく。
 ひとつはめるごと、這い上がる指にあわせてタケルの背は反り上がり、次第に胸を突き出してゆく。つられて顎も上を向き、もうこの目で、指を追うこともできないくらい首をのけ反らせている。
 耳横にたらした髪が湿った頬に張りついて煩わしい。けれど、払いのけることも叶わない。背が反ると同時に背後の机に手をついて、からだを支えることで精一杯だった。
 ごくりと喉が鳴った何度も鳴らした。こんな音、伊織には聞かれたくないのにこういうときに限って室内はやたら静かだ。耳の中に届くのはコピー機のアイドリング音と、喉が立てる響きだけ。

……どうか、気づかないでくれ)

 息苦しくて勝手にくちびるが開いてしまう。そのくせ、ちっとも息を吸えやしない。
 くん、と、軽くシャツを引っ張られた。

(あっ)

 伊織に目をやればもくもくとボタンをとめていて、タケルの視線には気づいていない。それをいいことにじっと見つめた。重い前髪に隠された奥、伏せられた短くて濃い睫毛が、そっと瞬きをするのが見えた。
 思いのほか距離が近くてこころが逸る。

(ボタンをとめられているだけなのに……なんか、へん、だ)

 ひどく苦しくなった。
 伊織のそばにいるとこんな苦しみに襲われることがある。三度目の生だ。それまでに様々な出来事を経験しているはずなのに、それなのに――

(こんなの、知らない)

 うまく息も吸えないくせに体が勝手にこわばって、さらに息を殺してしまう。心臓は浅ましい刺激を求めて、弾けんばかりに脈打っている。
 そうして一番上、喉元のボタンに指がかかった。
 これで最後だ。同じく丁寧にはめられていくそれが名残惜しい。苦しい。けど、このまま終わらなければいいとそう願った瞬間、伊織の指がわずかに肌をかすめた。
 我慢できなかった。
 我慢できずに震える息をこぼし、たまらず目を閉じた。それでも胸奥の熱を抑えきれず、奥歯を噛んでこぼれた吐息を押し殺す。
 最後にしゅるりと布音が立つと喉元が軽く締まり、伊織の指は離れていってしまった。

「よしこれで終わりだ。……なんだどうした? 具合でも悪いのか?」

 顔を上げた伊織が目にしたものは、眉根を寄せて目を伏せた、火照りを帯びた顔だった。薄く目を開いて咎めるような一瞥を投げてくる。
 それを受け伊織はひと言、――座ってなさい――とだけ告げ、風量を強くしようと、壁についたエアコンの操作パネルへと足を向けた。
 
 伊織が離れ、ようやくこわばりが解けたタケルが喉元へと手をやると、シャツのボタンはすべて閉じられ、ネクタイまでしっかりと締められている。どこから見ても文句のない、模範的な制服の着こなしだ。
 この部屋でこんなの暑いにきまっている。暑いから、くらくらするのも当然なのだあたりまえなのだ。
 机に手をつきゆっくりと腰を下ろしたタケルはふうと大きく息を吐く。ついたエアコンから吹き出す冷たさが心地よい。
 風が当たったプリントは煽られ、はらはらといくつも床に落ちてゆく。拾いにいかなければと思うものの立ち上がれなかった。
 ごめんイオリ、あとで拾うから少しだけ休ませてくれ。

 なにせすっかり、のぼせてしまったようなのだ。


  ◇◇◇


 宮本伊織は窓から外を眺めている。
 あの後回復したタケルとともに大量のプリント用紙と格闘し、ようやく全学年分の宿題を揃え終えたところだ。
 タケルからは「手の脂がなくなってカサカサだ!」と悲鳴を上げられ、ふたりして用紙で切った手傷をこさえてしまった。
 ひとりでさばける量ではなかったと、タケルに強く感謝した。此度は手伝いを得られたものの、来年はどうしたものかと思案をしていたちょうどそのとき、校舎から出てきたタケルが目に入った。
 いや、ちょうどではない。伊織は帰るタケルを見送ろうと窓際に立ったのだ。
 あと何度、この背中を見送ることができるのかはわからない。ただ最後は、卒業のその日だと知っている。桜の木々の下、歩いてくる彼を見守り、旅立つ背中を言祝いで送り出す。教師としての最後の務めだ。
 胸内むなうちで波立つものを揺らすよう、春を運ぶ風に長い三つ編みがからかわれてゆくのが見えた。外はたいぶ風が強いものの、驚くほど暖かい日であったゆえ、風に吹かれても寒いということはないはずだ。
 先ほどはとんでもない目にあった。
 濡れた肌を見せつけるという、手酷い誘惑をうけたのだ。
 制服のネクタイをだらしなくゆるめ、シャツの襟元を大きくくつろげ肌に触れろと見せてくる。まるで誰かの妄想をなぞるかのような、艶めいたシチュエーション。
 嫌いなわけがあるか。
 幾度となくタケルを組み敷いた夢想そのままの状況に、冷静さなどあれよという間に霧散した。
 まったく人の気も知らないで厄介な誘惑ばかりかけてくる。いっそのこと胸元に手を差し込み、望みどおりに撫でまわしてやろうかと思ったほどだ。いまおまえの前に立つ人間は、その肌を暴く劣情を止められぬろくでもないおとこなんだと、さらけ出してしまいたかった。
 小さく息を吐く。
 江戸で出会ったあのときとは立場も違えば社会も違う。その違いが楽しく、嬉しくもあったことは間違いない。彼の側で見守り支え、彼の願いを叶えてやることができたのだから。
 そして同時に、必死の思いで浅ましい欲を押し殺している。彼に対してはいつだって身勝手で、できもしない妄想ばかりだ。
 ひときわ強い風が吹き、窓ががたりと音を立てる。
 その音に、先ほどの一瞥が蘇った。
 おかしな整え方だとでも云いたげな、どこか責めるような眼差しだった。こちらとしては衣服を直しただけである。けれど彼の顔を見ていると、ただ指導をしただけだと言い切れない自分がいた。
 肌に触れぬようゆっくりとした指の動きに、下心がなかったのかと問われれば自信がない。かように近いからだの距離は、もう二度とないであろうとは思った。これから口づけせんばかりの距離とかすめた肌の感触に、みじめなほど甘い疼きをこころは上げた。
 帰路をゆくタケルの姿を見届け、次第に小さくなっていくその背に届かない言葉を投げる。

……先生をからかうんじゃありません」

 伊織はもう一度、静かに息を吐いた。