いを
2025-07-14 21:55:19
2313文字
Public 刀神
 

ベラ・ノッテ、綺羅めく常夜の夢

青嵐
・紫垂月さん【Metol_P】
お借りしています。

 軒先に風鈴を取り付けたのはつい最近だった。紐を突き出た釘に括ると、ちりんと軽やかに鳴った。
 目を細め、それを眺める。私の家は特別装飾品が多くはなく、とはいえ生活感がないというわけでもない。庭から見えるのは、几帳面に手入れされた花壇とこの家があった時から建っていた石塀だった。多少の衝撃でも耐えうるそれは、長い年月そこにあるのだろう。地面と近い場所に苔がむしていた。軒忍のきしのぶが軒先に垂れ下がるように茂っていた。ちょうど風鈴のあたりまで垂れているため、少し整えてしまっても良いのかもしれない。
 風鈴の近くにはすだれをつけた。これで日光が直接縁側を焼くことはないと思うが、すでに縁側は木が剥げた場所があり、ささくれだった所にはゴザを敷いた。素足で歩いて以前痛い目を見たのだ。首筋に汗がつたう。縁側を手入れしていたから、知らず知らずのうちに汗がにじんでいた。あごから水滴がぽたりと床の上に落ち、じわりと染みこんでいった。たすきをほどいて、息をつく。近くからなのか、遠くからなのか分からないが蝉が鳴いていた。ひたいにも滲んだ汗を手ぬぐいで拭いて、首にまたかける。私のこの、便利でもなんでもない暮らしを他の人に分かってほしいとは思っていない。元からこうであったように暮らしているだけだ。だからといって便利で、すべて賄えるほどの暮らしを否定もしない。個々に、暮らしやすい生活というものがあるのだ。私の場合はこれがそうであった。
 雑巾を絞り、物干し竿にかけた風に吹かれている着物を取り込んで仕舞い、冷蔵庫から麦茶を取り出して飲んだ。
 ――変化したことがある。飲むためだけの食器がひとつ増えた。猪口や徳利、何の変哲もない、ひどく透明なグラス。まだ曇りや傷がひとつもない真新しいもの。新品というだけの存在が、私の生活をたしかに彩った。コップの中で氷が溶ける音に視線を落とす。私の体温で溶けたのだった。
 今日、私ひとりきりの生活は終わる。


 紫垂月頼宗が家に訪ったのは夜だった。彼の隣を歩いたが、この道をともに通るのは初めてだったかもしれない。月がぼんやりと霞んで出ていた。
「遅くなってしまいましたね」
 独り言のように呟くと、彼はかすかにほほえんだ。
 汗が引くような夜風が吹き、空を見上げる。遠くで星がてんてんと輝いていた。星々の位置も名前も、必要最低限のことしかしらない。いまの私の視力では、新たに位置を覚えることは難しいかもしれない。
「紫垂月殿」
「ん?」
「お気に召して頂けると良いのですが」
「ああ、君の家のこと?」
 私がええ、と頷くと白いおとがいをわずかに動かした。
「そういえば花を育てていると言っていたね」
「花壇があります。この時期になると、雑草はあまり生えてこないので草むしりも楽です」
 そういうと彼はくすりと笑い、私を見下ろす。今にも電気が途切れそうな街灯が、夜の闇とともにうっすらと影を落とした。住宅地のあまり広くはない道路が続いている。私の家は、丁字路のすぐ左側にあった。右側は老夫婦がふたりきりで暮らしている。石塀を越えれば彼らと顔を合わせられるくらい隣家は近い距離にあった。彼らもまた、青嵐と似たような暮らしをしている。
「ここが、君が暮らしている家?」
 わずかに見える石塀と、植物に囲まれた門扉の前に立った。はいとうなずくと、門扉を開く。ギイと軋んだ音をたてた。
「大して綺麗でもなんでもない家ですが、まぎれもなく私が今まで、十年以上過ごしてきた家です」
 彼は門扉を通り過ぎると、顔を右側に向ける。花壇がある場所だった。そこには今は花がついていないシャクナゲ等の低木が植え付けられており、その端にはタチアオイが葉や花を伸ばしている。旬の花だ。鮮やかな花の色が目に眩しかった。が、今は夜だからか、花たちはひっそりとうつむいていた。
 鍵をあけて、玄関に入る。夏独特のこもった木と紙のにおいがまとわりついた。彼は「よく手入れされている家のようだね」と呟いた。
「ひとの手が入らなければ、家はすぐに死んでしまいます」
 玄関をあがると、すぐそばに台所がある。
「こちらが台所です。一番奥が私の寝室と私室、真ん中と反対側の数部屋は客間で、紫垂月殿の部屋も用意してありますが……お好みの部屋がありましたら手を入れます」
「さっきの縁側がある場所は?」
「それでしたら、ここから右に行くと……
 指をさすより、案内した方がよいだろうか。そのまま廊下を進んで右に曲がると、すだれと風鈴、床にゴザが敷かれた花々が見える縁側に辿りつく。
「夜風が入る」
 紫垂月頼宗はそう呟き、目を細めた。コンクリートで固められていない庭を、私が植え付けた花や木を、彼にはどう見えているのだろうか。後ろに控えるように佇んでいると、長い髪がかすかに風に揺れた。
……生きている匂いがするね」
「生きている……?」
「この家も、あの植物も」
「そうですか。……そう見えますか。よかった」
 どこか安心した思いになる。私がここで生きてきたことは意味があったのだと考えられたのだ。
「紫垂月殿、あなたが安らげる場所になるように心を尽くします」
 衣ずれの音をたてて、振り返る。まつ毛で縁取られた瞳が、かすかに緩んだ。
「よろしくね。青」
 私が美しいと思えたものをあなたも美しいと思ってくださることが、なによりも嬉しい。
 一度目を伏せ、くちびるをそっと開く。
「こちらこそ。……ああ、そうだ。せっかくですし一杯いかがですか。良いお酒を仕入れたんです」
 風鈴の、か細く、けれど確かな音がふたりの家に鳴り響いた。