よる(ひねもす)
2025-07-14 21:52:24
5591文字
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ALRIGHT

お互いの十九歳の誕生日を祝う犬飼と影浦の話です。付き合ってないどころか好意も自覚していない。


 十九歳になって初めての朝は、何の感慨もなく始まった。自分の部屋の景色も、おれの頭の中も、昨日までとの変化を見つけられない。布団の中から腕を伸ばしてカーテンを開く。ありきたりな灰色のくもり空。
 ちょうど一年前……十八歳になった日は、あんなに特別な感じがしたのに。晴れた日に窓を開け放つような、昼寝から自然と目が覚めたような、あの感じ。誰におめでとうと言われても心の底から嬉しかった。十八歳になった自分が誇らしかった。あの万能感は、この一年でどこへ消えてしまったんだろう。
 あくびをこぼしながらリビングのドアを開ける。ダイニングテーブルにはあーちゃん……二番目の姉だけがいた。コーヒーのいい匂いがする。おれの顔をみて、姉はにっこり笑って言う。
「おはよう。あと誕生日おめでと、澄晴」
「ありがと、あーちゃん」
 うちの家族はみんな律儀だ。全員の誕生日を覚えていて、おめでとうの言葉もご馳走もケーキも欠かさない。
「だいぶ眠そうだね」
「あー……。もっと早く寝るつもりだったのに」
「ご飯より先に顔洗ってきな」
 年上らしいアドバイスに無言で頷き、まぶたを擦りながら洗面所へ向かう。
 鏡にうつる自分の顔はいつもより目が小さい。今日はぬるま湯じゃなくて水で顔を洗おう。夜更かししたのがしっかり顔に出ている。
 おれを寝かせてくれなかった原因のスマホが、パジャマの尻ポケットでまた震えた。歯を磨きながら、通知のバナーだけを眺める。四月から通い始めた大学で知り合った女の子から、誕生日おめでとうのメッセージ。返事は後でいいけど、今日の三限の講義で一緒になるはずだから、それまでには返さなきゃ。関係ないことを考えていても、朝のスキンケアをこなす手は止まらない。
 大学に入ってから、知り合いが一気に増えた。都心のマンモス大学ほどではないが、三門大はそこそこ大きな総合大学だ。経営学科の同期だけで百人近くいる。一年生の間はほとんどが教養科目だから、他の学科の人たちもたくさんいる。友達の友達。友達の知り合い。知り合いの友達。芋づる式に連絡先が増えていく。
 五月一日は、知り合ったばかりの、これから仲良くなりたい人の誕生日を祝うのにはちょうどいい日なんだと思う。新しく登録したばかりの連絡先から、いくつも祝福のメッセージが届いた。犬飼澄晴との距離を縮めたいって、好意を文面に滲ませて。
 十九歳なんて、そんな大したものじゃないのに。
 洗面所からキッチンに戻り、食パンをトースターに入れて焼き上がりを待つ。今日はバターにしようかな、ジャムにしようかな。冷蔵庫を覗いて悩んでいると、背中にあーちゃんの明るい声がぶつかった。
「去年は外で食べてきたけど、今年は夕飯、家で食べるんだよね?」
 いつもの朝と同じようにブラックコーヒーを啜る姉の問いに他意はない。家族だから、それくらいは分かっている。だけど決定的に去年の誕生日を思い出してしまった胸のうちが、じわりと鈍い痛みを訴える。誕生日の焼肉は美味しくて楽しくて、新しい一年にピッタリだと思った。まだ高校生だったくせに、大人の一歩目を踏み出した気さえした。なのに次の日、冷たい雨が降って、彼女はゲートの向こうへ行ってしまった。あの子は今日、どうしているんだろう。おれの誕生日をすこしでも思い出すんだろうか。おれが今、あいつを思い出しているみたいに。
「うん。今日は本部に用事もないし、夕方には帰ってくるよ」
「良かった。母さん張り切ってたから、すごいご馳走出てくるかもよ」
「えー、なんだろ、楽しみ」
 にこりと笑うおれの表情の内側をのぞき見る術を、姉は持たない。だから相手からも曇りのない笑顔が返ってきた。
「季節ハズレのぶどうでも買ってきそうな雰囲気だった」
「それはさすがにないでしょ」
「分かんないよ〜」
 でも本当は、おれのことなんて全部見透かしているんじゃないかと思う。簡単な冗談をこぼす口調が普段よりも柔らかい気がした。
「あーちゃん、コーヒーまだある?」
「いつものスティックのやつ、棚の中」
「ありがと」
 姉の優しさに身を預けて、古い傷の痛みなんてさっさと忘れてしまいたい。電気ケトルで湯を沸かし、マグカップの中に注ぐ。ミルクと砂糖の甘い匂いがふわりと立ち上る。微糖のカフェオレは、朝の冷えた心と体をちょうどよく温めてくれた。

 今日の講義は二限からだ。のんびり支度を済ませて大学に向かうと、ちょうど一限の講義が終わったタイミングだった。おそらく構内で一番広い教室から、わらわらと学生たちが出てくる。いくつか見覚えのある顔があるから、同じ一年生の教養科目だろう。廊下のすみで、彼らがみんな出てくるのを待つ。
 集団の最後尾、猫背の黒い男の姿を見つけて、意識するよりも前に感情と声が波打った。
「カゲだ、おはよう」
……チッ」
 あいさつに舌打ちで返すとは恐れ入る。だけどこれがカゲの通常営業だから気にしない。マスクで顔の下半分を覆い隠していても、機嫌が悪いのが見て取れる。
「この講義、一人なの?」
「ゾエは家族旅行でサボり」
「ゴールデンウィークの中日だもんね。カゲはサボってなくて偉いじゃん」
……チッ‼︎」
 さっきよりもデカい舌打ちが返ってきて、思わず笑ってしまった。何が面白いんだよと睨みつけられる。何が面白いんだろう、自分でも分からない。でも人間って、あまりにもぞんざいに扱われると、ちょっと楽しくなってしまうみたいだ。
 笑いのツボが落ち着いてから、笑顔を引っ込める。彼の前では楽しくもないのに笑わないほうがいいみたいだと気づいたのは最近のことだ。おれが無表情になると、カゲも警戒を解くみたいに視線を外して、背負っていたリュックを下ろして何やらごそごそを荷物を漁り始めた。
「自分で食おうと思ってたのにムカつく」
「え? 何の話?」
 おれに聞かせるつもりのないひとりごとが聞こえた。何が何だか分からないまま、目の前にコンビニのビニール袋が突きつけられた。
 受け取れ、と爬虫類みたいな視線が声よりも分かりやすく言う。
 おそるおそる中身を覗きこむと、カラフルなお菓子のパッケージがいくつか見えた。あ、これ、おれが好きなやつ。ぶどう味の、ちょっとすっぱいグミ。こないだ荒船たちにお裾分けして、みんなも美味しいって言ってたやつ。そういえば、あの場にカゲもいた気がする。
 ぜんぜん意味が分からなくて目の前の顔を見ると、ハァー、と長いため息が聞こえた。いや、なに。どういうこと。まったく意図が掴めない。
「テメーにやる」
「は?」
…………誕生日だから」
 地を這うような低い声が、投げ捨てるように、言った。
 誕生日だから、おれにあげる。たしかに、そう言った。
「さっさと受け取れ」
 ずい、とさっきよりも握りこぶしが前に迫ってくる。思わず両手を差し出した。手のひらに落ちてきた白い袋にはたしかに質量があって、目の前の光景が嘘じゃないと教えてくれる。
 おれが言葉を失っているあいだに、カゲは歩き出そうと背を向けてしまった。ハッと思考が戻ってくる。一歩を踏み出して、チャコールグレーの上着を着た背中に声をかけた。
「カゲ、ありがと!すごく嬉しい!」
 返事はない。かわりに、骨ばった右手が乱暴に頭をかき乱すのが見えた。決まりが悪いときに彼がよくやるクセだと、遠征選抜試験をくぐり抜けたおれは知っている。
 どうしてだろう。スマホに届いたメッセージも、家族の気安い言葉も、素直に受け取れなかったのに、カゲのささやかなプレゼントはおれの胸の底にすとんと落ちた。誕生日なんてただの日常だ。十九歳なんて、十八歳と二十歳のあいだの一年間でしかない。おれは一日を、一週間を、一年を繰り返して大人になっていく。わざわざ一番悲しかった誕生日を思い出す必要もない。
 白くて軽いビニール袋を、自分のトートバッグにそっとしまう。今日の晩ごはん、何かな。久しぶりに母さんの作るグラタンが食べたくなった。あとでメッセージを送ってみよう。空いた座席を探す足取りはさっきよりも軽かった。

  • * * * *

 真夜中。一人きり。自分の部屋。気楽で脱力した一日の終わりに、ベッドの上のスマホが短く震えた。
 すこし集中力が途切れたが、視線を手元のマンガに戻す。防衛任務の帰りにコンビニで買ってきた最新刊だ。荒船は電子版のほうが楽だろと言うが、俺はまだ紙のほうが好きだった。まあ、マンガしかロクに読まないからこだわりもクソもないが。
 続けて、またバイブレーションの振動が聞こえた。間をおかずに何度も震える。なんだよ、うるせえな。拾い上げて光ったままの画面を見る。
 六月四日。零時十五分。影浦隊のグループ通知が四件。
 それを見て、用件が分かった。今日だって顔を合わせていたのに、変なところで律儀なヤツら。ちょっと笑って、画面を開く。
『カゲ!!!!!!誕生日おめでとう!!!!!!!』
『(うさぎがケーキを差し出すスタンプ)』
『おめでとうカゲさん』
『おめでと〜!今年もよろしくね〜』
 内容は予想していたとおりだった。『ありがとう』とクマが頭を下げているスタンプを返す。俺の返信を気にしているのかいないのか、ヒカリからのメッセージがすぐに返ってきた。
『明日、てか今日、隊室にケーキ買ってく!何が食べたい?』
 誕生日ケーキか。何がいいだろう。ふだん甘いものをあまり食べないせいで、ぱっと欲しいものが思い浮かばない。
『ヒカリさんのおすすめはさいきん駅前にオープンしたとこだな』
『ゾエさんは商店街の洋菓子店がいいなあ』
『俺は久しぶりにコージーコーナーでもいいかな』
『もっと欲張ろうぜ〜』
 コイツら、俺の誕生日ってこと忘れてねえか。主役を置き去りにして、ぽんぽんと軽いラリーが続いていく。まあ、いいか。勝手に決めてくれるなら楽でいい。
 また新しい通知が画面の上に表示された。穂刈からだった。よくつるんでいる同い年のグループにカラフルな絵文字とともにおめでとうのメッセージ。続いて、荒船と鋼の名前。こっちは一行だけの簡単な言葉が並ぶ。コイツらへの返信は明日の朝でいいだろ。めんどくさいし、もう寝るつもりだったのだ。
 隊のグループでは、あーだこーだと話し合いが続いている。結局、店はヒカリ推薦のところに決まったらしい。次はどの種類がいいかって話。チョコか、チーズか、タルトか、ショートケーキか。俺以外の三人の誕生日では主役が勝手に決めるから、こんな風に話し合いが盛り上がるのは一年に一度くらいしかない。
 俺はしばらくメッセージを放っておくことにした。学習机から読みかけのマンガを掴み、ベッドにあぐらをかいてページを開く。さっきはどこまで読んだっけ。掛け布団の上でスマホが震える。一応、画面だけは見る。
 犬飼澄晴。
 しかもグループの通知じゃない。個人のやつ。想像もしていなかった名前に、驚いて思考が止まった。何かを考える前に、指先が好奇心に負けた。
『誕生日おめでとう。こないだはありがとう。よかったら使ってね』
 一言じゃない言葉とともに、クーポンが送られていた。カラフルなロゴのアイスクリームが踊っている。たしか、国道沿いのデカいビルに入っていて、ゾエかヒカリに連れられて一回か二回だけ行ったことがある。
 なんでこんなの、わざわざ。
 しばらく考えて、ハッと思い出した。たぶん、一ヶ月前のやつだ。コンビニでまとめ買いしたグミ。突然渡されたときの犬飼のアホみたいな顔。頭を抱える。なんだアイツ。あんなしょうもないプレゼントに、礼なんていらねえだろ。マジメか。クソ。
 ベッドに背中から倒れ込む。目の前に持ち上げたスマホの液晶をじっと見る。
 あげたら、返ってきた。
 たったそれだけのことが、しばらく理解できなかった。
 プレゼントとも呼べないような菓子を渡したのは、偶然みたいな気まぐれだ。前日の夜、ゾエと二人でコンビニに寄った。アイツはお菓子の棚の前で立ち止まり、嫌がる俺に犬飼の好物を誕生日祝いだとムリヤリ押し付けた。自分は当日にお祝いできないからって、偶然会ったら渡してよと無責任に言った。
 犬飼の誕生日なんて本当に興味がなかった。押し切られたのは、こういうときのゾエはなかなか折れないと知っていたのと、ハードな防衛任務明けで疲れていたせいだ。あのプレゼントに好意も気遣いも優しさもなかった。
 それでも犬飼が心の底から喜んだのは、別れ際、背中に刺さった感触で分かっていた。
『どれがウマイの』
 絵文字も顔文字もハテナマークすらなく、問いかける。
『定番だけどおれはストロベリーチーズケーキが好き』
 当たり前みたいに答えが返ってくる。
 スマホを掴んでいた指を開く。当然、胸の上に固い機械が落ちてきた。目を閉じる。まぶたの裏で、赤とか緑とか派手な色がトンネルみたいに渦を巻く。
 誕生日なんて、もうずっと、どうでもよかった。六月四日は昨日や明日とほとんど一緒で、ケーキやご馳走を食べるこじつけを探している仲間や家族がはしゃぐのを眺めるだけの一日。嫌いじゃないけど好きでもない、美味いモンが食えるからちょっと嬉しい、それだけの日だった。
 そんなただの一日を言い訳にして、何かを渡して、何かを受け取ることができるらしい。
 胸の上でバイブレーションが響いて、心臓まで低く揺れる。光る画面の、通知のバナーを眺めた。
『ねえ、カゲは何が食べたい?』
 明日はチーズケーキが食べたいって言ったら、アイツらはどんな感情で俺を刺すんだろう。想像したら悪くない気分で、誰もいない部屋ですこし笑った。