みすみ
2025-07-13 15:21:21
1784文字
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ひどいひと

水木と沙代と

 懐かしい声に名前を呼ばれた。
 水木がのろのろと顔を上げると、テーブルを挟んだ向かいにひとりの少女が座っていた。
 喫茶店の外では激しく雨が降っている。ごうごうと風が吹き荒れ、街路樹はぐらぐらと左右に大きく揺れている。一方で薄暗い店内は物音ひとつしない。給仕の姿さえ見えず、店内には少女と水木のふたりきりのようだった。テーブルの隅には一輪挿しが置かれ、一輪の枯れた花が生けられている。花の名前は水木にはわからなかった。
「遅刻ですよ」
 少女はにっこりと微笑んだ。
 水木が哭倉村に初めて足を踏み入れた日に出会った少女。少女は喪服を着て、道端でひとり困っていた。
 目の前の少女は、あの日と同じ姿をしている。
 水木は無意識のうちに首をさすった。何故かこめかみがひどく痛んだ。
 少女は水木を覗き込むように、小さく首をかしげた。目の上できれいに切り揃えられた前髪が揺れ、大きな瞳がじっと水木を見つめる。戸惑ってしまうほどの、逃げ出してしまいたくなるほどの、力強い視線だった。
 私の下駄の鼻緒が切れてしまったことを覚えていますかと少女は水木に問いかける。私とあなたが初めて出会った時のことですよ、あなたは私のことを助けてくれましたねと、少女は目を細めた。
 ああ、もちろん。もちろん覚えているよ。水木の返事を聞いた少女はゆっくりと瞬きをした。
「私、最初からあなたが私のことを好きにならないとわかっていたんです」
 そこまで鈍くありませんと少女は口元だけで笑う。その年頃の少女には似つかわしくない、悲しい笑みだった。
「あなたの目に私がどう映っていたのかはわかりません。でも最初から私はそのことだけはわかっていました。あなたの打算や私の出自を抜きにしても、あなたは私のことを絶対に好きにならないとわかっていたから私はあなたに近づくことも、あなたのそばにいることもできたんです」
 おかしいですよねと少女は力なく笑う。
 むしろ、少女は水木に親近感さえ覚えたのだとうつむいた。
「そばにいて、あなたが自分の力ではどうにもならない出来事を知っているひとだと、すぐにわかりました」
 一度壊れてしまったものはどれだけ手を尽くそうと決して壊れる前には戻らない。ひとも、心も。
 でもね、そう続ける少女の声は柔らかかった。
「でもね、あなたは私が思っていたよりもずっとずっと優しかった。私、あなたに助けられて、頼られて、うれしかった。あなたの中に光を見ました。あの村で育った私が、生まれて初めて見た光です。あなたが私を利用していても構わなかった。私になにかできるということが想像以上に誇らしかったから。あなたは優しくて、ひどい、……ひどいひと」
 瞳が潤み声が震えている少女に、水木はうなずくことしかできない。
 少女が水木の中に見た光は、水木が発した光ではなく少女自身が持っていた光だ。
 光を持っていたはずの少女は、発する前に奪われ続けた少女は、静かに涙を流す。まろい頬が濡れていく。テーブルの上にぽたぽと水滴が落ち、小さな海を作る。
 水木の前にも同じ大きさの真っ赤な海が生まれていた。ぽたぽたと、海は広がり続ける。いつのまにかシャツやスーツの襟まで赤く染まっていた。こめかみの痛みは強くなっていく。
 すぐそばにいる少女に、いまの水木はもう手を伸ばすことを許されなかった。水木が少女にできることはなにもない。
 どうせなら喪服と血塗れのスーツなんかじゃなくてお互いにもっと洒落た格好で向かい合って、どうせならクリームソーダでも飲ませてあげることができたらよかったのに。




 目を覚ますと隣に寝転がっている赤子が水木の欠けた左耳をふくふくした小さな手で引っ張っていた。どうやら水木は眠りながら泣いていたらしい。右側の頬から耳まですっかり濡れて冷たくなっている。
 夢を見た気がする。どんな夢だったのかは思い出せない。
 水木はほんの少しばかりの時間、部屋に差し込む朝日をぼんやりと眺めた。夢の余韻が明かりとともに消えていく。
 ゆっくりと身体を起こしながら、水木に向かって喃語を話す自分よりもずっとずっと小さな生き物に思わず相好を崩した。驚くほど無防備な生き物だ。赤子の名前を呼びそっと抱き上げ、つむじに鼻を寄せる。
 耳の奥でカランコロンと下駄の音がした。