真夏の陽射しがひりひりと肌を焼いてくる。太陽が今日も元気に輝き続ける。
今は夏休み真っ只中。海は、年齢を問わずに盛り上がっている。家族連れや学生、恋人同士。人混みのせいかそこはより暑く感じた。
足の裏が火傷したかのように熱く、すぐさま日陰に行きたいところだ。海水で涼むのが一般的だろうが、僕は違う。
――海が嫌いなのだ。
小学生の頃、僕は水泳の授業が嫌いだった。同級生たちがすいすいと泳ぐ中、僕だけが取り残されたように立ち止まってしまう。
……僕は泳げないのだ。
女子で泳げない生徒は何人かいたが、男子で泳げない生徒は少なく、僕はそれがとても恥ずかしかった。生まれ持った性質なのか僕は運動全般が苦手で、そのせいで体育の成績は良くなかった。だけど、授業を休んでしまうと単位を落とすことになる。だから嫌でも授業に参加しなければならないのだ。
「熱でも出ないかな
……」
そんな思いとは裏腹に僕の体は恨めしいほどに健康だった。学校に行くのも嫌になるほど僕は水泳の授業が嫌いだった。しかし、今休むと皆勤賞を逃すことになる。母に心配させたくないので行くべきだと思っていた。
朝になると、体が重く、学校に行きたくないと初めて思った。健康なはずなのに気が重くて動けない。雨の日にブルーな気持ちになるのと似ている。学校が義務感を感じさせ、それがこんなにも嫌な思いをさせるとは思ってなかった。
ベッド脇にある目覚まし時計を見ると、『八時十五分』を指していた。この時間の学校は予鈴がなり、生徒が着席する。その後に朝読書が始まり、朝の会が開かれる。今日は当番でもないので休んでもいいだろう。僕の中の悪魔がそう言って甘やかす。しかし、ここで休むと今まで頑張って皆勤賞を目指していたのが水の泡だ。
そう葛藤しながらも、もう登校しても遅刻に違いないため潔く休むことを決断した。嘘をつくことは嫌だが、今日ばかりはしょうがない。僕がそう決断したんだから。
「
……母さん、今日学校休んでいい?」
「あら、珍しいわね。体調悪いの?」
「
……体がだるくて」
「そうなのね。わかった、学校に連絡するわ。ゆっくり休んでちょうだい」
――その日、僕は初めてズル休みをした。
僕は罪悪感を感じながらも、休んで正解だったと思った。水の感触、温度、周りからの視線、全部が痛く感じる空間には馴染めなかった。あの狂気的な空間にいるくらいなら皆勤賞を逃してもいいと思った。
僕だって可能ならば泳げるようになりたい。本音はそうだった。だけど、水中でバランスを保つのが難しく、上手く体が動かないのだ。
罪悪感を追い払うために水泳の克服法を本で調べるも、知識を得ても応用することは難しく、結局上手くできない。やはり諦めるべきなのかもしれない。
案の定、サマースクールに呼ばれた。だけど、僕は二十五メートルプールを泳ぎきれなかった。
「氷上、君は他の成績はいいのにな。もったいないよ」
「
……僕の力不足です」
悔しくて何度も練習したが上手く泳げない。息継ぎをするタイミングすらわからない。先生を見本にやってみても、上手く体が動かない。
息継ぎができず思わずプールを水を飲み込む。手足を動かして水面から顔を出そうと必死で浮かび上がろうとするが、上手く動かせない。息ができない。誰か、助けて
……。
……僕は、溺れてしまったのか。
「氷上、起きたか」
ここはどこだろうか。仰向けになって白い天井を見つめる。辺りを見渡すと、ここが保健室だということがわかった。先生が僕の顔を覗き込んで目が合う。
「先生、僕は一体?」
「ああ、溺れかけてたんだよ」
「え?」
「先生が悪かったよ、氷上は頑張ってる。けど、無理はしないように」
「
……はい」
「氷上は優秀だ。だけど、なんでも完璧にこなさなくてもいいんだぞ」
「
……なんでですか?」
「人には向き不向きがあるだろ?」
「はい」
「氷上には水泳は向いてない。だからそこまで頑張らなくていいんだぞ」
「え
……。僕は頑張らなくていいんですか?」
「氷上の頑張りは先生が一番知ってる。きっと、これからも君の頑張りを見てくれる人がいるさ」
「そうですね」
僕はどこか腑に落ちた。確かに一度は逃げてしまったが、克服しようと努力は怠らなかった。どこかで自分を見てくれている人がいるならば、泳げなくてもいいんだ。そう気持ちが軽くなった。
彼女
――海野君は、よく泳ぎに誘う。年中営業している温水プールに断りを入れるのも、そろそろ疲れてきた頃だ。ここはばたき市では、七月中旬になると海開きがある。彼女がそれを知らないはずがない。
「氷上くん、一緒に海に行かない?」
予想通り彼女がこの話題に飛びついてきた。海か
……。僕は昔から泳げない。小学生の頃、溺れかけたことが原因で水泳が少しトラウマになっている。温水プールは必然的に泳がないといけないが、海はそうではない。他の楽しみ方ができる。
海では泳ぐ必要は無いが、彼女なら僕を泳ぎに誘うかもしれない。そんな嫌な予感がして、誘いを受けるか迷っていた。
悩んだ挙句、「彼女の水着姿を見たい」という不純な動機で受け入れることにした。というのは嘘で、「彼女なら」と思えたからである。
……夏の海は嫌いだ。日差しが強く、人が多く、浮かれた連中も多い。僕がそこに行くメリットなどない。だけど、彼女ともっと話をしたい。海までの時間だけでも楽しむことはできる。そう考えると、海なんてどうでもよくなってきた。
海に着くと、更衣室に向かった。颯爽と着替えを済ませ、ビーチに向かう。水泳帽を被っているからだろうか、周りからの視線が痛く、注目を浴びているように思えた。ああ、失敗してしまったか。せっかく彼女と一緒に来れたのに。そんな本音を吹き飛ばすように彼女が僕の名前を呼ぶ。
「氷上くん、お待たせ!」
夏の天使が舞い降りた、と思った。
艶やかしい肌に思わず息を飲み込む。露出の多い水着はただでさえ目のやり場に困るのに、今日の彼女は一段と輝いている。周りの男たちも彼女に目線をやり、汚い感情が表れているのが丸わかりだ。僕は彼らと違ってそんな感情がない。ただ、隣にいる僕が恥ずかしいくらい彼女は輝いていた。
しかし、随分と着痩せするのだな。普段制服で隠された肉体美に驚く。その美しさに目眩がしそうだ。
「みょ、妙に
……似合うじゃないか。
……いや、そんなことはどうでもいいから!」
「ありがとう?」
「
……ああ」
「?」
「すまない、つい見とれて
……。いや、なんでもない!」
「氷上くんは
……泳ぐ気満々だね」
「え?」
「その帽子」
「よくぞ聞いてくれた!これは髪を塩素や化学物質から守るために被るんだ。公共プールでは水泳帽を被ることが義務付けられているんだ!」
「そうなんだ。けど海にまでつける必要ある?」
「万が一のことを考えてだ。髪の毛が落ちるのは衛生面にも良くないし、海の美しさを守るためだ」
「
……そっか」
「コホン、すまない。つい盛り上がってしまって」
「いいよ、氷上くんの話、面白かったから。ところで、氷上くんは泳がないの?」
「僕はいいんだ。君こそ泳がないのかい?」
「いいの。氷上くんと一緒にいれれば」
「
……じゃあ、砂の城でも作ろうか」
「いいね!」
あんなに行きたがっていたから泳ぎたいのだと思っていた。小学校の頃みたいに泳げない僕をからかいたいのかと思っていた。だけど、僕の思い違いだった。彼女は彼らとは違う。
「氷上くん! 見て、貝殻!」
「それはサクラガイだな」
「詳しいね」
「ああ。昔よく家族で潮干狩りに来ていたんだ」
「そうなんだ、楽しそう!」
「あの頃は、まだ海が
……」
「海が?」
「あ、いや、なんでもない。気にしないでくれたまえ」
「?」
あの頃は、まだ海が好きだった。爽やかな潮の香りが記憶を蘇させる。ああ、この香り
……。好きだ、好きだった香りだ。鼻の奥を刺激するそれは、僕の中で残り続けるものだ。幼き頃の思い出に浸っていると、彼女が静かに口を開き出した。
「わたし、海が好きなんだ」
「どうしてだい?」
「人魚に逢える気がするから」
「
……そうか」
「わたし、泳ぐの苦手で
……。その
……人魚って泳ぐの得意でしょ?」
「ああ」
「だから、泳げるようになりたくて」
「そうだったのか
……」
――人魚。あの伝説の灯台の話か。そもそもどこの誰かわからない人が作り上げた話だし、そんなの信憑性がないだろう。だけど彼女の目は輝いていて、そんな彼女を失望させたくなかった。
「もしかしたら、逢えるかもしれないな」
「え?」
「君の努力次第だが
……」
「じゃあ、氷上くんも手伝ってくれる?」
「ぼ、僕もかい!?」
「ごめん、冗談だよ」
「
……冗談、なのかい?」
「うん。氷上くんが泳げないことは知ってるから」
「なっ
……君、知ってたのか?」
「うん。千代美ちゃんに聞いたの」
「小野田君が
……僕の弱点を知っているなんて
……」
「そんなに知られたくなかったの?」
“かっこ悪いから”なんて本音は言えずに言葉を濁す。
「生徒会に所属しているのだから、学校の代表として恥じない姿でいたいだろ?」
「そっか。だけど、氷上くんってなんでもできるイメージだったから意外だったよ」
「そうかい?」
「あっ、だけど体育祭は日影の方で休んでいたね」
「なっ! なぜ知っている!?」
「内緒!」
「君、僕ばかり弱点を知られてはズルいぞ!」
「わたしは泳げないって言ったじゃん!」
「そ、それはそうとして、不覚だったんだ」
「あはは、氷上くんってやっぱりおもしろいね!」
「僕がかい?」
「うん。氷上くんは完璧主義だからなんでもこなそうとするけど、そんなことしなくていいよ」
「え?」
「わたしがちゃんと氷上くんの頑張りを見てるから」
小学生の頃を思い出す。あの時の先生と同じように、彼女はちゃんと僕を見てくれているんだ。思えば、生徒会立候補選挙の時に僕を後押ししてくれたのも彼女だった。『僕を見てくれる人』それがこれからも彼女であってほしいと強く思った。
それならば、僕も彼女の頑張りも見届けたい。そんな存在になりたい。小学校以降泳ぐのを諦めている僕とは違って、彼女は努力しようとしている。そんな彼女の力になれるなら、僕が手助けしたい。今度の温水プールの誘いは断らずに行こうか。そう前向きになれた。
海で人魚に逢う前に温水プールで練習をしよう。それまで海に行くのはやめておこう。海は、人魚に逢える大切な場所だから。
「海野君」
「どうしたの?」
「
……また海に来よう。その時は、僕が君を迎えに行くから」
「えっ?」
「君が人魚になればいいんだ」
「わたしが?」
「ああ。だからそれまで待っててくれないかい?」
「うん」
柔らかな風がそっと頬を撫でる。目の前には、僕の中の記憶とは違う海が見えたのだった。
このお話を書いたのは?
作品Cの作者はnon-chiさんでした!
やや硬めの筆致、理想を追い求め、志が高いが故に自身の不甲斐なさにひどく胸を痛める姿、真面目すぎるが故にやや理屈っぽい物言いで理路整然と思考を整理しながら言葉を繰り出そうとするものの、「恋心」という簡単には処理できない感情の前で戸惑う姿を丁寧に追っていく様にらしさが現れている作品だと思います。
思春期男子の等身大な姿と、ちょっぴり独特な感性の氷上くんを前に怯まずに真っ直ぐ優しく包み込むように言葉を交わすデイジーが彼のロマンチストな部分を自然と引き出すエンディングの読後感が爽やかで、読んでいたこちらもパッと視界が開けるよう。
企画ページへ戻る
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.