ながひさありか
2025-07-13 12:19:00
4895文字
Public STR-Phaidei
 

故郷を視る

ファイノンに焼きたてのパンを渡そうとしたモーディスの話

「ここにいたのか」
 オクヘイマの港から海の向こうを眺めていたファイノンの背に、モーディスは声をかけた。モーディスは隣へ佇むと、ファイノンと同じように海を眺め、視線の先を探ろうとする。
 しかし、既に人々は眠りについている時間で、あまり魚の獲れない海へ乗り出す漁師の姿も船もない。ファジェイナが海を揺らすこともなく、ただ穏やかな波の音だけが響いていた。
「珍しいな。君、普段ならもう寝てる時間だろ。それともこんな時間まで何か予定でもあったのかい? ……と言うか、もしかして僕を探してたのか?」
 あと二針で門の刻を迎える時間だった。ファイノン自身も普段なら眠っている時間だったが、今夜はなんだか落ち着かず、眠れないまま二時間ほど寝台の上をごろごろと転がって、そうして港に出てきていた。
「探していたと言うほどではないが、お前に渡すものがあった。ただ」
 モーディスは言葉を切り、視線を海から隣のファイノンへ移す。
「少し時間が経ちすぎてしまった。こうなっては明日の朝でも結果は同じだ」
「よくわからないんだけど、それならどうして僕を探してたんだい? 本当は急ぎの用だったんじゃないのか」
「探していたと言うわけではない。お前の部屋を尋ねたがもぬけの殻だった。こんな時間に見回りでもしているのかと思ったが、そのような習慣は別にないだろう。バルネアで別れた時の様子も特に妙ではなかったが、石板に入れた連絡には返答がなかった。それで少し市内を散策していただけだ」
 それって結構探してるって言うんじゃないか? と思ったが、ファイノンはあえて口にしなかった。理由は判然としないが、とにかくモーディスは自分を探していたらしい。その事実だけを受け止めることにする。
「あ、本当だ。すまない、ぼんやりしていて気づかなかった」
 石板を取り出すと、確かにモーディスからメッセージが入っていた。

>どこに行っている?

 たった一言、簡潔な問いかけだった。
 時刻は二針程前で、もしかすると、モーディスはそれからずっと市内を歩き回っていたのかもしれない。
 ファイノンは言い表しようのないむず痒さを覚え、モーディスの顔を見るのを戸惑った。
「お前は、海の向こうに何を見る」
「え?」
「時々眺めているだろう。お前の目には何が見える」
 顔を上げたファイノンの目に、海の向こうを瞳を細めて眺めているモーディスの顔が写る。ミハニの黎明に照らされたモーディスの美貌には、これと言った感情は見えない。
…… 子どもの頃を思い出していたんだよ。故郷のエリュシオンは昔、オクヘイマと麦の取引をしていてね。子どの僕は、水平線の向こうから大きな船が村にやってくるのをよく桟橋から眺めていたんだ。一体この船はどんなところから来るんだろう、僕もいつかそこへ行って、エリュシオンの麦がどんな料理になっているのか食べてみたい、なんてね」
「随分と食い意地のはった『夢』のようだな」
 ふ、とモーディス微かに笑うのを見、ファイノンはムッと眉を寄せる。
「子どもは誰だってそうだろ、美味しいものは君だって好きじゃないか」
 モーディスが敢えて深刻にならないよう、わざと茶化して来たのがわかったので、それに乗ることにした。
 彼が背を向けて歩き始めたのに倣い、ファイノンも海から視線を外し、帰路へつくことにする。
「俺の場合は幼少時にそう言った思い出はないが、どうせ食うのであれば美味い方がいいだろう」
「微妙につっこみづらいことを真顔で言うのはやめてくれ。こうなったら昔食べて美味しくなかったものランキングの話とかするかい?」
「やめておこう。いくらでもエピソードはあるが、不毛すぎる」
 鼻を鳴らしたモーディスの顔には、少しだけ不快そうな色が混ざっていた。ファイノンは何度か溢れ聞いたモーディスの子どもの頃の話を思い出し、まあ確かに、君はまず九歳までが結構悲惨だよな、と考えた。
「ところで僕の部屋にわざわざ渡しに来るほどのものって結局なんだったんだ?」
「わざわざではない。お前の部屋は俺の部屋の帰り道にあるだろう。少し運ぶのが面倒だったからな、お前の部屋にいくつか置いて帰ろうとしただけだ」
 自惚れるなよ、と言うようにモーディスは瞳を細め、ファイノンへ視線を送る。
「テーブルの上に置いてやったから、気が向けば確認しろ。俺は寝る。じゃあな」
 ファイノンの部屋の前でそんなことを言うと、モーディスは妙に足早に去っていってしまった。その姿を見送りながら、ファイノンは首を傾げる。
「鍵を渡したのは確かに僕だけど、だからって勝手にうちに入って倉庫みたいに扱うなよな」
 自分は勝手に昼寝をしているモーディスの部屋へ押し入り、ピュエロスに連れて行くのを日常的にしているくせに、完全な棚上げ発言だった。
「えーとテーブルの上……ってこれか」
 寝台から出てきてそのまま外へ向かったせいか、掛け布団が半分ほど床に落ちていた。ファイノンは今更モーディスにこんな部屋を見られたことに羞恥心を覚えたが、何も言われなかったので気にしなかったはずだ、と一旦忘れることにする。
 テーブルに目を向ければ、確かに、丁寧に紙袋に包まれた何かがそこにあった。外套を脱いで椅子にかけると、紙袋を手に取る。
「ん?」
 袋の中にはパンがいくつか入っていた。これをわざわざあんな時間に? 首を傾げたファイノンだったが、そういえば、ここしばらくずっとモーディスがパンを焼いていたことを思い出す。
 味見させてもらおうと焼き上がったそれに手を出そうとするたびに、「まだ食えたものではない」とモーディスはパンを乗せていたトレイごとさっと取り上げ、「失敗作の責任は俺が取る」とまるで何が重罪を起こしたかのような声で口にした。
 え、たかがパンだろ、とファイノンは思った。それから、「と言うか君、時々僕には食べづらいものを出すくせに、あれってもしかして失敗作じゃないのか!?」と声を上げた。
 モーディスはしばらく沈黙し、「そんなものを出したか?」と真顔のまま下手くそすぎる声で嘯き、そのあとはファイノンが何を言っても取り合わなかった。
「でもどうしてパンをわざわざ届けてくれたんだろう。もしかして本当に僕がいつでもお腹を空かせてる食いしん坊だとか思ってるんじゃないだろうな……
 嬉しいようで複雑な気分だった。モーディスが「こんなに時間が経っては」と言っていたのは、おそらく焼き立てを渡したかったということだろう。
 とりあえずこれは明日の朝ごはんにするか、とファイノンは紙袋の口を折り、着替えをして寝台へ戻る。
 そういえばあいつにおやすみを言い忘れた。
 目を閉じた瞬間にそう思い出し、石板を手に取る。

>渡したいものってパンのことだったんだな。明日の朝ごはんにさせてもらうよ、ありがとう。じゃあおやすみ。

 しばらく待ってみたが、既読にはならなかった。流石に寝たか、とファイノンは石板を枕元に置き、今度こそ目を閉じる。

   *

「ファイちゃん、昨日モスちゃんからパンをもらったでちょう? どうだった? おいちかった?」
 翌日、ファイノンがアグライアの仕事を手伝っていると、どこからか現れたトリビーが妙に嬉しそうな顔でそう尋ねてきた。
「少し懐かしい味がしたような気がしたけど、……と言うかトリビー先生、なんであいつにパンをもらった話を知ってるんだい? それとも、もしかして黄金裔のみんなに渡してたとか?」
 燻製肉とチーズを挟んで食べたパンは、今までモーディスがよく焼いていたパンとは少し違う味がした。確かなことは言えなかったが。
 先日、オクヘイマを訪れたヒアンシーが「ようやく食用レベルに達したので、モーディス様に感想をいただこうかと」と小麦粉を渡していた。
 そんな風に時々、モーディスに品種改良した品や調味料を渡して、味の感想を求めてくる人間は確かにいて、ファイノンはあまり気に留めていなかったのだが、どうやら気に留めるべきことだったのかもしれない。
「モスちゃん、もちかちて何も言ってないのかちら……
 ぽそりと呟いたトリビーに、「トリビー先生?」とファイノンが首を傾げると、「なんでもない!」とにっこり笑って、トリビーは窓から飛んでいってしまう。
 不思議に思ったが、仕事をさっさと終わらせる方が今は重要だった。

   *

「パンですか?」
「そうそう。キャストリスさんはモーディスの奴から受け取らなかった?」
 キメラを抱っこしながら昼寝をしよう、と生命の庭を訪れたファイノンは、花に水をあげていたキャストリスに声をかけた。
 彼女は「いえ……」と首を振り、しばらく言葉を探すように目を伏せてから、「ええと」と口をひらく。
「すみません。私の口からはお伝えできないので、モーディス様に直接お尋ねした方が良いと思います」

   *

 午後、アグライアの執務室を再び訪れたファイノンは「それで、メデイモスにお礼は言ったのですか」と唐突に問われた。彼女の表情はモーディス以上に感情が読みとれず、どんな答えを望まれているのかがわからない。
 ファイノンが困惑に沈黙していると、アグライアは「パンのことです」と続ける。
「なんだか今日はみんなにやたらとモーディスのことを言われるな。パンなら確かにもらったし美味しかったけど、そろそろ答えを教えてくれないか?」
 狼狽するファイノンの顔をじっと見つめ、アグライアは小さくため息をつく。
「あのパンがどんな小麦から作られていたのか知っていますか」
「モーディスからは特に聞いてないけど、それが?」
「そうですか。なら、メデイモスの口から聞くべきでしょう。この話はおしまいです」

   *

「と言うわけで、あまりにみんなに焦らされるから答えを聞きに来た」
 いつもより少し早くモーディスの部屋を訪れたファイノンは、単刀直入にそう尋ねた。
 モーディスは読んでいた巻物から一瞬視線をファイノンへ向け、すぐに書へ落とすと「お節介なやつらめ」と小さく呟く。
「先日ヒアンシーが小麦粉を持ってきただろう、それでパンを作っただけの話だ。樹庭で品種改良を進めている品種で、どうやらオクヘイマでの量産を計画しているようだが」
 モーディスは書を読むのを諦めたように巻き始め、巻物をまとめて置いている棚にそれを戻す。
……パンとしては及第点だったようだが、お前の思い出の味にはならなかったようだ。ヒアンシーが来た際には素直に感想を伝えろ」
 バルネアへ行くのか? とモーディスは着替えを手にし、これと言った感慨もなさそうに出かける準備を進めている。
 ファイノンはモーディスの言葉の意味をすぐに察していたが、どう言葉を返すのが正しいのかわからず、準備をしているモーディスを眺めながら棒立ちしていた。 
 半分は罪悪感からだろう。昨日、あのまま部屋にいればよかった。あるいは、せめてパンの正体がなんなのかとしつこく問いただせばよかった。
「おい、行かないのか?」
 モーディスの表情に落胆はかけらも見えなかったが、内心はわからない。
「エリュシオンの麦で作ってくれたパンだったんだろ? 言ってくれればよかったのに」
 ファイノンは思わず、詰るような声音になってしまったことを後悔した。そう言う意図があったわけではないのに。
……お前の故郷の味を俺は知らん。ぬか喜びをさせるつもりはなかったからな。結果的に違ったようだから、正解だっただろう」
「なんでそうなるかな、君ってちょっと真面目すぎると言うか……。たとえ思い出と違っていたとしても、僕を想って作ってくれたんだろ? そんなの嬉しいに決まってるじゃないか」
 素直じゃないなあ、と言いながら、ファイノンは腕を組んで立っているモーディスを抱きしめに行く。モーディスは大人しく抱きしめられながら、「だから言いたくなかったんだ」とため息をついた。


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