ひるね
2025-07-13 02:49:40
3899文字
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月蝕—Luna Eater—

里指/ダンピールパロ
狩人リーさんと聖職者skkのお話


 彼は私の首筋に、優しく口付けた。
 その掌は氷のように冷え切っているのに、唇は灼けつくような熱を宿していた。矛盾する感覚が私を貫く。愛しさと恐怖が混じり合い、心はただ彼の存在に引き寄せられ、囚われていく。この瞬間、彼に全てを捧げたい。そう、どうしようもなく願ってしまう。
……私の愛しい人。全部、あげるよ」
 ささやきのような私の決意に、彼の口端が微かに動いた。
 放射状の虹彩を持つ青い瞳が、月明かりを弾き返す。皎々こうこうと光るそれに、私の身体は魅入られたように硬直する。暗赤色の影が静かに重なり、後悔の隙など差し挟む間もないくらいに強く、抱きしめられた。
 人ならざる者の鋭い牙が、私の喉元を深く穿つ。焼けるような鋭さが走っていく。けれど、不思議なことにそれは痛みだけではなく――甘やかな陶酔となって私の脳髄を、全身を弄るように満たしていく。熱に浮かされたような浮遊感。貫かれた皮膚の感触より、何故か冷たい掌の温度ばかりが鮮明に浮き上がる。
――
 名を呼ばれたような気がして、私は反射的に目を開けた。けれど、視界はぐらぐらと揺れ焦点が合わない。酩酊状態に近かった。月明かりの下で、彼の輪郭だけが異様に青白く浮き上がり、滲んでいた。あえかに息を吐き出した。どうやら私は涙を流しているようだった。円環を湛えた彼の虹彩。それはまるで古くから伝わる紋章のように、神秘的な光を編んでいた。この瞳に映っているのは、今、自分だけなのだと回らない頭で理解する。どうしようもないほどの、胸の高鳴り。
――あなたの血の味は……こんなにも、眩い」
 低く唸るような声が、彼の喉奥から零れた。それは言葉というより、吐息にも似た残響だった。願いか、あるいは呪いか――。熱に濡れた震えのかたち。これは今、私だけに向けられた祝福だった。

 周りの音が掻き消えた。
 風も、小さな虫の羽音も、夜のざわめきさえも。残されたのは、彼の唇と呼吸。そして、私の奪われていく鼓動が、この世界の全てを支配していた。
「何故、逃げない? ……怖くはないのですか」
 彼の声音が震えていると気づくのに、少し時間がかかった。私の迷いのない覚悟が、彼を戸惑わせたのだろうか。渇きに支配されていく自分を、拒絶してほしかった――。いや、おそらく違う。それだけではないだろう。その問いの裏に隠れていたのは、渇きに溺れた先で自分が何者になるかを知っている者の、静かな慟哭だった。
 彼は、私を壊してしまうことを恐れている。永遠に失うことを恐れている。その掌がどんなに冷たくても、その牙がどれほど鋭くても、彼はまだ心底、『人間であろう』としている。
 私が差し出したものすべてを奪ってしまえば、もう戻れないと、彼は知っていた。だからこそ、私に拒んでほしかった。最後の一線を踏み越えさせないでほしかった――。それが、きっと彼の戸惑いの正体なのだろう。
 でも、どうか、そんなに怖がらないで。私はただ、救いたかった。神の教えでも、正義でもない。この人が、この美しい満月の夜の中で、たった一人で苦しんでいることが、どうしてこんなにも――。牙を立てるたびに、彼の中の人間の名残が少しずつ壊れていくのなら。孤独を噛みしめるように、渇きに耐えてきたその背中を、私が抱きしめてあげたかった。これはきっと、私の独りよがりのエゴイズムだ。
……たぶん」
 私の声は、かすれていた。
「君が、あんなふうに……痛みを隠して、ずっと一人で耐えている姿を見ている方が、私にはよっぽど怖かったから」
 私は彼の頭を強く引き寄せた。穿たれた喉元から、温かなものが胸元へと滴っていく。世界が揺らぐ。唇がわななく。指先に力が入らず呼吸がうまく出来ない。眩暈のような陶酔の中、視界はゆっくりと白く染まっていく。
 このまま、全部を奪われたい。骨の髄まで、血の一滴すら残さずに、この人に喰らい尽くされたい――

 次の瞬間、彼の牙が一気に引き抜かれた。全身の力が抜け、崩れ落ちる私を彼がしっかりと抱き留めた。代わりに、ひどく恭しい口付けが額に落ちる。
……あなたは傲慢で、酷い人だ」
 まるで懺悔するように。口元を乱暴に拭ったリーは膝をついた。酸欠に喘ぐ私の手に唇を寄せた。その姿は罰を求める罪人に似ていた。
 見上げてくる美しい青い瞳が、わずかに揺れた。月明かりに透けた、私の瞳の奥の奥。そこには決して誰にも悟られないように、厳重に眠らせていたものがあった。だが、人を超越した身である彼には、それに気付くのは容易かっただろう。
 私の奥深くに宿っているのは、神への祈りではない。ただの人間が持っていてはならない、甘く危うい受容――いや、共犯の微笑だった。
 私の心の中には、きっと悪魔がいる。
 許すことで相手を壊す。祈りの衣を纏いながら、微笑の奥に悪魔のかおを隠して。捧げるべきは祈りだったはずだ。口づけるべきは聖典であり、魂の奥にある清き誓約のはずだった。
 けれど今、私はこの身を、穢れを知らないままの身体を――ただ、彼のために差し出そうとしていた。神の御手のもとにあるべき存在が、罪を犯そうとする者に抱かれることを、拒まなかった。

……あなたのこの血は」
 喉奥で嗤うように、震えるように、リーが呟いた。
「甘く、眩く、あまりにも脆く危うい。……こんなもの、どんな悪魔でも敵わない」
 リーには、吸った瞬間に分かってしまったのだろう。この血はただの命の源ではない。神に仕える者が、愛と名づけた堕落で身体を染めた時にだけ生まれる――甘やかで、抗いがたい猛毒。
 牙が触れるたび、身体からこぼれる芳しい鮮血が、静かに、リーの理性を侵していく。この血は、命を与えるものではない。命を分けると錯覚させる甘さで、すべてを狂わせる。捕食者と被捕食者。その位置が完全に入れ替わってしまうものだった。

 私の祈りは、もはや神へと向けられたものではなかった。リーという存在――たった一人の異端を、赦し、受け入れるためのものだった。それはまさに、悪魔すら跪く、無垢なる誘惑。
「リー、一緒に堕ちよう。どこまでも深く。……私を君の最初の生贄にしてほしいんだ」
 ――そして、君だけのものにして。
 私がそう囁くと、月明かりがけぶる彼の睫毛をなぞった。激しく燃える青い炎の奥に揺れるのは、赦しへの希いか、それとも――
 彼はゆっくりと、私の顔に手を添える。その指先は相変わらず氷のように冷たいのに、頬に触れるだけで心臓が熱を帯びていく。

――愛して、います」
 その言葉とともに、リーは自らの口元に指を這わせた。細く鋭利な牙が、舌の裏をかすめるように、音もなく肉を裂いた。赤い滴が彼の唇から伝い落ちる。花弁よりも鮮やかなそれは、どこか神聖なほどに美しく、甘美だった。
 私の唇に、その血が触れた。リーの親指が、ゆっくりと私の唇をなぞっていく。指が唇の内側へと滑り込み、歯列を押し開く。掴まれた舌がわずかに震えた。彼は口端をわずかに上げる。闇の口付け。殉教の花嫁への祝福。優しく、深く、舌を絡めながら、血のワインを分け与えるように。灼けるような熱が舌先から喉奥へと流れ落ちていく。
 これはただの体温ではない。命の螺旋、千夜を越えて受け継がれた飢え、哀しみと孤独。彼が今まで誰にも晒さなかった、夜の深淵が静かに注がれていく。
 息が漏れた。喘ぎではなく、何かが満ちていく歓喜の声だった。絡めた舌の動きがゆっくりとほどけ、唇が離れても、熱の名残だけが残る。

 甘い呪いが、喉奥に沈んでいく。
 私の鼓動が、一度跳ね上がった。焼くような激痛が走る。歯がカチカチと音を立て、内側から何かが変わっていく。細胞が、神経が、組み換えられていく。聖なる祈りを宿したこの身が、静かに、けれど確実に――魔へと染め上げられていく。凍るような冷たさと、内側から発火するような熱が同時に押し寄せてきて、骨の奥でゴキリ、と鈍い音がした。……何かが、ずれた。心臓ではない。けれど、それよりも深く、魂の在処に近い場所で――何かが確かに、変わった。
 息を吸い込むと、夜の気配が違っていた。風の震え、草木のざわめき、月明かりの重み。すべてがひどく鮮明で、脈動している。視界が静かにゆがみ、世界の輪郭が滲んだ。……いや、違う。今まで私が見ていたものの方が、きっと曇っていたのだ。目の奥に焼きつく月の輝きが、脳裏で淡く揺れている。

……リー?」
 呼びかけようとした声は、自分でも知らない響きを帯びていた。言葉の奥で、夜の獣が息づいている。思わず口元を押さえた指先――その爪が、少しだけ鋭くなっているのを感じた。
 リーが私を静かに見つめていた。目を伏せて、寂しげに、けれどその頬には微かな安堵の色が差していた。
――これで、僕はあなたの中で永劫生きる。あなたの身体の一部となった僕の業が、あなたの赦しによって、静かに燃えていく」
 その言葉が、生まれ変わった歓喜に沸き立つ私の内側をゆっくりと鎮めていった。痛みの余韻と、喜びにわななく身体に激しく揺さぶられ、私はたまらず意識を手放しかけていた。リーがそっと私を抱き寄せる。その胸に沈み込んでいく身体は、まるで鉛のように重かった。

「さあ、今は少し眠るといい。――僕の花嫁」
 鼓膜に染み込んでくる彼の声は、微笑を含んでいるようでもあった。それは祈りに似て、呪いに似て、――愛という名の永遠の鎖だった。
 私の意識は、眠りの深淵へ落ちていく。